エッセイ:「処刑(23)」2018.11
NHK大河ドラマ“西郷どん”がクライマックスを迎える時期になった。明治政府に対する士族による反乱が頻発、佐賀の乱(明治7年)では、大久保利通内務卿により急設された佐賀裁判所で、江藤新平の司法省時代の部下によりわずか2日間の審議で江藤ら11名が死刑を宣告され斬首、江藤は梟(さらし)首の刑にされ、反政府派への見せしめにされた。
西郷による「西南の役」が鎮圧された後、明治11年大久保は「紀尾井坂の変」(千代田区)で征韓論を主張し、佐賀の乱の処理を批判する石川県出身の島田一郎ほか6名の不平士族らによって暗殺された。
私見であるが、「安政の大獄」を取り仕切った井伊直弼大老の暗殺事件にも通じるように思える。
これより前、鳥羽伏見の戦いで敗走した新選組の近藤勇が千葉県流山で土方歳三の制止を振り切って偽名を使って出頭したところ発覚し斬首。アルコール漬けで京都に移送、鴨川三条が原で梟(さらし)首になった。
重い病のため江戸で療養していた沖田総司はその一か月後に息を引き取った。近藤の助命嘆願で江戸に走った土方歳三ではあるが、旧幕府軍の一員として会津、函館へ転戦し壮絶な死を遂げるのである。
関ケ原の戦いで敗れた石田三成は、敗走中に捕獲され半月後に京都六条河原で処刑される。“名を惜しんで切腹するだろうに、なぜしなかったか”の問いに三成は”諦(あきら)めたわけじゃない、チャンスを見つけて、家康を殺すつもりだったから“と答えたと。
また処刑場へ行く途中喉が渇いたという三成に柿を渡すと”俺は大事をなそう、という男である。不用意に柿を食わせて、もし俺が腹を壊したら,貴様、どう責任を取る積りか“と一喝したという。
もちろん後の創作であろうが、三成の生きざまを評価したのか、笑いものにしたのか?
石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で母親、子どもと処刑された。
盗む相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていたこともあり、庶民の英雄的存在になっていた。
秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられる。
有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
今年はオウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年、死亡13名、負傷者6300名)を含む一連の事件に関与した麻原彰晃死刑囚ら7人の同時死刑執行がなされた。
どの法務大臣も死刑執行のハンコを押すのを一番嫌がるものであるが、現・川上陽子大臣の強い資質には改めて感心した。教祖である麻原彰晃(松本智津夫)が、宗教を隠れ蓑に日本を乗っ取って、自らその王として君臨することを空想し、それを現実化する過程で、世界各国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
世界史的に見ても、アルカイダやISILによるテロを先取りした事件であるという。
ところで日本の歴史上では、平安時代(818)に嵯峨天皇が「死刑廃止」の宣旨(せんじ)を出してから、1156年の保元の乱(崇(す)徳(とく)上皇と後白河天皇の兄弟の争い)に至る300年以上も制度としての死刑はなかった。保元の乱で崇徳上皇は讃岐に流され、源為義と平忠正は後白河天皇の命令によって死刑になった。
この300年は、世界的にも稀有なことであるが命や人権を重んじてなされたことではないのだ。
貴族らは戦のような野蛮なものを「穢(けが)れ」として忌み嫌っただけである。死に関することに直接関係すると「身が穢れる」と考え、怨霊(おんれい)となって祟(たた)ることを恐れたまでだ。
11世紀に摂関政治で権威を振るった藤原道長の策略により遣唐使の廃止を進言した菅原道真は宰府に流され2年後に死亡した。そのころから道長は不調をきたし、次ぎ次に息子や娘が死ぬ不幸に見舞われたことなどから「菅原道真の祟り」と恐れおののいた。
古(いにしえ)の日本人は非業の死を遂げた人は怨霊となって世の中や他人に祟ると信じて非常に恐れたのだ。疫病や天災は祟りのせいだと考え、祭りを行ったり神社を作ったりした。
