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板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:我が囲碁夜話

2011-12-27 20:16:39 | エッセイ
エッセイ: 我が囲碁夜話
  2009.5

50年前、九州のど田舎(宮崎県延岡市)から出てきた私の学生生活は、東京都調布市(新宿から京王線で約30分)の安い下宿屋からスタートした。当時の調布市は私の田舎の方が都会だと思えるくらい簡素な街であった。
調布市で良く知られているものは三鷹市との境にある深大寺植物公園、京王多摩川に京王閣競輪と日活撮影所(現在はないかもしれない)が、さらに徳富蘆花の蘆花公園、あるは東京電気通信大学のキャンパスなどがある。そしてほとんど知られていないのが有名な幕末の新撰組隊長近藤勇の生誕地(甲州街道の通る町)である。

余談:(1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は江戸に逃げ帰る。勝海舟は近藤勇に甲州進撃を巧みに焚きつけ大量の武器弾薬と軍資金を渡し、いかに有利な条件で幕府の終焉を看取るか、そのために新撰組を暴れさせようとした。甲府では板垣退助軍に打ちのめされ敗走し、千葉県流山で捕まり、東京板橋で斬首、その後アルコールにつけて京都に運ばれ、鴨川の三条河原で晒し首となる)

大家は秋田県の公務員を辞めこの地に移住、典型的なづうづう弁をしゃべるアットホームな下宿であった。下宿人は二階の6部屋で、私の隣部屋の親しくしていた福田という学生が夏休みに山口県に帰郷して誰かに習ったという囲碁を教えてくれた。これが私の囲碁の入門であり、途中何かと紆余曲折はあったものの今日まで50年間この囲碁に恩恵を受けているのである。

ところが学生時代には囲碁など打てる友達も対戦する相手もいなかったし、また遊ぶこと楽しいことはいろいろあってほとんど囲碁を打つ機会はなかった。
大学を卒業し就職した1964年(昭和39年)は東京オリンピックが開催され、池田隼人首相(在任1960-64)のもと世をあげて所得倍増計画の路線を突き進んで行く時代であった。

当時サラリーマンのアフターファイブのメジャーといえば何といってもボーリングで、中山律子など女子美人プロボーラーが人気を博し、ボーリング人口の急増でプレーするのに2時間待ちはザラであった。
一方夏になればサラリーマン(当時OLに今日のようにビール等を飲む風潮がなかった)はビルの屋上に開設されるビアガーデンでジョッキー片手に会社仲間と気勢を上げ活力を養ったものである。また手近かなところではマージャンも盛んで、オフィス街にはそこら中に雀荘があって満卓の札が下がることも多かった。
こういう情勢と入社十年後に営業部門へ転勤したことなどもあり、私の囲碁に取り組む姿勢も真剣とはいかず、社内の僅かばかり先輩、同僚とたまに打つ程度であった。

50歳を過ぎてから、勤務する会社が会員となっている日本製薬工業協会、医薬品公正取引協議会の仕事に関与するようになってから業界の囲碁仲間との関係が増え、よく手合わせをするようになった。しかし残念なことに58歳の時私は脳卒中(脳内出血
)で倒れ右半身不随となってしまった。懸命なリハビリと関係する皆様の理解と協力のおかげで、何とか再出発して定年を迎えることができた。

サラリーマンの定年後の生活、生き方はさまざまであろうが、脳卒中でわが身が思うようにならない半身不随の私を救ってくれたのがこの囲碁である。それまでため込んでいた囲碁に関する書籍を引っ張り出して読みあさった。またインターネットのヤフーでの無料対局をすることが気分転換になり暇つぶしにもなった。

障害が多少快方に向かい体力も少しずつ回復しかけた時、家の近くにある佐倉市のコミュニティセンター(コミセン)のシルバールームで、高齢者が毎日集まって囲碁をやっていることを妻が聞きつけてきてそこへ行くように勧めてくれた。お陰で今までに多くの方とも知り合いになることができた。

