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板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:「大相撲八百長」

2011-12-27 17:00:11 | エッセイ
エッセイ:大相撲八百長
 2011.07

私は最近大相撲にはさほど興味がなくなり好んでTV観戦しようとも思わなくなった。ところが妻はそれほど相撲のことは分かりもしないのにTV観戦をするのが好きである。
妻の一番好きな力士が琴欧州、高見盛でどちらもコロコロ負ける気の弱い力士である。高見盛にあっては今場所元気がなく負け越しになり、私がそろそろ引退かなと云うと妻もそうかなと否定しない。
横綱白鳳については余りの強さとその精神的な安定感にただ妻は唸るだけである。白鳳との一番には相手がだれであろうと、「またコロリーンとやられるんだろうね、何でもいいから白鳳をやっつけてみろて云うんだ」と嘯いているのだ。別に白鳳が嫌いと云うのではないのだけど他の力士がふがいないから言うのだと思う。
  
昨日11日目(7/20)、何故か妻は結びの一番の白鳳vs琴奨菊をTV観戦していなかったので、相撲が終わったあとで私が「今日は白鳳は負けたよと」言ったらきょとんとしていたので、「白鳳がやられたんだよ」と云うと「本当、イヤー、後でニュースを見なくちゃ」と喜ぶことしきりである。
ついでに私が、「しかしね、俺の目から見ると、白鳳の片八百長だね、違反じゃないけど、俺の目はごまかせないよ」と云う。妻はニュースで確認するとやっぱり琴奨菊がすごかったと私の説を否定した。

11日目に大関魁皇がついに突然引退を表明した。長年お世話になり尊敬する大関の引退を聞いた白鳳、その心中に動揺が起こったとしても不思議ではない。
対戦相手は琴奨菊、今場所の成績いかんでは来場所には大関昇進である、魁皇引退で日本人の大関は一人もいなくなる。仕切りを繰り返す白鳳に迷いや普段の集中力がわかないのも無理ではない。
日本人以上に日本的で日本や相撲を愛し、先輩元横綱の朝青龍とは全く違ったタイプの素晴らしい横綱である。

琴奨菊との取り口は右上手が取れず、巻き替えをすることもまわしを斬ることもできずにガブリで寄られた。負けた瞬間の表情もいつもの厳しさ、悔しさはなく、琴奨菊の健闘を喜ぶかのように見られた。また土俵上で遠くを見る視線にはこれで良かったのだ、自分に納得させるかのようだった。“自分は片八百長をやってはいない”と。(私のこの見方に反論する方も大勢おられることは当然である)

翌朝たまたまTVのワイドショーを見ていたら、ゲストの元NHK大相撲中継のアナウンサーであり、現在相撲評論家の杉山氏が微妙な言い回しで私と同じようなことを言っていたので、私の読みがまんざらでもないと一人でご満悦であった。
さらに朝日新聞朝刊スポーツ欄の白鳳のコメントでは「ファンには申し訳なくて、途中から勝手はいけない雰囲気になりましたからね」と強がったが、(琴奨菊が大関になる力は)あると思う」と実力を認めた、とある。

これらを総合すると、白鳳は負けるべくして負けたのであり決して八百長ではないが、敢えて言うならば片八百長になってしまったのではないだろうか。

私が相撲に対して興味が薄らいだのは八百長問題とは関係がなく加齢とともに気力がなくなってしまった性かもしれない。大相撲の八百長は以前から言われていたし、私もさもありなんと思っていた。

2000年、私と同姓の元小結の「板井圭介」が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙以下20名の力士の実名を週刊現代に公表した。相撲協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信ぴょう性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない」という形でこの問題を決着させた。

わたしがまだ会社務めをしている頃であり、会社の同僚達との会話の中でこの話が出ることもあったが、話題としては面白いがほとんどの仲間が「板井」と云う男は胡散臭い人間だな、と云うのが印象であった。私は「世間からも相撲協会からも自分が抹殺されかねないこんな大問題を興味本位や僅かの原稿料で捏造するバカな人間はいないはず」と半信半疑ではあったが信じていた。

2005~2007年、週刊現代は「横綱朝青龍の八百長を告発する」という記事において朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかと云う疑惑が浮上。15回の優勝のうち実に11回分の優勝はカネで買ったものだとした。相撲協会は講談社と記事ライターに対し民事訴訟を起こした。

