エッセイ:「人間の強さ・弱さ」
2011・12
小学生の頃学校の正門の近くに二宮金次郎が薪を背負って本を読みながら歩いている像があり、また野口英世の胸像画が正面玄関に飾られていたように記憶している。
野口英世は黄熱病や梅毒等の研究で知られ、アフリカのガーナで黄熱病原を研究中に自らも感染して51歳で死去。コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人と云われ、3度もノーベル医学・生理学賞候補になったのである。
アフリカでは年に何十万人もがマラリアで死ぬらしい。マラリアを媒介する蚊が温暖化で生息域を広げているのだとか。ケニアは「高地」と呼ばれ冷涼だった地域で患者が多発している。住民は蚊の飛ぶ音も知らなかったのに、ここ25年で最高気温が2.5度以上高くなったためだそうだ。また極地の氷は融け、タイの洪水など各地を異常気象が襲っている。じわじわと世界が傷んでいる。(この段落「天声人語」より引用)
これらはいずれも人間が豊かさと便利さを追求した結果もたらされたものである。
ところで、人間ははたして進歩を遂げているのであろうか?。当然ほとんどの人が異口同音に人間は大きな進歩を遂げていると思っているはずである。しかし私は進歩しているとも進歩していないとも言えないのではないかと思っている。確かに自然科学、応用科学とも大きな進歩を遂げている。特に産業革命以降の進歩は目を見張るものがあり、私もそれは認める。しかしそう簡単に人間そのもの(心身)が進歩していると言いきれるかどうか疑問に思っている。
TVの番組で知ったがアフリカに住む黒人の中には我々には信じられないくらい遠くのもの音を聞き分ける能力を持った人達がいる。当然視力もそれに負けず劣らず遠くまで見えるであろう。それは何千年、何万年と狩猟を続けて来た人間が持つ武器であり能力である。
日本でも紀元前数万年の石器時代、紀元前一万数千年からの縄文時代の人は主に狩猟生活をしていて前述のアフリカ人以上に高い聴力、視力を持っていたであろう。
ところが現代の日本では老若男女を問わずメガネと補聴器の世話にならないと生活に支障をきたす人が増えている。
当時の世で生活したら獲物の捕獲もままならず間違いなく餓死の憂き目をみるだろう。
一方、主にアマゾン川流域に住む先住民の伝統競技会がブラジルで開かれ39部族の1400人が参加したと。そこで新聞社の特派員は先住民に「あなた方には風の色が分かりますか」と聞かれ羨ましくもあり、また風の色を見たいと思ったという。
日本の短歌や俳句などには風を詠んだものは数え切れないほどある。その中で風の色を表現したものがどのくらいあるだろうか。一般的には風は「音」で確認、認識するのが普通である。
現代では超一流のアスリートは100メートルでは10秒を、マラソンでは2時間10分を切って走ることが出来る。しかしこれが可能な人は極めて少なく一部の特殊な人達である。一般人の体力は低下傾向にあり運動不足、歩行不足が危惧される時代になっている。
それでは昔の人達がどの程度の体力、気力を持ち合わせていたのかを断片的ではあるがいくつか上げてみたい。
本能寺の変を知った秀吉が城攻めを行った備中高松城から180キロの山崎まで常識を超えた速度の行軍を「中国大返し」と呼ぶ。高松城主清水宗治の自刃を確認した後出発、わずか6日後には山崎の戦いに臨んでいる。
槍、鉄砲などの武器を持ち甲冑など重さ20~30キロを身につけて足軽等兵士30,000人がそろって走りまくったのである。単純に計算しても連日30キロを走っている。
走って疲労困憊のところで戦いをする。下手をすれば命を落とすのだから手を抜くこともさぼることも出来なかったのである。
現在毎日ジョギングをして頑張っていると自負する人に「中国大返し」をするスタミナがありますかとお尋ねしたい。当時の兵士が平常時にジョギングなどをやって身体を鍛えていたとも思えないのだが。
また関ヶ原の戦いの直前、家康は上杉景勝を謀反の疑いありとして会津に派兵するが、石田三成の挙兵の報を受けて討伐を中止。有名な「小山評定」(現栃木県)後に福島正則、黒田長政ら東軍は全軍を関ヶ原に集結したのである。夏真っ盛りの8月に約500キロの距離を数万の兵士が武装して行軍したのである。
