『爆死を免れて 教師を目指す』
私の多感な青少年時代は激しい戦争の中でした。
終戦70年。当時、私は旧制朝倉中5年で、東洋一といわれた福岡・大刀洗陸軍飛行場に学徒動員されていました。
昭和20年3月27日、米軍B29の猛爆によって同飛行場は壊滅。が、幸いにもその日が卒業式で、私たちは登校していたので、爆死を免れたのです。
戦後、私は教師を目指して3年間、戦災の廃墟の中で学び、新制中学に就職しました。
校舎もなく、小学校の古い教室を借りての授業。貧しい中でも平和国家建設の希望に燃え、子どもたちと頑張りました。
そのころの生徒たちとは、今も家族同然の付き合いです。
教師生活38年、戦後の学校教育の歩みと変化を体験。退職後は少年補導員や地域の役職を務め、ここ十数年は近隣の小・中学校で平和教育をしています。
以前と違って、家庭環境も地域社会も人間関係も、大きく変わりました。
そんな中で、将来を背負う子どもたちをどう育てていくべきか。
私は戦後教育に携わってきたものの責任と反省の上に立って、老兵ながらできるだけの協力をしたい。
これは、8月19日(水)に、西日本新聞 朝刊 投書欄に掲載されていた原稿です。
朝倉中学33回生 の 井上富二 さんです。
終戦から70年・・・今、こうして母校の活躍を喜んだり、同窓会が開催できるのも
平和だからこそですね。
これからも、ずっと続きますように・・・