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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

いつから開いてた?蛤御門!

今日、8月20日は何の日?

って、もうやめるはずだったのにー!!(◎_◎;)

実は、今日8月20日は、幕末の京都で「禁門の変」が起こった日なのです。(^_^)

元治元年、1864年8月20日、京都御所の西側にあたる蛤御門(はまぐりごもん)の前で長州藩と幕府の武力衝突となりました。m(._.)m

蛤御門への砲撃を皮切りに始まった戦いは、一気に京都中心市街地にまで広がっていく事態のなり、その影響で約3万戸の家屋や寺社が焼失し、京都市一帯を巻き込んで大損害を出した事ともなりました。(^。^)

この頃から、長州藩(今の山口県)は朝敵と見なされ征伐を受けるほどになり、藩の存続すら危ぶまれたほどでしたが、その後、次第に藩勢を強め、明治維新の前夜には、薩摩藩との密約、いわゆる「薩長同盟」を結び、幕府の転覆を図ったのでした。٩( ᐛ )و

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

蛤御門との名の由来が話題となったことがありました。(^。^)

というのも、蛤御門は通称で、正式名称は「新在家御門」、普段は閉ざされていましたが、宝永5(1708)年の大火で開門されたので「焼けて身をあく蛤」から蛤御門と呼ばれたと伝えます。(^-^)

この由来、実は、2016年の研究により訂正されるまでは、宝永の大火ではなく、天明の大火(1788年)と言われて来たのでした!!(◎_◎;)

以下、京都産業大学のホームページより引用させていただきます。m(_ _)m

その後、湯口 誠一氏が、すでに宝永6年(1709)刊行の「内裏之図」に「はまくり門」と明記されていること、嘉永7年(1854)に作成された「親町要用亀鑑録」には、宝永の大火(宝永5年)の後に、「蛤御門」と命名されたと明記されていることを根拠に、天明の大火は誤りで、これをさかのぼる宝永の大火によって、「蛤御門」と呼ばれたのだという新説を提出されました。

ところが、さらに、長谷 桂特別客員研究員は、宝永の大火以前から「蛤門」の名称が使われていたことを突き止めました。
さらに、宝永をさかのぼる、延宝5(1677)年に、「蛤門」が開いている状態で描かれている事実も突き止めました。

☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

うーん、これらを整理すると、蛤御門は、天明にしろ宝永にしろ、大火でパックリと口を開けたのではなく、元々、門を開けていた、、、ということになりますね。٩( ᐛ )و

果敢な追究、ご苦労様です、、、m(__)m

「有明の月に問ふかな旅の空」 祖谷馬関

(注)有明の月は秋の季語。明け方になっても空に残っている月。古くは朝立ちの旅人が有明の月の影を踏んで出立した。
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