昨今、日本では熱中症の危険性が叫ばれ、気象予報で警報まで出さなければならなくなっている。私達の子供の頃は「日射病」と云う言葉は使ったが今日ほどナーバスではなかった。高齢者や幼児が熱中症になりやすいのは分かるが、元気そうに見える若年者までバタバタ倒れるのはどういうことであろうか。
では江戸時代の個人の旅はどのようだったのであろうか。
幕末の英雄、坂本龍馬は19歳で剣術修行のために江戸に上る。28歳の時土佐藩を脱藩した龍馬は追手から逃れるために一昼夜で85キロの山道を駆け抜け、千メートル近い険しい峠を越えて伊予(愛媛県)にたどり着いた。その後舟で長州(山口県)に渡り、その足で薩摩へ向うが入国の許可が得られずそのまま引き返し大阪経由で江戸に向かったのである。
この距離は一体何キロだったのだろう。おそらく2000キロに近く現代人からすると気の遠くなるような距離である。
松尾芭蕉と弟子の曾良は粕壁―間々田―沼田―日光を1日で移動している。約40キロ、道々俳句を読みながらの歩行距離である。また岩出山から一関まで1日で歩いたと言う記録があり、約58キロの距離である。
芭蕉は41歳から51歳にかけて7回にわたり行脚をしている。極めつけが45歳の時の「奥の細道」で旅程は約2400キロにも上る。平均寿命がおよそ30歳過ぎであった当時の年齢としては大変な健脚でありスピードである。
「お蔭参り(お伊勢参り)」は江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参拝である。数百万人規模のものが60年間に3回起こった。1705年宝永の「お陰参り」は2カ月間に330~370万人が伊勢神宮に参詣したと本居宣長の玉勝間に記載されている。
当時庶民、特に農民の移動には厳しい制限があった。しかし伊勢神宮参詣に関してはほとんど許可されたのである。特に商家では子供や奉公人が伊勢神宮参詣を申し出た場合には親や主人はこれを止めてはならないとされていたのだ。
当時の日本の人口が約3000万人であるから全国から参詣した数は10%以上にもなるのであるからすごい数である。
江戸からは片道で15日間、大阪からは5日間、名古屋からでも3日間、九州、東北からも参宮者は歩いて参拝したのである。
これに対して現代の初詣では明治神宮には約300万人が参拝する。川崎大師、成田山新勝寺などいずれも最寄りの駅から徒歩でわずか数分である。
前述のことから分かるように、江戸時代の人の健脚力は半端でないことを改めて認識するであろう。一端歩き始めたら何が何でも目的地にたどり着かなければならないし、そしてまた戻らなければならない。途中で病に倒れるかもしれない、旅費が底をつくかもしれないなど心配事は尽きない。それを承知の厳しい旅であり、正に体力、気力、運との勝負だったと言えよう。
現代の旅行は、極端なことを言えばお金で全て解決出来る。特別な旅行以外はほとんど歩くこともなく、上げ膳下げ膳で終わってしまうのである。
皇太子妃愛子さまが10歳(4年生)の誕生日を迎えられるというTVニュースを見た。彼女の生い立ちビデオの中で二年前にクラスメイトからのいじめが元で登校拒否をされるようになる。最近では雅子様とのご同伴も少なくなりお一人で登校出来るようにはなってきていると報道されていた。
われわれの感覚でいえば、天下の学習院初等科である。ましてや秋篠宮悠(ひさ)任(ひと)親王(2006年生)がご生誕されなければ愛子さまは天皇になろうかと云う立場の方である。その彼女がいじめにあって登校拒否をされる事態をだれが予測出来たであろうか。
先般、孫二人が通う小学校(佐倉市立志津小学校:大谷秀敏校長)で「教育ミニ集会」が開催され、私は学校での児童学習協力者として招待を受けて出席した。
内容は ①今どこの学校でも問題となっている 「いじめ」の撲滅 ②父兄、地域社会等に対する感謝の「音楽集会」 ③「ありがとう給食」であった。
この集会で「いじめ」という悩ましい問題をどう克服し撲滅していくのだろうかと興味がわいた。
