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板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:人間の強さ・弱さ

2011-12-27 14:18:19 | エッセイ
エッセイ:「人間の強さ・弱さ」
 2011・12

小学生の頃学校の正門の近くに二宮金次郎が薪を背負って本を読みながら歩いている像があり、また野口英世の胸像画が正面玄関に飾られていたように記憶している。
野口英世は黄熱病や梅毒等の研究で知られ、アフリカのガーナで黄熱病原を研究中に自らも感染して51歳で死去。コッホから始まる細菌学的医学権威の最後の一人と云われ、3度もノーベル医学・生理学賞候補になったのである。

アフリカでは年に何十万人もがマラリアで死ぬらしい。マラリアを媒介する蚊が温暖化で生息域を広げているのだとか。ケニアは「高地」と呼ばれ冷涼だった地域で患者が多発している。住民は蚊の飛ぶ音も知らなかったのに、ここ25年で最高気温が2.5度以上高くなったためだそうだ。また極地の氷は融け、タイの洪水など各地を異常気象が襲っている。じわじわと世界が傷んでいる。(この段落「天声人語」より引用)
これらはいずれも人間が豊かさと便利さを追求した結果もたらされたものである。

ところで、人間ははたして進歩を遂げているのであろうか?。当然ほとんどの人が異口同音に人間は大きな進歩を遂げていると思っているはずである。しかし私は進歩しているとも進歩していないとも言えないのではないかと思っている。確かに自然科学、応用科学とも大きな進歩を遂げている。特に産業革命以降の進歩は目を見張るものがあり、私もそれは認める。しかしそう簡単に人間そのもの(心身)が進歩していると言いきれるかどうか疑問に思っている。

 TVの番組で知ったがアフリカに住む黒人の中には我々には信じられないくらい遠くのもの音を聞き分ける能力を持った人達がいる。当然視力もそれに負けず劣らず遠くまで見えるであろう。それは何千年、何万年と狩猟を続けて来た人間が持つ武器であり能力である。
日本でも紀元前数万年の石器時代、紀元前一万数千年からの縄文時代の人は主に狩猟生活をしていて前述のアフリカ人以上に高い聴力、視力を持っていたであろう。
ところが現代の日本では老若男女を問わずメガネと補聴器の世話にならないと生活に支障をきたす人が増えている。
当時の世で生活したら獲物の捕獲もままならず間違いなく餓死の憂き目をみるだろう。

一方、主にアマゾン川流域に住む先住民の伝統競技会がブラジルで開かれ39部族の1400人が参加したと。そこで新聞社の特派員は先住民に「あなた方には風の色が分かりますか」と聞かれ羨ましくもあり、また風の色を見たいと思ったという。
日本の短歌や俳句などには風を詠んだものは数え切れないほどある。その中で風の色を表現したものがどのくらいあるだろうか。一般的には風は「音」で確認、認識するのが普通である。

現代では超一流のアスリートは100メートルでは10秒を、マラソンでは2時間10分を切って走ることが出来る。しかしこれが可能な人は極めて少なく一部の特殊な人達である。一般人の体力は低下傾向にあり運動不足、歩行不足が危惧される時代になっている。

それでは昔の人達がどの程度の体力、気力を持ち合わせていたのかを断片的ではあるがいくつか上げてみたい。

本能寺の変を知った秀吉が城攻めを行った備中高松城から180キロの山崎まで常識を超えた速度の行軍を「中国大返し」と呼ぶ。高松城主清水宗治の自刃を確認した後出発、わずか6日後には山崎の戦いに臨んでいる。
槍、鉄砲などの武器を持ち甲冑など重さ20~30キロを身につけて足軽等兵士30,000人がそろって走りまくったのである。単純に計算しても連日30キロを走っている。
走って疲労困憊のところで戦いをする。下手をすれば命を落とすのだから手を抜くこともさぼることも出来なかったのである。

現在毎日ジョギングをして頑張っていると自負する人に「中国大返し」をするスタミナがありますかとお尋ねしたい。当時の兵士が平常時にジョギングなどをやって身体を鍛えていたとも思えないのだが。

また関ヶ原の戦いの直前、家康は上杉景勝を謀反の疑いありとして会津に派兵するが、石田三成の挙兵の報を受けて討伐を中止。有名な「小山評定」(現栃木県)後に福島正則、黒田長政ら東軍は全軍を関ヶ原に集結したのである。夏真っ盛りの8月に約500キロの距離を数万の兵士が武装して行軍したのである。

