板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:「無言こそ雄弁(13)」2016.05

2016-05-26 07:41:28 | エッセイ
エッセイ:「無言こそ雄弁(13)」2016.05


 人が楽しくなるのも不愉快になるのも言葉。人を幸・不幸に導くのも元はといえば言葉。言葉を使うのは人間だけが持つ特徴的な機能である。もちろんイルカやカラス、サルなどの動物でも簡単な意志の疎通はするが会話は出来ない。

  いろいろなタイプの人がいて世の中だ。意見や本音をはっきり述べる人。逆に本音をあまり言わない人。多弁・雄弁で賑やかなの人、無口でもの静かな人などさまざまである。
 多弁・雄弁で賑やかな人の話が、多くの人の心を掴み納得されられるかといえば必ずしもそうではない。無口で物静かな人の話が相手の心を掴んでしまうことは往々にしてある。  
 正論だからといって、情熱をこめてアピールしても相手はそっぽ向いてしまう。自分が思っている正論が世の中で通ればこんな楽なことはない。日常の人間関係でも、世界の外交でも同じことではなかろうか。

 さて、「オバマ大統領の広島訪問の迎え方」について、朝日新聞のオピニオン&フォーラムで感銘を受ける記事(電話対談)が掲載されたのでパクリでその要旨を紹介したい(すでにお読みのなった方には失礼)。インタビュー:塩野七海;歴史作家・イタリア在住

----どう感じましたか。
 「久方ぶりに日本外交にとってのうれしいニュースだと思う」「特に、日本側が『謝罪を求めない』といっているのが大変良い」

----どうしてですか。
 「謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強く印象づけることになる」「『米大統領の広島訪問』だけなら、野球でいえばヒットにすぎない。そこで『謝罪を求めない』とした一事こそ、ヒットをわが日本の得点に結びつける鍵がある。しかも、それは日本政府、マスコミ、日本人全体、そして誰よりも広島全員にかかっている」
 「『求めない』と決めたのは安倍総理だろう。リーダーの必要条件には、部下の進言も良しと思えば取り入れる能力がある。誰かが進言したのだと思う。次に帰国した時に会ってみたいとさえ思う。
 『逆転の発想』などという悪賢い人にしかできない考え方をする人間が日本にもいた。というだけでもうれしいではないか」

----悪賢い、とは。
 「歴史を一望すれば、善意のみで突っ走った人よりも、悪賢く立ち回った人のほうが結局は人間世界にとって良い結果をもたらしたという例は枚挙にいとまがない」

----米国の現大統領が、かって自分と同じ職だった者が原爆投下を命じた地を訪れる。その意味をどう見ますか。
 「広島に息子に見せる目的で訪れたことがある。息子はイタリア人だ。原爆ドームを見、平和記念資料館の展示をすみずみまで見、原爆死没者慰霊碑の前に立っている間、彼は一言も発しなかった。簡単には口にできない重さに圧倒されていたのだろうか」「もしかしたら、通り一遍の謝罪よりも、安易な同情よりも、被爆地を自らの足でまわり、一人ひとりが感じ、その誰もが自分の頭で考えてくれるほうを望んでいるのではないか」

----ヨーロッパ諸国から、「あれだけの惨苦をウケながら、ものわかりの良すぎる国だ」と思われるような心配はありませんか。
 「少し前に、アジアの二つの国のトップが、相前後してヨーロッパ諸国を歴訪したことがある。その際に、このお二人は、訪問先の国々でまるで決まったように、日本は日本は過去の悪事を働いただけでなく謝罪もしないのだ、と非難してまわったのだ」
「ところがその成果は、迎えた側の政府は礼儀を守りながらも実際上は聞き流しただけ。マスコミにいたっては、それこそ『スルー』で終始したのだ」

----そうですか
 「当然ですよ。ヨーロッパは旧植民地帝国の集まりみたいなものだから、日本の優に十倍の年月にわたって、旧植民地に言わせれば、悪事を働き続けた歴史を持っている。それでいて、謝罪すべきだとは誰も考えていない」「私には、この二国は外交感覚の欠如にしか見えない」