低学年から高学年までの全校生徒が「いじめ」をどうやったらなくせるかをクラスごとに話し合った結果の発表であった。それぞれのクラスで決めた「いじめ」撲滅のスローガンをポスターに書き全員が大きな声で父兄、招待者等が見ている前で宣誓するのだ。全学年の発表はさまざまであったが基本的にはいじめを「しない」「させない」「許さない」であった。
この年代ではまだ十分に構築されていない自分本位の思考形態から他人本位の方向に目を向け始めたのだ。相手の気持ち・立場になってものごとを考えることが出来るように学んでいるのだ。
このような指導・活動を継続していけば、この子たちは必ずや頼もしい立派な若者に成長するであろう。
これらの発表を聞いているうちに私の涙腺から何度も熱いものが伝わってきた。
ところで、一般論として言えば人間関係は人にとって最大の悩みごとと言えるのではないか。
人間関係という問題の歴史の長さは、人類の歴史の長さと同じだと言える。例えば古代ギリシャ人による人間関係の描写の中には現代人が読んでもまるで今日の人間関係のように思えるものが多々あるそうだ。それはつまり人間関係の問題というのがある意味進歩がない、いわば「永遠の問題」だと言うことを示している。
人間関係という問題は問題解決の積み重ねが効かず古代人と現代人はほとんど類似した事態の中に生きている。いつの時代も人間は人間関係については同じような知恵しか持っていないともいえる。
すなわち、自然科学、応用科学のように先人の行った結果に新たな積み重ねをすることが不可能なのである。それは積み木のように崩れるとまた一からやり直さなければならないために進歩がないのである。
もし、積み木が崩れないようにボンドを塗って積み重ねることが出来たらどんなに人間関係が楽で楽しいかとも思うが、誰もそれを望まないだろう。崩れてもまた積み上げる。何度でも積み上げる。悩み苦しみその中で生きるしかすべがないように神様が強い精神力を授けてくれたのだろう。だが不幸にして立ち上がれなくなる人も出てくる。この弱者を救うことが緊急の課題になってきているのである。
人生は冥土までの暇つぶし(今東光語録)
了
2011・12
小学生の頃学校の正門の近くに二宮金次郎が薪を背負って本を読みながら歩いている像があり、また野口英世の胸像画が正面玄関に飾られていたように記憶している。
野口英世は黄熱病や梅毒等の研究で知られ、アフリカのガーナで黄熱病原を研究中に自らも感染して51歳で死去。コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人と云われ、3度もノーベル医学・生理学賞候補になったのである。
アフリカでは年に何十万人もがマラリアで死ぬらしい。マラリアを媒介する蚊が温暖化で生息域を広げているのだとか。ケニアは「高地」と呼ばれ冷涼だった地域で患者が多発している。住民は蚊の飛ぶ音も知らなかったのに、ここ25年で最高気温が2.5度以上高くなったためだそうだ。また極地の氷は融け、タイの洪水など各地を異常気象が襲っている。じわじわと世界が傷んでいる。(この段落「天声人語」より引用)
これらはいずれも人間が豊かさと便利さを追求した結果もたらされたものである。
ところで、人間ははたして進歩を遂げているのであろうか?。当然ほとんどの人が異口同音に人間は大きな進歩を遂げていると思っているはずである。しかし私は進歩しているとも進歩していないとも言えないのではないかと思っている。確かに自然科学、応用科学とも大きな進歩を遂げている。特に産業革命以降の進歩は目を見張るものがあり、私もそれは認める。しかしそう簡単に人間そのもの(心身)が進歩していると言いきれるかどうか疑問に思っている。
TVの番組で知ったがアフリカに住む黒人の中には我々には信じられないくらい遠くのもの音を聞き分ける能力を持った人達がいる。当然視力もそれに負けず劣らず遠くまで見えるであろう。それは何千年、何万年と狩猟を続けて来た人間が持つ武器であり能力である。
日本でも紀元前数万年の石器時代、紀元前一万数千年からの縄文時代の人は主に狩猟生活をしていて前述のアフリカ人以上に高い聴力、視力を持っていたであろう。
