
我が町内もあちこちで木造住宅の建て替えが行われるようになった。そんなに年数が経ったのかと振り返ればまだ30年余りだ。もったいない話だと思うのだが、あるところにはあるものだと羨む。東日本大震災以降、やれ耐震構造住宅だ、やれ免震構造住宅だと世間では安全性の重視を言い始めた。

今年、伊勢神宮の遷宮(せんぐう)が行われた。神宮式年遷宮と呼び、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)、いわゆる伊勢神宮の立て替えのことである。
原則として20年ごとに、内宮・外宮の二つの正宮の正殿、14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す。このとき、宝殿外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎のほか、装束・神宝、宇治橋なども造り替えられる。
記録によれば遷宮は、飛鳥時代の第40代天武天皇が定め、41代持統天皇の治世の690年(持統天皇4年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、2013年(平成25年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年にわたって行われているのだ。遷宮には、植林後200~300年経ったものを含む1万本以上のヒノキが使われる。
ちなみに、今62回の遷宮に要した費用はおよそ550億円である。戦前は国費で賄っていたが、現在は国民の浄財によって奉賛されている。

何故このような莫大な費用をかけて遷宮が行われているのであろうか。萱葺の屋根の掘(ほっ)立(たて)柱建物で正殿等が造られている。塗装していない白木を地面に突き刺した掘立柱は、風雨に晒(さら)されると礎石の上にある柱と比べて老朽化し易く、耐用年数が短い。そのため、一定期間後に従前の殿舎と寸分違わぬ弥生建築の殿舎が築かれるのである。
推測される主な理由としては、次の4点が考えられる。
①過去の建築様式である弥生建築の保存のため、式年遷宮によって建築様式の保存を図ったのではないか。
②神道の精神として、常に新たに清浄であること「常若(とこわか)」を求めたため。
③大嘗(じょう)祭、新嘗祭、神嘗祭など、天皇の祭祀の意義が再構築されたため。20年に一度行われる大神嘗(かんなめ)祭として、式年遷宮が行われるようになったのではないか
④皇宮の遷移に代えて、遷宮が行われたため。

また、式年遷宮が20年ごとに行われる理由は確かなことは分からないが、建替えの技術の伝承を行うためには、20年間隔が適当とされたため。
当時の平均寿命を勘案して、宮大工は、10歳代から20歳代で見習いと下働き、30歳代から40歳代で中堅から棟梁となり、50歳代以上は後見となる。このため、20年に一度の遷宮であれば、少なくとも2度は遷宮に携わることができ、技術の伝承を行うことができる。
1300年以上前、これらのことを想定し、現在もそれが継続されていることは本当に奇跡としか言いようがないと思う。

ところで、世界には約200ケ国あるが、その中で天皇制を摂り1800年も継続している世
界最古の国家が日本である。多くの読者もこの事実に怪訝(けげん)な顔をされると思う。
戦前までは誰もが共有していたことだ。太平洋戦争後はGHQの統制による政策でこのような
歴史認識が国民の記憶の中から抹消されているのだ。
国家の体制は数十年、百年程度で成立と滅亡を繰り返してきている。日本に次ぐ長い歴史を持つのがデンマーク、英国であり、仏は革命により1789年に、中国(中共)は毛沢東が成立宣言したのが1949年、ロシアはソ連が崩壊して独立を宣言したのが1991年である。
すなわち、国家とは領土と体制が継続されているものをいうである。

「中国四千年の歴史」とよく言われる。「四大文明のうち、中国文明だけは現在まで続いている」という意味だ。
漢族が四千年間ずっと中国文明を守り育ててきたかというと、そんなことはない。中国の歴史は、異民族が入れ換わり立代わり侵入・征服してはつぶれることの繰り返しであった。
そもそも、最初の「中国文明」自体、昔からそこに住んでいた人が築きあげたものではない。中国史家の岡田英弘氏は、「夏」は東南アジア系民族が、「殷」は北方狩猟民が、「周」は西方の遊牧民が、それぞれ中原の地にやってきて建てた王朝だとしている。ちなみに、「秦」も西方民族系である。
中国の学校で使用されている古代史の教科書では全て①夏王朝を中国最古の王朝と記述している。
さらに中国は4000年の歴史どころか、それ以上を吹聴し、民族の優位性をプロパガンダしているのである。ところが、この夏が実在したかどうか、現段階での日本の歴史・考古学では夏の存在は証明されていないと言うのが通説になっている。
漢字の原型(甲骨文字)を生んだ②殷(いん)王朝(紀元前16世紀頃~)に代わって、内陸部の周族が③周(しゅう)王朝(紀元前 11世紀頃~)をうちたてた。遊牧民から侵入をうけた周は、東方の洛邑(らくゆう)(現在の洛陽)に都を移し、それ以降を東周(BC770年)という。東周で諸侯の対立抗争が続いた時代を④春秋時代(BC770~403)と⑤戦国時代(BC403~221)に分けている。
戦国時代に農業の治水灌漑事業を重視して国力を高めた⑥秦王朝(BC221~BC206)
が中国を統一し、度・量・衡、通貨、文字などを統一した。 秦の始皇帝の死後、農民の不満が爆発、中国史上最大の反乱がおこった。
これに乗じた項羽や劉邦らにより秦は滅ぼされた。両者の覇権争いは人心を集めた劉邦が項羽に勝利し ⑦前漢王朝(BC202~BC25)を創設した。
前漢七代目・皇帝武帝(劉徹)は漢の全盛期を築き上げた。東アジア各地、北方、南方、朝鮮、チベット、雲南方面に遠征して、中国本土や隣接諸民族をも支配する大帝国を築いた。現在に至る中国民族を漢民族と称するのはそのためである。そのため輝かしい時代を書き残す機運が起こり、司馬遷の「史記」や班固の「漢書」などが書かれた。
漢の内紛に乗じて、皇帝の外戚である王莽(もう)が帝位を奪って⑧新(BC8~BC25)を建てた。その後の農民の反乱(赤眉の乱)を討伐した光武武帝により洛陽に⑨後漢王朝(BC25~AD220)が打ち建てられた。二世紀末には農民の大規模(黄斤の乱)が起こり、後漢は豪族の群雄割拠となり滅ぼされた。以降魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の⑩三国時代に入る。
ここまで、中国史に疎い私の頭の中を整理する意味で、中国古代史を実に大雑把に纏めてみた。
中国の古代史はなかなか複雑怪奇で、中国四千年との関わり合いで理解に苦しむ部分も多々ある。