一方、会社現役時代に知り合った同じ業界の二人の囲碁仲間(A氏、B氏)とは今でもこのコミセンで毎月手合わせをしている。佐倉市に住むA氏とは対戦する前30分間は努めて雑談をするようにしている。また千葉市のB氏とは昼食時間を挟むようにしているので、近くの店で昼食をとりビールを飲みながら、近況や最近の話題などを会話で時を忘れることもある。今や囲碁は私にとって何物にも代えられない生活の一部になっている。

一般的に言って囲碁の効用とはどういうものであろうか。

近年マスコミや書籍等で「囲碁はボケ防止にいい」と推奨されており、また全国の学校でも授業に囲碁を取り入れているところが増えていると聞く。これは囲碁が右脳を使ったゲームであるからだと言われている。右脳は感性、左脳は論理や言語をつかさどる脳で、右脳は使えば使うほど発達する。左脳は年齢とともに衰えていくが、囲碁で右脳を鍛えれば左脳の衰えをカバーできるのだ。囲碁は左脳・右脳が2:8、将棋は5:5、オセロは10:0の割合で脳を使っている。このことは現代の脳科学の研究ではっきり証明されている。
子供はテレビゲームが好きというのも、子供のうちは左脳の方が発達しているからだ。年齢を重ねるにつれて右寄りになって来るので、絵画を見たり、芸術に触れるのが好きになってくる。囲碁はイメージとして、「お年寄り、暗い、古臭い」なんて言われてしまうが、右脳を使うピアノの先生や絵画の先生が囲碁をやり始めると上達は格段に早いようだ。囲碁はそういう意味からすると何歳からでも始められるし、高齢になってから始めても上達するものなのだ。

このようなすぐれた囲碁ゲームの起源と日本ではいつどこでどのように普及してきたのだろうか

囲碁の起源は古代中国で、「春秋時代」(紀元前8世紀)にはかなり普及していた。日本への伝来は奈良朝時代の遣唐使(630―894年に15回成功)によるものとされている。平安朝に入って囲碁は貴族の間で盛んにおこなわれるようになった。「源氏物語」「枕草子」にもその記述があり、当時の文化では必須の教養科目の一つだった。
そして平安、鎌倉時代には武士、僧侶にも広まっていった。戦国時代末期に京都の塔頭(たっちゅう)本因坊に住んでいた日海という僧が織田信長の知遇を得た。その後日海改め本因坊算砂(1559-1623)になり豊臣秀吉が禄を給した。さらに算砂は徳川家康にも使え、1607年ごろ江戸に移り住んだ。
江戸時代になり幕府は碁所を創設し囲碁を奨励した。本因坊家、安井家、井上家、林家の4つの家元は代々にわたり碁所で地位を争い、その結果本家の中国を上回る高度な発展を遂げる。本因坊道策、丈和、秀策らがこの時代の高手として知られている。

明治12年になって方円社が組織され、また幕府の禄を離れ、本因坊秀栄、秀哉と続いた家元とが合同して大正末期に日本棋院が創設される。昭和初期に台湾から来日した呉清源を中心とした新布石時代にはいる。その後、大阪で分立した関西棋院とともに囲碁界の隆盛は今日に至っている。
現在は新聞社主催のタイトル戦が増えており主なタイトル戦は棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦などがある。

日本の文化に大きな影響を及ぼした囲碁に由来する言葉にはどのようなものがあるのだろうか。

(囲碁由来の日常語)
岡目八目:他人の碁を端で見ていると対局者よりも八目ほども先を読むことが出来る。
「第三者の方が物事の内容・本質を見分けることが出来る」
一目置く:ハンディとして置く。
「自分より優れているものに対して一歩譲ること」
八百長:八百屋の長兵衛が弱い相手と対局するときにわざと勝ったり負けたりしていた。「現在ではお互いが示し合わせた上でやること」
布石:序盤に全体を見通して打つ石。
「将来のため整えておく手はず。“布石を打っておく”」
定石:攻守とも最善とされる決まった形の打ち方
「最も効率がよいやり方とされていること」
下手な考え休むに似たり:下手の長考は時間を浪費するだけで何の効果もない。
優柔不断な相手に「考えても仕方がないから行動しよう、と言うこと」
玄人・素人:平安期では上位者が黒を持っていて、「黒人(こくひと)」と呼ばれたことが始まりで、この音がなまった。逆に白石を持っている方が「白人(しろひと)」とは別の職業でありながら、碁の達人が裸足で逃げだすほどの腕前を指す。
碁盤の目:19線×19線の交差が碁盤の目。
「京都市は碁盤の目のような区画だ」、将棋盤の目のようとは言わない。
活路:石が生きているか、死んでいるかを見極め、石が生きる方法を活路と言う。
そこから転じて「命の助かる道、窮地から逃れる方法を指す」
手抜き:相手の打った手に応じず別の場所へ打つこと。
そこから転じて「やるべきところをやらないこと」







エッセイ:犬・ワンコロ

2011-12-27 20:14:44 | エッセイ
犬ワンコロ

板井省司 2010.07.10 

近年、世の中ペットブームであり中でも犬の愛玩は大変なものである。私が
子供の時代には、ワンコロと言って親は子供に犬と遊ばせその面倒を見させて、情操教育の一環的な役目を担わせていたような気がする。振り返ると子供時代には犬はクサリ、首輪も付けず放し飼いで、時には予防接種も受けない無鑑札の犬も混じって往来を群れてわがもの顔でカッポ、糞を垂れ流していたのである。したがって、時にはそこら中で犬同士のけんかが始まる始末である。また交尾中の犬が往来の人通りの中に走ってくることも珍しくなかった。

12、3歳の頃、我が家でもクロと名付けた真っ黒い犬を2~3年飼っていたことがある。拾ってきた子犬であったが、2年ぐらいたって突然いなくなった。それから一年ぐらい経ってひょっこり痩せこけたクロが申し訳なさそうに戻ってきたが、しばらくしてまたいなくなってしまった。我が家での扱いが不満で再び家出をしたのか、野犬狩り人にしょっ引かれたのかは定かではない。この時以来犬を飼ったことがないので昨今の犬に関する知識は持ち合わせていない。

さて、我が町内会で聞いた話だが、どこそこの誰さんの犬は乳母車に乗って散歩している(散歩と言えるのか?)と言うので驚いた。ある日私が町内パトロールをやっている時に偶然その犬の散歩に出会ったのだ。大型犬なので既成の乳母車では間に合わず、角材を使った手作りのゴッツイ手押し車だ。手押し車の上には老齢の大型犬が正に「将軍」のような顔で「余は満足じゃぞ」と人間と同じ表情で機嫌よく鎮座していた。将軍綱吉の時代のお犬様そのものである。飼い主の老婦人も「将軍」の満足そうな顔を見ながら重い車を押して通り過ぎて行った。おそらく子供も巣立ち、その老婦人にとってはワンコロではなく愛しいまさに家族、うちの子そのものであろうと思った次第である。

犬も①無差別に吠えまくる犬②吠えるにしてもTPOを心得ている犬③やさしく尻尾を振って甘えるなど様々である。
私は家から出かけるのに三つのルートがありたまたま上記のタイプの犬がいるのである。
隣の家のハナコちゃん(メス)は②のタイプである。10歳ぐらいで、とにかく良く吠えるのだ。飼い主と散歩中でかなり距離あり歩いてくる音も聞こえていないだろうに、またそんな距離から匂いも届きそうにないのにけたたましく吠え始める。
郵便配達、新聞配達、ガス・水道のメーター測定、ビラ配り人や通りすがりの人などにはけたたましく吠えるので皆さん被害者であり、番犬にはハナちゃんはもってこいの犬である。
ところが身内の人の帰宅となれば、ハナちゃんはそれはそれは見事に変身し、あたかも人間と会話をしているかのような声を出し鼻を鳴らして歓待するのだ。

