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板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:「ガニ股と内また」

2011-12-27 16:30:04 | エッセイ
エッセイ:「がに股と内股」
  2011.11

「蟹もどき」のカマボコ商品が売れるくらいに日本人は蟹が好きである。旅行業者の「蟹の食い放題ツアー」は人気で予約がすぐ埋まるらしいのだ。
冬場に向かうこれからが美味しい蟹が北陸、北海道を始めそれぞれの漁港で水揚げされるのである。特にたらば蟹・ずわい蟹・毛蟹などは最盛期に比べ漁獲量も減少し高値で取引されている。

ところで、蟹の足は何本だろうか。とっさに応えが出る人はどこかの時点で正確に覚えた人で、普通の人は「さーて、何本だったか」である。応えは片側に4本の足プラス1本のハサミである。したがって蟹は8本の足に2本のハサミを持っている。
ご存じのタコの八っちゃんは8本、イカは10本である。しかしイカの場合本当に足と呼んでもよいものか。蟹やタコは足で歩くのだが、イカが足で歩いたところを私は見たことがない。またイカは10本の足(?)で餌を捕獲するのである。

しかし一番の驚きは地球上で横に歩いて移動する動物は蟹だけだと思うのだがどうだろう。
これを蟹が横歩きするのは当たり前だと決めてかかれば話はそれで終わりである。子供のころに地球上で唯一となれば「不思議だな、なぜだろう」と云うぐらいの探究心がわいてきても良かったのだが、私にはそういう好奇心や発想がなかった。

昔はチョットした小川や湿地帯にはたくさんの蟹が生息していた。ところによっては家の周りに入り込んでくることがあり、真っ赤なハサミを立てて歩いる蟹を見ても別段気にも留めなかった。

「さるかに合戦」はあまりにも有名な日本の民話一つでいろいろ聞かされたものである。お人よしをだますテクニックにはこういう方法があるのか、猿は悪い奴だと子供心に思っていた。

我々の身近にいる蟹に絡んだことわざも多くあるが、「蟹の念仏」は蟹が口の中でぶつぶつ泡を立てるように、くどくどつぶやく様子をいい、また「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」はそのままで、自分の力量や身分に応じた言動をすることである。

ところで、蟹の甲羅は食べ終わったらどうするのだろう。捨てるか、お土産品として装飾に使われるのか、またはカルシウムとして何かに利用するのだろうか。
最近では蟹甲羅の「キトサン」で北大が歯周囲の骨(歯槽骨)を再生する技術を開発。歯周囲炎で歯を失うと歯槽骨が細くなり義歯やインプラントを埋め込むことが難しくなる。それに「キトサン」が自家骨移植に応用できるようになったそうだ。

多くは男性であるが「がに股」と呼ばれる人がいる。「蟹股」と書くと分かる通り、膝が外側に広がった足で外側に開いて歩く姿が蟹の足に似ていることからきている。不良などが相手を威嚇し、自分を強く見せるため、わざと足を開いて歩く場合がある。大相撲元大関の千代大海が高校生時代にリーゼントヘヤースタイルと「がに股」で突っ張り、不良をやっていた話は有名である。

プロ野球の打者にも「がに股打法」と呼ばれる打法でそこそこの成績を上げている選手がいる。種田仁(元横浜ベイスターズ)、石井琢朗(広島カープ)、中田翔(日本ハム)などである。
打席でバットをまっすぐ立ててかまえ、両足を広げ両膝を同じに折る正に蟹が立っているようなスタンスである。何を好き好んであのような構えをしなければならないのかと吹き出したくなる。誰がどう見たって恰好悪いことこの上ないのである。

私の高校時代の同級生にMATUO君がいる。家が近かったので自転車で一緒によく通学したものだ。彼とは40年ぶりにメールでやりとりをするようになった。高校時代を振り返っての昔話を書いてくるのだが、“板井君、あんたは足が短くてがに股だったなあ”と、からかい気分で私が気にしていたことを平気で言うのである。

最近の子供達は手足が長く見事なプロポーションで羨ましい限りである。小学生では女子の方が男子より成長が早く、身長が150センチだったら私の股下より長いであろうと思えるカッコいい女子が結構いるのである。

戦後日本がまだ疲弊していて、一般人には「美」よりも「食べること」が最優先の時期は若い女性も「スッピン」がほとんどであった。1954年(昭和29年)のミスユニバースで伊藤絹子が3位に入賞し、1959年児島明子が優勝して「八頭身美人」と云う言葉がもてはやされたのを記憶しているだろう。二人の身長は165センチ前後、体重は55キロ前後であったから現代の女性と比べてどうであろうか。
私の住んでいた地方都市では165センチ以上の女性にお目にかかったことはなかった。当時ガキのくせに何と見事なプロポーションだろうとご両人を日本人として誇りに思っていたものだった。