平成12年(2000年)、東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。
2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった。すなわち、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。
言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた。つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。
そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。
しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいのだ。
フランス語と英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なり、当然異なる言語とされている。国籍も別です。
支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉である。
三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど。

さらにいえば、いまある支那共産党の中華人民共和国などは、まさに中国共産党王朝ともいうべきものでしかありません。
なにせ、支那に十五億いる人々の中の、わずか7千万人の共産党員が、我が物顔にのさばり、党員以外の人々から酷い収奪をする。
中国人とひとくちに言っても、民族も様々、言語も様々、文化も様々。要するにその中で、中国共産党という名称の「民族」が、設立わずか60年の絶対君主制の帝国主義王朝を築いているというのが、いまの支那です。
そして支那の歴史は、民族同士が互いに殺戮しあい、生き残りのためには誰も信用することができず、民族浄化とホロコースト(大量虐殺)を続けてきた歴史です。
とてもじゃないが、四千年の歴史などと呼べるものではない。中国四千年の歴史というのは、支那の大地の中で、異民族同士が、互いに絶滅を賭して殺し合い、強姦しあい、騙しあってきた、殺戮と暴力の嘘と虚構の歴史です。
王朝末期には新しい王朝による大量虐殺は付き物のようですが、その中でも毛沢東による虐殺が歴代王朝のなかで最大と言われています。 大量虐殺の後には必ず大飢餓があり、毛沢東による「大躍進時代」の飢餓も筆舌に尽くし難いものがあったようです。
殷-周-秦-漢-晋-隋-唐-北宋-南宋-元-明-清-中華民国-中華人民共和国が支那の歴史です。
為政者の人種も文化も異なれば歴史が断絶していると言うことだ。建物は残るでしょうが文化は切れています。
なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、清や元などと同じく異民族王朝であるが、明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。
別の事情としては、「漢書」「後漢書」「三国志」「晋書」…という、中国王朝の公定歴史書(正史という)の存在がある。これは、「現王朝は前王朝から中国を支配する資格を受け継いだ正統王朝です」ということを証明するために前王朝の歴史を書く、というのが大前提となっている。
そのために、今日の我々からみれば王朝だけが連綿と交替する印象を受け、断絶があることを見落としてしまう。かように、中国における「歴史」は政治的性格を持っているので、かの国が「歴史問題」を持ち出すときには注意が必要である。
こう考えると、「中国四千年」というキャッチフレーズにも、なにやら政治的な思惑があるのではないかと勘ぐりたくもなる。

世界で最古の日本で最古の企業の創業は、大阪・四天王寺の建造・修復にかかわってきた「金剛(こんごう)組」の1450年である。578年に聖徳太子に百済から招かれた宮大工の一人(金剛重光)が創業した。現在でも金剛組は資本金3億円、売上は60億円で宮大工は100名を擁するニッチ企業である。
中国と異なり、日本の政治が安定し、継続できたからこそ「金剛組」が存続できたのである。従って匠(たくみ)によるモノづくり精神が経済大国への道にも生かされたのではないだろうか。

2009年のエコノミスト(英)の調査(「あなたは○○人であることにどれくらい誇りを感じますか」)結果では、世界33カ国中、自国に対する誇りが最も低いのが日本で、なんと100点満点中56点であった。
2012年、BBC放送(英)の世論調査(20カ国、数万人)で「世界に良い影響を与えている国」として、最も高く評価されたのが日本だった。
世界の人々は日本に最も好意を寄せているにもかかわらず、当の日本人は日本のことを良く思っていない。どうやら日本人は日本のことが好きでないらしい。日本を肯定的に捉えているのはわずか41%に過ぎない。どこかおかしいと思わざるを得ない。

日本は国連に対する拠出金が米国に次いで2位の16.6%の額である。にもかかわらず、国連(3万千人)に占める日本人職員数のシェア―はわずか2.4%である。国連が望ましいとする職員数の四分の一である。今年、国連の6機関が合同で日本人の採用を増やしたいとして、日本での採用説明会に担当職員を派遣している。国連で日本の存在感を高めるためにも、ぜひ若者にはチャレンジして欲しいものである。

“国を愛する”ことに必要以上にナーバスになり過ぎると、そのうち変な政治家にとんでもない愛国心へ誘導されかねない。老い先も短くなり、家族を愛し、社会を愛し、そして私を育んでくれた国家を愛する懐の広さを求めてやまないのである。
了