エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「主であることを知っていたからである」(ヨハネ21:12)

2010-01-10 | ヨハネによる福音書
 こうした情景に、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」(ヨハネ21:12)と記されています。
 たくさんの魚がとれたから、イエスだと知ったのでしょうか。それもあるでしょう。しかし私は、やはり炭火・魚・パンが、とくに魚とパンが大きかったものと思います。それを彼らが「見ている」からです。わざわざそれを「気をつけて見ている」という動詞で原文が描かれているのは、それだからそれがイエスだと分かったことを意味しているに違いないのです。
 また、「あなたはどなたですか」と問うことについては、ヨハネの福音書が度々話題にしています。バプテスマのヨハネのもとに、「あなたは、どなたですか」(ヨハネ1:19)にユダヤ当局が尋ねたのを皮切りに、「あなたは、いったい、どなたですか」(ヨハネ8:25)とファリサイ派がイエスに問う場面、生まれつきの盲人が癒された後にイエスに「その方はどんな人ですか」(ヨハネ9:36)というのは微妙に変化しているとしても、「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)という質問にも、イエスの行方とともにイエスの真実を問う姿勢が表れていました。
 この問いに対する答えが、ヨハネの福音書であったのかもしれません。それは元来のヨハネの福音書の最後を飾るトマスの告白である「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)でした。イエスは、見ずして信じる者は幸い、という恵みを応答として遺しています。
 弟子たちはイエスに「問いただす」という語で訳されていますが、語感としては、「あえて問う」くらいのほうが穏やかであるように感じます。わざわざ問うようなことはせず、聖霊により教えられ受け容れていた、という様子を伝えます。
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