エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)

2010-01-17 | ヨハネによる福音書
 ペトロがイエスに尋ねます。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)と、愛弟子の行方を気にします。これは、ペトロのようにすべての人が辛酸を舐めるような最期を遂げるしかないのか、という疑問に答えるものともなるでしょう。イエスが最も愛した弟子をも、神の栄光を等をす最期しか用意されていないというのも、酷なものです。
 イエスの返事は、案外素直にはなされません。深い知恵を用いて、人に考えることを要します。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と一気に答えがあふれ出ます。元来のヨハネの福音書に続いて補遺を行った第二のヨハネが描くイエスは、この言葉ですべてを終えます。イエスの最終の言葉は、昇天を描くというのでもなく、復活のイエスそのものであり、またそれが永遠の命そのものでもあるという前提を十分に伝えてここまできたと言えるでしょう。
 ところがこの最後の言葉が、若干揺らぎつつ響いてくるように感じられます。イエスは、ペトロの質問に対して、真正面から答えてはいないのです。新共同訳はすでに分かりやすい意訳に変えているとはいえ、元の響きは、「あの弟子を留まらせていることを望んだとしても」です。もちろん、その留まるとはこの地上での命、地上での人生の歩みにおいてです。イエスがその愛弟子をこの地上に永遠に留まらせておきたいと願ったにせよ、ペトロよ、おまえには関係がないではないか、というのです。
 そもそも、「わたしの来るときまで」というのは、どういうことでしょうか。聖霊を助けぬ死として寄越すと約束してイエスです。復活のイエスはこの後いつまでもその姿を見える形で現しはしないに違いないのですが、ヨハネは、ルカのように昇天という教義をことさらに説明はしていません。いわばここで初めて登場する考え方であり、元来のヨハネは何も言及していないということになります。そこで、ヨハネの福音書の本来の筆者というよりも、ヨハネの手紙を記した筆者のほうに、ここは関連が深いと言われることになるわけです。本来のヨハネは、復活のイエスと永遠の命はすでにこのときに来ていて、それで十分だったからでする
 この愛弟子が「生きている」という表現をイエスがとったとき、それはその意味に違いないのですが、ヨハネの用いる「とどまる」という語がわざわざ用いられている点も見逃せません。ですから、この愛弟子が生き続けるのだというふうに言ったのではない、と次に説明している通りではあるのですが、この愛弟子はキリストにとどまり続けているであろうことは真実だということになるでしょう。なかなか巧みな言葉遣いであると言えるでしょう。
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