----厳しいですね。二国には、言われずにはいられない思いがあるからでは。
 「だからこそ、日本が原爆投下への謝罪は求めない、としたことの意義は大きいのだ。欧米諸国から見れば、同じアジア人なのに、と。国の品位の差を感じ取るかもしれない」

----日本は、今回、どうすれば良いと思いますか。
 「ただ静かに無言のうちに迎えることです。大統領には、頭を下げることさえ求めず。そして、そのごも、静かに無言で送り出すことである」「原爆を投下した国の大統領が、70年後とはいえ、広島に来ると決めたのだ。当日はデモや集会などは一切やめて、静かに大人のやり方で迎えてほしい。」
 「われわれ日本人は、深い悲しみで胸はいっぱいでも、それは抑えて客人に対するのを知っているはずだ。泣き叫ぶより、も無言で静かに振舞うほうが、その人の品格を示すことになるのだ。星条旗を振りながら完成を挙げるのは、子供たちに任せよう。」
「それから、もし私が日本の新聞の編集最高責任者だったら、当日の紙面づくりを他の日は一変させますね。」

え?どういうふうに。
 「オバマ大統領の広島訪問を伝える日の一面には、カメラマンが写してきた多数の写真の中から、一枚だけを選んで載せる『無言で立ちすくむ米国大統領オバマ』だけにする」「頭を下げる姿の大統領は絶対に載せない。なぜなら、自分の国の大統領のこの振る舞いに釈然としないアメリカ人もいるに違いない。その人たちは『日本だって真珠湾を攻撃したではないか』などと文句をつける減失を与えないためだ」

----でも、日本がオバマ大統領の広島訪問をどう受け止めたか、きちんと言葉にして米国はもちろん世界に発することが大事だと考えますが。
「新聞記者とて、時には多言よりも無言のほうが多くを語るという人間世界の真実を思い起こしてほしい」

----それで伝わりますか
 「伝わる人には伝わります」「ここイタリアでも、原爆投下の日には、テレビは特別番組を毎年放送する。あれから70年が過ぎても、犠牲の大きさに心を痛めている人が少なくないとの証である。心を痛めている人は、アメリカにも多いに違いない」

----静かに迎えることこそが、世界の良識ある人たちに訴えかけるということですか。
 「『謝罪は求めない』は、『訪れて自分の目で見ることは求めない』ではない。米国大統領オバマの広島訪問は、アメリカで心を痛めている人たちに、まず、自分たちが抱いていた心の痛みは正当だった、と思わせる効果がある。
 感受性の豊かな人びとの足も、自然に広島や長崎に向かうようになるだろう」「広島の夏の行事の灯篭流しに多くの外国人が参加するのも見慣れた光景になるかもしれない。そうなれば、原爆死没者慰霊碑の『過ちは繰り返しませんから』という碑文も、日本人の間だけの『誓い』ではなくなり、世界中の人々の『誓い』に昇華していくことも夢ではなくなる。それが日本が獲得できる得点です」「そしてこれこそが、原爆の犠牲者たちを真の意味で弔う個世ではないか」

 取材記者後記:てっきり「謝罪を求めないなんて、日本はだらしない」と語ると思っていた。そんな予想は大外れ。「ぜひ会って取材を」とお願いしたが、即座に「だめ」と。

  先のエッセイ「謝罪」で ”比較すべきものではないが、慰安婦問題で見ぐるしく振舞う韓国に対して、世界で最も古い国家、成熟した日本民族の誇りある顔を世界に見せようと思うが甘いだろうか”と、偉そうなことを書いた。
 
 塩野氏の「無言こそ雄弁」を読んで感銘を受けた。また、左よりで評判の落ちた朝日新聞が、オバマ大統領の広島訪問に際して、この記事を掲載したこと自体にも驚いたのである。

エッセイ:「テレビの厄介な表現(12)」2015.05

2016-05-24 20:27:24 | エッセイ
エッセイ:「テレビの厄介な表現(12)」2015.05


 当たり前だが生活にはお金がいる。きれいごとを言っても一時のボランティアならともかくタダ働きはできない。その仕事も企業を支えるサラリーマンから、芸能人やスポーツ選手らのように特技で人に夢や感動、喜びを与えるなどさまざまである。中でも政治家は、国民(住民)から選挙でされる職業である。
 