一方、1950年に第一回ミス日本グランプリをとったのが山本富士子である。身長は158センチと小柄ではあったがその類まれなる上品な美貌は審査員たちの間でも話題になり、ミス日本選定は満場一致の短時間で終了したという逸話が残っているそうだ。私も山本富士子の映画は好きでその美貌とともに息継ぎの呼吸音が聞こえるような何とも言えぬ甘い声にうっとりしたものだった。

ところで、2000年のシドニー五輪では、柔道の100キロ超級決勝で対戦した仏のドイエル選手が日本の篠原信一選手に「内股すかし」で投げられながら優勝、後に「誤審」とされたのを記憶していると思う。テレビで見ていた私にはどういう技で倒れたのか、一瞬何が起こったのかわからないシーンだった。篠原選手がこの時主審に執拗な抗議をせず紳士的な態度で引き取ったのが印象的であった。

柔道では内股は背負い投げと同じぐらい有名な技である。しかし「内股すかし」を食うと実に恥ずかしいのだ。なぜなら相手に投げられたというよりも一人で投げられたようにみえるから。これはセンスが光るダイナミックな技である。
ただし、すかした弾みで勝手に倒れたかを判断することは難しいのである。内股をかけて自分が倒れた場合は「はずした、すかした」かどうかにかかわらず「効果」のポイントを認めているのが現状である。金メダルの山を築いた山下康裕選手、井上康生選手などはこの内股が得意であった。

ハワイに観光旅行に来る客は近年台湾や中国系、韓国の女性達が増えているそうだ。そんな中で日本の女性を見つけるのは簡単である。それは日本人だけが内股で歩いているからだと。アメリカ人や台湾人、中国人、韓国人には内股で歩いている人はいないそうだ。
中でも韓国の女性は「外八の字」で歩くのに対し、日本女性は「内八の字、内股」で歩くのである。

それではなぜ日本女性には「内股歩き」が多いのだろうか。一つの考えは、これまでは和服を着用するためであるとされてきた。しかしほとんどの日本人は日常生活で非効率ともいえる「着物で内股歩き」はしていなかったのだとか。 
ごく一部の特殊な職業の「姐さん」がやっていたのが、いつの間にか、一般人の美意識の一部になったと考えられる。すなわち女性にとって内股は、か弱い、カワイイ感じを演出するためのものではないかと。

しかし、前傾姿勢での内股歩きは身体に悪影響を及ぼすとされている。ある統計では50歳以上の女性の二人に一人が、変形性膝関節症などの膝の悩みを抱えているとも言われている。

先日、近くに住む孫達の車に同乗し「ホームセンター」に花を買いに行った。久しぶりで花を観賞しながら孫達の動きを観察していた。ところが小学5年生の孫娘の歩き方がどうもおかしい。前傾姿勢になって内股で歩いている。しかも右足の方が内側にかぶってくるのだ。
それを指摘すると、母親である我が娘は“そうなんだよね、いつも内股で歩いているのよ”と云うではないか。では何か矯正するような指導をしているのかと尋ねると“no”と云う。何たることだ、そこでこのままでは見かけも悪いが健康にも良くないので私が矯正してやろうと思いたったのである。

孫達が週1回我が家に来る日がある。先ず孫娘に自分が内股歩きであることを認識させ、そのデメリットを十分理解させることから始めた。“こんな嫌なことを言ったり、矯正してくれる人はおじいちゃん以外に誰もいないのだからちゃんとやるんだよ”、と同意をとった。
“大人になったら身長が高い人になるだろうから(孫娘の母親165センチ、父親175センチ)、今のままのネコ背で、出尻で、内股では恰好悪いよ。今のうちに直しておかないと”とよく云い含めた。

近くの公園に連れ出し、30メートルのところを10数回往復させ、デジカメで撮影しながら歩く姿勢や手の振り方、足の出し方・歩幅などを注意した。
孫娘にしても突然自分の歩行について他人からこんな指導を受けるのは生まれて初めてで迷惑な話ではなかったかと思う。
僅か15分ぐらいで見違えるほど綺麗な歩き方になってきた。時々右足がかぶってくるが一朝一夕に完全には行かない。しかし正直言ってこんなに短時間で直せるとは思わなかったので、私の心配は取り腰苦労であったと言っていい。

ただ骨盤・股関節の歪みがあるだろうから内股の矯正法として、両足を出来るだけ大きく広げ、つま先を開いて腰を膝の高さまで下ろしたままで10秒間維持するスクワットを毎日2~3回行うように言ってある。
時々電話で確認すると、本当かどうかわからないが「うーん、やっているよ」と返事だけはよい。これからもしっかりフォローをしていこうと思っている。
そして10年後、孫娘が20歳代になり綺麗な姿勢で歩くのを生あって見届けることが出来たら正に本望である。


余談:私はある人(石井正夫氏)から教えていただいた言葉が非常に気に入っている。
今東光語録 の“人生は冥土までの暇つぶし” である。古希を迎えた私にとってはなかなか含蓄のある言葉である。



