エッセイ:「英語が出来てもできなくてもバカはバカ」
2012.01
人間「ゆとり」がなければものごとが上手行かないことが多い。「ゆとり」がないとトラブルも増える。私など夫婦の会話でも些細なことで声を荒げてしまうことがある。それがもとで本当のケンカになってしまい反省することしきりである。
でもこの「ゆとり」は身体や頭を休めれば得られるかと云うと一概にそういうものでもなさそうだ。また心の「ゆとり」には個人差が大きく「忙中閑有り」と云うことわざにもあるように「どんなに忙しくても、ちょっとした暇ぐらい見つけられる」というものでもある。古人は本当に上手いことを言ったものである。
我々日本人が「ゆとり」と云う言葉で直ぐに思い出すのは、2002年から鳴り物入りでスタートした学校の「ゆとり」教育ではなかろうか。
「詰め込み教育」には反省しなければいけない部分も多々あった。しかし授業時間が多かったり、教科の履修内容が多いことで子供達はそんなに辛かったり、大変だったのであろうか。文部科学省や教育関係者は子供達にそのことを確認したのだろうか。私はそうだとは思わないのだが。
1980年頃から順調な経済成長とそれに伴う「日本人は働き過ぎ」が取りざたされるようになってきた。すなわち大人も子供も少し「ゆとり」を持って生活しようではないかと云う反省を含めた気運が起こり始めた。それにあやかるように少しずつ日本人の心に慢心が芽生え始めたのではないかと考える。
その頃TVの街頭インタビューや討論番組などで「あなたは仕事と家庭とどちらを重要と考えていますか」と本来比較すべきことではないことを二者択一で尋ね、それに「仕事が重要」と真面目に答えていた時代があったことを思い出す。
ゆとり教育の目的は簡単にいえば生徒の勉強の負担を減らしてその分心の余裕を確保し、より自由な発想を育もうということらしい。それは国際社会でも通用しうる心の学力を形成することを目的としたもので、そのこと自体を誰も否定するものではないと思う。
例えば海外の商社マンと互角に渡り合っていくためには、相手を理論的に納得させるだけのディベート力が必要である
しかし、ディベート力もユニークな論理構成も基礎学力に基づいたものであることは言うまでもない。
例えば外国人に日本のことを説明するにしても日本の政治、経済、歴史、地理、工業、文化やその他についてある程度の知識がなければ話せるものではない。
いかに英語が得意であるからと云っても日本語で説明できないものを英語でしゃべれるわけがないのである。
富士山、寿司、すき焼きやスカイツリーなどの話で多少ごまかせても相手は満たされない気分になろうというもの。
ではなぜこれほどまで「ゆとり」教育がにやり玉に挙げられるのだろうか。文科省はじめ教育関係者はここ数年の学力低下の現象に危機感を持ったのである。
具体的にはPISA(OECD生徒の学習到達度調査)で日本は読解力、数学的及び化学的レラテラシーの結果はかってトップを走っていた時の栄光は消えて惨憺たるものになったからである。
学力低下の例をあげてみる。現在の小中学生の約半分は正方形の面積の求め方が分からないというのだ。これは非常に深刻な学力低下だと言える。
日経新聞によると、中学レベルの数学の問題が解けない(正解率6割)理工系大学生の学力低下が浮き彫りになっている。経営とはいえ大学側はよくもこんな生徒を入学させ卒業させるものだと教育機関としての社会的使命感を疑いたくなるのである。
「ゆとり」教育の結果、小学校でも現場は大変な努力を強いられている。特に漢字の読み書きや計算力を補うために、朝の10分間を使って100マス計算や漢字の書き取りを練習する学校は多数ある。
「脱ゆとり」教育に戻った云うことは、それまでの「ゆとり」教育はいったいなんだったのだろうか。文部科学省や教育行政の責任者は「ゆとり」教育と学力低下の因果関係を示すデータはほとんどないと主張し、検証もなくましてや反省の弁も聞こえない。ここでも思い付き、教育審議会へのまる投げ行政を行う役人の体質が浮き彫りになってくる。
国際社会のグローバル化に伴って、英語力は必須であるとして小学校5、6年から英語の授業が週一単、年間35単位が行われるようになった。貿易立国の日本人が海外に打って出ることは極めて重要なことであり、そのために早くから英語に親しむことは大切であると思う。
これに対して「英語ができても、バカはバカ」こんな刺激的な本がマイクロソフト元社長成毛真著で発刊されている。
小学5、6年での英語が必修化したのに加え楽天、ユニクロなどでは企業でも「社内公用語化」する中で「日本人の9割には英語はいらない」と云うのだから穏やかではない。本当に英語を使う人は必要に迫られ勝手に修得する。だからと云って日本人全員がしゃべれる必要は全くない、これは英語学者や民間会社の陰謀説であるともいう。
本が売れるか売れないかはネーミングで決すると言われている。英語に弱い私などには思わず手が出そうなネーミングである。考えてみれば当たり前と云えば当たり前な言葉をネーミングに使っていることが面白い。書店で立ち読みしたが想像した程度の言葉であった。
氏は「アメリカ人だってバカはバカ」と云うが、そうすると「英語ができないバカはもっとバカ」と云えなくもない。
「詰め込み」と言われようが、何と言われようがやる気のある生徒は大いに勉強し日本の将来を担えるような若者に育ってほしいものである。
了