 政治資金の使い方でにわかに脚光を浴びてきた舛添都知事、ことと次第によっては辞任も視野に入るかもしれない。釈明会見も弁護士に余計なことは話さないように釘を刺されているのか、納得できるものではない、お粗末過ぎる。都民から圧倒的な支持を得ながらその信頼を裏切った罪は大きい。この人は、「恥」というものを知らない無神経な人なのだろうと思う。
 
 先の甘利大臣のケースもそうだが、一部とは言わず政治家は元来自分たちが決めたルールを平気で破る体質なのかもしれない。
 最近では政治家にも、能力より倫理や品行方正、清廉潔白がやたらに求められている。しかし、これは少しおかしいのではないか。政治とは「何をするか」ということであり、その性質上“清濁併せ呑む”ものなのだ。それなのにやたらに「クリーン、クリーン」と言っている。政治家は僧侶や牧師、神父ら聖職者とは全く違うのだ、という意見もあるのだが。

 ところで、国境なき記者団(NPO)が発表する「世界報道自由度ランキング」で、2016年に日本が順位を180カ国中72位(2010年には11位だったものが)まで下げたことが報じられている。
 日本の順位が下げた大きな理由は、取材方法しだいでは記者が処罰されかねない特定秘密保護法と安倍総理に批判を呈するものだ。悲しいかな日本のランクは香港、韓国よりも下位になってしまった。

 取材の自由の問題もさることながら、表現の自由もまた、他の基本的人権同様にその濫用によって他者の人権を侵害してはならないとされている。
 
 普段何気なく見て、聞いているテレビでは知らないこととはいえ、そこまで規制されているのかと驚く。この30年くらい、活字と違ってテレビの表現の幅は恐ろしく狭くなってしまったと。活字でOKになる場合でもテレビではNGになるケースも多い。その理由は、読書は能動的であるが、テレビは本人の意志に関わらず情報が流れるからである。
 
 まず、差別用語とされる言葉は使えない。「めくら」「びっこ」「きちがい」「かたわ」などは問答無用に使用禁止だ。
 「めくら」がNGワードになったので、「めくら蛇に怖じず」という諺も放送では使えない。「群盲、象をなでる」「めくら滅法」「めくら打ち」「めくら判」も禁止。
 
 「気違い」はダメだから、熱狂的な阪神タイガーズのファンを表す「虎キチ」はNG。「キチ」は「気違い」の略だからだというが、そういう意味では使ってないと思う(熱狂的という意味)。
 
 「馬鹿でもちょんでも」という表現も使えない。この「ちょん」というのが「朝鮮人」を意味するからというのがその理由だ。
 実は「ちょん」という言葉は、江戸時代から庶民が普通に使っていた言葉である。「取るに足らない小さいもの」という意味だ。「サムライ」や「力士」の「ちょんまげ」もそこから来ていると言われている。
 日韓併合以来、一部の日本人が朝鮮人を「チョン」あるいは「チョン公」と呼んでバカにした時代があり、いつの間にか差別語であると誤解された。今では「バカチョンカメラ」はもちろん、「点の意味でのちょん」や「ちょん切る」という言葉まで放送では使わない局もあるという。

 また、水泳の高飛び込みの台の上で震えるタレントを面白おかしくからかうナレーションに、「高所恐怖症」と言う言葉を禁止用語にしている局もあるそうな。これは「高所恐怖症」をわずらっている人からの抗議が来たからだと言う。こうして抗議が来るたびにテレビで使えない言葉が増えるというのもどうなんだろう。

 夏の海岸の風物詩と言える遊びである、「スイカ割り」はテレビではまず放送できない。理由は、「目の見えない人を笑っているからである」(目の悪い人は見られないじゃないかと言う突っ込みはなし)。同じ理由で「福笑い」もダメ。もちろん局の自主規制ではあるが。
   
 最近は「ブスキャラ」で笑いを取っている女性がいるが、もし視聴者から「私は不美人で苦労しているが、ブスで笑いを取る芸はやめてほしい」と抗議されたらどうするのだろうか。
 ハゲの人がテレビのコントで使うハゲカツラに「傷ついた」と抗議すればどうなるのか。不美人やハゲはマイナーとはいえず、一般的なのでそれほどの差別にあたらないとするのだろうか。