ところが現代の日本では老若男女を問わずメガネと補聴器の世話にならないと生活に支障をきたす人が増えている。
当時の世で生活したら獲物の捕獲もままならず間違いなく餓死の憂き目をみるだろう。
一方、主にアマゾン川流域に住む先住民の伝統競技会がブラジルで開かれ39部族の1400人が参加したと。そこで新聞社の特派員は先住民に「あなた方には風の色が分かりますか」と聞かれ羨ましくもあり、また風の色を見たいと思ったという。
日本の短歌や俳句などには風を詠んだものは数え切れないほどある。その中で風の色を表現したものがどのくらいあるだろうか。一般的には風は「音」で確認、認識するのが普通である。
現代では超一流のアスリートは100メートルでは10秒を、マラソンでは2時間10分を切って走ることが出来る。しかしこれが可能な人は極めて少なく一部の特殊な人達である。一般人の体力は低下傾向にあり運動不足、歩行不足が危惧される時代になっている。
それでは昔の人達がどの程度の体力、気力を持ち合わせていたのかを断片的ではあるがいくつか上げてみたい。
本能寺の変を知った秀吉が城攻めを行った備中高松城から180キロの山崎まで常識を超えた速度の行軍を「中国大返し」と呼ぶ。高松城主清水宗治の自刃を確認した後出発、わずか6日後には山崎の戦いに臨んでいる。
槍、鉄砲などの武器を持ち甲冑など重さ20~30キロを身につけて足軽等兵士30,000人がそろって走りまくったのである。単純に計算しても連日30キロを走っている。
走って疲労困憊のところで戦いをする。下手をすれば命を落とすのだから手を抜くこともさぼることも出来なかったのである。
現在毎日ジョギングをして頑張っていると自負する人に「中国大返し」をするスタミナがありますかとお尋ねしたい。当時の兵士が平常時にジョギングなどをやって身体を鍛えていたとも思えないのだが。
また関ヶ原の戦いの直前、家康は上杉景勝を謀反の疑いありとして会津に派兵するが、石田三成の挙兵の報を受けて討伐を中止。有名な「小山評定」(現栃木県)後に福島正則、黒田長政ら東軍は全軍を関ヶ原に集結したのである。夏真っ盛りの8月に約500キロの距離を数万の兵士が武装して行軍したのである。
昨今、日本では熱中症の危険性が叫ばれ、気象予報で警報まで出さなければならなくなっている。私達の子供の頃は「日射病」と云う言葉は使ったが今日ほどナーバスではなかった。高齢者や幼児が熱中症になりやすいのは分かるが、元気そうに見える若年者までバタバタ倒れるのはどういうことであろうか。
では江戸時代の個人の旅はどのようだったのであろうか。
幕末の英雄、坂本龍馬は19歳で剣術修行のために江戸に上る。28歳の時土佐藩を脱藩した龍馬は追手から逃れるために一昼夜で85キロの山道を駆け抜け、千メートル近い険しい峠を越えて伊予(愛媛県)にたどり着いた。その後舟で長州(山口県)に渡り、その足で薩摩へ向うが入国の許可が得られずそのまま引き返し大阪経由で江戸に向かったのである。
この距離は一体何キロだったのだろう。おそらく2000キロに近く現代人からすると気の遠くなるような距離である。
松尾芭蕉と弟子の曾良は粕壁―間々田―沼田―日光を1日で移動している。約40キロ、道々俳句を読みながらの歩行距離である。また岩出山から一関まで1日で歩いたと言う記録があり、約58キロの距離である。
芭蕉は41歳から51歳にかけて7回にわたり行脚をしている。極めつけが45歳の時の「奥の細道」で旅程は約2400キロにも上る。平均寿命がおよそ30歳過ぎであった当時の年齢としては大変な健脚でありスピードである。
「お蔭参り(お伊勢参り)」は江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参拝である。数百万人規模のものが60年間に3回起こった。1705年宝永の「お陰参り」は2カ月間に330~370万人が伊勢神宮に参詣したと本居宣長の玉勝間に記載されている。
当時庶民、特に農民の移動には厳しい制限があった。しかし伊勢神宮参詣に関してはほとんど許可されたのである。特に商家では子供や奉公人が伊勢神宮参詣を申し出た場合には親や主人はこれを止めてはならないとされていたのだ。
