補遺にしても、それを終えるためには、終わりに相応しい幕閉じをしなければなりません。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」(ヨハネ21:25)と、イエスのしるしや業への余韻を伝えます。ここに選んだ資料はわずかなものでしかないのだ、それほどに神の業は計り知れず、広く深いものなのだ、と訴えるかのようです。
そして「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)と結ぶのですが、「わたし」というのは、先の共同体を意味する「わたしたち」ともまた違い、いよいよこの部分を執筆した当人の顔を出しているように見えます。
やや大げさな幕切れですが、神を小さな箱に入れてしまうような真似だけはしたくない心情をも伝えるように感じます。
それはまた、ペトロをリーダーとして仰ぐ別のクリスチャン共同体に対しても、その存在意義の余地を十分残すものとなっていることに注目してみたいと思います。
ヨハネの共同体は、独自の路線を進んできました。しかし、時代が経るにつれ、ペトロの伝統を継ぐグループとの共存も図らなければならなくなってきました。それらは別の福音書を編纂しています。内容的に、ヨハネと食い違うところもあります。何より、信仰の質において違う特色を帯びていると言えます。しかし、それらを排除することはもはやできない状況になってきました。逆にヨハネ集団自身が彼らからはじき出される可能性すらあったのかもしれません。
どう協調するとよいのか。その一つの答えが、この21章の記事であったと理解することが可能だと思うのです。
原典の中には、末尾に「アーメン」と添えているものがあります。これは読者の信仰告白として、それぞれの読者が心の中で味わいとなえてみたいものだと願います。まことに、その通りなのです、と。
そして「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)と結ぶのですが、「わたし」というのは、先の共同体を意味する「わたしたち」ともまた違い、いよいよこの部分を執筆した当人の顔を出しているように見えます。
やや大げさな幕切れですが、神を小さな箱に入れてしまうような真似だけはしたくない心情をも伝えるように感じます。
それはまた、ペトロをリーダーとして仰ぐ別のクリスチャン共同体に対しても、その存在意義の余地を十分残すものとなっていることに注目してみたいと思います。
ヨハネの共同体は、独自の路線を進んできました。しかし、時代が経るにつれ、ペトロの伝統を継ぐグループとの共存も図らなければならなくなってきました。それらは別の福音書を編纂しています。内容的に、ヨハネと食い違うところもあります。何より、信仰の質において違う特色を帯びていると言えます。しかし、それらを排除することはもはやできない状況になってきました。逆にヨハネ集団自身が彼らからはじき出される可能性すらあったのかもしれません。
どう協調するとよいのか。その一つの答えが、この21章の記事であったと理解することが可能だと思うのです。
原典の中には、末尾に「アーメン」と添えているものがあります。これは読者の信仰告白として、それぞれの読者が心の中で味わいとなえてみたいものだと願います。まことに、その通りなのです、と。