エッセイ:大相撲八百長
2011.07
私は最近大相撲にはさほど興味がなくなり好んでTV観戦しようとも思わなくなった。ところが妻はそれほど相撲のことは分かりもしないのにTV観戦をするのが好きである。
妻の一番好きな力士が琴欧州、高見盛でどちらもコロコロ負ける気の弱い力士である。高見盛にあっては今場所元気がなく負け越しになり、私がそろそろ引退かなと云うと妻もそうかなと否定しない。
横綱白鳳については余りの強さとその精神的な安定感にただ妻は唸るだけである。白鳳との一番には相手がだれであろうと、「またコロリーンとやられるんだろうね、何でもいいから白鳳をやっつけてみろて云うんだ」と嘯いているのだ。別に白鳳が嫌いと云うのではないのだけど他の力士がふがいないから言うのだと思う。
昨日11日目(7/20)、何故か妻は結びの一番の白鳳vs琴奨菊をTV観戦していなかったので、相撲が終わったあとで私が「今日は白鳳は負けたよと」言ったらきょとんとしていたので、「白鳳がやられたんだよ」と云うと「本当、イヤー、後でニュースを見なくちゃ」と喜ぶことしきりである。
ついでに私が、「しかしね、俺の目から見ると、白鳳の片八百長だね、違反じゃないけど、俺の目はごまかせないよ」と云う。妻はニュースで確認するとやっぱり琴奨菊がすごかったと私の説を否定した。
11日目に大関魁皇がついに突然引退を表明した。長年お世話になり尊敬する大関の引退を聞いた白鳳、その心中に動揺が起こったとしても不思議ではない。
対戦相手は琴奨菊、今場所の成績いかんでは来場所には大関昇進である、魁皇引退で日本人の大関は一人もいなくなる。仕切りを繰り返す白鳳に迷いや普段の集中力がわかないのも無理ではない。
日本人以上に日本的で日本や相撲を愛し、先輩元横綱の朝青龍とは全く違ったタイプの素晴らしい横綱である。
琴奨菊との取り口は右上手が取れず、巻き替えをすることもまわしを斬ることもできずにガブリで寄られた。負けた瞬間の表情もいつもの厳しさ、悔しさはなく、琴奨菊の健闘を喜ぶかのように見られた。また土俵上で遠くを見る視線にはこれで良かったのだ、自分に納得させるかのようだった。“自分は片八百長をやってはいない”と。(私のこの見方に反論する方も大勢おられることは当然である)
翌朝たまたまTVのワイドショーを見ていたら、ゲストの元NHK大相撲中継のアナウンサーであり、現在相撲評論家の杉山氏が微妙な言い回しで私と同じようなことを言っていたので、私の読みがまんざらでもないと一人でご満悦であった。
さらに朝日新聞朝刊スポーツ欄の白鳳のコメントでは「ファンには申し訳なくて、途中から勝手はいけない雰囲気になりましたからね」と強がったが、(琴奨菊が大関になる力は)あると思う」と実力を認めた、とある。
これらを総合すると、白鳳は負けるべくして負けたのであり決して八百長ではないが、敢えて言うならば片八百長になってしまったのではないだろうか。
私が相撲に対して興味が薄らいだのは八百長問題とは関係がなく加齢とともに気力がなくなってしまった性かもしれない。大相撲の八百長は以前から言われていたし、私もさもありなんと思っていた。
2000年、私と同姓の元小結の「板井圭介」が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙以下20名の力士の実名を週刊現代に公表した。相撲協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信ぴょう性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない」という形でこの問題を決着させた。
わたしがまだ会社務めをしている頃であり、会社の同僚達との会話の中でこの話が出ることもあったが、話題としては面白いがほとんどの仲間が「板井」と云う男は胡散臭い人間だな、と云うのが印象であった。私は「世間からも相撲協会からも自分が抹殺されかねないこんな大問題を興味本位や僅かの原稿料で捏造するバカな人間はいないはず」と半信半疑ではあったが信じていた。