当時の日本の人口が約3000万人であるから全国から参詣した数は10%以上にもなるのであるからすごい数である。
江戸からは片道で15日間、大阪からは5日間、名古屋からでも3日間、九州、東北からも参宮者は歩いて参拝したのである。
これに対して現代の初詣では明治神宮には約300万人が参拝する。川崎大師、成田山新勝寺などいずれも最寄りの駅から徒歩でわずか数分である。
前述のことから分かるように、江戸時代の人の健脚力は半端でないことを改めて認識するであろう。一端歩き始めたら何が何でも目的地にたどり着かなければならないし、そしてまた戻らなければならない。途中で病に倒れるかもしれない、旅費が底をつくかもしれないなど心配事は尽きない。それを承知の厳しい旅であり、正に体力、気力、運との勝負だったと言えよう。
現代の旅行は、極端なことを言えばお金で全て解決出来る。特別な旅行以外はほとんど歩くこともなく、上げ膳下げ膳で終わってしまうのである。
皇太子妃愛子さまが10歳(4年生)の誕生日を迎えられるというTVニュースを見た。彼女の生い立ちビデオの中で二年前にクラスメイトからのいじめが元で登校拒否をされるようになる。最近では雅子様とのご同伴も少なくなりお一人で登校出来るようにはなってきていると報道されていた。
われわれの感覚でいえば、天下の学習院初等科である。ましてや秋篠宮悠(ひさ)任(ひと)親王(2006年生)がご生誕されなければ愛子さまは天皇になろうかと云う立場の方である。その彼女がいじめにあって登校拒否をされる事態をだれが予測出来たであろうか。
先般、孫二人が通う小学校(佐倉市立志津小学校:大谷秀敏校長)で「教育ミニ集会」が開催され、私は学校での児童学習協力者として招待を受けて出席した。
内容は ①今どこの学校でも問題となっている 「いじめ」の撲滅 ②父兄、地域社会等に対する感謝の「音楽集会」 ③「ありがとう給食」であった。
この集会で「いじめ」という悩ましい問題をどう克服し撲滅していくのだろうかと興味がわいた。
低学年から高学年までの全校生徒が「いじめ」をどうやったらなくせるかをクラスごとに話し合った結果の発表であった。それぞれのクラスで決めた「いじめ」撲滅のスローガンをポスターに書き全員が大きな声で父兄、招待者等が見ている前で宣誓するのだ。全学年の発表はさまざまであったが基本的にはいじめを「しない」「させない」「許さない」であった。
この年代ではまだ十分に構築されていない自分本位の思考形態から他人本位の方向に目を向け始めたのだ。相手の気持ち・立場になってものごとを考えることが出来るように学んでいるのだ。
このような指導・活動を継続していけば、この子たちは必ずや頼もしい立派な若者に成長するであろう。
これらの発表を聞いているうちに私の涙腺から何度も熱いものが伝わってきた。
ところで、一般論として言えば人間関係は人にとって最大の悩みごとと言えるのではないか。
人間関係という問題の歴史の長さは、人類の歴史の長さと同じだと言える。例えば古代ギリシャ人による人間関係の描写の中には現代人が読んでもまるで今日の人間関係のように思えるものが多々あるそうだ。それはつまり人間関係の問題というのがある意味進歩がない、いわば「永遠の問題」だと言うことを示している。
人間関係という問題は問題解決の積み重ねが効かず古代人と現代人はほとんど類似した事態の中に生きている。いつの時代も人間は人間関係については同じような知恵しか持っていないともいえる。
すなわち、自然科学、応用科学のように先人の行った結果に新たな積み重ねをすることが不可能なのである。それは積み木のように崩れるとまた一からやり直さなければならないために進歩がないのである。
もし、積み木が崩れないようにボンドを塗って積み重ねることが出来たらどんなに人間関係が楽で楽しいかとも思うが、誰もそれを望まないだろう。崩れてもまた積み上げる。何度でも積み上げる。悩み苦しみその中で生きるしかすべがないように神様が強い精神力を授けてくれたのだろう。だが不幸にして立ち上がれなくなる人も出てくる。この弱者を救うことが緊急の課題になってきているのである。
人生は冥土までの暇つぶし(今東光語録)
了