 昭和40年頃まで、テレビで「こびとプロレス」というショーを放送していた。ところが「障碍者を見世物にするな」との抗議によって、放送できなくなった。おかげで、「こびとプロレス」のレスラーが失業したという。
 普通の職業には就きにくい人たちだっただけにたちまち困窮したという。「人権派はきれいごとばかり言って、障害者の生活を脅かしたのに、その保証を何もしない。自分ひとりが正論に酔っているだけだ」なのか、簡単に是非を問えない難しい問題である。

 刑事ドラマなどで、銀行強盗で犯人たちが車で逃走するシーンが出てくる。犯人は必ずシートベルトをしなければいけないのをご存知だろうか。また逃走中の犯人が赤信号を突っ切ったり歩行者の走行妨害することは禁止。
 単車の引ったくりがヘルメットを被らないのも禁止。道路の蛇行運転も禁止。もしこれらを放送したらテレビ局は警察にこっぴどく注意される。それを許せば警察に国民から凄まじいブーイングが来ることは間違いないだろう。とはいっても犯罪者が道路交通法を守って逃走することは考えにくい矛盾がある。
 たとえドラマであろうが、日本の道路を使う以上は道路交通法を守ってももらわなければならぬ、ということなのであろう。

 以上(ごく一部分)のように、何気なく見ているテレビでも視聴者が不快になることのないよう、放映するにあたっては実に細かな神経を使っているのだ。
 今のテレビ局は「それを見た人が傷ついたと感じるならその映像は流してはいけない」というのを原則的な考え方としているようだ。しかし、一人でも傷つく人がいれば放送してはならないという理屈は正しいようで、どこかおかしいと思うのは私だけだろうか。
(参考:新潮新書、百田尚樹)


エッセイ「 謝罪(11) 」2016.05

2016-05-15 10:28:38 | 川柳(時事)
エッセイ「 謝罪(11) 」2016.05


 悪いことをして、両親に「謝りなさい」と怒られたことは誰もが経験したことである。ところが子供でも自我に目覚め、自尊心が強くなってくると、素直に謝れなってくる。
時には謝るどころか、無視したり、食って掛かったり、あの手この手を駆使してその場を逃れようとする。個人差もあるだろうが、人は誰でも自らの非を認めたくないものだ。
 
 直近の東芝や三菱自動車の不祥事の記者会見でも、逃げも隠れもできなると、トップが腹をくくってか定番の詫び口上を述べて深々と頭を下げる。視聴者側は白けてくるだけだ。”馬鹿じゃないの。プライドばかり高くて。しょうもない会社だ、 云々”と。

 オバマ大統領が、今月開催される伊勢志摩サミット後に広島を訪れることになった。原爆投下70年余を経た今、米国大統領の訪問は、日本人の待ち望むところであった。
 日本には「喧嘩両成敗」とか「勝てば官軍」という相反するような言葉がある。東京裁判で戦争犯罪人として裁かれた日本にも言い分がある。戦時中にあっては敵人を殺傷しても罪にはならない(正確な表現ではないが)。しかし、戦う意志のない民間人や捕虜を殺傷すれば人道上問題である。
 一晩で約10万人が犠牲になったといわれる東京大空襲や広島・長崎での原爆投下には何も触れられなかった。米国は、「神をも恐れぬ」戦争犯罪を犯したのである。私は東京裁判には未だに疑問を持つのである。
 
 米国のスミソニアン航空宇宙博物館には「エノラ・ゲイ」(原爆投下機)が展示されている。そこには、日本の民間人を含む14万人の命が奪われたことが記載されていない。戦争を早く終わらせ、無駄な戦死者を出さずにすんだ行為と誇れるならば、堂々と書けばよい。
 原爆投下には米軍首脳の間にも懐疑的だったことや、落とされた側の惨状を伝えようとしたという。
 しかし退役軍人の猛反発で中止されたらしい。原爆投下により本土決戦が回避でき、自分たちや家族が助かったという「記憶」、軍国日本を打ち負かす「正しい戦争」が米国民が固く信じるストーリーである。これは世界の警察官として前線に自国の若者を送り込む米国の譲れない「一線」であり続ける。(朝日)
 
