エゼキエル18:21-32
「哲学に興味があるんです。」中学一年生の男子生徒が私に打ち明けました。少し話をしました。友だちと話が合わず、孤立しているような子でした。自説を述べるのに対して釘を刺すつもりで、私が哲学を専門としていたことを告げると、その顔がぱあっと明るくなりました。私は哲学に加えて、宗教のという考えにも軽く触れました。
すると彼は、「宗教には矛盾があるんです」と言い始めました。私は、その「矛盾」というのは科学的な前提に基づいていることであり、様々な考え方を学ぶことの大切さを語りました。ここでエゼキエルは、子が親の罪の責任を負うことの矛盾を否定しています。ユダヤでは、律法の解釈として、常識としてそのように考えていたのでした。
悪しき者が悪を為せば、もちろんその当人に責任が及ぶでしょう。しかし預言者は言います。「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる」と。この「悪しき」とは何のことでしょうか。「悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う」のです。
すると「悪を行った者」が「悪しき者」だと定義されていることになります。他方「正しき者が正義に背を向け、不正を行い、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ」とも言っています。表現がユダヤ文化に於けるものですが、「正しき者」が不正を行えば、その咎で死ぬ、と言っていることになるでしょう。
すると「正しき者」は何のゆえにそう呼ばれていたのでしょうか。正しきことを行うがゆえに「正しき者」と呼ばれるのではないでしょうか。あるときまでそうだった者が、その後不正を行った、となると、「正しき者」という表現はもはや当てはまらなくなっていることになります。論理ばかりを追究すると、この辺り矛盾しているようにも見えます。
しかし「すべての背きから立ち帰れ」の声こそが、ここにあるメッセージではないかと思います。「すべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」という言葉が、エゼキエルを通じて私たちにもたらされればよいのです。死ぬな。生きよ。神に対して背を向けていたところから、命の道へ向き直り、振りを正して行動するのです。
あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、
自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。
イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。
私は誰の死をも喜ばない。
立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。(エゼキエル18:31-32)
「哲学に興味があるんです。」中学一年生の男子生徒が私に打ち明けました。少し話をしました。友だちと話が合わず、孤立しているような子でした。自説を述べるのに対して釘を刺すつもりで、私が哲学を専門としていたことを告げると、その顔がぱあっと明るくなりました。私は哲学に加えて、宗教のという考えにも軽く触れました。
すると彼は、「宗教には矛盾があるんです」と言い始めました。私は、その「矛盾」というのは科学的な前提に基づいていることであり、様々な考え方を学ぶことの大切さを語りました。ここでエゼキエルは、子が親の罪の責任を負うことの矛盾を否定しています。ユダヤでは、律法の解釈として、常識としてそのように考えていたのでした。
悪しき者が悪を為せば、もちろんその当人に責任が及ぶでしょう。しかし預言者は言います。「悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる」と。この「悪しき」とは何のことでしょうか。「悪しき者が自分の行った悪に背を向け、公正と正義を行うなら、彼は自分の命を救う」のです。
すると「悪を行った者」が「悪しき者」だと定義されていることになります。他方「正しき者が正義に背を向け、不正を行い、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ」とも言っています。表現がユダヤ文化に於けるものですが、「正しき者」が不正を行えば、その咎で死ぬ、と言っていることになるでしょう。
すると「正しき者」は何のゆえにそう呼ばれていたのでしょうか。正しきことを行うがゆえに「正しき者」と呼ばれるのではないでしょうか。あるときまでそうだった者が、その後不正を行った、となると、「正しき者」という表現はもはや当てはまらなくなっていることになります。論理ばかりを追究すると、この辺り矛盾しているようにも見えます。
しかし「すべての背きから立ち帰れ」の声こそが、ここにあるメッセージではないかと思います。「すべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ」という言葉が、エゼキエルを通じて私たちにもたらされればよいのです。死ぬな。生きよ。神に対して背を向けていたところから、命の道へ向き直り、振りを正して行動するのです。
あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、
自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。
イスラエルの家よ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。
私は誰の死をも喜ばない。
立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。(エゼキエル18:31-32)