エッセイ:「宇宙食を食べに行く」

2011-12-27 16:25:12 | エッセイ
エッセイ:「宇宙食を食べに行く」
 2011.11

今から約60年前、我々の小学校、中学校時代には一クラスの生徒数は50数人であった。二人掛けの机が4列で最後部席が後ろの壁にまで近接することもあった。奥の方の生徒は出入りするのに横向きになってやっとすり抜けることが出来た。したがって、最後部席の生徒は休み時間などが終わるとみんなが席へ戻るまで落ち着いて椅子に座れないのである。

席決めも「生年月日の順」「あいうえおの名順」「身長の順」とさまざまだったがさすがにジャンケンはなかったように思う。最近の学校では子供達の主張が強くて席を決めるのが大変だとか。昔のように先生が決めたら素直にそれに従うとはなかなかいかないらしい。

多子化と云う言葉はなかったが子供は多く4~5人はいたようだ。我が家のすぐ裏の同級生M君は7人兄弟の9人家族であった。彼の父親は私の父親同様に旭化成の社員であり、給料だけでは食べていけないので会社勤めの合間に今で言うアルバイトをやっていた。
子供心にM君の父親は働き者だなあと感心していた。とにかく会社での三交代勤務(朝、昼、晩の交代勤務制)をした後に休む間もなく働き詰めであったことを記憶している。

当時、農家を回って米、麦、サツマイモや野菜類を仕入れ、運搬用自転車の荷台に取り付けた大きな竹カゴに一杯積みこんでは社宅である自宅や行商で販売していた。
昨今の少子化の理由が、先の収入が見込めず経済的に子供は無理だと言いながら結構余裕のある暮らししていたり、子供より自分の趣味や生活をエンジョイしたいという価値観や人生観の変化に戸惑いを感じるのである。

私は小学校の二人の孫の関係で何度か学校に行くチャンスがあった。孫がそれぞれ2年生の時に「生活」授業の一環としてミニトマト、ナス、ピーマンなど野菜の育て方の指導を手伝った。お陰で少子化の時代になってからの学校の雰囲気などを改めて知ることが出来た。
 
約30名と云うと私からすれば拍子抜けする人数のクラスではあるが、担任の先生には50数名のクラス以上の大変さがあるのだなと感じた。
我々の時代と違う点はいろいろあるが、特に親が先生・学校に干渉しすぎることが最大ではないかと思う。ごく一部ではあるが「タワケ」者と云いたい自己中心的で非常識な親に学校側がひっかきまわされているのである。

最近あまり使われなくなったが、時代劇などに登場する「タワケ」という目上の者が相手を叱るのに使う言葉がある。“そのような「たわけたこと」を申すでない”と云う。これは「田を分ける」ことすなわち愚かな行為の代名詞である。そのため、農家では長男による単独相続が行われ、次男以下は結婚することも許されず、「厄介者」として扱われた。

もしそれを許せばネズミ算式に人口が増え続け、それに食糧生産が追い付かなければ、飢饉になることは目に見えており、人口抑制のため「田分け」を避けることは常識であったのである。

戦国時代の日本の人口をみると、豊臣秀吉の時代は太閤検地により算出された全国のコメの生産量は1800万石で、年間のコメの消費量が一人一石とすると人口は1800万人と推定できる。
江戸時代になり諸大名が新田開発を推進し、検地では「一地一作人」の原則が取られるようになった。
したがって米が増産された結果、江戸時代の人口は3000万人に増えて飽和点に達した。日本の人口は一世紀の間に少なくとも6割以上も増加したことになる。


ところで、日本では少子化、人口減が大きな問題になっているが、国連人口基金は世界の人口が今年10月末で何と70億人に達すると発表した。
それによると、1950年初期代は48歳だった平均寿命は68歳に延びた。乳児死亡率は千人当たり46人で1950年代の133人から激減。世界の人口は1987年に50億人、1999年に60億人、そして2050年には93億人を超えると見込まれている。

国別で中国が13億4800万人だが、インドの増加が顕著で、2021年には14億人に達し中国を追い越すとみられる。インドでは「男尊女卑」の思想が著しく、嫁入り時には一家の年収をはるかに超える持参金の風習があり、妊娠して女児と分かると堕胎することも多いとか。通常どの国でも女性の人口が男子よりも多いものであるがインドは女性の方が少ない。何れこれが人口抑制には繋がるが社会の大きな歪になってきそうな気がする。

ところで、2050年には現在一位の中国は「一人っ子政策」により9億人に減るであろうと。これにより労働力不足が何れ深刻になってくることが予想される。国家の一大事であるからこの「一人っ子政策」も何れ解除するだろうが、一度豊かで楽な生活を手に入れた国民が「国策」とはいえそう簡単に思惑通りに行くだろうか。

また、お隣の韓国の少子化は日本よりも深刻で女性一人の生涯出世率は1.2人である。米国の専門家によるとこのままでいくと2100年には人口は現在の2/3、2200年には140万人になり、ついには消滅してしまうそうである。
今韓国は輸出産業をはじめサッカー、ゴルフなどのスポーツ、はては芸能などでも飛ぶ鳥を落とす勢いで発展している。しかしながら「唐辛子の国」韓国だ、燃え上がるのも早いが消えるのも早いのではないかと素人ながら推測するのである。