 広島の「原爆死没者慰霊碑」には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とある。昔からいわれているが、奇妙な文章だ。主語が誰だか分からない。普通に読めば、われわれ日本人が広島の犠牲者に謝罪している文章と読める。「あなた方を殺したのは日本ですよ。本当にごめんなさい」である。29年間にわたってルソン島のジャングルで戦い続けた小野田寛郎氏は、この碑文を見て友人に「これはアメリカ人が書いたのか」と訊ねたと。
 
 GHQは日本に徹底した自虐思想を植えつけた。「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)、これは簡単に言うと、「何もかもお前たちが悪かったんだ」という意識付けである(米国公文書から)。
 
 囲碁仲間の体験談である。空襲警報が鳴ると、必死で防空壕に逃げ込む。米軍機がパイロットの顔が確認できるくらいの低空から機銃掃射を浴びせる。制空権は完全に取られているから米軍の成すがままであったと。
 
 米軍は日本が戦争遂行能力がないことをはっきり知っていた。にもかかわらず、日本全土を焼き尽くす作戦、いわば人体実験の場としたのである。
 多くの日本人はそんなことは知っているという。しかし可笑しなことに被害者の実感がわかないのである。これが米国が日本人に自虐思想を植え付け、成功させた洗脳作戦であった。
 米国は、敗戦国の日本からは戦争賠償金を一銭も取らず(?)、民主主義教育を教え、天皇制を護持させ、給食に脱脂粉乳の援助し、頭には虱駆除のDDTまで振りかけてくれた。何から何まで日本の復興の手助けをしてくれたありがたい国であるとの思いがある。
 
 いつしか日本国民は、真珠湾の奇襲攻撃で開戦したのは日本側であり、非は東条英機や軍部を中心とする日本側にある、という米国の占領政策の”思う壷”にはまったのである。このことは後からのこじ付けもなんでもない。紛れもなく米国のプロパガンダの成果なのである。

 オバマ大統領は、広島訪問で多くの聴衆を集めた演説は行わないと。それは米国の世論に配慮したからだという。大統領の訪問を可能にしたのは、原爆投下したことについて謝罪をしないことが前提条件になったからだと。
 
 迎える日本側の日本被団協代表の一人、坪井直氏は「向こうが(謝罪の言葉)を言ってくれれば、『ようやってくれた』と大拍手。でもこちらから要求するものではない」と。
 現在でもアメリカ憎しの気持ちは消えていない。大統領の訪問を「喜んで手を叩くほどのもんじゃない」としながら、「大統領には有終の美を飾って欲しい。被爆者の心に響く何かを残してほしい。念じて待つ心境だ」と。

 「謝った、誤らないという議論を乗り越えなければいけない」(広島・松井市長)「謝罪のためにこれなくなるよりは、ぐっとのみ込んで来てもらいたい」(広島県・湯崎知事)
「決して米国に(原爆投下への)謝罪を求めているわけではない」(岸田外務大臣)

 一方、昨年朝日新聞が被爆者にアンケートした結果、大統領の訪問については「訪問すべきで謝罪は必要ないが;24%」「訪問して謝罪すべきだが;43.4%」であった。
アンケートで謝罪を求めた被爆者の一人(子供の流産6回、死産も経験)は、「ひれ伏して詫びてほしいとは求めない。でも、あれは間違っていたと、言ってほしい」と。

 被爆者のほとんどが米国に激しい憎みの気持ちを抱いて来たはずである。70年を経て気持ちも少しずつ和らぎ、オバマ大統領の訪問を迎えることになった。
 謝罪こだわって、オバマ大統領の訪問の機会を失えば、被爆者の存命中には米大統領の訪問は期待できないかもしれないのだ。
 オバマ大統領は広島の訪問時に、心の中で被爆者に対して謝罪すると思う。今回はオバマ大統領の勇気をたたえよう。自虐思想の洗脳されていると言われてもよい。
 
 比較すべきものではないが、慰安婦問題で見ぐるしく振舞う韓国に対して、世界で最も古い国家、成熟した日本民族の誇りある顔を世界に見せようと思うが甘いだろうか。