通りすがりの一人である私も過去には猛烈に吠えまくられた被害者の一人だったが今は違う、ハナちゃんは完全に私の術中に嵌っているのだ。
例によって、ハナちゃんの家の前を吠えられながら速足で通過するのだが、私としては面白くない。あるときけたたましく吠えるハナちゃんに垣根越しに「ワン、ワン、ワン」と大声でほえてみた。ハナちゃんは猛烈な勢いで私の方の垣根に走り寄って吠えまくり,歯をむき出して威嚇してきた。私は負けずと一緒になって数分間吠えまくった。こういうことを何回か続けているうちに、ハナちゃんの様子が少しずつ変化してきたのに気づいた。
今では私はハナちゃんの家の前を通る時、「ハナちゃん、ワン、ワン、ワン」と大きな声でほえるのである。昼間は木陰で横たわっているハナちゃんは、垣根から私が威嚇すると、「また、アンタカ、ウルサイワヨ」といった顔をして取り合ってくれない。時には後ろ向きになって「早く行けよ」と流し眼で無視される、ハナちゃんを落とした私にとっては正に快感の一瞬である。

次は③のタイプである。見るからやさしく、吠えないヒナコちゃんは近所でも評判の大型犬である。私と妻がスーパーやウォーキングに出かける時にヒナコちゃんの家の前を通るのである。下りこう配にあるヒナコちゃんの家の庭は道路から腰ぐらいの高さにあり、見晴らしが良いのである。放し飼いで室内と庭で生活しているヒナちゃんは我々が通るのを見つけると、尻尾を振りながら柵塀に身をすりよせて首筋を撫ぜてくれと要求するのである。撫ぜると嬉しそうに鼻をクンクン言わせる。
また散歩中のハナちゃんに見つかると、大きなボディを道路に横たえて首筋を撫ぜてくれと催促してくる。ところがこの家で飼っているもう一匹の短足小型犬もヒナちゃんの真似をして催促してくるのである。
この道を通る時妻はヒナちゃんに見つからないようにしようと言いだすこともある。可愛いけど時には煩わしいこともあるのだ。庭から我々をも見つけて柵塀に寄ってくるヒナちゃんを無視して通り過ぎる時は、「ヒナちゃん、ごめんね」と言っている。

最後は①のタイプである。これは2~3年前に前の犬が死亡して飼われた大型犬である。犬が飼われている庭は道路に面していないので吠えられる人にとって恐怖心はないと思う。しかし何といっても吠え声が大きいので犬嫌いな人にはかなわないのではないか。私も犬嫌いではないが突然、不意を突かれて吠えられるとびっくりするし腹が立ってくる。

ある日、ユニフォームを着用した女性が双眼鏡を覗いているので尋ねたところと、鎖で繋がれておらず飼い主も不在の場合には危険なので遠くから検針メーターを確認するのだそうだ。
毎日のように通る道で毎日吠えられる、その犬との対話もできない敷地上のジレンマもあり、②のハナちゃんの例を期待しながら、私は「ワン、ワン、ワン」と大きな声で吠えながら歩いている次第である。



                       了

エッセイ:「雑感・第92回全国高校野球大会予選」

2011-12-27 20:11:45 | エッセイ
エッセイ: 雑感・第92回全校高校野球大会予選
 2010.07

昨夏、準決勝で大会中に背中を痛めた花巻東のエース菊池から本塁打を打ち、拳を突き上げた選手を昨年優勝の中京大中京の大藤監督はベンチで叱った。「ケガをおして投げている姿を見て、何にも感じないのか」と。彼には野球部の監督である前に生徒の人生を預かる教師、との考えが根本にある。
私もこの話を知って高校野球の原点を見た思いである。高校野球には勝敗へのこだわりと同時にこうした相手に対する気遣い、思いやりも大事なことではないかと。

全国優勝校と言っても甲子園の道のりは決して楽ではない。過去10年をみても翌年も出場できたのは第84回大会を制した明徳義塾と、第86回から2連覇した駒大苫小牧の2校だけだ。

今年も暑い夏、恒例の全国高校野球大会の時期がやってきた。高校野球と言えば甲子園球場、全国49地区代表による試合ばかりがマスコミでクローズアップされ、敗者チームが甲子園の想い出の砂を袋に入れて持ち帰る映像に目が向きがちである。