昨今、日本では熱中症の危険性が叫ばれ、気象予報で警報まで出さなければならなくなっている。私達の子供の頃は「日射病」と云う言葉は使ったが今日ほどナーバスではなかった。高齢者や幼児が熱中症になりやすいのは分かるが、元気そうに見える若年者までバタバタ倒れるのはどういうことであろうか。

では江戸時代の個人の旅はどのようだったのであろうか。
幕末の英雄、坂本龍馬は19歳で剣術修行のために江戸に上る。28歳の時土佐藩を脱藩した龍馬は追手から逃れるために一昼夜で85キロの山道を駆け抜け、千メートル近い険しい峠を越えて伊予(愛媛県)にたどり着いた。その後舟で長州(山口県)に渡り、その足で薩摩へ向うが入国の許可が得られずそのまま引き返し大阪経由で江戸に向かったのである。
この距離は一体何キロだったのだろう。おそらく2000キロに近く現代人からすると気の遠くなるような距離である。

松尾芭蕉と弟子の曾良は粕壁―間々田―沼田―日光を1日で移動している。約40キロ、道々俳句を読みながらの歩行距離である。また岩出山から一関まで1日で歩いたと言う記録があり、約58キロの距離である。
芭蕉は41歳から51歳にかけて7回にわたり行脚をしている。極めつけが45歳の時の「奥の細道」で旅程は約2400キロにも上る。平均寿命がおよそ30歳過ぎであった当時の年齢としては大変な健脚でありスピードである。

「お蔭参り(お伊勢参り)」は江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参拝である。数百万人規模のものが60年間に3回起こった。1705年宝永の「お陰参り」は2カ月間に330~370万人が伊勢神宮に参詣したと本居宣長の玉勝間に記載されている。
当時庶民、特に農民の移動には厳しい制限があった。しかし伊勢神宮参詣に関してはほとんど許可されたのである。特に商家では子供や奉公人が伊勢神宮参詣を申し出た場合には親や主人はこれを止めてはならないとされていたのだ。
当時の日本の人口が約3000万人であるから全国から参詣した数は10%以上にもなるのであるからすごい数である。
江戸からは片道で15日間、大阪からは5日間、名古屋からでも3日間、九州、東北からも参宮者は歩いて参拝したのである。

これに対して現代の初詣では明治神宮には約300万人が参拝する。川崎大師、成田山新勝寺などいずれも最寄りの駅から徒歩でわずか数分である。

前述のことから分かるように、江戸時代の人の健脚力は半端でないことを改めて認識するであろう。一端歩き始めたら何が何でも目的地にたどり着かなければならないし、そしてまた戻らなければならない。途中で病に倒れるかもしれない、旅費が底をつくかもしれないなど心配事は尽きない。それを承知の厳しい旅であり、正に体力、気力、運との勝負だったと言えよう。
現代の旅行は、極端なことを言えばお金で全て解決出来る。特別な旅行以外はほとんど歩くこともなく、上げ膳下げ膳で終わってしまうのである。

皇太子妃愛子さまが10歳(4年生)の誕生日を迎えられるというTVニュースを見た。彼女の生い立ちビデオの中で二年前にクラスメイトからのいじめが元で登校拒否をされるようになる。最近では雅子様とのご同伴も少なくなりお一人で登校出来るようにはなってきていると報道されていた。
われわれの感覚でいえば、天下の学習院初等科である。ましてや秋篠宮悠(ひさ)任(ひと)親王(2006年生)がご生誕されなければ愛子さまは天皇になろうかと云う立場の方である。その彼女がいじめにあって登校拒否をされる事態をだれが予測出来たであろうか。

先般、孫二人が通う小学校(佐倉市立志津小学校:大谷秀敏校長)で「教育ミニ集会」が開催され、私は学校での児童学習協力者として招待を受けて出席した。
内容は ①今どこの学校でも問題となっている 「いじめ」の撲滅 ②父兄、地域社会等に対する感謝の「音楽集会」 ③「ありがとう給食」であった。

この集会で「いじめ」という悩ましい問題をどう克服し撲滅していくのだろうかと興味がわいた。
低学年から高学年までの全校生徒が「いじめ」をどうやったらなくせるかをクラスごとに話し合った結果の発表であった。それぞれのクラスで決めた「いじめ」撲滅のスローガンをポスターに書き全員が大きな声で父兄、招待者等が見ている前で宣誓するのだ。全学年の発表はさまざまであったが基本的にはいじめを「しない」「させない」「許さない」であった。

