詩編40:1-18
ダビデの、いったいどのようなときの詩であるのでしょうか。「あはは、あはは」とはやす者がそこにいます。宮殿を追われ、都落ちした頃でしょうか。サウルから逃げるときは、そのように馬鹿にされることはなかったように思われます。息子に裏切られたとき、国の人々がそのように蔑んだということは、考えるに値するかもしれません。
だとすると、王様万歳、と褒めそやす者たちは、そのときの空気に合わせて、権力者にただ寄り添っているだけ、ということになるのでしょうか。世の人々のこの軽薄さに唖然とします。でも、それは私たちの姿なのです。ダビデ自身は、神の方をしっかりと向いています。この揺るぎなき信仰が、ダビデのモットーなのです。
普通は、そのダビデの信仰をメインに、メッセージを語ろうとすることでしょう。信仰とは何か。ダビデに学べ。そんなふうに励ましたいものです。もちろんそれは正しいと思います。しかし、そのように恵みを受けた人の事例を並べられたとき、さあ自分も同じようにしよう、というように、聞く人々が単純に勇気を与えられるものなのでしょうか。
益々、自分にはできない、自分にはそのようなことは起こらない、と嘆くことにならないでしょうか。「数えきれないほどの災い」が絡みつくダビデ。「見ることができないほどの過ち」が迫るダビデ。そのときになお、主に救いを求めるのです。ここで「あはは、あはは」とはやす者こそ、実のところ、この私ではないかと思わされます。
誰かを嘲った。見下した。胸に手を当てて思い返せば、それは自分の姿なのだと示されます。心の中で、あんなヤツは死ねばいいのに、と呪っていた自分を思い知らされたら、私は項垂れるしかありません。「命を奪おうと狙う者」を主が罰してください、と祈るダビデが「苦しむ者、貧しい者」であるならば、私は「苦しめる者、貧しくさせる者」です。
自分の豊かな生活が、誰かを貧しくさせているのです。自分の贅沢か、誰かを貧困に追い込んでいます。私がそのままでいたら、私は滅びるしかありません。私はここで気づかされます。気づいたとき、私はそこから神に赦しを乞うでしょう。そこが大切です。そのことにより、幾らかでも私は、ダビデの信仰に近づくことになるかもしれないからです。
私を「あはは、あはは」とはやす者が
自ら恥を受け、うろたえますように。(詩編40:16)
ダビデの、いったいどのようなときの詩であるのでしょうか。「あはは、あはは」とはやす者がそこにいます。宮殿を追われ、都落ちした頃でしょうか。サウルから逃げるときは、そのように馬鹿にされることはなかったように思われます。息子に裏切られたとき、国の人々がそのように蔑んだということは、考えるに値するかもしれません。
だとすると、王様万歳、と褒めそやす者たちは、そのときの空気に合わせて、権力者にただ寄り添っているだけ、ということになるのでしょうか。世の人々のこの軽薄さに唖然とします。でも、それは私たちの姿なのです。ダビデ自身は、神の方をしっかりと向いています。この揺るぎなき信仰が、ダビデのモットーなのです。
普通は、そのダビデの信仰をメインに、メッセージを語ろうとすることでしょう。信仰とは何か。ダビデに学べ。そんなふうに励ましたいものです。もちろんそれは正しいと思います。しかし、そのように恵みを受けた人の事例を並べられたとき、さあ自分も同じようにしよう、というように、聞く人々が単純に勇気を与えられるものなのでしょうか。
益々、自分にはできない、自分にはそのようなことは起こらない、と嘆くことにならないでしょうか。「数えきれないほどの災い」が絡みつくダビデ。「見ることができないほどの過ち」が迫るダビデ。そのときになお、主に救いを求めるのです。ここで「あはは、あはは」とはやす者こそ、実のところ、この私ではないかと思わされます。
誰かを嘲った。見下した。胸に手を当てて思い返せば、それは自分の姿なのだと示されます。心の中で、あんなヤツは死ねばいいのに、と呪っていた自分を思い知らされたら、私は項垂れるしかありません。「命を奪おうと狙う者」を主が罰してください、と祈るダビデが「苦しむ者、貧しい者」であるならば、私は「苦しめる者、貧しくさせる者」です。
自分の豊かな生活が、誰かを貧しくさせているのです。自分の贅沢か、誰かを貧困に追い込んでいます。私がそのままでいたら、私は滅びるしかありません。私はここで気づかされます。気づいたとき、私はそこから神に赦しを乞うでしょう。そこが大切です。そのことにより、幾らかでも私は、ダビデの信仰に近づくことになるかもしれないからです。
私を「あはは、あはは」とはやす者が
自ら恥を受け、うろたえますように。(詩編40:16)