また、同年5月週刊現代は2006年名古屋場所の千秋楽で綱とりのかかった大関白鳳の師匠・宮城野が朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。

2011年大相撲八百長問題は、2010年に発生した大相撲野球賭博問題における捜査で警視庁は力士の携帯電話のメールを調べていたが、10数名の力士が八百長をうかがわすメールのやりとりをしていたことが判明した。警視庁が文部科学省に説明したところでは取り組の結果はメールのやり取り通りになったとされる。

相撲の八百長については江戸時代、力士の多くが大名のお抱えだったせいも有り、力士当人や主君のメンツを傷つけないための星の譲り合いや四つに組みあって動かず引き分けたり、物言いの末の預かりの裁定なども多かったようだ。

観客としては大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹にすえかねていたようだが、落語の「谷風の人情相撲」など美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。

なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは大鵬と柏戸の一戦(1963年9月、4場所連続休場だった横綱柏戸が大鵬に勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記で八百長として糾弾、告訴問題になり和解)の疑惑が取り沙汰された頃からである。

生身の人間が行う大相撲でなにがしかのインチキや情が入って勝負がつくのを防ぐことはおそらく出来ないだろう。それが携帯電話で行われてばれない積りでいたのが、野球賭博の捜査上で皮肉なことに別件で上がってしまったのである。大相撲ファンが本当に注射なしのガチンコでやられていたとまじめに考えていたとすると少々滑稽な気がするのは私だけでしょうか。






エッセイ:「まさか」と「やはり」

2011-12-27 16:58:15 | エッセイ
エッセイ:「まさか」と「やはり」
  2011.07

「天声人語」の表現を借りると、同様な事件、事故ことが起こっても、相手により「まさか」「やはり」の違いで表わされると。ノルウエーのテロの場合には世界の人々は「まさか」を使い、中国の高速鉄道事故の場合には「やはり」となるそうだ。

“中国高速鉄道が脱線4両転落、43名死亡” の7月25日の朝刊一面に目を奪われた。また追突した車両(日本CRH2仕様の中国製)が高架橋から下に突き刺さるように寄りかかっている。その脇に重機で大きな穴を掘り地面に落ちた先頭車両をショベルカーで粉砕して埋めようとしている写真を見て私は驚愕した。後の報道では列車に生存者や死亡者がいるかどうか確認もしないで解体し埋めたということである。

こんなことが現実にあるのか、実況見分も原因究明もされずに事故の翌日には鉄道当局の一存で衆人環視の中で堂々と行われているのだ。
これは鉄道当局の責任逃れのための証拠隠し以外の何物でもなかろう。記者会見で鉄道当局は「事故の隠蔽ではない、世界が見ている中でそれは出来ない。事故現場の地盤が軟弱で、邪魔だったから」と釈明した。日本であれば原因究明のため、事故車両は相当の期間保存されるものである。

そして中一日置いた25日には営業を開始し事故現場の上を高速鉄道は通過したのである。もともと人命軽視の国柄であるが世界のマスコミが注視している中で堂々とやるその無神経さに空恐ろしささえ感じた人は多いのではないか。

26日の報道によると中国の人民やマスコミからの抗議(過去にはあり得ない強いもの)や怒りに急遽当局は埋めた列車を掘り起こす(した)と云うこと。     また遺族賠償は死亡者には奨励金を含めて50万元(600万円強、中国国民    平均年収の25倍)で合意したと発表した。事故発生後3日ぐらいで話はそこまで進んでいるのだ。これはウシやブタの競り市のようで人間の命を扱う話ではないのではないか。
事故原因の究明はおろか裁判もやらずに、一方的に当局(党)の方針に沿った処理である。

この僅か数日の間に起こった事故やその対応をつぶさに見てみると、現代中国の政治、文化、人権等が凝縮されているように思う。

私の脳裏をかすめたのは毛沢東の中国共産党が行った革命の中で中国人同胞を大量に殺した事実である。虐殺された人が掘られた穴に無造作に放り込まれた数々の悲惨な事実である。
ギネスブックには、人類史上最大の大量殺人は1949~65年に毛沢東の支配する中国で行われた中国人2630万人の殺害、虐殺といわれる。ギネスブックは根拠のないことを認定することはしないし、この記述に中国政府が抗議して記載取り消しを求めたという話も聞いたことがない。したがって事実に近い数字だと思うが恐ろしい大量殺人である。
殺された同胞と現代の人命を預かる高速鉄道がまさに同じ運命をたどっているのだ。

