エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「この弟子である」(ヨハネ21:24)

2010-01-18 | ヨハネによる福音書
 このイエスの言葉は、このように曖昧な響きがありました。「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」(ヨハネ21:23)とありますが、それは、この愛弟子の存命中に、主が再び来る、つまりは終末が完成するという期待が、信じるグループの中に起こっていた、ということを表します。それはもしかすると、他のクリスチャン共同体グループからの情報として伝わってきたことと関係しているかもしれません。マルコやルカなどの福音書の存在が伝わったとき、ヨハネが強調していなかった、主の再臨などが話題に上ります。それは、イエスの遺した語録から推定すると、あの愛弟子の生きている間にそれが起こるという意味に受けとめることができるのではないだろうか、というのです。
 しかし、それは否定されます。わざわざ筆者は否定します。このことから、この執筆期に、すでにその愛弟子がこの世を去っていたというふうに推定することができます。あの復活のイエスの言葉は、信徒の一部が勝手に期待した意味に受け取るべきではないのだ、という注意です。あるいは、そう受け取ると、聖書には嘘が書いてあることになってしまいますから、それを防ぐこともできるのです。
 勝手に、と言いましたが、それは一部の語録からすれば無理からぬことであって、パウロ書簡の中でも、主の日は近いことが幾度も言及されています。ペトロの殉教やパウロの死も伝えられたことでしょう。生きていて主の日を迎える弟子がいるに違いないという期待の眼差しは、このイエスが愛した弟子に向けられたわけです。
 しかし、ついにその愛弟子も死んでしまいました。そこで、この権威ある福音書、その愛弟子が描かれている福音書に付け加える形までとりながらも、その愛弟子もまた死を迎えるということをイエスの権威によって記録しておかなければならない、という動機があったのです。それだから、極めて不自然な付加であることを承知の上で、一度幕を閉じたヨハネによる福音書に、文体も単語も異なるのを覚悟の上で、つまりこれらが同一の筆者によるものではないことが見え透いた状態で、愛弟子の最期を記しておかなければならなかったというわけです。
 そこで、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」(ヨハネ21:24)とまで念入りに記しています。もちろんこれは、あの申命記の最後にあるモーセの死をモーセ自身が書き記すことが不可能であるように、愛弟子本人がこの最後まで記すことは無理です。しかしそれでも、その愛弟子の口から出る資料から築かれたこの福音書文学の全体は、その名を冠することが虚偽であるということにはなりません。それがユダヤの考え方です。数々の、弟子たちの名を付けた偽書偽典が残っているわけですが、その名が筆者の実名と違うというだけで価値がなくなるということはありません。
 ヨハネによる福音書は、あのイエスに愛された弟子による資料から、エルサレムを中心とした出来事を数多く記した形で出来上がったのでした。ただし、サマリアとの関連も強い者がありそうです。大祭司など高官とのつながりさえあるその愛弟子は、イエスの弟子としてイエスを愛しイエスのそばに寄り添っていました。
 そして同じくらいイエスを愛していたトマスにも敬意を払いつつ、そのトマスに最後の締めくくりをさせました。
 補遺は、この愛弟子自身というよりも、その愛弟子の遺志を継ぐ者が愛弟子の最期を描くために付け加えました。私はそのように捉えています。
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