エッセイ:「特異な都市・江戸の町(16)」2015.07
2020年の東京オリンピック用の新国立競技場は、すったもんだの末に白紙撤回され、振り出し戻った。大方の国民は無責任極まりないやり方に憤慨しているのである。
誰が責任者だか分からないうちに設計から予算まで一人歩きしていたのだ。しかも数十億円はすでに返らぬ費用として支払い済みであるというから驚きである。よくもこんなことがまかり通るものだ。森元総理や建築家・安藤氏などおいしい汁を狙っていただろうが、手のひらを返して言い訳に終始する。
国の借金が1000兆円を超えるのは、つまるところ政治家や役人などが税金をどんぶり勘定で、大判振る舞いしてきた結果であろうか。
ところで、取り壊しになった旧国立競技場のグラウンドの下に、女性用のトイレがあったことはご承知の通りだ。試合直前の女性選手たちが急に行きたくなった時のために設けられた施設である。それは、立ち小便の便器であり、女性が立ち小便をするするのかと驚くムキもいるかもしれない。
私も子供の頃農作業中のお年寄りが着物をたくし上げて立ち小便をしているのを見たことがある。江戸では少なかったようだが、京都の女性にとってはごく普通の行為だったとか。
現代は女性がトイレで苦労することは少なくなったと思う。しかし江戸の女性は、外出先で大便がしたくなったときはどうしたのだろうか。江戸の町には町内ごとにという現代の交番のような施設があり、そこに町役人が交代で詰めていたので常設の便所があった。また武家屋敷地ではという自衛の番所があり、通りがかりの者でも借りられた。一歩裏通りに入れば長屋の共同便所があり外からでも自由にいることができた。
しかし、郊外の景勝地などに出かける時、必ずしも近くに民家がない場合は困ったはずだ。そういう場所にはムシロで囲った簡易便所が設置されていた。江戸時代、大便はとして農業にとって大切な肥料だったのである。
江戸の町までわざわざ買いに行ったほど多くの人肥がほしかったのだから、喜んで便所を作って待ち構えていた。しかも郊外に遊びに来るような裕福な町人の上質な人肥が手に入ったのである。
有名な隅田川の花火大会は、毎年7月の最後の土曜日に開かれている。江戸時代隅田川に浮かぶ屋形船の多くには便所が設置されていなかった。そこに登場したのが便所専用船で、屋形船から合図があると船縁に近づいて客を乗り移りさせた。ゆれながら用を足すのは大変だったろうが、女性にとっては地獄から生き返った心境だったと察せられる。
豊臣秀吉に転封を命ぜられた徳川家康は、1590年に駿府から江戸に移り江戸城を居城とした。当時の江戸は漁村が点在し葦などが生い茂る湿地帯あった。 江戸城の間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だったのである。
江戸の人口は、正確な統計はないが、資料として1611年に来日したスペインのフィリピン総督ドン・ピベーロが書き残した数字で15万人。
赤穂浪士の討ち入りの7年前1695年には町人や職人などの町方だけで35万人、それに全国から集まる藩士や幕臣が50万人、さらに神職や僧侶を入れると90万人に上る。
この時代パリやロンドンの人口がやっと50万人ぐらいだった。それが文化文政の時代には120万人というピークを迎えた。
江戸という町がロンドンやパリと違う特徴は、毎年参勤交代により人口の五分の一が入れ替わるということである。また、時を経ずして江戸文化が帰国する時に持ち帰られ全国の隅々まで伝わるのである。そういう意味で江戸は、世界的に特異な都市でだったといえる。
今年6ヶ月で日本を訪問した観光旅行者が900万人に達し、年間1800万人が推測されると。観光客もリピータが増え始め彼らの多くが、日本の文化はすばらしい、面白い、また訪日したいといってくれる。
世界はグローバル化の波にもまれて均一化が進む。太平洋と日本海という外堀が日本の特異な文化を外敵から守ってきた。また日本人は古いものを大切に保護してきた。
日本がお手本にしたことのある中国は、4000~5000年の歴史とは言うけれど、その伝統文化は共産党により打ち壊されてしまった。
栃木県の史跡足利学校では、孔子(BC552~479)の教えである「論語」を、参加者全員が大声を出して読む素読体験プログラム(論語素読の集い、小中学生の論語体験、日曜論語素読体験など)を行っている。これには本家の中国人もびっくりしていると。
