ペトロの殉教もまた、「神の栄光」(ヨハネ21:19)だとクリスチャンたちには認識されていました。あるいは、そう認識させるべきだと筆者は考えました。
ここまでイエスはペトロの死に至る運命を告げて後、ペトロに、「わたしに従いなさい」(ヨハネ21:19)と言いました。「従う」とは「仲間として同行する」という意味です。命令に従うという感じよりは、共に歩むという感覚です。
弟子として招き入れたときに、私に従えと言われたに違いありませんが、そのときとはまた重厚さが異なるものでしょう。今回は、復活のイエスに従うのであり、それはまた、このペトロへの予告のように、死に至るまで忠実であれという誘いだと言えるでしょう。殉教するまで私の歩みと共に行けということで、それはたんに指導者としてのペトロであるからなのか、それともおよそクリスチャン共同体の読者ならば誰しもその通りであるのか、それは読者が決めればよいことでしょう。
イエスのこの言葉を、自分への問いかけのように受けとめるのかどうか。それが、読者の信仰であり、決断です。
こうして、ペトロという、無視できないリーダーについて、このヨハネの後継者は触れることをせざるをえませんでしたが、解決しなければならない問題がありました。あのイエスの愛した弟子です。彼はどうなったのでしょう。そして、つねにペトロをリードしてきたあの愛弟子は、その後どういう位置づけになっていったのでしょう。
こう書かれています。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(ヨハネ21:20)というのは、ペトロはもうある方向を向いていることを意味します。それは、イエスが掲げた、殉教への道なのでしょう。もちろんこの執筆時にはすでにペトロはこの世にはいませんから、そのことは確実な事実として描くことが可能になります。しかも、福音書の内部の記述としては、まだ起こっていないこととして描くことになります。
ペトロは、イエスの指し示す方向を向いていましたが、そこから振り向きました。もはやペトロは自分がただイエスに従って歩むという道しかない状態に置かれていましたが、それでも振り向いたのです。そこに、あの弟子がついて来ていました。ついて来るというのは、イエスが「従いなさい」と言ったあの「従う」の語です。やはり、あの弟子もまた、仲間として同行し、イエスの示す神の栄光を表すものとしての死への道を進んでいたというわけです。
わざわざ「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である」(ヨハネ21:20)と説明が施されています。そこまで言わなくても読者には通じそうなものですが、あの最後の食事のときイエスの胸元にいたことを強調します。
若いこの弟子は、ペトロより長生きしたのでしょう。また、ペトロの後にも、クリスチャン共同体を支えてきたものと思われます。それは、イエスを直接知る証言者として貴重な働きであったことでしょう。ある研究者は、エフェソにおいて共同体を形成していたと推測しています。
それにしても、その紹介が、裏切りの質問でした。これも示唆的です。ペトロは、もうここでは許されているとはいえ、主を知らないと三度まで裏切ったのですから。「裏切るのは誰か」のこの愛弟子の問いの答えは、たしかにイスカリオテのユダに違いありません。しかし、ある意味でペトロでもあったのです。ペトロに対して何らかの意味でやはり優位性を保つ面があることから、この筆者も離れてはいないように見受けられます。
ここまでイエスはペトロの死に至る運命を告げて後、ペトロに、「わたしに従いなさい」(ヨハネ21:19)と言いました。「従う」とは「仲間として同行する」という意味です。命令に従うという感じよりは、共に歩むという感覚です。
弟子として招き入れたときに、私に従えと言われたに違いありませんが、そのときとはまた重厚さが異なるものでしょう。今回は、復活のイエスに従うのであり、それはまた、このペトロへの予告のように、死に至るまで忠実であれという誘いだと言えるでしょう。殉教するまで私の歩みと共に行けということで、それはたんに指導者としてのペトロであるからなのか、それともおよそクリスチャン共同体の読者ならば誰しもその通りであるのか、それは読者が決めればよいことでしょう。
イエスのこの言葉を、自分への問いかけのように受けとめるのかどうか。それが、読者の信仰であり、決断です。
こうして、ペトロという、無視できないリーダーについて、このヨハネの後継者は触れることをせざるをえませんでしたが、解決しなければならない問題がありました。あのイエスの愛した弟子です。彼はどうなったのでしょう。そして、つねにペトロをリードしてきたあの愛弟子は、その後どういう位置づけになっていったのでしょう。
こう書かれています。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(ヨハネ21:20)というのは、ペトロはもうある方向を向いていることを意味します。それは、イエスが掲げた、殉教への道なのでしょう。もちろんこの執筆時にはすでにペトロはこの世にはいませんから、そのことは確実な事実として描くことが可能になります。しかも、福音書の内部の記述としては、まだ起こっていないこととして描くことになります。
ペトロは、イエスの指し示す方向を向いていましたが、そこから振り向きました。もはやペトロは自分がただイエスに従って歩むという道しかない状態に置かれていましたが、それでも振り向いたのです。そこに、あの弟子がついて来ていました。ついて来るというのは、イエスが「従いなさい」と言ったあの「従う」の語です。やはり、あの弟子もまた、仲間として同行し、イエスの示す神の栄光を表すものとしての死への道を進んでいたというわけです。
わざわざ「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である」(ヨハネ21:20)と説明が施されています。そこまで言わなくても読者には通じそうなものですが、あの最後の食事のときイエスの胸元にいたことを強調します。
若いこの弟子は、ペトロより長生きしたのでしょう。また、ペトロの後にも、クリスチャン共同体を支えてきたものと思われます。それは、イエスを直接知る証言者として貴重な働きであったことでしょう。ある研究者は、エフェソにおいて共同体を形成していたと推測しています。
それにしても、その紹介が、裏切りの質問でした。これも示唆的です。ペトロは、もうここでは許されているとはいえ、主を知らないと三度まで裏切ったのですから。「裏切るのは誰か」のこの愛弟子の問いの答えは、たしかにイスカリオテのユダに違いありません。しかし、ある意味でペトロでもあったのです。ペトロに対して何らかの意味でやはり優位性を保つ面があることから、この筆者も離れてはいないように見受けられます。