しかし、4000校余りによる予選試合の中にこそその若さと気力が込められた、素晴らしさやドラマがあるのではないか。また野球を通じて生徒の人生にとってかけがえのない教訓話がうずもれているのではないかと、新聞のスポーツ欄の記事を今までよりは丹念に読んで、エッセイになるネタはないかと探した次第である。

ちなみに、49地区予選参加校数は4,028校に上る。参加校数の多い地区は1位:愛知188、2位:大阪186、2位:神奈川186、4位:千葉175となり、二地区に分けられた東東京144、西東京119、それに北北海道:122、南北海道124である。
また参加校数の少ない地区は1位:鳥取24、2位:福井29、3位:高知32、4位:徳島32である。

都市部と地方を参加校数で見ると愛知と鳥取では7.8倍の差があり、これは国会議員選挙の不公平以上の差があることを改めて知った。
せめて4~5倍の範囲にとどめるならば、東京を東、西、南の3代表に、愛知、大阪、神奈川、千葉などは2代表にすればとよい思うのである。大会の運営その他難しい問題もあるだろうが、これら参加校の多い地区の選手に希望とモチベーションを与えると言う効果も出てくるし、応援する側にはほとんど問題もないのではないかと思う次第である。素人の私が余計なことを言うなということでしょうかね。


 梅雨明け間近い7月10日前後から地区ごとの予選が始まった。朝日新聞朝刊のスポーツ全国版を見ると連日すごい数の予選一回戦からの結果が点数(A校:B校、10:5)で示されているが、イニングごとの点数表示にはなっていないのである。

私は野球通でもない、ましてや野球場に見に行ったこともほとんどない、TVのニュース、新聞のスポーツ欄で皆さんが知っている程度かそれ以下の知識しか持ち合わせていない。

しかし私はこの新聞記事を見てエッセイのネタにはなりにくいなと困惑したが、ふとあることに気がついた。それはあまりにも多いコールドゲーム(以下、CG)の試合の存在である。今まではそのような記事を見ても予選であるから当然CGがあって当たり前だろうと言った程度の認識しかしなかったのである。不思議なもので、文章を書くとなるとワラをも掴む思いでどこからかエネルギーが吹き込まれてくる。

日によっても、地区によっても異なるが、1回戦、2回戦さらには3回戦ぐらいまでは、20~40%が「CGと思われる」試合であったのには驚いた。「CGと思われる」と言うのは、新聞の記事にはそのゲーム結果にCGとは書いてないので判断できないのである。      
CGとは高校野球連盟通達により地方大会では5回以降10点差以上、7回以降に7点差以上が付いた場合とされている(甲子園の本選では、CGは認められていない。降雨などの天災でのCGのみが7回終了時点をもって適用される)。
しかし、結果が15:3と新聞に書いてあってもCGとは敬虔(けいけん)に断定できないのである。すなわち8回まで9:3で9回に6得点した可能性があるからだ。

これではCGの全体の数が分からず、話が前に進まない。そこで、打開策として、10:0以上差の0にこだわって得点差を拾ってみたら、2回戦位までは毎日20~40試合ある。
しかも、ラグビーかバスケットボールのような点数差のCGも散見されたのである。
ちなみに、20点以上の点数差がついた試合は20試合以上で、その中で最も大差がついたのは埼玉大会の上尾:上尾橘 55:0と羽生一:大宮商 42:0である。これらの試合はおそらく5回CGであろうから毎回10点ぐらい得点したことになる。炎天下、やる選手も応援する方も時間がかかり大変疲れたであろうと思った次第である。

ところで、CGは準決勝戦になってからでも結構あるものだ。さすがに新聞記事も準決勝になると試合結果がイニングごとに得点が記載される。

南北海道大会2試合(函館大有斗:札幌第一15:5、北照:札幌日大7:0)、岩手大会2試合(一関学院:盛岡一9:2、盛岡大付:盛岡四7:0)、茨城大会1試合(霞ヶ浦:水戸10:0)、東東京大会2試合(修徳:国士舘9:2、関東一:成立学園10:3)、奈良大会1試合(天理:法隆寺国際10:0)、福井大会1試合(福井大福井:敦賀工10:0)、島根大会1試合(太田:松江工13:1)、徳島大会2試合(小松商:生光学園13:6、鳴門:川島7:0)、熊本大会1試合(九州学院:東海大二9:1)、宮崎大会1試合(延岡学園:宮崎商業8:0)など。

ところが例外的なケースが見つかったのである。広島地区大会の準決勝で如水館:尾道商は16:1であるにも関わらずCGにならず、フルイニングの試合が行われているのである(後に調べたら、CGは連盟通達で統一されているが、その通りやるかやらないかは統一されていないことが判明した)。
もちろん決勝戦にはCGの適用はなく、例えば茨城大会の決勝戦は水城:霞が関11:0、香川大会では英明:観音寺中央17:0、奈良大会では天理:智弁学園14:1でフルイニング行われている。


そこでいくつかの地区や試合の話題を並べてみたい。

宮崎大会:過去英国の例もあり、日本を震撼させた口蹄疫の発生で県民は打ちひしがれていたであろう。対外試合を自粛し、基礎訓練や紅白戦で力を磨いてきた球児の「実戦」始まった。開会式は中止、一般の観客は観戦できない異常な状態である。主会場のサンマリンスタジアム宮崎で開会式に変わる「開会行事」として、選手宣誓と優勝旗・準優勝旗の返還があった。選手宣誓は学校統合により今年度で閉校する日南振徳商、日南農林、日南工の三人のキャップテンが宣誓した
三万人を収容できる観客席には第一試合に出るチームの保護者や野球部員ら70~80名ほどが一塁側と三塁側に分かれて座っているのみ。球場の出入り口では消毒液が吹きかけられるなどの防疫措置が取られた。
しかし7月27日、県知事により口蹄疫の終結宣言がなされ、予選大会にも一般人の観戦が認められた。
延岡学園が代表に決まる。

福岡大会:北九州市民球場での三回戦で田川:嘉穂東、1:1延長15回で引き分け、翌日の再試合もまた延長、10回1:0で嘉穂東が勝ち、下山投手は連続2試合合計25イニング打者95人、305球の力投であった。
西日本短大付属が代表に決まる。

千葉大会:9回表、6:2で後がない専大松戸は三年生主将の青木がPHに、初球を中堅前にヒットを打ったが、試合はそこまで。3月にレギュラーでない主将の誕生である。当初後輩にも遠慮がちであったが、その後姿勢を変え、ベンチ内でも声を張り上げ、打席に入る前にはアドバイスをする。青木の一打を「気持ちで打ってくれた」とメンバーは大喜びであった。青木も「レギュラーでもない自分の言うことを聞いてくれて、本当にありがたかった」と。
成田が代表に決まる。

熊本大会:不調だった打線は大会終盤から上昇してきた。準準決勝の前にチーム打線が「これから点を取ってやるから」と誓い打撃は初球打ちが功を奏し、渡辺は4試合を一人で投げ抜きその思いに応えた。九州学院はこの10年間で3回も決勝で涙を呑んできたが、10年振りに優勝し歓喜に沸いた。

岩手大会:高校生審判員がデビューを果たした。盛岡三校3年の遠藤駿君は2回戦の花巻農:大迫戦で二塁塁審についた。岩手大会で高校生審判員は初めてと。二年前に野球部を辞めて盛岡市野球協会に所属。「帽子をかぶる時邪魔なので」と今でも丸刈りは変えていないと。
一関学院が代表に決まる。

兵庫大会:兵庫県大会3回戦で、高校通算最多とされる本塁打の記録を持つ神港学園の伊藤諒介がサイクルヒットを達成した。準決勝で神港は市川に敗れ伊藤にもホームラン通算95本目は出なかった。今大会26打数13安打、本塁打2本、打点7であった。清原、松井並みの話題を呼ぶこと必至だ。

東東京大会:5回戦、選抜8強の帝京が国士舘に6:14で7回コールド負けを10年振りに喫した。4投手が1本塁打を含む15安打を浴びた。選手3人が熱中症で倒れるアクシデントもあった。
早稲田実業が代表に決まる。

西東京大会:2死一、二塁、中前に抜けそうな打球を反射的に足ではじいて一塁ゴロのプレーとした早実の鈴木投手が粘りの完封勝ちで代表に。選抜の後練習試合でも打たれ、CG負け、秋も日大三に打ち込まれた。二年前の決勝で敗れた日大三に雪辱した。


以上、92回全国高校野球大会予選に関する新聞記事を中心に雑感を纏めてみた。





エッセイ:「何時までも、じいちゃんは家族だよ」

2011-12-27 20:07:15 | エッセイ
エッセイ:「何時までも、じーちゃんは家族だよ」
                        2010.08.

近くに住む小学4年生の孫娘が夏休みの自由提出の読書感想文を書くにあたっての話である。

その孫に夏休みの宿題は済んだのと尋ねると、まだだと言う。私は「愛ちゃん、何を書くか決まっているの、早く書きなさいよ。」孫は「うーん決まっている、まだ読んでないけど、“何時までも、ぢーちゃんは家族だよ”」にするの。と言うじゃないか。
何だか私のことを書いてくれるような錯覚に陥ってドキッとした。おおよその話を聞くと、死んだぢーちゃんのこと、というではないか。「なに、俺が死んだ話か、面白くないな、まだ死にたくないよ。」と独り言を言っていた。その段階においては、頭の中では話が自分のことに完全にすり替わっていたのだ。「何れはそういう時期が来るし、孫にも惜しまれて死にたい」という欲望がもたげていたのである。
こういう気分の中で、「愛ちゃん、おじいちゃんが添削してあげるから、原稿を書いて持って来なさい」と期待と不安をもって孫に催促したのである。ここ三年ぐらい夏休みの読書感想文コンクールで優秀賞を教育委員会から頂いている。今年も一つ賞を狙ってみるか、と孫とじいちゃんがその気になった瞬間であった。

今春四月に我が家に来た孫のバッグの中から一枚の宿題用紙を見せられた。A4紙にプリントされた「自分のこと」というタイトルで、新任の学級担当の先生が生徒を把握するためのアンチョコとして、生徒に自分の性格、長所、得意なことなど10項目ぐらいを書き込むようになっていた。
その中に”自分の一番大切なもの”という項目があり、孫は「家族」と書いていた。うーん、小学4年生にもなるとさすがに見るとこは見ているものだな、と感心した。と同時にこの「家族」の中に孫と同居していない自分が含まれているのだろうか、という心配が頭をよぎった。
その時は、それを確認しなかったが、どうも気になって仕方がなかった。後日娘との電話のやり取りがあったので、事情を説明して「おじいちゃんは、家族に含まれているのかどうか」を聞いてもらったら孫の返事は「当たり前じゃないか」といったようなものであった。私は「ホーッと」すると同時に「これだけ可愛がっているのだから当然だよね」さすがは我が孫だと、独り言を言っていた。

肝心の読書感想文「何時までも、ぢーちゃんは家族だよ」の原稿だが、主人公の孫のゆーきが死んだぢーちゃんとの想い出を語り、石の墓で眠るのはかわいそうだ、やっぱりぢーちゃんは我が家で一緒に暮すべきだと、仏壇に向かって「何時までも、ぢーちゃんは家族だよ」と微笑みかける物語である。

日常あまり神仏に畏敬の念を払うこともなく、また伝統的な儀式にも関心を示さない自分であるが、この物語のように何時までも家族に慕われ続ける自分でいたいと思った夏であった。








エッセイ:「春眠と雀」

2011-12-27 17:01:43 | エッセイ
エッセイ:春眠と雀
                          2011.05

皐月は春眠を貪るには最も良い季節であるように思う。さすがに夜明けは日々早くなりこの時期5時前にはうっすらと明るくなってくる。この時間になると新聞配達のバイクの音があちこちから聞こえてくる。
こんな風に書いていると私が年寄りの早起き組に見えるかもしれないが実はそうではなくて宵っ張りの朝寝坊の部類である。たまたまこの時間にトイレに起きることがあるので知っているのである。
それから寝直して目が覚めるのが7時ごろであるが、その日によって爆睡の時もあれば、寝付けなくてほとんどウトウトして眠ってないように感じることもある。
新聞配達と同時に私の寝直しを邪魔するのが雀のさえずりである。夜明けとともにチュン・チュン・チュンと鳴き始めるがそれでも大概は寝込んでしまう。しかし目が覚めるころは大変な鳴き声でそれはもう煩くてかなわない。
どうも二階の寝室下の一階屋根部分に巣を作っているらしいのである。よーく聞いていると、雀の鳴き声もチュン、チュンとかチェ、チェ、チェとかヂヂヂヂとかその中でも強弱をつけたりと私の耳にも分かる範囲で数種類の鳴き声をだしている。それはあたかも人間同士が会話をしているかのようだ。多分、おそらく雀同士での会話だろうと思う。

昨日(5/13)の日中、何だか何時になく雀の声が甲高く煩いので何気なく庭を見ていた。ツゲの木の下にある石の蔭に雀の子がうずくまっていた。まだとべない状態のようであり、ひたすらうずくまっているのである。
そのうち親雀があたりを警戒しながらツゲの木にとまった。すると石の蔭にいた子雀が黄色い嘴を一杯に開けてエサを催促するように鳴き出した。親雀はサーッと木から舞いおりて子雀の口の中へエサを押し込んだ。そして再び親雀がエサを探しに行っている間に近くの木で見張り役としてもう一羽の親雀(多分オス)が鳴いているのに気がついた。
このようなことを数回やっている仕草をぼんやり見ていた私であった。
妻を呼んでこのことを話すとクッキーを潰してうずくまっている子雀の脇に置いた。餌をとって戻ってきた親雀と見張りの親雀のけたたましい声は子雀に対し警戒を
発したものであろう。
このたくましい子育ての本能があるからこそ雀は南極大陸以外の世界の大陸で繁栄が続いているのだろうと思う。

ところが2~3分間チョット目を離した隙にツゲの木の下の石の蔭にいた子雀が見えなくなっていた。と同時に妻が播いたクッキーもなくなっていたが、おそらく親雀が願ってもない美味しい餌にありついたと喜んで食べたに違いない。

ところで巣から落ちた子雀はこの後大丈夫なのだろうかと心配になった。飛べないのだから屋根裏の巣にはもう戻れない、必然的に死を待つしかないのだろうか。雀の生体の知識など全くないので私なりに少し調べてみようと思った次第である。

INTによると、雀の寿命はわずか1.4年程度で、孵化後2週間で巣立ちを迎える。巣立ちと云っても羽ばたける程度で巣から飛び出すのである。巣立ってしまったら2度と巣には戻らない、戻れない。巣だったヒナは飛ぶ練習を2週間ぐらいかけて親から学ぶし、この間は親から餌を貰うのである。
と云うことは我が家の雀もこれに該当するもので私が心配するほどのことはなかったのである。
いずれにしても今年無事に成長し来年また我が家で繁殖をするであろう事を期待するのである。

雀の巣と云えばいやーナ想い出が一つある。20年数年前の事になるが2階の屋根瓦裏に雀が巣を作っているのを見つけた。それでも数年は放置しておいたが、悪いことに巣に使われるワラ類が雨どいに詰まってしまう現象が出て来た。やむを得ず梯子をかけて巣があると思しき屋根瓦の下に手を突っ込んで巣を引っぱり出したところ、勢い余って中にいたまだ毛の生えていないヒナが数匹もろに転落したのである。これにはびっくりすると同時に殺生なことをしたという気持ちでいっぱいであった。
勿論丁重に墓を作り墓標を建てたことを覚えている。