エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

人間的自由と救い

2024-06-27 | メッセージ

ヨナ2:1-11 
 
人身御供のようにして、ヨナは海へ投げ込まれました。大荒れの海は、ヨナのせいだったと分かったからです。様々な神の名を呼んでいた船乗りたちは、主の名を呼びました。ある意味で、主を信じたのです。しかし、ヨナは死ぬわけにはゆきませんでした。主が声をかけたのです。主から与えられた使命を果たさなければなりません。
 
ニネベの悪のために、ニネベに人々に呼びかけなければなりません。興味深いのは、ニネベを滅ぼす、と主は断定していないことです。「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませた」という表現を、私は珍しいと思いました。聖書は、背後に主体としての神を想定するときには、神の名を出さなくても、受動の形をとって表現するのが普通なのです。
 
「ヨナは魚に呑み込まれた」と書くだけでも、聖書を読む人は「神によって」を頭に思い描きますが、主はわざわざ巨大な魚に「命じて」いるわけです。魚も、まるで人のように、主の命令を受けています。魚も、神の計画のために働かされています。しかも、ここではそのヨナが、同様の命令があったのに逆らった、その後始末のために。
 
魚は、主の命令に従順に行動しています。従うしかなかったのです。それに対してヨナは、主に逆らうことができました。ヨナは主に背く自由があったのです。但し、それは人間的な自由だと言えます。自然の傾向性を避け、霊的自由を以て神に従う、というような意味での自由ではありません。神に反する行動をとる自由です。人間的な自由です。
 
魚には、その方向での物語を宛がうことは、できませんでした。通例この箇所から説教が語られるときは、ヨナの祈りばかりを扱うことでしょう。それはそれで、苦難の中からの祈りとして、味わい深いものです。主に逆らい主の前から追い出された自分は、十分その報いを受けたヨナ。その心理を十分に辿ることでしょう。
 
ニネベへ裁きを告げるのを嫌がった自分の選択は、自分の生命を失うような馬鹿らしい結果を導きましたが、それも「あなたが」海へ投げ込んだのだ、という自覚がヨナにはありました。魚の腹の中では、本来助かったわけではないでしょう。まだ命の危機の中にあったはずなのですが、ヨナはもう完全に、助かったという気分でいます。
 
三日三晩という表現は、後にイエスの死と復活になぞらえられましたが、この間ヨナは出口の見込みもないままに、とりあえず海に沈まなかったことで、安堵しているのです。もう助かった、救われた、と。主にある「救い」だと安心しています。魚は後に教会でイエスの象徴となりました。象徴的にですが、ヨナはイエスに呑まれて救われたのでしょう。


主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませたので、
ヨナは三日三晩その魚の腹の中にいた。(ヨナ2:1)

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