2005~2007年、週刊現代は「横綱朝青龍の八百長を告発する」という記事において朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかと云う疑惑が浮上。15回の優勝のうち実に11回分の優勝はカネで買ったものだとした。相撲協会は講談社と記事ライターに対し民事訴訟を起こした。
また、同年5月週刊現代は2006年名古屋場所の千秋楽で綱とりのかかった大関白鳳の師匠・宮城野が朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。
2011年大相撲八百長問題は、2010年に発生した大相撲野球賭博問題における捜査で警視庁は力士の携帯電話のメールを調べていたが、10数名の力士が八百長をうかがわすメールのやりとりをしていたことが判明した。警視庁が文部科学省に説明したところでは取り組の結果はメールのやり取り通りになったとされる。
相撲の八百長については江戸時代、力士の多くが大名のお抱えだったせいも有り、力士当人や主君のメンツを傷つけないための星の譲り合いや四つに組みあって動かず引き分けたり、物言いの末の預かりの裁定なども多かったようだ。
観客としては大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹にすえかねていたようだが、落語の「谷風の人情相撲」など美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。
なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは大鵬と柏戸の一戦(1963年9月、4場所連続休場だった横綱柏戸が大鵬に勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記で八百長として糾弾、告訴問題になり和解)の疑惑が取り沙汰された頃からである。
生身の人間が行う大相撲でなにがしかのインチキや情が入って勝負がつくのを防ぐことはおそらく出来ないだろう。それが携帯電話で行われてばれない積りでいたのが、野球賭博の捜査上で皮肉なことに別件で上がってしまったのである。大相撲ファンが本当に注射なしのガチンコでやられていたとまじめに考えていたとすると少々滑稽な気がするのは私だけでしょうか。
了
2011.07
私は最近大相撲にはさほど興味がなくなり好んでTV観戦しようとも思わなくなった。ところが妻はそれほど相撲のことは分かりもしないのにTV観戦をするのが好きである。
妻の一番好きな力士が琴欧州、高見盛でどちらもコロコロ負ける気の弱い力士である。高見盛にあっては今場所元気がなく負け越しになり、私がそろそろ引退かなと云うと妻もそうかなと否定しない。
横綱白鳳については余りの強さとその精神的な安定感にただ妻は唸るだけである。白鳳との一番には相手がだれであろうと、「またコロリーンとやられるんだろうね、何でもいいから白鳳をやっつけてみろて云うんだ」と嘯いているのだ。別に白鳳が嫌いと云うのではないのだけど他の力士がふがいないから言うのだと思う。
昨日11日目(7/20)、何故か妻は結びの一番の白鳳vs琴奨菊をTV観戦していなかったので、相撲が終わったあとで私が「今日は白鳳は負けたよと」言ったらきょとんとしていたので、「白鳳がやられたんだよ」と云うと「本当、イヤー、後でニュースを見なくちゃ」と喜ぶことしきりである。
ついでに私が、「しかしね、俺の目から見ると、白鳳の片八百長だね、違反じゃないけど、俺の目はごまかせないよ」と云う。妻はニュースで確認するとやっぱり琴奨菊がすごかったと私の説を否定した。
11日目に大関魁皇がついに突然引退を表明した。長年お世話になり尊敬する大関の引退を聞いた白鳳、その心中に動揺が起こったとしても不思議ではない。
対戦相手は琴奨菊、今場所の成績いかんでは来場所には大関昇進である、魁皇引退で日本人の大関は一人もいなくなる。仕切りを繰り返す白鳳に迷いや普段の集中力がわかないのも無理ではない。
日本人以上に日本的で日本や相撲を愛し、先輩元横綱の朝青龍とは全く違ったタイプの素晴らしい横綱である。
琴奨菊との取り口は右上手が取れず、巻き替えをすることもまわしを斬ることもできずにガブリで寄られた。負けた瞬間の表情もいつもの厳しさ、悔しさはなく、琴奨菊の健闘を喜ぶかのように見られた。また土俵上で遠くを見る視線にはこれで良かったのだ、自分に納得させるかのようだった。“自分は片八百長をやってはいない”と。(私のこの見方に反論する方も大勢おられることは当然である)