この年代ではまだ十分に構築されていない自分本位の思考形態から他人本位の方向に目を向け始めたのだ。相手の気持ち・立場になってものごとを考えることが出来るように学んでいるのだ。
このような指導・活動を継続していけば、この子たちは必ずや頼もしい立派な若者に成長するであろう。
これらの発表を聞いているうちに私の涙腺から何度も熱いものが伝わってきた。

ところで、一般論として言えば人間関係は人にとって最大の悩みごとと言えるのではないか。
人間関係という問題の歴史の長さは、人類の歴史の長さと同じだと言える。例えば古代ギリシャ人による人間関係の描写の中には現代人が読んでもまるで今日の人間関係のように思えるものが多々あるそうだ。それはつまり人間関係の問題というのがある意味進歩がない、いわば「永遠の問題」だと言うことを示している。
人間関係という問題は問題解決の積み重ねが効かず古代人と現代人はほとんど類似した事態の中に生きている。いつの時代も人間は人間関係については同じような知恵しか持っていないともいえる。
すなわち、自然科学、応用科学のように先人の行った結果に新たな積み重ねをすることが不可能なのである。それは積み木のように崩れるとまた一からやり直さなければならないために進歩がないのである。

もし、積み木が崩れないようにボンドを塗って積み重ねることが出来たらどんなに人間関係が楽で楽しいかとも思うが、誰もそれを望まないだろう。崩れてもまた積み上げる。何度でも積み上げる。悩み苦しみその中で生きるしかすべがないように神様が強い精神力を授けてくれたのだろう。だが不幸にして立ち上がれなくなる人も出てくる。この弱者を救うことが緊急の課題になってきているのである。

人生は冥土までの暇つぶし(今東光語録)








エッセイ「一本松」

2011-12-27 10:21:18 | エッセイ
エッセイ:「一本松」
 2011.12
7万本あった松の木が津波により皆根こそぎ流された。ただ一本だけ残り復興のシンボルとなっているのが陸前高田市の樹齢260年の「奇跡の一本松」である。残念ながらこれも塩水のため根が腐り生育は困難とされている。県の研究機関が一本松から採取した枝から4本の接ぎ木に成功していると。
過って強風で倒れた鎌倉鶴岡八幡宮の県指定天然記念物「大銀杏」を思い起こす。

ところで樹齢100年以上の松などの盆栽を見ているといつの間にか自分が大自然の中に嵌(はま)り込んだような錯覚に陥ることがある。盆栽が屋外で見られる大木の姿を鉢の上に縮尺して再現することを目指すものであるとしてもこの人工の芸術(?)は素晴らしいと思う。
欧米では「BONSAI」として重宝がられている日本を代表する文化の一つである。

「さいたま市」の盆栽町と呼ばれる地区に「盆栽村」がある。関東大震災で被災した東京小石川(東大のある現在の文京区)周辺の盆栽業者が集団で移住して形成された地区である。 
日本の盆栽は平安時代に唐の「盆景」を遣唐使が伝えたものだと言う。そして江戸時代には武士が内職としても盆栽づくりに励んでいたようである。気の長い商売であるが、傘張りの内職よりは武士のプライドを保てたのではないかと思う。
私も盆栽を見るのは好きで結婚したての頃10年近く「さいたま市」の隣の春日部市や越谷市に住み盆栽を見に行った懐かしいところである。

30年前、私が九州から東京の本社に転勤して現在の家に移り住んだ時分のことである。新築の家で狭い土地になにがしかの植木を植えて庭をこしらえねばと自分で庭の図面を書いてみたのだ。
会社の先輩S氏が自分家の近くで植木市が開催され安く購入できるぞ、と言われて喜んで神奈川県大船市に住んでいるお宅を訪ねた。
彼の懇意にしている植木職人に同伴してもらい私の図面にある樹木を選んでもらった。狭い庭なのにあまり安いので余計なものまで買ってしまった。そして大船から3県(神奈川、東京、千葉)を股にかけてトラック一杯の植木を運んで造園して貰ったという思い出がある。

有り金をはたきローンを組んで家を買ってしまったので庭の植木には残念ながら値の張る松の木は含まれていなかった。それでも自分流に図面を書いて造園して貰ったのである程度の満足感があった。
庭には松はないが、盆栽なら、あるいは盆栽を作ることで松を楽しめるのではないか。これが当時の私の松に対する深層心理ではなかったと思う。