加えるに、2050年にはアフリカの人口が現在の9億人(世界の13%)から4倍の35億人(世界の1/3)と爆発的に増加するそうである。資源開発等による豊かな経済活動、医療水準の高まり、食料の増産、乳幼児の死亡率低下、平均寿命の延びなどがその理由と考えられる。
その頃になると、アフリカは現在のASEANと同じように豊かな経済大国グループになっているのであろうか。

それにしても、この地球上で100億人近くが暮らすとなれば前提条件の水や食料の確保が大きな問題となり、紛争の火種になりそうだが本当に大丈夫なのであろうか。
ついにアメリカでは一般人の宇宙旅行も現実のものとなった。勢いづいたアフリカの新興国から「自分たちは昔から天然・自然のものを食べてきた。先進諸国の年寄の富裕層は宇宙へ引っ越して消化の良いチューブ入の高級宇宙食でも食べたらどうか」なんてことが言われる時代になっているかもしれない。
もちろんその頃我々は黄泉の国で迎え火を待つ身であるが。




エッセイ:可愛い熟女

2011-12-27 16:15:12 | エッセイ
          エッセイ:「可愛い熟女」
                     2011.12

2週間ぐらい前にA氏からお誘いを受けていた講演を聴講するために車に同乗させてもらって市内の小学校である講演会場に向かった。A氏も初めてのところとあって開催時間の1時間半以上前に出発した。        
 カーナビ任せの走行であり心配はないのだがそれでも途中から「おい、ほんとに大丈夫なのだろうか」と思えるような道を走り始めた。
千葉県北部は山がなく見渡す限り広い田畑や森林が続き対向車が来たら離合に困るような狭い農道をクネクネと走るのだ。民家はポツリポツリと点在している程度である。カーナビの表示では会場まであと数分のところに来ているのだ。
しばらく走ると田んぼの中をまっすぐはしる片側一車線の道路に合流する。その手前で左前方を見ると約400~500メートル先に学校風の建物が見えてきた。
しかしどう考えてもそんなところに小学校があるとは考えられないような場所である。まがりなりにも人口十数万の地方都市である。

車が近づいていくと、ピンク色に近いウインドブレーカーを着た数名の人が駐車場に車を誘導していた。小学校の授業参観や運動会などでは父兄はマイカーでくるしか交通手段がないと見えて臨時の駐車場は十分確保してある。
普通学校の周辺と云うのは多少の民家があると思っているのだが一戸もないのである。これでは子供達はどうやって通学するのだろうと思い、A氏に「スクールバスでもあるのですかね」と尋ねるが、氏はそんなバカなことを質問するなと云わんばかりに返事をくれなかった。

結局会場である小学校体の育館には開催一時間前に到着することが出来た。ここでもピンクをまとった大勢のボランティアの人たちが忙しく応対していた。
体育館の会場内には椅子が並べられ、土足で床が汚れないように覆いがびっしりと敷き詰めてある。また小雨の降る肌寒い日であり数か所で石油ストーブが燃やされていた。

入場の際貰った資料が入った封筒には「佐倉市里山の会」と印刷されている。入場料は無料であるし著名な人の講演であるから、主催がどこであるかは余り頓着していなかった。それにしてもこの著名な講師と「佐倉市里山の会」とどこで接点があるのだろうかと不思議に思っていた。
「そういえばこの会場もその道中もみんな里山だな」とつまらぬことを考えていた。会場内はおよそ500人と満席でしかもそのおよそ1/3が女性である。ほう佐倉市の女性も良く勉強するのだなと感心していた。

学校の体育館であるから気の利いた講師控室があるわけでもなく、学校も日曜日であるからクローズドである。時間前に講師は舞台下の脇に並べた椅子にそれとなく座って待っているのだ。

そこから珍事が発生したのだ。開演で主催者を代表して「佐倉市里山の会」会長が壇上に上がり講師に対するウェルカムの挨拶を始めた。30秒もしないうちに言葉がつまり始めシドロモドロになりだした。
会場からは初めのうちは気の毒そうな同情と上手く立ち直ってくれと云う懇願の空気がながれていた。
しかし「あがってしまってすみません」と云いながらだらだらとわけのわからない挨拶を続けるうちに聴衆はすっかり白けきって嘲笑が出始めたのである。
私の耳は聞くに堪えなくていつの間にかふさがれていた。いい加減に終わってくれよ思っていたところ、妙な歌声が聞こえて来たのである。
そこで我に返ってよく聴いてみると何と謡曲を歌っているではないか。「何だこりゃ」ビックリするやら何やらでもうなるようになれと開き直って聴くことにした。
ところが素人の私もほれぼれするいい声をしているのだ。10分ぐらいだっただろうか、会場は長い会長挨拶がやっと終わりすっかり白けきっていた。