翌朝たまたまTVのワイドショーを見ていたら、ゲストの元NHK大相撲中継のアナウンサーであり、現在相撲評論家の杉山氏が微妙な言い回しで私と同じようなことを言っていたので、私の読みがまんざらでもないと一人でご満悦であった。
さらに朝日新聞朝刊スポーツ欄の白鳳のコメントでは「ファンには申し訳なくて、途中から勝手はいけない雰囲気になりましたからね」と強がったが、(琴奨菊が大関になる力は)あると思う」と実力を認めた、とある。
これらを総合すると、白鳳は負けるべくして負けたのであり決して八百長ではないが、敢えて言うならば片八百長になってしまったのではないだろうか。
私が相撲に対して興味が薄らいだのは八百長問題とは関係がなく加齢とともに気力がなくなってしまった性かもしれない。大相撲の八百長は以前から言われていたし、私もさもありなんと思っていた。
2000年、私と同姓の元小結の「板井圭介」が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙以下20名の力士の実名を週刊現代に公表した。相撲協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信ぴょう性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない」という形でこの問題を決着させた。
わたしがまだ会社務めをしている頃であり、会社の同僚達との会話の中でこの話が出ることもあったが、話題としては面白いがほとんどの仲間が「板井」と云う男は胡散臭い人間だな、と云うのが印象であった。私は「世間からも相撲協会からも自分が抹殺されかねないこんな大問題を興味本位や僅かの原稿料で捏造するバカな人間はいないはず」と半信半疑ではあったが信じていた。
2005~2007年、週刊現代は「横綱朝青龍の八百長を告発する」という記事において朝青龍が白星を80万円で買っていたのではないかと云う疑惑が浮上。15回の優勝のうち実に11回分の優勝はカネで買ったものだとした。相撲協会は講談社と記事ライターに対し民事訴訟を起こした。
また、同年5月週刊現代は2006年名古屋場所の千秋楽で綱とりのかかった大関白鳳の師匠・宮城野が朝青龍から300万円で星を買ったという旨の証拠音声を入手したと報道、同誌のウェブサイトでその音声の前半部を公開している。
2011年大相撲八百長問題は、2010年に発生した大相撲野球賭博問題における捜査で警視庁は力士の携帯電話のメールを調べていたが、10数名の力士が八百長をうかがわすメールのやりとりをしていたことが判明した。警視庁が文部科学省に説明したところでは取り組の結果はメールのやり取り通りになったとされる。
相撲の八百長については江戸時代、力士の多くが大名のお抱えだったせいも有り、力士当人や主君のメンツを傷つけないための星の譲り合いや四つに組みあって動かず引き分けたり、物言いの末の預かりの裁定なども多かったようだ。
観客としては大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹にすえかねていたようだが、落語の「谷風の人情相撲」など美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だったようだ。
なお、現在でいう意味での個人による八百長疑惑が取りざたされるようになったのは大鵬と柏戸の一戦(1963年9月、4場所連続休場だった横綱柏戸が大鵬に勝って全勝優勝を決めたが、場所後石原慎太郎がスポーツ紙上の手記で八百長として糾弾、告訴問題になり和解)の疑惑が取り沙汰された頃からである。
生身の人間が行う大相撲でなにがしかのインチキや情が入って勝負がつくのを防ぐことはおそらく出来ないだろう。それが携帯電話で行われてばれない積りでいたのが、野球賭博の捜査上で皮肉なことに別件で上がってしまったのである。大相撲ファンが本当に注射なしのガチンコでやられていたとまじめに考えていたとすると少々滑稽な気がするのは私だけでしょうか。
了