何の風の吹きまわしか私はある時クロマツのタネを買ってきてプランターに蒔いたのだ。それは気持ちがいいくらいに見事に発芽してくれた。ざっと数えても100本以上はあったであろう。如何せんこれでは多すぎて全部育てるわけにはいかない。日数をかけて太くて丈夫そうなものをだけを残して間引いて行く。そのうちの数本を庭に路地植えにした。ところが育ってくると背が高くなりまっすぐ伸びるだけだ。
当時私は悲しいかな盆栽に関する何の知識も持ち合わせておらず、これらを鉢に移せば盆栽になると思い込んでいたのである。
性がないのでアルミ線を買ってきてどこかの盆栽で見たように幹や枝をぐるぐる巻いて恰好がつくように曲げてみた。しかし我が松は成長が早く細長く伸びるだけでちっとも重厚な枝ぶりには近づかない。
ホームセンターなどに行くと盆栽用として直径10センチ足らずのビニール鉢に入った立派な松の苗を売っている。私の松の苗はそれらに比べても到底及ばないものだった。
熱い夏になると水やりが大変だ。小さい鉢だと半日でカラカラに乾燥してしまう。幸いに松は広葉樹と違って水枯れで直ぐに葉が落ちて枯れてしまうわけではない。いずれにしても種から育てて盆栽に育てることは至難のことだということが理解できた。鉢植えの最後の一本を再度庭の隙間に植え代えて以来松の盆栽のことは頭から消えていた。

それから20年を経て庭の松は2メートルを超えるようになった。それまで自分流に庭木を剪定していたが、脳卒中と云う大病を患ってそれも叶わず、料金の安い佐倉市シルバーセンターの植木職人に依頼していた。
職人に、「この松は何とかなりますかね。物になるようでしたら、仕立ててくれませんか」と恐る恐る尋ねた。「やってみましょう。何とかなるでしょうよ」と云ってくれて毎年剪定をして貰うようになった。それからおよそ10年が経つつ。
松は年々枝ぶりがよくなり、私も職人に「その枝はいらないと思うが、切り落としてしまった方がよくありませんかね。庭が狭いので出来るだけ小ぶりに纏めてください」と植木職人に注文をつけながら会話を楽しんでいる。
植木屋もあなた任せでいっさい関心を示さない依頼者よりも自己主張をする方がやりがいがあると言っている。
町内で防犯パトロールをやっているが、我が家の前を通る時に仲間の人に「あの松の木は私が種から育てたものですよ」と云うと、みんながびっくりしてくれる。

ところで男子の平均寿命が80歳だとすると70歳の私は残り余命はわずか10年だ。すなわち60歳リタイア―後のわずか10年間と同じである。
自分の年齢や寿命のことは全く頓着なく暮らしてきたがよく考えるともうその齢古希に入っているのだ。私が現在を精一杯生きている証としてエッセイを取りまとめているのも寿命を予感しているのかもしれない。我が孫達に祖父の面影は写真だけではないよ、生きざまが、孫達に伝えたいことが「一本松」のようにエッセイ(今年18本執筆)に残っているよと。






渋い甘柿

2011-12-27 10:17:21 | エッセイ
エッセイ:「渋い甘柿」
  2011.12

 世の中「あの人チョット渋いよね」と言われたら、応えるのに少し時間を要することがある。うっかり「そうですね、渋いですね」とあいづちを打てないのがこの言葉ではなかろうか。「渋い」と云う言葉が人物評価に使われる場合はそれを使う人、あるいは状況に応じて微妙にその言葉を確認しなければならない場合がある。日本語にはこの趣の言葉が意外と存在する。

「渋い」の意味の極端な例として、①落ち着いた趣がある。地味であるが味わい深いから ②金品を出すのを嫌がる、ケチである。と人物評価としては正反対のような意味がある。
①の言葉の場合であっても、「年齢の割に地味すぎる格好の人。年寄りじみた言動ばかりする人。自分を前面に出さず控えてばかりいる人」などに対しての皮肉的な言葉としても使われることがあるから要注意である。

「渋い」とは、微妙で控えめながら、深く感動させる美しさを表わす形容詞である。室町時代の芸術家や、目利きが用い始めたのが起源だという。それはまばゆい光や見かけに惑わされないものであった。色彩・意匠・趣味・声などを表現するのはもちろんのこと人の振る舞い全般を表現するのにもつかわれる。美意識である「わび・さび・いき」などと関係があって時には重なる概念であったりする。

ところで「渋い」と云えばもちろん柿、柿と云えば正岡子規の有名な「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」と云う俳句を知らない人はいないだろう。古都奈良の晩秋の情景がつぶさに浮かぶのではなかろうか。