ようやくゲストである著名な女性ジャーナリスト桜井よしこ氏の登場である。それまでの苦痛を打ち消すかのように会場から盛大な拍手が送られたのだった。
壇上の桜井氏は会場の雰囲気を察してか皆がハッピーであるような最大限の返礼の謝辞を述べた。
「全国つズ裏裏を回ってきましたけど、謡曲でお迎えを受けたのはこれが初めてです、いいですね」「ド田舎の佐倉市とのご挨拶がありましたが、決してそのようなところではありませんよ。私もつい6年前までは現住所は千葉県でしたよ」「今日も里山の会主催と云うのでどこかの里山に招待していただけるものと期待していたのですよ」とこんなふうである。

「日本の進路と誇りある国づくり」という我々にとっては堅い難しいテーマである。小柄でニコニコしながらゆっくりとしかもやさしい魅力的な声で分かりやすく話していく。彼女は日本でナンバーワンの女性ジャーナリストだと思っている。昨年度は日本の「正論大賞」をも受賞している。

あちこちで笑いをとりながらも話の本題を抑えている。聴衆のレベルに合わせてどの引き出しからでも出てくるやさしい解説である。
そうこうしているうちに、桜井氏はせき込んできたのでテーブル上の水差しから水を飲もうとして持ちあげたところ、「あら、お水が入っていないわね」と笑いながら水差しを持ちあげて振って見せた。またもや珍事が発生したのだ。

これにはさすがに私も驚いた。ここでも桜井氏は笑いをとりながら話を進めていたら、会場から気を利かせた聴衆の一人が自分用の飲み物を差し出してくれたのである。主催者側がおろおろするばかりで何のアクションも取らないのでいたたまれずに機転を利かせて提供したのだろう。
聴衆一同ほっと胸をなでおろすと同時に桜井氏の顔色をつぶさに観察しているのであった。
その後講演は珍事などを挟み約1時間半で終了し桜井氏は会場からの質問は全部受けると言ってくれた。

早速後方席から質問の一番バッターが大きな声でしゃべり始めた。
妙に迫力のある話し方である。どんな質問かと聴いているがちっとも質問が出て来ない。そのうち桜井氏に向かって滔々と自説を力説し始めた。3分経ち5分経っても止まらず場内もざわつき始めた。
私の隣に座っているA氏は「司会者が止めるべきだよ」と言った。私は冒頭の会長珍事と同じだ、この際なるようになれと思っていた。私には相当長く感じたが10分ほど話していただろうか。何が言いたいのか、質問は何なのか全く分からずじまいであった。
その次の質問者も要領を得ない発言だった。5~6人が質問を繰り返したのである。さすがは桜井氏、短くかつ丁寧に噛んで含めるように返答していたのが印象的であった。

そして私もかって渉外の仕事を経験したことがある関係上、民間の企業で得意先を招待しておいてこのような不手際を起こしたら責任者はもとより上司も含めて御咎めがあるだろうなと思っていた。

今回これまで私が抱いていた桜井よしこ氏のイメージとは随分異なる人物像を見せてもらった。
1945年生まれと云うから66歳である。壇上の氏を見る限り小柄であるが、色白で皺も少なく美人(好みにもよるが)で、とてもそのような年齢には見えない。全身からオーラ―を放っているように感じた。
これらを引きたてているのがあの素晴らしい声である。これは「我々熟年の紳士にとってはたまらないね」とA氏と帰りの車の中で意見の一致をみたのである。

現在はジャーナリストと同時に国家基本問題研究所の初代理事長として憲法改正問題にも活躍している。
歴史問題、国際政治問題に関して彼女の存在は韓国、中国に対しても大きな影響を与えている。日本の軟弱外交に対して毅然と立ち向かう数少ない「可愛い熟女」である。

このエッセイを書き終えた後に、当の「佐倉里山の会」の会長から粗相を含めて丁重なお詫び方々礼状が届いた。改めてその人柄に感服した次第である。


                  了


布団袋

2011-12-27 14:40:40 | エッセイ
エッセイ:「ふとん袋」
 2011.10

昭和35年大学へ進学、冬季に東京から宮崎県延岡市に帰省する時はいつも下宿先から冬布団一式を「ふとん袋」(約50x60x100センチのサイズ)に入れて下宿先から最寄りの駅へ担いで運んだ。そして休みが終わると上京する日に合わせて自宅から最寄りの駅に担いで運ぶか、または自転車の後部荷台に乗せ、落ちないように抑えて歩きながら運んだことを思い起こす。

当時国鉄の手荷物便・チッキと呼ばれるもので乗客と一緒の便で到着するものである。もちろん「駅止め」であるから最寄りの駅まで受け取りに行かねばならないのである。当時延岡から東京まで急行での乗車賃(約1500キロメートル)は1200円前後で手荷物運賃は500円ぐらいだったと記憶している。

