このイエスは、三度ペトロに質問をします。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:17)というのが、「アガペー」ではなく、「フィロー」です。この言葉の変化に、ペトロは気づかないはずはありませんでした。いえ、筆者はきっちりそれに気づかせるようにペトロを配置します。「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった」(ヨハネ21:17)というのです。
もちろん、ペトロがイエスを三度否んだという事実に沿って、この三度の繰り返しがあります。ペトロが三度否んだ自分のゆえに、イエスも三度確認を怠らなかったことを感じたのであり、あるいはまた、自分が三度否んだという事実を改めて思い知らされたという面があるかもしれません。
ところが新共同訳では「三度目も」(ヨハネ21:17)と訳しています。三度までも、という回数のことを伝えているようですが、この節の初めの「三度目に」と語としてはことさらに違いはありません。「三度目も」とするよりも、同じ語ですから「三度目に」とするほうが自然です。つまり、「三度目にはこれまでと違ってアガペーという語を使わずにフィローという語を使って質問したので」悲しくなった、と書いてあるのです。
ペトロにしてみれば、こんな気持ちではないかと想像します。イエスが、神のように愛するかと質問し続けたことに対して、自分は慎ましく友のように愛する程度のことしかできません、と二度まで答えた。そして三度繰り返して問われることで、主は私のあの裏切りを取り出し、逆にその三度を清めるかのようにここで赦しに変えて、私の誓いを引き出してくださった。たしかに私は、主を、主が私を愛してくださるように愛することなど、できません。けれども、私は「はい」と言い続けて、あなたを慕いまつることを答えてきました。あなたは、私が神のように愛することまではできないことを見越して、アガペーするのか、と尋ねたのに対して私は、それほどまではできませんが、という気持ちでお答えしてきました。それが三度目には、主は私に、友のように愛することさえできないのではないか、というふうにも聞こえる質問をよこしました。そうです、私は主を三度も否んだのです。裏切ったのです。ですから、友のように愛することさえ、疑われても仕方がない者なのです。それを今痛感しました。
ペトロは気を取り直して、あるいはそこまでの自分の至らなさと神の前にひたすら慕いますと告白し続けるしかない立場を覚えつつ、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハネ21:17)と、やはり「フィロー」で答えたのでした。
もちろん、ペトロがイエスを三度否んだという事実に沿って、この三度の繰り返しがあります。ペトロが三度否んだ自分のゆえに、イエスも三度確認を怠らなかったことを感じたのであり、あるいはまた、自分が三度否んだという事実を改めて思い知らされたという面があるかもしれません。
ところが新共同訳では「三度目も」(ヨハネ21:17)と訳しています。三度までも、という回数のことを伝えているようですが、この節の初めの「三度目に」と語としてはことさらに違いはありません。「三度目も」とするよりも、同じ語ですから「三度目に」とするほうが自然です。つまり、「三度目にはこれまでと違ってアガペーという語を使わずにフィローという語を使って質問したので」悲しくなった、と書いてあるのです。
ペトロにしてみれば、こんな気持ちではないかと想像します。イエスが、神のように愛するかと質問し続けたことに対して、自分は慎ましく友のように愛する程度のことしかできません、と二度まで答えた。そして三度繰り返して問われることで、主は私のあの裏切りを取り出し、逆にその三度を清めるかのようにここで赦しに変えて、私の誓いを引き出してくださった。たしかに私は、主を、主が私を愛してくださるように愛することなど、できません。けれども、私は「はい」と言い続けて、あなたを慕いまつることを答えてきました。あなたは、私が神のように愛することまではできないことを見越して、アガペーするのか、と尋ねたのに対して私は、それほどまではできませんが、という気持ちでお答えしてきました。それが三度目には、主は私に、友のように愛することさえできないのではないか、というふうにも聞こえる質問をよこしました。そうです、私は主を三度も否んだのです。裏切ったのです。ですから、友のように愛することさえ、疑われても仕方がない者なのです。それを今痛感しました。
ペトロは気を取り直して、あるいはそこまでの自分の至らなさと神の前にひたすら慕いますと告白し続けるしかない立場を覚えつつ、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハネ21:17)と、やはり「フィロー」で答えたのでした。