あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします
さて、朝倉高校史学部の続報です
今度は、朝日新聞に掲載されました。 (平成30年12月26日 朝刊)
【顧問より】
いつもお世話になっております。朝倉高校史学部です。
これまで調査してきた内容が朝日新聞(12月26日付)に掲載されました。先頃の毎日新聞に続く掲載となりました。また、今年5月には東京の駒澤大学で開催される日本考古学協会主催の高校生ポスターセッションに出場することも決まりました。
これからもコツコツと歩みを進めていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
「源為朝の墓 朝倉に」
朝倉高生、調査重ね推論
朝倉市の山林に、平安時代の武将・源為朝の墓があった―県立朝倉高校の生徒たちがフィールドワークを重ね、こんな推論にたどり着いた。専門家は「為朝の墓の伝説は全国にあり、審議は不明。ただ、高校生がここまで調べた点がおもしろい」と話す。
源為朝は勇猛で弓に優れていたとされる。追われた先の九州で勢力を伸ばし、鎮西八郎と称した。1156年の保元の乱で敗れ、その後、自殺したとされるが、生き延びて沖縄などに渡った説もある。
調査したのは、同校史学部の部長、北嶋阿弥さんと部員の本田詠咲さん。今年2月、「源為朝の墓が上秋月地区にある」という話を聞き、江戸時代の学者、貝原益軒の「筑前国続風土記」にも似た内容の記述を見つけた。場所を絞り込める地名もあった。
2人は9月中旬から授業の合間に現地に通い、土日に2~5時間、住民らに「為朝の墓を探している」と説明し、情報を集めた。約2か月で述べ20~30人から聞き取り。やがて「あそこにほこらがある」と教えてもらった。
教えられた山林の一角に、球形の石を二つ重ねた高さ約60センチの塔があった。付近の人たちは「鎮西様」と呼んでいた。調査に同行した史学部顧問の泉信至教諭は「石に文字は彫られていないが、呼び名は為朝を連想させる。いつも水や榊が供えられ、大事にされているのだと思う」と話す。
2人は「正式には墓石の材質や年代測定が必要」と冷静だ。ただ、「皆さん、すごく親切でまじめに対応してくれた」「次から次にと郷土史に詳しそうな人を紹介してくれた」と口をそろえる。北嶋さんは「為朝に導かれてたどり着いた気がする」と感動の面持ち。本田さんは「いろんな人に会い、普段行く機会のない場所を訪れて楽しかった」と笑顔を見せる。
九州国立博物館の今井涼子主任研究員は「今回見つかったのは供養塔と考えるのが自然では」とみる。
「高校生が現地調査を重ねた点がおもしろい。為朝と朝倉にどのような接点があったのか知りたい」と今後に期待する。
2人は9日、同市の甘木歴史資料館で発表会を開いた。以前にも、源為朝の母の墓が東峰村にある、との調査結果をまとめており、今回、ほこら近くで為朝の馬塚とされる石塔を確認したことも踏まえて、「朝倉は為朝伝承の聖地だ」とまとめた。
~~平成30年12月26日(水) 朝日新聞朝刊~~
これからの調査もとても楽しみですね
近日中に 研究発表の動画をユーチューブで公開するそうです。
またお知らせいたします