一原堂便り

こちらは、一原堂・朝倉同窓会です♪

西日本新聞にも紹介されました♪

2019-01-22 | 朝倉高校

平成31年1月20日 西日本新聞 朝刊 にも、朝倉高校史学部が紹介されました!

 

 

【顧問より】

 西日本新聞(1月20日付)に史学部が掲載されました。これを励みにこれからも「地域の伝承文化」を中心に、活動に力を入れていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

 

 

 

源為朝の墓!?見~つけた!!

 朝倉高の史学部員 探索の様子を動画配信

 

 朝倉市の朝倉高史学部が平安末期の武将、源為朝や母の「墓」との言い伝えが残る史跡を朝倉市と東峰村で確認し、約2年かけた調査を6分半の動画にまとめてインターネット動画サイト「ユーチューブ」で公開している。少人数ながら部員が粘り強く住民に聞き取りを進めて発見に至った苦労が記録され、興味深い内容に仕上がっている。    

 為朝は武勇で知られるが粗暴な性格が災いし九州に追放され「鎮西八郎」を名乗ったという。全国や九州各地に伝承や伝説が残る。朝倉市や東峰村にもあり、江戸時代の学者、貝原益軒編さんの「筑前国続風土記」など古文書や古地図などに本人や母の墓、為朝の馬の塚と伝わる史跡があると記述されているが、その場所は不明だった。

 この謎に興味を抱き、挑み始めたのは2017年3月。4人で記述の確認に乗り出し、最初に探したのは為朝母の墓。古文書に東峰村の小石原付近とあるのを手掛かりに約5か月間、住民に聞き取りし、母の墓と伝えられる石の墓にたどり着いた。この成果は同年12月の全国大会「地域の伝承文化に学ぶ」コンテストの学校活動部門で優秀賞に輝いた。

 その後、部員は2年生の北嶋阿弥部長と本田詠咲副部長の2人になったが、残された為朝の墓探しをやり遂げようと発奮。18年2月に調査を始めたが、古文書などには朝倉市の上秋月の地名があるだけ。2人は「考えるより歩く」をモットーに、顧問の泉信至教諭が運転する車で休日を使って地域を訪ね、約20人から聞き取りした。その努力が実ったのは同年10月。高齢男性が近所を次々に紹介してくれた時、別の男性が「知っている」と案内してくれた。そこには為朝が名乗った「鎮西様」と呼ばれる石の墓があった。さらに約50メートル離れた所で馬の塚と伝わる石の史跡も発見した。

 動画のタイトルは「為朝伝承の聖地・朝倉」。「朝倉は為朝と非常に縁深い希少な土地柄」という分析をして題名にした。本田副部長は「為朝の墓付近は神秘的で感動した」と言い、北嶋部長は「(調査の時に)住民が優しく温かく応じてくれた」と感謝する。調べる喜びを知り自信をつけた部員に、泉教諭は「長期に調査を進める中で成長が感じられた」と目を細める。

 史学部は今年5月、東京で開かれる日本考古学協会の「高校生ポスターセッション」でも「為朝と朝倉」を研究発表する予定だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

史学部の研究ドキュメント映像

2019-01-16 | 朝倉高校

朝倉高校史学部の「源為朝の伝承の聖地・朝倉」の研究ドキュメント映像が、Youtubeで見ることができます。

 https://www.youtube.com/watch?v=GUgdY8mJLv4

 

【顧問より】

 朝倉高校史学部です。

朝日新聞(1月11日付)、毎日新聞(1月12日付)に掲載されました。本当にありがたいことで史学部を支えてくださる方々に感謝の気持ちでいっぱいです。これからも地道に頑張ります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

また、平成31年1月11日(金) 朝日新聞朝刊 (上記事)

   平成31年1月12日(土) 毎日新聞朝刊 (下記事) で紹介されました。

 

 

 

~~朝日新聞 平成31年1月11日(金)朝刊~~

源為朝の墓 朝倉に? 生徒ら調査し動画に  

  朝倉高生、推論・現地歩く

 平安時代の武将・源為朝の墓が朝倉市内にあるとの推論を立てた県立朝倉高校史学部員らが、フィールドワークの様子を撮影した動画を制作した。約6分間にまとめた映像を11日、動画投稿サイトの「You Tube」にアップする予定だ。

 動画は「為朝伝承の聖地☆朝倉」。撮影・編集したのは、ともに2年生で史学部長の北嶋阿弥さんと部員の本田詠咲さん、史学部顧問の泉信至教諭。

 源為朝は勇猛で弓に優れていたとされ、追われた先の九州で勢力を伸ばして鎮西八郎と称した。1156年の保元の乱で敗れて自殺したとされるが、沖縄に渡ったとの説もある。

 生徒2人は住民の話や貝原益軒の「筑前国続風土記」の記述などから、源為朝の墓が上秋月地区にあるのではと考えて昨秋、現地を調査。地元で「鎮西様」と呼ばれる石塔にたどり着いた。専門家からは「供養塔」との見方もあるが、2人は「為朝の墓では」とみている。