中国共産党は現在に至るまで政治犯を国家転覆罪の汚名の下にいとも簡単に殺してしまう権利を有しているのである。
中国では死刑執行件数は公表しておらず正確な件数は明らかとなっていない。
しかし故意殺人のような生命を侵害する犯罪に限らず、故意傷害、放火等の凶悪犯罪、麻薬販売、公務員の賄賂授受・横領、金融詐欺、通貨偽造、売春や性犯罪、文化財密輸、でも死刑が規定されている。また一部の犯罪に関して死刑判決に執行猶予が付された規定がある。
 
中国を旅行や仕事で滞在する日本人は、ことほどさように中国の命に対する認識が日本と違うことを理解して行動しないといつ何時濡れ衣を着せられて死刑の判決受けるやもしれない。

犯罪の多い中国では死刑を犯罪撲滅に対する効果があると司法当局が確信している。このため、死刑の適用が多用されている。例えば2001年には「厳打」キャンペーンが行われた結果、4月から7月の4カ月間だけで2960人に死刑判決が下され、1781人に対し死刑が執行されたという。

政府のこのようなキャンペーンで死刑判決が増えたりすることは我々の民主主義の国の常識では考えられない。日本では死刑確定者の冤罪が認められ無罪となり、死刑執行のサインをためらう法務大臣がいたりすることはある意味平和で幸せな国の象徴であろう。

話は元に戻るが、日本や外国からの高速鉄道技術を取り入れて僅か4~5年、自前の高速鉄道に向けてひた走る。世界最高速度を達成して高らかに日本の新幹線技術を超えたと豪語し、製造技術の特許を5カ国・地域(米国、ブラジル等)で一括出願しこれらの国にセールスをしていることを明らかにしている。
 高速鉄道では速度、快適さと同時にその絶対的な安全性が求められる。今回の事故は種々のトラブルが発生し中国国内でも安全性が心配されていた矢先であった。
落雷や地震等で列車が停車するのは当たり前、こんなことで追突事故になるような高速鉄道には恐ろしくて乗りたくないだろう。グローバル時代で中国訪問の外人にとっても中国の安全軽視を見過ごせないのではないか。

先の尖閣諸島での中国漁船の巡視船に体当たり事件でも、中国は国内世論の突き上げに呼応、自己を正当化し常軌を逸した態度で日本を非難した。幸か不幸か海上保安員による衝突VTRが不正流出したことによりインターネット上で事件の真相が世界中を駆け巡って以来、この問題についてはさすがの中国側も口をつぐんでいる

経済成長の著しい中国は世界の牽引車としての自信とうぬぼれがいろんなところで表れ始めている。軍事力の増強、南沙諸島の領有権争い、レアーメタルの輸出制限、人民元の切り上げ、人権など国内問題 等である。 
中国が世界に君臨するに国家足りうるにはグローバルな価値観を共有することにある。「まさか」がトレードマークになる日が来るのか。「人権に始まり、人権に終わる」遠い道のりである。




エッセイ:「断捨離・すっきり」

2011-12-27 16:55:36 | エッセイ
エッセイ:「断捨離(だんしゃり)・すっきり」
  2011.08   

世の中私から見ると極端に綺麗好きな人がいる。いつも身の回りの整理整頓・、片づけ、清掃を丹念に行なわなければ気が済まない几帳面な人である。ずぼらな私から見ると、良くもそこまで神経が行き来届くものだなあと、感心する。
しかし、それを自分でやっている分には一向に構わないのであるが、時に他人やずぼらな私などに過剰にそれを要求されると反発したくなる悪いくせがある。

昨今、ものが少ないすっきりした暮らしやシンプルな空間を提唱する本や雑誌が多く出回り、TV番組でもそれらの実際の内容を紹介している。

この問題を朝日新聞(7月3日)の「異議あり」のコーナーで「生活者も経済全体もリスクが高まってしまう」とその問題点に経済アナリストの森永卓郎氏は警鐘を鳴らす。
評論家の単なる自己主張かと思ったが、その論理になるほど、さすがは卓ちゃんだ(評論家に似合わず、おっちょこちょいで子供っぽいところがある憎めない全方位型の人間:以前は氏を軽視していた私の人物評)と感心した。
 
① コンビニやスーパーを冷蔵庫や納戸代わりして「必要な時に必要なだけ買う」という生活スタイルが大地震後に店からあらゆるものが消えてしまった原因だと森永氏いう。
日本が世界に誇るトヨタのカンバン方式、ジャストインタイムです。一分一秒の遅配達も許されないのだから、部品メーカーはリスク管理のために多大な努力が強いられる。倉庫管理、トラックによる頻回配達のコスト増など、さらにはCO2環境汚染も問題になる。私はトヨタのこの方式は部品メーカーなどに犠牲を強いる何と横柄なやり方だろうと常々思っていた。

7月、米国内での自動車の販売数は増加したが、日本のトヨタ、ホンダは20~30%販売台数減、利益も赤字となった。理由は大地震により東北地方の部品メーカーから部品が入らなくなって生産が落ちてしまったためであると。
これは正に家庭版「断捨離」の企業版が起きてしまったのである。

森永氏は埼玉県所沢市にある自宅には家族が1カ月は籠城出来るくらいの水・食料を備蓄していると。仕事上都心に小さなマンションで生活しているがそこでも2週間分ある。皆がストックを持てばパニックは起きないという。
安売り、たたき売りの時にまとめ買いをすれば生活費は劇的に下げられると。
通常、評論家は口だけ、しゃべるだけで実戦もない無責任発言者が多い中にあって氏は異質なキャラクターだと思う。

② また経済面以外についても「物を捨てて何かが生まれる、と云うことはない。無から有は生まれない。新しいアイディアも感性も異質なものが融合した時に生まれる。学問だって過去の論文の蓄積の上に新しい論文が出来る。ガラクタは必要だ。捨ててはいけない。自分で自分の可能性を捨てていること」と言う。
だらしない私としては、氏の理屈に我が意を得たりと共感する次第である。しかし全てをこの理屈に当てはめ得るのか疑問にも思うが、難しくて良く分からない。

③ なぜ人は物を減らすことに引かれるのか。
これはデフレの産物である。大きな家には住めない、だから物を捨てる、狭い家を効率的に使う、おしゃれな暮らしを求める。物を買わないからさらにデフレが進む。経済全体で縮小均衡とリスク増大をもたらす。

④ 最小限の物しか持たないから、ライフスタイルが同じ様になって、ブームが起きやすい。これは企業にとっては美味しい国民だと。ライフスタイルが多様化すると企業はすごくコストがかかる。同じものを求めてくれると一番効率がいい。という陰謀説を説く。
ここら辺になると眉つばのようだけど、当たらずとも遠からずというところかもしれない。

異色のコレクター森永氏はミニカー、ペットボトルの蓋など全部で55種類を収集しており、数だけなら東京国立博物館の11万点を来年には追い抜く予定であると。

ずぼらな私には鬱陶しい「断捨離」も裏から見ればまた違った問題がある。一つのものごとにはまり込んでいくと抜き差しならぬことも起こりうるということ、何事も「ほどほどに」と言い訳をする私である。
今はやりの「断捨離」からこういう論理の展開が出来るとははさすがアナリスト「卓ちゃん」だと感心した夏でした。

備考:「断捨離」とはクラタ―(ガラクタ)コンサルタントのやましたひでこさんが、ヨガからヒントを得て提唱する片づけ術。不要なものを断ちガラクタを捨て、物への執着から離れることで「人生が快適になる」「心がスーッとなる」と云う。



エッセイ:「たかが虫一匹」

2011-12-27 16:52:29 | エッセイ
エッセイ:「たかが虫一匹」
板井省司  2011.08

子供のころ真夏には朝から夕方までプールや海にしか行くところがなかった。しかもパンツ一枚でどこにでも歩いていきそれが普通のことであった。したがって一夏に2回、3回と背中の皮が剥け、仲間同士で猿の毛づくろいみたいに剥いたものだ。

さすがに大人達は日中に出歩くことはしなかったようである。勿論今のようなエアコンがあるわけではないし、せいぜい扇風機をかけるか団扇で仰ぎながら汗をふきふき畳の上に寝転んだりして辛抱強く日が傾くのを待つのである。
 
現在は夏と云えば天気予報でも必ず熱中症の警告がされる時代である。水や塩分をこまめに取って予防するようにアナウンスされる。
私が子供のころには、熱中症ではなく日射病と云う言葉が使われていたが、そんなもの自分たちと関係ない遠い世界の話でマラリア病ぐらいの認識であった。

小学校の全校生徒が集まって日の照りつける校庭に出て週一で朝礼が行われていたが、たまには生徒が倒れることがあった。それを見て「貧血で誰かが倒れたばい」でお終いである。救急車もこなければ、病院にも運ばない。医務室で寝てればよくなる、電話をもっている一般家庭なんて少ない時代、父兄に連絡もしなかった。当時は皆貧乏で朝飯もろくに食べて来ない生徒もいたと思うが、みんな元気であった。

さて我が家では昨年真夏日が30数日連続したことがあったがエアコンは一度も付けなかった。この夏も基本的には使わない方針だった。何も経費節減をするためや、身体を張って電力不足の節電に協力をしようなんて気はさらさらないのである。

本来妻はクーラーが好きではないというより苦手な方である。スーパーに買い物行っても、また電車に乗っても冷え過ぎが応えるらしく長居は無用である。
自宅でもエアコンの効いた部屋の中にじっとしていては仕事にならないと言い張るのである。そうは言っても毎日30数度になる暑さには私も我慢の限界かと思う時もある。勿論扇風機は回すが、暑いときはさらにぬれたタオルを首に巻くのである。これは気化熱で結構涼しくなるものである。また夜寝る時には窓は網戸にして開けっぱなしで寝る。夜中にトイレに起きた時に窓を閉めるのである。

私にはとっておきの避暑法がある。一つは昼食後自宅から2,3分のところにあるエアコンの効いた市の施設コミセンで仲間と囲碁を打って夕方まで過ごすのである。
もう一つは週2~3回は夕方に町内会の防犯パトロールで1時間ほど歩き、滝のような汗をかくとあれほど暑い暑いと言っていたのがウソのようにシャキッとするのである。

先日、夜妻が「チョット来てよ」と云うので妻の二階の寝室に行くと雑巾と洗面器が置いてあった。あまり暑いので寝るまでに涼しくしようと思ってエアコンをかけていたところ水が床に大量に流れ落ちていた、と云うではないか。
みると空気の吹き出し口付近から水滴がこぼれている。
私がいろいろ原因を想像するけど分からない。ただ二階ベランダの室外機のところのあるホースから水が出ている形跡がないので排水されていないことは素人の私でもはっきり分かる。しかしほとんど使用していないエアコンであるから故障して配管が詰まることなど考えられないのである。
 
早速、町内の電気店に電話をしてみてもらうことにした。電気店の店主が室外機の方へ行って何か操作(ホースを口にくわえて空気を吹き込んだ)をしたところ、突然室内のエアコンからブクブクと云う音がした。妻が「あなた今おならをしたの」と云う。私は「どこから聞こえて来たのかね」と言い返した。良く屁をするから妻は私をからかったのである。

店主が操作した後にホースから大量の水が出て来た。原因がつかめたらしい。室内機のカバーをはずして懐中電灯を照らして覗くと、こいつだと言ってテントウムシ三匹分の大きさの虫の死骸をとりだした。この虫で排水管が詰まっていたのだ。

しかしこの虫どこから入ったのだろう。私は部屋の中には入った虫が何かのはずみでそこに入ったのだと思って店主に聞いてみると「外の排水ホースから入って室内機にたどり着いたのです。したがってまた起こる可能性はあります」と。虫は穴に入る習性があるのでこういうことが起こるそうだ。
ホースの取り付け方が悪く、ベランダにじかに触っているため虫が侵入してくるのでホースを宙ぶらりんにした方がいいですねと云って短く切ってくれた。

我が家にとっては「たかが虫一匹」の想定外の出来事ではあったが、私と妻は出張費3000円でエアコンを買い替えずに済んだと胸をなで下ろした夏だった。




エッセイ:「楊貴妃と醜い中国」

2011-12-27 16:50:31 | エッセイ
エッセイ:「楊貴妃と醜い中国人」 
 2011.08

町内会に近所の鼻つまみ者がいる。柄が悪く隣近所としょっちゅうトラブルが絶えない。近所の犬の鳴き声がうるさい。猫が庭に入って糞をする。落ち葉が風で飛んでくる。塀を超えて来た木の枝を勝手に切って相手の庭に放り込む。町内会の決めごとに一人で反対。そのくせ町内合同の清掃にも出て来ない。マイカーを自宅前路地に長時間駐車。夜中・早朝に車のアイドリングをしたまま。ゴミ排出の規則を守らない。
まあ、ありとあらゆることをトラブルの種にして近所との折り合いが悪い。

またその子供達が親とそっくり、学校でも授業中に騒ぎ妨害、生徒間でもトラブルの連発。何か気にくわないことがあると親がPTAや学校に抗議をする。
この子供達の行動を家庭でのマナー教育がされていないと云って嘆息している地域社会には諦めに似たるものを見る。では誰が子供達にマナーを教育すればよいのか。親はこの通りの同じムジナであるから子供へのマナー教育を期待はできない。じゃ学校がするべきか、ここまで来ると学校でも手に負えない。警察か教育委員会か、これらも本気で取りあってくれないだろう

この話を今回の米・中の親善バスケット(2011.08 於:中国)の乱闘事件と対比してみたい。中国政府は親に相当する立場、サッカー選手達は子供の立場。政府も選手もスポーツのマナーを知らず、また知ろうともしない。ホスト国の中国はマナーで世界の笑いものになっても反省はなし。それどころか「中国の名誉にかけて善くも米国相手に乱闘をやってくれた、世界に中国の骨のあるところを見せ付けた」と褒め称え、選手を甘やかす。(「反日」の暴動と同じ)

分かりやすく言えばこれが正に中国の現状である。自由主義国家の特に日本人はこのことを全く分かろうとしない。すなわち中国人は姿顔形が似ており、その昔は進んだ社会で仏教・儒教、漢字など様々なものを日本は学んだのだ。同じ東洋人だ、話せば、情に訴えれば分かるはずだと甘い期待をしているようだ。だが何れの専門家も中国人と日本人の考え方は正反対に違う人種であることを異口同音にいう。これは我々日本人として対中国に対して肝に銘じなければなければならないキーワードである。

過日、某TV番組に日本と中国を行き来している男女二名の中国人のジャーナリストが出演していた。彼らの口から出た言葉で、中国人は気を緩めると暴動を起こして社会を混乱に落としめる。したがって中国共産党が言論の統制をやらなければならないという現実があるのだと。

このことは数千年前から変わらず云われ続いているのだ。と云うことは中国人はいつも権力者に制御されないと暴走する人民であることを言っているのである。
また中国は今日に至るまで、どの時代をとっても孔子をも絶望させたように、社会の腐敗が蔓延しているのである。

中国で次から次へ起こる「反日」騒動は、全く常軌を逸したもので、もはや「憎日」と云うしかない。なぜあれほどの狂騒的「反日」暴動が起こるのか、原因は中国の政権上層部の権力闘争や、社会矛盾に対する大衆の不満のはけ口として「反日」が利用され、それが現政権の国策となっている要素が大きいと言われている。
日本は中国の「反日」にいちいち過敏に反応することも、無理に迎合することも、ましてや「友好」などと云っておもねることは、まったくナンセンスだということ。むやみに「友好」を取り上げるのではなくて、むしろ「非友好」から出発すべきではないかと。

考えてみてもらいたい、一般家庭でも毎度特定の近隣の家から中傷・誹謗をされたり、怒鳴りこまれたりされたら双方の関係はなくなるのが普通である。

東シナ海でやりたい放題の乱暴狼藉を働き、逮捕の行動に出るや否や謝罪と賠償を世界中に聞こえるようにがなりたてる。それでもだめならあらゆる報復措置を取るだろう。
台湾の李登輝氏も言うように、中国人とは「美人を見たら自分の妻だと主張する国」であり、自分だって抑えているような言葉を平気で言う国なのだと。

中国人が日本人から少々反対の意見を言われたりすると、すぐ激しく感情的に反発するのは余裕の欠如とともに被害者、弱者の意識が深層心理の中にある。
つまり中国は謝罪強要は、先進国日本への一種のねたみであると同時にねだりでもある、と中国人の作家、比較文化学者、金文学氏は言う。

中国は孔子の「君子は和して同じず、小人は同じて和せず」教えを忘却したようである。

最後に、あの美女、楊貴妃を生んだ中国人の民族的欠点として「死んでも自分の過ちを認めようとはしない」と中国人の有名な文明評論家柏楊氏は「醜い中国人」で指摘しているのである。