私の周辺でも晩秋から初冬にかけて里山を始め農家の畑や一般家庭の庭などで柿の木に枝もたわわに赤い柿の実がぶら下がる光景を見る。熟した柿の実を啄ばむヒヨドリやムクドリのけたたましい鳴き声が聞こえてくる何とも言えぬのどかな光景が私を癒してくれる。

 日本には柿は1000種類あると言われている。通常これらの鳥達が啄ばむ柿はほとんどが渋柿である。甘柿であれば当然鳥に食べさせるより前に収穫して人間が食べるのが普通である。それでもうーんと高いところに生っている多少の実は鳥にプレゼントされるであろうが。

野鳥はいくら腹をすかしていても熟していない渋柿は食べない。とろける位に熟して甘くなったところを見定めて突っつくのである。
渋柿のシブは水溶性タンニンで唾液にとけるために渋みを感じる。甘柿に見られるゴマは不溶性タンニンになって固まったものであり渋みはなくなっている。
甘柿でも渋柿でもタネが熟せば甘くなる。甘柿と違って渋柿のタネは柿がとろけるくらいにならないと熟さないのである。したがって渋いうちに収穫し人為的に加工するため「渋柿」と呼ばれる。
 
一方、甘柿と呼ばれるものは渋柿の突然変異種で日本特産の品種である。未熟時は渋いがタネが熟すと甘みが増し常に甘みを持つ「完全甘柿」(富有柿、次郎柿ら)と成熟時に渋が残りタネの中から渋の成分を変化させる物質が出て甘くなる不完全甘柿(筆柿、禅寺丸ら)がある。不完全甘柿は一個の実の全体が甘いものと、ヘタの方に渋さが残るもの、それに一本の木が甘い柿、渋い柿の双方で構成されているものである。

 柿は子孫を残すため熟さない実を動物などに食べられないように「渋」でガードしているのだろうか。また渋柿だけしかない時代に人間は渋柿をどうやって長期保存し甘くして食べるか、偶然の力も借りながら「干し柿」などという知恵にたどり着いたのであろう。
現在では①ホワイトリカー漬け②米ぬかに浸け③湯抜き(40度前後)④リンゴと一緒にビニール袋⑤ドライアイス(ガス)などの方法で作られた「アマガキ」を我々はおいしく食べている。

ちなみに、全世界における柿の生産量のうち中国が72%をそれに日本、ブラジル、イタリア、イスラエル等の6カ国で計99.8%を生産するのだという。 

 毎週一回懇意にした農家がトラックで野菜を売りに来る。私が11月の初旬に「渋柿は豊作ですか」と尋ねると「沢山なっていますよ」というので「干し柿用にお願いしますね」と予約をした。「干し柿は暖かいとカビが生えるので霜が降りるようになったらお持ちします」と。
12月初旬、八百屋が渋柿を50個ほど届けてくれた。柿の皮むきは初めてというのでたまたま来ていた孫娘に手伝わせて我が家としては数年振りの干し柿作りとなった。2週間もすれば甘い、甘い干し柿が楽しめるのである。

ほとんど毎日町内のM氏のお宅の前を通っているが、たまたまM氏が庭にいたので声を掛けて話をする。M氏の二階のベランダには干し柿がつるしてあった。
「ところでお宅の隣の家の3本の柿は甘柿ですか」と尋ねると「全部甘柿です」と言う。隣家は20年以上空き家になっており、M氏が庭の手入れ一切をしており柿の実の扱いはM氏の自在だろうと思う。

M氏曰く「3本とも甘柿の木ですけど実の3割ぐらいが甘柿で、残り7割は渋柿です」と云う。そして「この木の渋い柿の皮を剥いて干し柿にしてもおいしくないのですよ。干し柿の甘みが足りないですね。やっぱり干し柿は本当の渋柿で作らなければ無理なのでしょうかね」「今ベランダにつるしてある干し柿はホームセンターで買ってきた渋柿ですよ」と。
私は柿の知識などこれっぽっちもないので、「へー、一本の木で甘柿と渋柿の両方がなるのか、そんなことがあるのか」と思ったのだ。

後に調べた結果、甘柿には完全甘柿と不完全甘柿の二通りがある。M氏の言う話は後者であり、「渋い甘柿」と云うのはそういうことなのだと合点した。
ついでにこれをネタにエッセイも書いてしまおうか、「瓢箪から駒」と相成った次第である。