こうしてイエスは、群衆に食事を与えたときのように、パンと魚を配ります。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(ヨハネ21:13)とあります。
イエスは来たのです。さりげなく書かれていますが、イエスが来るのです。私たちが行くのではありません。神が近づいてくるのです。ヨハネのクリスチャン共同体にしてみれば、祈りつつ食事を開く教会の中に、イエスが訪ねてきてくださる信仰を表しています。こうして食事を共にするというのは、友であることを示す恵みの証拠です。ユダヤ人は今でも、異邦人と共に食事をすることを嫌います。食事は誰とでも一緒にすることはできないのです。だからまた、イエスが取税人や罪人たちと共に食事をすることが、あれほど悪口となって言われたのでした。
この魚の場面は「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(ヨハネ21:14)と結ばれます。原文では、これで三度目なのだ、から始まります。そして、復活とあっさり新共同訳は訳していますが、原語のニュアンスは、「起こされた」と伝えるものです。イエスの復活は、このように「死者の中から起こされる」というイメージで語られるものなのです。
弟子たちに三度目だというカウントは、あのマグダラのマリアを覗いて、トマスがいないときに一度目、トマスがいるときに二度目、そしてここで三度目という数え方になっているのでしょう。
それとも、マグダラのマリアが一度目として、マリアを弟子だとカウントしているのでしょうか。ただ、女弟子を指すような言葉は配慮されていません。
イエスは来たのです。さりげなく書かれていますが、イエスが来るのです。私たちが行くのではありません。神が近づいてくるのです。ヨハネのクリスチャン共同体にしてみれば、祈りつつ食事を開く教会の中に、イエスが訪ねてきてくださる信仰を表しています。こうして食事を共にするというのは、友であることを示す恵みの証拠です。ユダヤ人は今でも、異邦人と共に食事をすることを嫌います。食事は誰とでも一緒にすることはできないのです。だからまた、イエスが取税人や罪人たちと共に食事をすることが、あれほど悪口となって言われたのでした。
この魚の場面は「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(ヨハネ21:14)と結ばれます。原文では、これで三度目なのだ、から始まります。そして、復活とあっさり新共同訳は訳していますが、原語のニュアンスは、「起こされた」と伝えるものです。イエスの復活は、このように「死者の中から起こされる」というイメージで語られるものなのです。
弟子たちに三度目だというカウントは、あのマグダラのマリアを覗いて、トマスがいないときに一度目、トマスがいるときに二度目、そしてここで三度目という数え方になっているのでしょう。
それとも、マグダラのマリアが一度目として、マリアを弟子だとカウントしているのでしょうか。ただ、女弟子を指すような言葉は配慮されていません。