エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「炭火がおこしてあった」(ヨハネ21:9)

2010-01-08 | ヨハネによる福音書
 ペトロはどうなったのでしょう。水の中にじっとしていたのでしょうか。やがて舟は大量の魚とともに戻ってきます。それは、「陸から二百ペキスばかりしか離れていなかった」(ヨハネ21:8)場所でした。百メートルもなかったということですから、ペトロは水中にいても、たとえば泳いで戻ってくることも可能なわけです。時間的にも、さしてかかっていなかったことでしょう。
 上陸します。そこには「炭火がおこしてあった」(ヨハネ21:9)そうです。舞台演出も満点です。「炭火」は、新約聖書ではローマ書にたとえで用いられるほかは、ヨハネの福音書のここと、もう一箇所だけです。それは18:18です。ペトロがイエスを追いかけてアンナス邸まで来たとき、その中庭で、寒かったので炭火にあたっていたのです。心が寒くて情けなくて、なんとか火で温めようとしましたが、無理でした。あげく、イエスを知らないと三度も否んだその場面です。炭火であたたまるというのは、ペトロがイエスを知らないと裏切った場面だけにあった情景でした。これに連想が及ばないと、21章を書いた筆者の意図が伝わりません。
 しかし、その炭火の「上に魚がのせてあり、パンも」(ヨハネ21:9)ありました。イエスを裏切った出来事のその上に、魚が載ります。パンもあります。ここでいう魚は、ヨハネ6章で二匹の魚が大勢の群衆に分けられたときの魚の語であり、先の食べる物と見られた魚とは違う語です。人々に命をもたらしたあの魚でありますが、さらに象徴的なのは、この魚の語の文字が、見事に、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の頭文字をつないだ綴りとなっているために、初代教会の時代から、信仰のシンボルとして用いられていたということです。そしてパンは、言うまでもなく、命のパンとしてのイエスそのお方です。ペトロの失敗を示す炭火の上に、まるでそれを覆い隠すかのように、キリストの象徴である魚とパンが置かれていたのです。まだ弟子たちが捕ってきた魚は届いていないのですから、不思議な光景です。しかし、これはもはや神のしるしの領域です。理屈を考える暇はありません。
 しかも、新共同訳では「あった」としてありますが、原文ははっきりと「見る」という語が用いてあります。彼らがそれを見ているというのです。それを見分け、注意して見、わかるのです。弟子たちには、これら炭火と魚とパンの象徴している事柄が、分かったのだと筆者は告げていることになります。彼らは「主であることを知っていた」(ヨハネ21:12)です。
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