冬布団一式とはいっても昨今のように羽毛布団で軽くてコンパトになるものではない。母親が愛情をこめて仕立てた上げた綿が一杯詰まった重いものである。
当時は我が家では余分な布団など揃えていなかったので冬季にはこうせざるを得なかったのである。それで「ふとん袋」の中に時には下宿のおばさんへのお土産をも詰め込んだのである。
1キロメートル以上ある両方の駅へこの「ふとん袋」を運び、また受け取りに行くことは骨の折れることであった。何せ大きくて重いので担ぐのも大変、途中で何度も立ち止まって息を整えたものである。駅では発送受付に際し重量をはかっていたが15キロ前後はあったように記憶する。

私の両親の大分県の実家からは米や柿などの果物を送ってくることがあった。しかし当時重いものは国鉄便で送り、到着通知のハガキが来ると受け取りに行くのだ。またこちらからの発送物でも郵便局や国鉄は梱包の仕方や荷札の数や紐カケなどの基準は厳しく不備であると受け付けてもらえないこともあった。しかも郵便局の場合には配達がいつかになるかも不明であった。もちろん一定重量(6キロ)でそれ以上は扱わないために鉄道便で送るしか方法はなかった。

延岡市には日通と扇興運輸があり、当時民間の物流はそれほどでなく、もっぱら旭化成を中心とした仕事をしていた。したがって、現在のように気軽に「ふとん袋」を頼んで配達してもらうことなどありえなかったのである。

現在の国民生活になくてはならない「宅配便」ももとをただせば前述のような時代を経ているのである。
大和(改名ヤマト)運輸が1976年宅急便を開始したのがスタートである。
ヤマト運輸故小倉昌男会長は低迷していた会社を「宅急便」の名称で民間初の個人向け小口貨物配送サービスを始めた。当時は関東地方のみだったが配送網を全国に拡大し、ヤマト運輸を中小の会社から売上高一兆円を超える会社にしたのだ。

宅配便の規制緩和をめぐりヤマト運輸が旧運輸省、旧郵政省と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの戦いをやり理不尽な要求に毅然と立ち向かって行った。
この様子はシンボルマークに引っ掛けて「ネコがライオンに噛みついた」として話題となったそうだ。

有史以来の超円高が一向に収まらない日本。この十年来経済成長はないに等しい。リーマンショックからの立ち直りが先進国で一番遅いのも日本である。ましてや東日本大震災で生産も落ち込んでどうにもならない状況にある。短期的には輸出金額より輸入金額の方が多い。円安になっても円高になる根拠は何もないはずだ。それでも円安にはならずむしろ円高傾向が続くのである。
何のことはない米国やEUの経済状況が押し並べて良くないからドルやユーロ売りになりそのばっちりで円高になるのが理由だとか。日本としては“強い円”と喜べないとんだ迷惑話である。
ところがお隣の韓国ではこれはまた正反対の歴史的なウォン安だそうである。

米国の失業率は9%を超えている。債務不履行は回避されたが、財政赤字は依然として予断を許さない。日本の「失われた10年」を無能力のせいだと嘲笑した米国が今度は日本と同じ道をたどっているのだ。
一方、低所得達による抗議のデモが全米に広がりを見せている。「1%の金持ちが99%を支配する社会」に対する怒りである。やっと米国民もそれに気が付き始めたかと私は胸をなでおろす気持ちだ。

一方EUではギリシャの財政破たんが発端で混乱が始まり、スペインさらにはイタリアも危惧されている満身創痍の状況となっているようだ。現実的な問題として、ベルギー・仏の金融大手デクシアの破たんが取りざたされている。

引き金となった当のギリシャは公務員天国であり、労働人口の25%を占める。しかし問題は数よりも独善的で非効率な行政のやり方にあるようだ。
「行政の近代化にもっと目を向けるべきだった。ビジネスをしやすい環境を作るべきだった」と当局関係者の反省の弁である。

行政にむやみと権限があった過去の日本を思い起こす。政府がビジネスを押さえつける国。民間にそれを跳ね返す意志のない国。そこに未来はないという当たり前のことをギリシャ危機は示している。

日本もさらなる行政・財政改革を進めるべきだと誰もが口では言う。しかし役人の既得権益は是正されないでいる。えらそうなことを言っていた民主党政権も気がつけば役人に全て支配されてしまっている。日本もそんなに時間的なゆとりはないと思うのだがどうだろう。

約1000兆円の借金を背負う日本がギリシャと同じ運命をたどらないと誰が断言出来ようか。その時、無責任な政治家や官僚は「想定外だった。いやこうなると思っていた」とはぐらかし、自らの資産はいち早く金に交換、海外投資、海外銀行などに預けてその先の人生を堪能するのであろうか。

そうなると我々高齢庶民はみじめなもので、はたして年金で生活できるのだろうか。ただ、ただ我々の存命中に首都直下型大地震と日本国の財政破たんが起こらないことを祈るのみである。
最後に、私としてはこのようなエッセイを書かないで、おおらかに楽天的に生活を楽しみ生きる性格の人がうらやましいのである。