2012.01
人間「ゆとり」がなければものごとが上手行かないことが多い。「ゆとり」がないとトラブルも増える。私など夫婦の会話でも些細なことで声を荒げてしまうことがある。それがもとで本当のケンカになってしまい反省することしきりである。
でもこの「ゆとり」は身体や頭を休めれば得られるかと云うと一概にそういうものでもなさそうだ。また心の「ゆとり」には個人差が大きく「忙中閑有り」と云うことわざにもあるように「どんなに忙しくても、ちょっとした暇ぐらい見つけられる」というものでもある。古人は本当に上手いことを言ったものである。
我々日本人が「ゆとり」と云う言葉で直ぐに思い出すのは、2002年から鳴り物入りでスタートした学校の「ゆとり」教育ではなかろうか。
「詰め込み教育」には反省しなければいけない部分も多々あった。しかし授業時間が多かったり、教科の履修内容が多いことで子供達はそんなに辛かったり、大変だったのであろうか。文部科学省や教育関係者は子供達にそのことを確認したのだろうか。私はそうだとは思わないのだが。
1980年頃から順調な経済成長とそれに伴う「日本人は働き過ぎ」が取りざたされるようになってきた。すなわち大人も子供も少し「ゆとり」を持って生活しようではないかと云う反省を含めた気運が起こり始めた。それにあやかるように少しずつ日本人の心に慢心が芽生え始めたのではないかと考える。
その頃TVの街頭インタビューや討論番組などで「あなたは仕事と家庭とどちらを重要と考えていますか」と本来比較すべきことではないことを二者択一で尋ね、それに「仕事が重要」と真面目に答えていた時代があったことを思い出す。
ゆとり教育の目的は簡単にいえば生徒の勉強の負担を減らしてその分心の余裕を確保し、より自由な発想を育もうということらしい。それは国際社会でも通用しうる心の学力を形成することを目的としたもので、そのこと自体を誰も否定するものではないと思う。
例えば海外の商社マンと互角に渡り合っていくためには、相手を理論的に納得させるだけのディベート力が必要である
しかし、ディベート力もユニークな論理構成も基礎学力に基づいたものであることは言うまでもない。
例えば外国人に日本のことを説明するにしても日本の政治、経済、歴史、地理、工業、文化やその他についてある程度の知識がなければ話せるものではない。
いかに英語が得意であるからと云っても日本語で説明できないものを英語でしゃべれるわけがないのである。
富士山、寿司、すき焼きやスカイツリーなどの話で多少ごまかせても相手は満たされない気分になろうというもの。
ではなぜこれほどまで「ゆとり」教育がにやり玉に挙げられるのだろうか。文科省はじめ教育関係者はここ数年の学力低下の現象に危機感を持ったのである。
具体的にはPISA(OECD生徒の学習到達度調査)で日本は読解力、数学的及び化学的レラテラシーの結果はかってトップを走っていた時の栄光は消えて惨憺たるものになったからである。
学力低下の例をあげてみる。現在の小中学生の約半分は正方形の面積の求め方が分からないというのだ。これは非常に深刻な学力低下だと言える。
日経新聞によると、中学レベルの数学の問題が解けない(正解率6割)理工系大学生の学力低下が浮き彫りになっている。経営とはいえ大学側はよくもこんな生徒を入学させ卒業させるものだと教育機関としての社会的使命感を疑いたくなるのである。
「ゆとり」教育の結果、小学校でも現場は大変な努力を強いられている。特に漢字の読み書きや計算力を補うために、朝の10分間を使って100マス計算や漢字の書き取りを練習する学校は多数ある。
「脱ゆとり」教育に戻った云うことは、それまでの「ゆとり」教育はいったいなんだったのだろうか。文部科学省や教育行政の責任者は「ゆとり」教育と学力低下の因果関係を示すデータはほとんどないと主張し、検証もなくましてや反省の弁も聞こえない。ここでも思い付き、教育審議会へのまる投げ行政を行う役人の体質が浮き彫りになってくる。
国際社会のグローバル化に伴って、英語力は必須であるとして小学校5、6年から英語の授業が週一単、年間35単位が行われるようになった。貿易立国の日本人が海外に打って出ることは極めて重要なことであり、そのために早くから英語に親しむことは大切であると思う。
これに対して「英語ができても、バカはバカ」こんな刺激的な本がマイクロソフト元社長成毛真著で発刊されている。
小学5、6年での英語が必修化したのに加え楽天、ユニクロなどでは企業でも「社内公用語化」する中で「日本人の9割には英語はいらない」と云うのだから穏やかではない。本当に英語を使う人は必要に迫られ勝手に修得する。だからと云って日本人全員がしゃべれる必要は全くない、これは英語学者や民間会社の陰謀説であるともいう。
本が売れるか売れないかはネーミングで決すると言われている。英語に弱い私などには思わず手が出そうなネーミングである。考えてみれば当たり前と云えば当たり前な言葉をネーミングに使っていることが面白い。書店で立ち読みしたが想像した程度の言葉であった。
氏は「アメリカ人だってバカはバカ」と云うが、そうすると「英語ができないバカはもっとバカ」と云えなくもない。
「詰め込み」と言われようが、何と言われようがやる気のある生徒は大いに勉強し日本の将来を担えるような若者に育ってほしいものである。
了
国を背負う若者たちに気概を以て挑んでほしいと思います。