了
2020年の東京オリンピック用の新国立競技場は、すったもんだの末に白紙撤回され、振り出し戻った。大方の国民は無責任極まりないやり方に憤慨しているのである。
誰が責任者だか分からないうちに設計から予算まで一人歩きしていたのだ。しかも数十億円はすでに返らぬ費用として支払い済みであるというから驚きである。よくもこんなことがまかり通るものだ。森元総理や建築家・安藤氏などおいしい汁を狙っていただろうが、手のひらを返して言い訳に終始する。
国の借金が1000兆円を超えるのは、つまるところ政治家や役人などが税金をどんぶり勘定で、大判振る舞いしてきた結果であろうか。
ところで、取り壊しになった旧国立競技場のグラウンドの下に、女性用のトイレがあったことはご承知の通りだ。試合直前の女性選手たちが急に行きたくなった時のために設けられた施設である。それは、立ち小便の便器であり、女性が立ち小便をするするのかと驚くムキもいるかもしれない。
私も子供の頃農作業中のお年寄りが着物をたくし上げて立ち小便をしているのを見たことがある。江戸では少なかったようだが、京都の女性にとってはごく普通の行為だったとか。
現代は女性がトイレで苦労することは少なくなったと思う。しかし江戸の女性は、外出先で大便がしたくなったときはどうしたのだろうか。江戸の町には町内ごとにという現代の交番のような施設があり、そこに町役人が交代で詰めていたので常設の便所があった。また武家屋敷地ではという自衛の番所があり、通りがかりの者でも借りられた。一歩裏通りに入れば長屋の共同便所があり外からでも自由にいることができた。
しかし、郊外の景勝地などに出かける時、必ずしも近くに民家がない場合は困ったはずだ。そういう場所にはムシロで囲った簡易便所が設置されていた。江戸時代、大便はとして農業にとって大切な肥料だったのである。
江戸の町までわざわざ買いに行ったほど多くの人肥がほしかったのだから、喜んで便所を作って待ち構えていた。しかも郊外に遊びに来るような裕福な町人の上質な人肥が手に入ったのである。
有名な隅田川の花火大会は、毎年7月の最後の土曜日に開かれている。江戸時代隅田川に浮かぶ屋形船の多くには便所が設置されていなかった。そこに登場したのが便所専用船で、屋形船から合図があると船縁に近づいて客を乗り移りさせた。ゆれながら用を足すのは大変だったろうが、女性にとっては地獄から生き返った心境だったと察せられる。
豊臣秀吉に転封を命ぜられた徳川家康は、1590年に駿府から江戸に移り江戸城を居城とした。当時の江戸は漁村が点在し葦などが生い茂る湿地帯あった。 江戸城の間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だったのである。
江戸の人口は、正確な統計はないが、資料として1611年に来日したスペインのフィリピン総督ドン・ピベーロが書き残した数字で15万人。
赤穂浪士の討ち入りの7年前1695年には町人や職人などの町方だけで35万人、それに全国から集まる藩士や幕臣が50万人、さらに神職や僧侶を入れると90万人に上る。
この時代パリやロンドンの人口がやっと50万人ぐらいだった。それが文化文政の時代には120万人というピークを迎えた。
江戸という町がロンドンやパリと違う特徴は、毎年参勤交代により人口の五分の一が入れ替わるということである。また、時を経ずして江戸文化が帰国する時に持ち帰られ全国の隅々まで伝わるのである。そういう意味で江戸は、世界的に特異な都市でだったといえる。
今年6ヶ月で日本を訪問した観光旅行者が900万人に達し、年間1800万人が推測されると。観光客もリピータが増え始め彼らの多くが、日本の文化はすばらしい、面白い、また訪日したいといってくれる。
世界はグローバル化の波にもまれて均一化が進む。太平洋と日本海という外堀が日本の特異な文化を外敵から守ってきた。また日本人は古いものを大切に保護してきた。
日本がお手本にしたことのある中国は、4000~5000年の歴史とは言うけれど、その伝統文化は共産党により打ち壊されてしまった。
栃木県の史跡足利学校では、孔子(BC552~479)の教えである「論語」を、参加者全員が大声を出して読む素読体験プログラム(論語素読の集い、小中学生の論語体験、日曜論語素読体験など)を行っている。これには本家の中国人もびっくりしていると。
了