エッセイ:「長寿と懐かしい思い出(12)」2015・05
つい先日、黒柳徹子が司会・進行する民放TV番組の「徹子の部屋」に、聞き覚えのある声のゲストが出演していた。103歳で現役医師(聖路加国際病院)の日野原重明氏である。徹子が何か尋ねると、まあ、とうとうと喋り捲るのである。司会者にとってこんな楽なゲストはいないだろう。たまたま私がこの一年ぐらいマスコミでお目にかかれず、元気にされているだろうかと気になっていた。
百歳の時に、「向こう3年間のスケジュールがびっしり手帳に埋まっている」といっていた。百歳といえば、次の朝には目が覚めない可能性があるのに、”よくまあ”と驚いた記憶がある。寝る間も惜しんで仕事(名誉院長、理事長、その他多数の役職等)や執筆、趣味などに勤しんでいる。若いころには結核をわずらったとか。
40年数年前、勤めていた企業の仕事の関係で某料亭で仕事のお打ち合わせをして会食をしたことがある。当時私が抱いていた医師のイメージとはおよそかけ離れた感覚の方であったように記憶している。
当時は聖路加看護大学の副学長であった。その後、聖路加国際病院院長から名誉院長、理事長から名誉理事長に。氏の社会に対する貢献は筆舌に尽くせない程であろう。一般人に最もよく知られているのが、氏が唱えた「生活習慣病」であろう。それまでは高血圧症や糖尿病などは「成人病」と言われており、人は歳を重ねると大なり小なり誰でもが罹患する病気であるとされていた。
ところが、私が40数年前にお会いした時すでに「生活習慣病」を普及さることを力説されていたが、その頃には私はあまり深くは考えなかった。それが今では、病気の多くが自らの悪い生活習慣に原因があるという認識に変わったのである。国の予算の最大が健康保険で占められているのだから大変なことである。
今月、私が勤務していた会社の一年先輩のS氏の悲しい訃報をもらった。入社から退職するまで、三十数年間にわたり公私ともどもお世話になった掛替えのない恩人だ。時には仲間であり、先輩であり、一時期は上司でもあった。
そのS氏はこの日野原先生の聖路加病院や国立がんセンターで闘病生活を送ったと。葬儀の受付で、香典の受け取りは辞退され、代わりに「思い出の記」を渡された。
「思い出の記」には、出生、生い立ちから大学時代までの思い出、両親と家系、兄弟姉妹のこと、三十数年にわたる社会人(企業人)としての活躍と経歴、さらには、趣味や信条のことなどが事細かく記載された160ページに渡るものである。よくもこれだけの内容を系統だって調査し記録したものだと関心する。同時にこれから氏の思い出、家系としても代々残るある意味家宝になるであろう。
「あとがき」では、座右の銘はないが、強いて言えば、*石田禮助氏の「粗にして野だが卑でない」が自分の性格に合っており好きな言葉の一つだと。私は、彼らしい座右の銘であるなと感じる。
*石田氏は三井物産社長から、第5代国鉄総裁に就任、「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言し、国民の支持を得た。当初は月10万円だけ貰っていた。さらに鶴見事故(1963年、横浜市鶴見区での列車多重衝突事故、死者161名、重軽傷者120名)の発生後は、給料を1円も受け取らず、1年あたり洋酒1本]を受け取ったという。
ところで、30数年ほど前にわが家を購入した際、S氏は在住する神奈川県大船市の植木市で庭木が安く購入できるから是非と勧めてくれた。庭木をトラックに満載しで千葉県まで運び同行した植木職人とその植えつけまで手伝っていただいた。今はそれらの庭木は、狭い庭を被い尽くすほど大きくなっているが、懐かしい思い出になってしまったのが残念である。
了
つい先日、黒柳徹子が司会・進行する民放TV番組の「徹子の部屋」に、聞き覚えのある声のゲストが出演していた。103歳で現役医師(聖路加国際病院)の日野原重明氏である。徹子が何か尋ねると、まあ、とうとうと喋り捲るのである。司会者にとってこんな楽なゲストはいないだろう。たまたま私がこの一年ぐらいマスコミでお目にかかれず、元気にされているだろうかと気になっていた。
百歳の時に、「向こう3年間のスケジュールがびっしり手帳に埋まっている」といっていた。百歳といえば、次の朝には目が覚めない可能性があるのに、”よくまあ”と驚いた記憶がある。寝る間も惜しんで仕事(名誉院長、理事長、その他多数の役職等)や執筆、趣味などに勤しんでいる。若いころには結核をわずらったとか。
40年数年前、勤めていた企業の仕事の関係で某料亭で仕事のお打ち合わせをして会食をしたことがある。当時私が抱いていた医師のイメージとはおよそかけ離れた感覚の方であったように記憶している。
当時は聖路加看護大学の副学長であった。その後、聖路加国際病院院長から名誉院長、理事長から名誉理事長に。氏の社会に対する貢献は筆舌に尽くせない程であろう。一般人に最もよく知られているのが、氏が唱えた「生活習慣病」であろう。それまでは高血圧症や糖尿病などは「成人病」と言われており、人は歳を重ねると大なり小なり誰でもが罹患する病気であるとされていた。
ところが、私が40数年前にお会いした時すでに「生活習慣病」を普及さることを力説されていたが、その頃には私はあまり深くは考えなかった。それが今では、病気の多くが自らの悪い生活習慣に原因があるという認識に変わったのである。国の予算の最大が健康保険で占められているのだから大変なことである。
今月、私が勤務していた会社の一年先輩のS氏の悲しい訃報をもらった。入社から退職するまで、三十数年間にわたり公私ともどもお世話になった掛替えのない恩人だ。時には仲間であり、先輩であり、一時期は上司でもあった。
そのS氏はこの日野原先生の聖路加病院や国立がんセンターで闘病生活を送ったと。葬儀の受付で、香典の受け取りは辞退され、代わりに「思い出の記」を渡された。
「思い出の記」には、出生、生い立ちから大学時代までの思い出、両親と家系、兄弟姉妹のこと、三十数年にわたる社会人(企業人)としての活躍と経歴、さらには、趣味や信条のことなどが事細かく記載された160ページに渡るものである。よくもこれだけの内容を系統だって調査し記録したものだと関心する。同時にこれから氏の思い出、家系としても代々残るある意味家宝になるであろう。
「あとがき」では、座右の銘はないが、強いて言えば、*石田禮助氏の「粗にして野だが卑でない」が自分の性格に合っており好きな言葉の一つだと。私は、彼らしい座右の銘であるなと感じる。
*石田氏は三井物産社長から、第5代国鉄総裁に就任、「公職は奉仕すべきもの、したがって総裁報酬は返上する」と宣言し、国民の支持を得た。当初は月10万円だけ貰っていた。さらに鶴見事故(1963年、横浜市鶴見区での列車多重衝突事故、死者161名、重軽傷者120名)の発生後は、給料を1円も受け取らず、1年あたり洋酒1本]を受け取ったという。
ところで、30数年ほど前にわが家を購入した際、S氏は在住する神奈川県大船市の植木市で庭木が安く購入できるから是非と勧めてくれた。庭木をトラックに満載しで千葉県まで運び同行した植木職人とその植えつけまで手伝っていただいた。今はそれらの庭木は、狭い庭を被い尽くすほど大きくなっているが、懐かしい思い出になってしまったのが残念である。
了