鉄は熱いうちに打て

2011-12-27 14:35:00 | エッセイ
エッセイ:「鉄は熱い打て」  2011.11


「蟹もどき」のカマボコ商品が売れるくらいに日本人は蟹が好きである。旅行業者の「蟹の食い放題ツアー」は人気で予約がすぐ埋まるらしいのだ。

ところで、蟹の足は何本だろうか。とっさに応えが出る人はどこかの時点で正確に覚えた人で、普通の人は「さーて、何本だったか」である。応えは片側に4本の足プラス1本のハサミである。したがって蟹は8本の足に2本のハサミを持っている。
ご存じのタコの八っちゃんは8本、イカは10本である。しかしイカの場合本当に足と呼んでもよいものか。蟹やタコは足で歩くのだが、イカが足で歩いたところを私は見たことがない。またイカは10本の足(?)で餌を捕獲(手)するのである。

しかし一番の驚きは地球上で横に歩いて移動する動物は蟹だけだと思うのだがどうだろう。
これを蟹が横歩きするのは当たり前だと決めてかかれば話はそれで終わりである。子供のころに地球上で唯一となれば「不思議だな、なぜだろう」と云うぐらいの探究心がわいてきても良かったのだが、私にはそういう好奇心や発想がなかった。

昔はチョットした小川や湿地帯にはたくさんの蟹が生息していた。ところによっては家の周りに入り込んでくることがあり、真っ赤なハサミを立てて歩いている蟹を見ても別段気にも留めなかった。

「さるかに合戦」はあまりにも有名な日本の民話一つでいろいろ聞かされたものである。お人よしをだますテクニックにはこういう方法があるのか、猿は悪い奴だと子供心に思っていた。

我々の身近にいる蟹に絡んだことわざも多くあるが、「蟹の念仏」は蟹が口の中でぶつぶつ泡を立てるように、くどくどつぶやく様子をいい、また「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」はそのままで、自分の力量や身分に応じた言動をすることである。

ところで、蟹の甲羅は食べ終わったらどうするのか。捨てるか、お土産品として装飾に使われるのか、またはカルシウムを何かに利用するのだろうか。
最近では蟹甲羅の「キトサン」で北大が歯周囲の骨(歯槽骨)を再生する技術を開発。歯周囲炎で歯を失うと歯槽骨が細くなり義歯やインプラントを埋め込むことが難しくなる。それに「キトサン」が自家骨移植に応用できるようになったそうだ。

多くは男性であるが「がに股」と呼ばれる人がいる。「蟹股」と書くと分かる通り、膝が外側に広がった足で外側に開いて歩く姿が蟹の足に似ていることからきている。不良などが相手を威嚇し、自分を強く見せるため、わざと足を開いて歩く場合がある。大相撲元大関の千代大海が高校生時代にリーゼントヘヤースタイルと「がに股」で突っ張り、不良をやっていた話は有名である。

プロ野球の打者にも「がに股打法」と呼ばれる打法でそこそこの成績を上げている選手がいる。種田仁(元横浜ベイスターズ)、石井琢朗(広島カープ)、中田翔(日本ハム)などである。
打席でバットをまっすぐ立ててかまえ、両足を広げ両膝を同じに折る正に蟹が立っているようなスタンスである。何を好き好んであのような構えをしなければならないのかと吹き出したくなる。誰がどう見たって恰好悪いことこの上ないのである。

私の高校時代の同級生にMATUO君がいる。家が近かったので自転車で一緒によく通学したものだ。彼とは40年ぶりにメールでやりとりをするようになった。高校時代を振り返っての昔話を書いてくるのだが、“板井君、あんたは足が短くて「がに股」だったなあ”と、からかい気分で私が気にしていたことを平気で言うのである。

最近の子供達は手足が長く見事なプロポーションで羨ましい限りである。小学生では女子の方が男子より成長が早く、身長が150センチだったら私の股下より長いであろうと思えるカッコいい女子が結構いるのである。

戦後日本がまだ疲弊していて、一般人には「美」よりも「食べること」が最優先の時期で、若い女性も「スッピン」がほとんどであった1954年(昭和29年)のミスユニバースで伊藤絹子が3位に入賞した。1959年には児島明子が優勝して「八頭身美人」と云う言葉がもてはやされたのを記憶しているだろう。二人の身長は165センチ前後、体重は55キロ前後であったから現代の女性と比べてどうであろうか。
私の住んでいた地方都市(宮崎県延岡市)では165センチ以上の女性にお目にかかったことはなかった。当時ガキのくせに何と見事なプロポーションだろうとご両人を日本人として誇りに思っていたものだった。

一方、1950年に第一回ミス日本グランプリをとったのが山本富士子である。身長は158センチと小柄ではあったがその類まれなる上品な美貌は審査員たちの間でも話題になり、ミス日本選定は満場一致の短時間で終了したという逸話が残っているそうだ。
私も山本富士子の映画は好きでその美貌とともに息継ぎの呼吸音が聞こえるような何とも言えぬ甘い声にしびれたものだった。

