エゼキエル2:8-3:11
「口を開け、私が与えるものを食べなさい」というそれは、巻物でした。黙示録にも引き継がれた光景です。神の与える巻物を、預言者が食べるという図式。この表現は、神の言葉を自分の内に入れ、自分のものとする、ということについて考えさせます。否、自分の一部が神となり、神の一部に自分がなる、ということかもしれません。
預言者は、神の言葉を、イスラエルの家へ行って語れ、と言われています。先にそれは「反逆の家」だとされていました。いまイスラエルの家は、神に反逆している。そこへ行って、神の言葉を腹に入れた預言者が、それを伝えるのです。食べるとは、神が「あなたに語る言葉をすべて心に受け入れ、耳で聞」くことを意味しています。
それをイスラエルの同胞のところに行って語るのです。たとえ聞き入れようとしない場面となっても、「主なる神はこう言われる」と語らねばなりません。けれども、これはもはや「たとえ」の段階ではありません。すでに「イスラエルの家はあなたに聞こうとはしない」ことが明らかにされています。つまりは主に聞こうとしないということです。
むしろ、ユニークなことに、「分からない言葉を話す舌の重い民」というバルバロイとしての異邦人たちのほうが、それに聞き従う、というほどです。「イスラエルの家はすべて額が硬く、心がかたくな」であるのです。エゼキエルは、今の世でも語っています。私がそれを聞いています。でも、私もまた、心がかたくなな者の一人に数えられるでしょう。
少なくとも、その自覚が必要です。それと共に、ここでいう「イスラエルの家」とは何か、を考えてみなければなりません。キリストを信じてその救いを受けて歩む者たちこそ「新しいイスラエル」である、という捉え方が、ガラテヤ書にありました。それを思うと、いまその「イスラエルの家」とは、キリスト教会、キリスト教界であるかもしれません。
「神が共にいる」と、教会は語り告げます。でもそれが「イスラエルの家」だという自認と自称だけに終わるのは空しいことです。もしかすると「反逆の家」となってしまっているのではないか、省みた方がよいような気がします。いくらこのように訴えても、己れをチェックすることすらなく、神から離れ去る一方の集団が、現にあるからです。
また主は言われた。
「人の子よ、私があなたに語る言葉をすべて心に受け入れ、耳で聞きなさい。
そして、さあ、捕囚の人々、あなたの同胞のところに行って、語りなさい。
彼らが聞こうと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(エゼキエル3:10-11)