平安末期は治安が非常に悪く都にも盗賊が横行し、殺人事件も多かった。朝廷は犯人を捕まえても死刑にすることはなく都から追放する処分しか下さなかった。しかし地方では国司などによる死刑は普通に行われ、民衆による私刑もあったという。
朝廷は、300年も平和が続くと完全な平和ボケに陥り国を守るという考えが希薄になっていた。1019年「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」(満州に住んでいた刀伊民族)事件が起きた。対馬、壱岐、北九州を襲い女性や農作物を奪ったのである。しかし驚いたことに朝廷が取った行動は武力を用いず、ひたすら祈祷をするばかりだったのだ。
それにしても、国際的には死刑が廃止される方向性にあるとされるが、現在も死刑制度を存置している国も少なくない。
世界の諸国の人口規模ランキングの上位10か国中の7か国、上位20か国中の14か国で死刑制度がある。世界の人口規模単位では50%以上の多数派になっている。
先進国を中心に139カ国もの国が、死刑制度を廃止・執行停止している。日本でもたびたび死刑廃止の議論が起こるが、遺族感情などが問題となり実現には至っていない。遺族感情は、非常に共感を得やすいものであり、死刑廃止は容易ではない。
各州が準国家とも呼べる権力を有するアメリカでは、死刑制度の有無も州ごとに異なる。「先進国で死刑制度を廃止していないのは日本とアメリカだけ」とよく言われるが、初めて州が死刑が廃止したのは1847年のことで、意外にもヨーロッパよりも100年以上早い。それ以来徐々に増えていき、2016年現在では廃止した州の数は20となった。
一方カリフォルニアやニューヨークを含む31州およびアメリカ連邦政府、軍隊では今も死刑制度がある。しかしDNA鑑定導入によって過去の死刑囚の冤罪(えんざい)が多数発覚したり、再審で判定が覆ったりする現状を踏まえ、死刑制度が現存していても長らく死刑制度を適用していない州も多い。死刑制度の問題は現在でも活発に議論されつつも、流れとしては死刑廃止の方向へ進んでいるといえるだろう。
日本でもかつての司法判決では冤罪が儘見られたように見聞する。しかし司法改革で裁判員制度が導入され、録音、録画が行われ、さらにDNAの鑑定が進歩している現状において死刑判決はそれほど冤罪のリスクが高いとは思えない。
日本は先進国の最後のガラパゴスと言われる日まで死刑制度を残してほしいと思うのは私だけだろうか。
NHK大河ドラマ“西郷どん”がクライマックスを迎える時期になった。明治政府に対する士族による反乱が頻発、佐賀の乱(明治7年)では、大久保利通内務卿により急設された佐賀裁判所で、江藤新平の司法省時代の部下によりわずか2日間の審議で江藤ら11名が死刑を宣告され斬首、江藤は梟(さらし)首の刑にされ、反政府派への見せしめにされた。
西郷による「西南の役」が鎮圧された後、明治11年大久保は「紀尾井坂の変」(千代田区)で征韓論を主張し、佐賀の乱の処理を批判する石川県出身の島田一郎ほか6名の不平士族らによって暗殺された。
私見であるが、「安政の大獄」を取り仕切った井伊直弼大老の暗殺事件にも通じるように思える。
これより前、鳥羽伏見の戦いで敗走した新選組の近藤勇が千葉県流山で土方歳三の制止を振り切って偽名を使って出頭したところ発覚し斬首。アルコール漬けで京都に移送、鴨川三条が原で梟(さらし)首になった。
重い病のため江戸で療養していた沖田総司はその一か月後に息を引き取った。近藤の助命嘆願で江戸に走った土方歳三ではあるが、旧幕府軍の一員として会津、函館へ転戦し壮絶な死を遂げるのである。
関ケ原の戦いで敗れた石田三成は、敗走中に捕獲され半月後に京都六条河原で処刑される。“名を惜しんで切腹するだろうに、なぜしなかったか”の問いに三成は”諦(あきら)めたわけじゃない、チャンスを見つけて、家康を殺すつもりだったから“と答えたと。
また処刑場へ行く途中喉が渇いたという三成に柿を渡すと”俺は大事をなそう、という男である。不用意に柿を食わせて、もし俺が腹を壊したら,貴様、どう責任を取る積りか“と一喝したという。
もちろん後の創作であろうが、三成の生きざまを評価したのか、笑いものにしたのか?
石川五右衛門は安土桃山時代に出没した盗賊。都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で母親、子どもと処刑された。
盗む相手は権力者のみの義賊だったため、当時は豊臣政権が嫌われていたこともあり、庶民の英雄的存在になっていた。
秀吉の甥・豊臣秀次の家臣・木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるが秀吉の寝室に忍び込んだ際、千鳥の香炉が鳴いて知らせたため捕えられる。
有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
今年はオウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年、死亡13名、負傷者6300名)を含む一連の事件に関与した麻原彰晃死刑囚ら7人の同時死刑執行がなされた。
どの法務大臣も死刑執行のハンコを押すのを一番嫌がるものであるが、現・川上陽子大臣の強い資質には改めて感心した。教祖である麻原彰晃(松本智津夫)が、宗教を隠れ蓑に日本を乗っ取って、自らその王として君臨することを空想し、それを現実化する過程で、世界各国での軍事訓練や軍事ヘリの調達、自動小銃の密造や化学兵器の生産を行い武装化し、教団と敵対する人物の殺害や無差別テロを実行した。
世界史的に見ても、アルカイダやISILによるテロを先取りした事件であるという。
ところで日本の歴史上では、平安時代(818)に嵯峨天皇が「死刑廃止」の宣旨(せんじ)を出してから、1156年の保元の乱(崇(す)徳(とく)上皇と後白河天皇の兄弟の争い)に至る300年以上も制度としての死刑はなかった。保元の乱で崇徳上皇は讃岐に流され、源為義と平忠正は後白河天皇の命令によって死刑になった。
この300年は、世界的にも稀有なことであるが命や人権を重んじてなされたことではないのだ。
貴族らは戦のような野蛮なものを「穢(けが)れ」として忌み嫌っただけである。死に関することに直接関係すると「身が穢れる」と考え、怨霊(おんれい)となって祟(たた)ることを恐れたまでだ。
11世紀に摂関政治で権威を振るった藤原道長の策略により遣唐使の廃止を進言した菅原道真は宰府に流され2年後に死亡した。そのころから道長は不調をきたし、次ぎ次に息子や娘が死ぬ不幸に見舞われたことなどから「菅原道真の祟り」と恐れおののいた。
古(いにしえ)の日本人は非業の死を遂げた人は怨霊となって世の中や他人に祟ると信じて非常に恐れたのだ。疫病や天災は祟りのせいだと考え、祭りを行ったり神社を作ったりした。
平安末期は治安が非常に悪く都にも盗賊が横行し、殺人事件も多かった。朝廷は犯人を捕まえても死刑にすることはなく都から追放する処分しか下さなかった。しかし地方では国司などによる死刑は普通に行われ、民衆による私刑もあったという。
朝廷は、300年も平和が続くと完全な平和ボケに陥り国を守るという考えが希薄になっていた。1019年「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」(満州に住んでいた刀伊民族)事件が起きた。対馬、壱岐、北九州を襲い女性や農作物を奪ったのである。しかし驚いたことに朝廷が取った行動は武力を用いず、ひたすら祈祷をするばかりだったのだ。
それにしても、国際的には死刑が廃止される方向性にあるとされるが、現在も死刑制度を存置している国も少なくない。
世界の諸国の人口規模ランキングの上位10か国中の7か国、上位20か国中の14か国で死刑制度がある。世界の人口規模単位では50%以上の多数派になっている。
先進国を中心に139カ国もの国が、死刑制度を廃止・執行停止している。日本でもたびたび死刑廃止の議論が起こるが、遺族感情などが問題となり実現には至っていない。遺族感情は、非常に共感を得やすいものであり、死刑廃止は容易ではない。
各州が準国家とも呼べる権力を有するアメリカでは、死刑制度の有無も州ごとに異なる。「先進国で死刑制度を廃止していないのは日本とアメリカだけ」とよく言われるが、初めて州が死刑が廃止したのは1847年のことで、意外にもヨーロッパよりも100年以上早い。それ以来徐々に増えていき、2016年現在では廃止した州の数は20となった。
一方カリフォルニアやニューヨークを含む31州およびアメリカ連邦政府、軍隊では今も死刑制度がある。しかしDNA鑑定導入によって過去の死刑囚の冤罪(えんざい)が多数発覚したり、再審で判定が覆ったりする現状を踏まえ、死刑制度が現存していても長らく死刑制度を適用していない州も多い。死刑制度の問題は現在でも活発に議論されつつも、流れとしては死刑廃止の方向へ進んでいるといえるだろう。
日本でもかつての司法判決では冤罪が儘見られたように見聞する。しかし司法改革で裁判員制度が導入され、録音、録画が行われ、さらにDNAの鑑定が進歩している現状において死刑判決はそれほど冤罪のリスクが高いとは思えない。
日本は先進国の最後のガラパゴスと言われる日まで死刑制度を残してほしいと思うのは私だけだろうか。