ところで、2000年のシドニー五輪では、柔道の100キロ超級決勝で対戦した仏のドイエル選手が日本の篠原信一選手に「内股すかし」で投げられながら優勝し、後に「誤審」とされたのを記憶していると思う。テレビで見ていた私にはどういう技で倒れたのか、一瞬何が起こったのかわからないシーンだった。篠原選手がこの時主審に執拗な抗議をせず紳士的な態度で引き取ったのが印象的であった。

柔道では内股は背負い投げと同じぐらい有名な技である。しかし「内股すかし」を食うと実に恥ずかしいのだ。なぜなら相手に投げられたというよりも一人で投げられたようにみえるから。これはセンスが光るダイナミックな技である。
ただし、すかした弾みで勝手に倒れたかを判断することは難しいのである。内股をかけて自分が倒れた場合は「はずした、すかした」かどうかにかかわらず「効果」のポイントをとられるのが現状である。金メダルの山を築いた山下康裕選手、井上康生選手などはこの内股が得意であった。

ハワイに観光旅行に来る客は近年台湾や中国系、韓国の女性達が増えているそうだ。そんな中で日本の女性を見つけるのは簡単である。それは日本人だけが内股で歩いているからだと。アメリカ人や台湾人、中国人、韓国人には内股で歩いている人はいないそうだ。
中でも韓国の女性は「外八の字」で歩くのに対し、日本女性は「内八の字、内股」で歩くのである。

それではなぜ日本女性には「内股歩き」が多いのだろうか。一つの考えは、これまでは和服を着用するためであるとされてきた。しかしほとんどの日本人は日常生活で非効率ともいえる「着物で内股歩き」はしていなかったのだとか。 
ごく一部の特殊な職業の「姐さん」がやっていたのが、いつの間にか、一般人の美意識の一部になったと考えられる。すなわち女性にとって内股は、か弱い、カワイイ感じを演出するためのものではないかと。これには我々男性にも責任の一端があるような気がしないでもない。

しかも、前傾姿勢での「内股歩き」は身体に悪影響を及ぼすとされている。ある統計では50歳以上の女性の二人に一人が、変形性膝関節症などの膝の悩みを抱えているとも言われている。

先日、近くに住む孫達の車に同乗し「ホームセンター」に花を買いに行った。久しぶりで花を観賞しながら孫達の動きを観察していた。ところが小学5年生の孫娘の歩き方がどうもおかしい。前傾姿勢で「内股歩き」になっている。しかも右足の方が内側にかぶってくるのだ。膝が伸びずに腕は肘から先を少し動かす程度であり格好のよくない歩き方である。

母親である我が娘にそれを指摘すると、“そうなんだよね、いつも内股で歩いているのよ”と人ごとのように云うではないか。では何か矯正するような指導をしているのかと尋ねると“no”と云う。
何たることだ、毎日見ている親からはおそらく単なる癖程度にしか見えていないのだろう。
そこで、このままでは見かけも悪いが健康にも良くないので私が矯正してやろうと思いたったのである。

孫達が週1回我が家に来る日がある。先ず孫娘に自分が内股歩きであることを認識させ、そのデメリットを十分理解させることから始めた。“こんな嫌なことを言ったり、矯正してくれる人はおじいちゃん以外に誰もいないのだからちゃんとやるんだよ”、と同意をとった。
“大人になったら身長が高い人になるだろうから(孫娘の母親165センチ、父親175センチ)、今のままのネコ背で、出尻で、内股では恰好悪いよ。今のうちに直しておかないと”とよく云い含めた。

近くの公園に連れ出し、30メートルのところを10数回往復させ、デジカメで撮影しながら歩く姿勢や手の振り方、足の出し方・歩幅などを注意した。
孫娘にしても突然自分の歩行について他人からこんな指導を受けるのは生まれて初めてで迷惑な話ではなかったかと思う。
ところが僅か15分ぐらいで見違えるほど綺麗な歩き方になってきた。時々右足がかぶってくるが一朝一夕に完全には行かない。もちろん孫娘にはしっかり誉めてやった。しかし正直言ってこんなに短時間で改善するとは思わなかったので、私の心配は取り腰苦労であったと言っていい。

ただ骨盤・股関節の歪みがあるだろうから内股の矯正法として、両足を出来るだけ大きく広げ、つま先を開き腰の位置を膝の高さまで下ろした状態で10秒間維持するスクワットを毎日2~3回行うように言ってある。
時々電話で確認すると、本当かどうかわからないが「うーん、やっているよ」と返事だけはよい。

そして3週間が経ったころ我が家の前で歩かせてみるとまるで別人だ。背筋が伸びて身体全体にリズム感がつき自然で柔らかな動きになって実に見栄えがするのだ。 “ああこれだ” 「鉄は熱いうちに打て」と云う言葉をかみしめ我ながらよくやったと、自画自賛した次第である。これからもしっかりフォローをしていこうと思う。


余談: 私はある人から教えていただいた言葉が妙に気に入っている。

今東光語録 の“人生は冥土までの暇つぶし” である。

古希を迎えた私にとってはなかなか含蓄のある言葉になっている。