 動画は2人が上秋月地区を調べて歩く姿を泉教諭が撮影。2人は以前、「為朝の母の墓が東峰村にある」との調査結果をまとめたが、同村でのフィールドの様子も盛り込んで3人で編集した。

 泉教諭は「たとえ供養塔だったにせよ、朝倉、東峰村と源為朝との間には深い関係があったのだと思う。それを広くは発信し、今後につなげたい」と話している。  

                                 徳山徹   

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 

~~毎日新聞 平成31年1月12日(土)朝刊~~

 「源為朝伝承の聖地」研究の成果

朝倉高史学部が動画アップ ユーチューブ6分半のドキュメント

 県立朝倉高校(朝倉市)の史学部は、平安時代の武将、源為朝と朝倉地方が深い関係にあったとする説を紹介する動画を製作し、11日、動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップした。

 共に2年生部員の北嶋阿弥さんと本田詠咲さんが古文書や古地図、地元の人からの聞き取りなどを基に、朝倉市と東峰村で「為朝本人の墓」「母の墓」「愛馬の墓」とされる遺跡を見つけ、昨年12月、朝倉は為朝に関する遺跡群が眠る「為朝伝承の聖地」だったとする研究成果を発表した。

 この説を広く発信しようと、調査で現地を訪ねる過程を6分半のドキュメント映像作品にまとめ、ユーチューブで公開した。

 史学部顧問の泉信至教諭は「部員は女子生徒2人の少人数ながら活発に活動している。ぜひ多くの人たちが見て知ってほしい」と話している。

 史学部は日本考古学協会が5月に東京の駒沢大で開く高校生ポスターセッションに「為朝と朝倉」のテーマで出場することが決まっている。

                                  桑原省爾

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

史学部の「源為朝の墓の調査」 またまた新聞に!

2019-01-08 | 朝倉高校

あけましておめでとうございます

本年もどうぞよろしくお願いいたします

 

さて、朝倉高校史学部の続報です

今度は、朝日新聞に掲載されました。 (平成30年12月26日 朝刊)

 

 

【顧問より】

 いつもお世話になっております。朝倉高校史学部です。

これまで調査してきた内容が朝日新聞(12月26日付)に掲載されました。先頃の毎日新聞に続く掲載となりました。また、今年5月には東京の駒澤大学で開催される日本考古学協会主催の高校生ポスターセッションに出場することも決まりました。

これからもコツコツと歩みを進めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

「源為朝の墓 朝倉に」

     朝倉高生、調査重ね推論

 朝倉市の山林に、平安時代の武将・源為朝の墓があった―県立朝倉高校の生徒たちがフィールドワークを重ね、こんな推論にたどり着いた。専門家は「為朝の墓の伝説は全国にあり、審議は不明。ただ、高校生がここまで調べた点がおもしろい」と話す。

 源為朝は勇猛で弓に優れていたとされる。追われた先の九州で勢力を伸ばし、鎮西八郎と称した。1156年の保元の乱で敗れ、その後、自殺したとされるが、生き延びて沖縄などに渡った説もある。

 調査したのは、同校史学部の部長、北嶋阿弥さんと部員の本田詠咲さん。今年2月、「源為朝の墓が上秋月地区にある」という話を聞き、江戸時代の学者、貝原益軒の「筑前国続風土記」にも似た内容の記述を見つけた。場所を絞り込める地名もあった。

 2人は9月中旬から授業の合間に現地に通い、土日に2~5時間、住民らに「為朝の墓を探している」と説明し、情報を集めた。約2か月で述べ20~30人から聞き取り。やがて「あそこにほこらがある」と教えてもらった。

 教えられた山林の一角に、球形の石を二つ重ねた高さ約60センチの塔があった。付近の人たちは「鎮西様」と呼んでいた。調査に同行した史学部顧問の泉信至教諭は「石に文字は彫られていないが、呼び名は為朝を連想させる。いつも水や榊が供えられ、大事にされているのだと思う」と話す。

 2人は「正式には墓石の材質や年代測定が必要」と冷静だ。ただ、「皆さん、すごく親切でまじめに対応してくれた」「次から次にと郷土史に詳しそうな人を紹介してくれた」と口をそろえる。北嶋さんは「為朝に導かれてたどり着いた気がする」と感動の面持ち。本田さんは「いろんな人に会い、普段行く機会のない場所を訪れて楽しかった」と笑顔を見せる。

 九州国立博物館の今井涼子主任研究員は「今回見つかったのは供養塔と考えるのが自然では」とみる。

 「高校生が現地調査を重ねた点がおもしろい。為朝と朝倉にどのような接点があったのか知りたい」と今後に期待する。

 2人は9日、同市の甘木歴史資料館で発表会を開いた。以前にも、源為朝の母の墓が東峰村にある、との調査結果をまとめており、今回、ほこら近くで為朝の馬塚とされる石塔を確認したことも踏まえて、「朝倉は為朝伝承の聖地だ」とまとめた。

 

~~平成30年12月26日(水) 朝日新聞朝刊~~

 

これからの調査もとても楽しみですね

近日中に 研究発表の動画をユーチューブで公開するそうです。

またお知らせいたします

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする