エッセイ: 我が囲碁夜話
2009.5
50年前、九州のど田舎(宮崎県延岡市)から出てきた私の学生生活は、東京都調布市(新宿から京王線で約30分)の安い下宿屋からスタートした。当時の調布市は私の田舎の方が都会だと思えるくらい簡素な街であった。
調布市で良く知られているものは三鷹市との境にある深大寺植物公園、京王多摩川に京王閣競輪と日活撮影所(現在はないかもしれない)が、さらに徳富蘆花の蘆花公園、あるは東京電気通信大学のキャンパスなどがある。そしてほとんど知られていないのが有名な幕末の新撰組隊長近藤勇の生誕地(甲州街道の通る町)である。
余談:(1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は江戸に逃げ帰る。勝海舟は近藤勇に甲州進撃を巧みに焚きつけ大量の武器弾薬と軍資金を渡し、いかに有利な条件で幕府の終焉を看取るか、そのために新撰組を暴れさせようとした。甲府では板垣退助軍に打ちのめされ敗走し、千葉県流山で捕まり、東京板橋で斬首、その後アルコールにつけて京都に運ばれ、鴨川の三条河原で晒し首となる)
大家は秋田県の公務員を辞めこの地に移住、典型的なづうづう弁をしゃべるアットホームな下宿であった。下宿人は二階の6部屋で、私の隣部屋の親しくしていた福田という学生が夏休みに山口県に帰郷して誰かに習ったという囲碁を教えてくれた。これが私の囲碁の入門であり、途中何かと紆余曲折はあったものの今日まで50年間この囲碁に恩恵を受けているのである。
ところが学生時代には囲碁など打てる友達も対戦する相手もいなかったし、また遊ぶこと楽しいことはいろいろあってほとんど囲碁を打つ機会はなかった。
大学を卒業し就職した1964年(昭和39年)は東京オリンピックが開催され、池田隼人首相(在任1960-64)のもと世をあげて所得倍増計画の路線を突き進んで行く時代であった。
当時サラリーマンのアフターファイブのメジャーといえば何といってもボーリングで、中山律子など女子美人プロボーラーが人気を博し、ボーリング人口の急増でプレーするのに2時間待ちはザラであった。
一方夏になればサラリーマン(当時OLに今日のようにビール等を飲む風潮がなかった)はビルの屋上に開設されるビアガーデンでジョッキー片手に会社仲間と気勢を上げ活力を養ったものである。また手近かなところではマージャンも盛んで、オフィス街にはそこら中に雀荘があって満卓の札が下がることも多かった。
こういう情勢と入社十年後に営業部門へ転勤したことなどもあり、私の囲碁に取り組む姿勢も真剣とはいかず、社内の僅かばかり先輩、同僚とたまに打つ程度であった。
50歳を過ぎてから、勤務する会社が会員となっている日本製薬工業協会、医薬品公正取引協議会の仕事に関与するようになってから業界の囲碁仲間との関係が増え、よく手合わせをするようになった。しかし残念なことに58歳の時私は脳卒中(脳内出血
)で倒れ右半身不随となってしまった。懸命なリハビリと関係する皆様の理解と協力のおかげで、何とか再出発して定年を迎えることができた。
サラリーマンの定年後の生活、生き方はさまざまであろうが、脳卒中でわが身が思うようにならない半身不随の私を救ってくれたのがこの囲碁である。それまでため込んでいた囲碁に関する書籍を引っ張り出して読みあさった。またインターネットのヤフーでの無料対局をすることが気分転換になり暇つぶしにもなった。
障害が多少快方に向かい体力も少しずつ回復しかけた時、家の近くにある佐倉市のコミュニティセンター(コミセン)のシルバールームで、高齢者が毎日集まって囲碁をやっていることを妻が聞きつけてきてそこへ行くように勧めてくれた。お陰で今までに多くの方とも知り合いになることができた。
一方、会社現役時代に知り合った同じ業界の二人の囲碁仲間(A氏、B氏)とは今でもこのコミセンで毎月手合わせをしている。佐倉市に住むA氏とは対戦する前30分間は努めて雑談をするようにしている。また千葉市のB氏とは昼食時間を挟むようにしているので、近くの店で昼食をとりビールを飲みながら、近況や最近の話題などを会話で時を忘れることもある。今や囲碁は私にとって何物にも代えられない生活の一部になっている。
一般的に言って囲碁の効用とはどういうものであろうか。
近年マスコミや書籍等で「囲碁はボケ防止にいい」と推奨されており、また全国の学校でも授業に囲碁を取り入れているところが増えていると聞く。これは囲碁が右脳を使ったゲームであるからだと言われている。右脳は感性、左脳は論理や言語をつかさどる脳で、右脳は使えば使うほど発達する。左脳は年齢とともに衰えていくが、囲碁で右脳を鍛えれば左脳の衰えをカバーできるのだ。囲碁は左脳・右脳が2:8、将棋は5:5、オセロは10:0の割合で脳を使っている。このことは現代の脳科学の研究ではっきり証明されている。
子供はテレビゲームが好きというのも、子供のうちは左脳の方が発達しているからだ。年齢を重ねるにつれて右寄りになって来るので、絵画を見たり、芸術に触れるのが好きになってくる。囲碁はイメージとして、「お年寄り、暗い、古臭い」なんて言われてしまうが、右脳を使うピアノの先生や絵画の先生が囲碁をやり始めると上達は格段に早いようだ。囲碁はそういう意味からすると何歳からでも始められるし、高齢になってから始めても上達するものなのだ。
このようなすぐれた囲碁ゲームの起源と日本ではいつどこでどのように普及してきたのだろうか
囲碁の起源は古代中国で、「春秋時代」(紀元前8世紀)にはかなり普及していた。日本への伝来は奈良朝時代の遣唐使(630―894年に15回成功)によるものとされている。平安朝に入って囲碁は貴族の間で盛んにおこなわれるようになった。「源氏物語」「枕草子」にもその記述があり、当時の文化では必須の教養科目の一つだった。
そして平安、鎌倉時代には武士、僧侶にも広まっていった。戦国時代末期に京都の塔頭(たっちゅう)本因坊に住んでいた日海という僧が織田信長の知遇を得た。その後日海改め本因坊算砂(1559-1623)になり豊臣秀吉が禄を給した。さらに算砂は徳川家康にも使え、1607年ごろ江戸に移り住んだ。
江戸時代になり幕府は碁所を創設し囲碁を奨励した。本因坊家、安井家、井上家、林家の4つの家元は代々にわたり碁所で地位を争い、その結果本家の中国を上回る高度な発展を遂げる。本因坊道策、丈和、秀策らがこの時代の高手として知られている。
明治12年になって方円社が組織され、また幕府の禄を離れ、本因坊秀栄、秀哉と続いた家元とが合同して大正末期に日本棋院が創設される。昭和初期に台湾から来日した呉清源を中心とした新布石時代にはいる。その後、大阪で分立した関西棋院とともに囲碁界の隆盛は今日に至っている。
現在は新聞社主催のタイトル戦が増えており主なタイトル戦は棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦などがある。
日本の文化に大きな影響を及ぼした囲碁に由来する言葉にはどのようなものがあるのだろうか。
(囲碁由来の日常語)
岡目八目:他人の碁を端で見ていると対局者よりも八目ほども先を読むことが出来る。
「第三者の方が物事の内容・本質を見分けることが出来る」
一目置く:ハンディとして置く。
「自分より優れているものに対して一歩譲ること」
八百長:八百屋の長兵衛が弱い相手と対局するときにわざと勝ったり負けたりしていた。「現在ではお互いが示し合わせた上でやること」
布石:序盤に全体を見通して打つ石。
「将来のため整えておく手はず。“布石を打っておく”」
定石:攻守とも最善とされる決まった形の打ち方
「最も効率がよいやり方とされていること」
下手な考え休むに似たり:下手の長考は時間を浪費するだけで何の効果もない。
優柔不断な相手に「考えても仕方がないから行動しよう、と言うこと」
玄人・素人:平安期では上位者が黒を持っていて、「黒人(こくひと)」と呼ばれたことが始まりで、この音がなまった。逆に白石を持っている方が「白人(しろひと)」とは別の職業でありながら、碁の達人が裸足で逃げだすほどの腕前を指す。
碁盤の目:19線×19線の交差が碁盤の目。
「京都市は碁盤の目のような区画だ」、将棋盤の目のようとは言わない。
活路:石が生きているか、死んでいるかを見極め、石が生きる方法を活路と言う。
そこから転じて「命の助かる道、窮地から逃れる方法を指す」
手抜き:相手の打った手に応じず別の場所へ打つこと。
そこから転じて「やるべきところをやらないこと」
了
2009.5
50年前、九州のど田舎(宮崎県延岡市)から出てきた私の学生生活は、東京都調布市(新宿から京王線で約30分)の安い下宿屋からスタートした。当時の調布市は私の田舎の方が都会だと思えるくらい簡素な街であった。
調布市で良く知られているものは三鷹市との境にある深大寺植物公園、京王多摩川に京王閣競輪と日活撮影所(現在はないかもしれない)が、さらに徳富蘆花の蘆花公園、あるは東京電気通信大学のキャンパスなどがある。そしてほとんど知られていないのが有名な幕末の新撰組隊長近藤勇の生誕地(甲州街道の通る町)である。
余談:(1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れた幕府軍は江戸に逃げ帰る。勝海舟は近藤勇に甲州進撃を巧みに焚きつけ大量の武器弾薬と軍資金を渡し、いかに有利な条件で幕府の終焉を看取るか、そのために新撰組を暴れさせようとした。甲府では板垣退助軍に打ちのめされ敗走し、千葉県流山で捕まり、東京板橋で斬首、その後アルコールにつけて京都に運ばれ、鴨川の三条河原で晒し首となる)
大家は秋田県の公務員を辞めこの地に移住、典型的なづうづう弁をしゃべるアットホームな下宿であった。下宿人は二階の6部屋で、私の隣部屋の親しくしていた福田という学生が夏休みに山口県に帰郷して誰かに習ったという囲碁を教えてくれた。これが私の囲碁の入門であり、途中何かと紆余曲折はあったものの今日まで50年間この囲碁に恩恵を受けているのである。
ところが学生時代には囲碁など打てる友達も対戦する相手もいなかったし、また遊ぶこと楽しいことはいろいろあってほとんど囲碁を打つ機会はなかった。
大学を卒業し就職した1964年(昭和39年)は東京オリンピックが開催され、池田隼人首相(在任1960-64)のもと世をあげて所得倍増計画の路線を突き進んで行く時代であった。
当時サラリーマンのアフターファイブのメジャーといえば何といってもボーリングで、中山律子など女子美人プロボーラーが人気を博し、ボーリング人口の急増でプレーするのに2時間待ちはザラであった。
一方夏になればサラリーマン(当時OLに今日のようにビール等を飲む風潮がなかった)はビルの屋上に開設されるビアガーデンでジョッキー片手に会社仲間と気勢を上げ活力を養ったものである。また手近かなところではマージャンも盛んで、オフィス街にはそこら中に雀荘があって満卓の札が下がることも多かった。
こういう情勢と入社十年後に営業部門へ転勤したことなどもあり、私の囲碁に取り組む姿勢も真剣とはいかず、社内の僅かばかり先輩、同僚とたまに打つ程度であった。
50歳を過ぎてから、勤務する会社が会員となっている日本製薬工業協会、医薬品公正取引協議会の仕事に関与するようになってから業界の囲碁仲間との関係が増え、よく手合わせをするようになった。しかし残念なことに58歳の時私は脳卒中(脳内出血
)で倒れ右半身不随となってしまった。懸命なリハビリと関係する皆様の理解と協力のおかげで、何とか再出発して定年を迎えることができた。
サラリーマンの定年後の生活、生き方はさまざまであろうが、脳卒中でわが身が思うようにならない半身不随の私を救ってくれたのがこの囲碁である。それまでため込んでいた囲碁に関する書籍を引っ張り出して読みあさった。またインターネットのヤフーでの無料対局をすることが気分転換になり暇つぶしにもなった。
障害が多少快方に向かい体力も少しずつ回復しかけた時、家の近くにある佐倉市のコミュニティセンター(コミセン)のシルバールームで、高齢者が毎日集まって囲碁をやっていることを妻が聞きつけてきてそこへ行くように勧めてくれた。お陰で今までに多くの方とも知り合いになることができた。
一方、会社現役時代に知り合った同じ業界の二人の囲碁仲間(A氏、B氏)とは今でもこのコミセンで毎月手合わせをしている。佐倉市に住むA氏とは対戦する前30分間は努めて雑談をするようにしている。また千葉市のB氏とは昼食時間を挟むようにしているので、近くの店で昼食をとりビールを飲みながら、近況や最近の話題などを会話で時を忘れることもある。今や囲碁は私にとって何物にも代えられない生活の一部になっている。
一般的に言って囲碁の効用とはどういうものであろうか。
近年マスコミや書籍等で「囲碁はボケ防止にいい」と推奨されており、また全国の学校でも授業に囲碁を取り入れているところが増えていると聞く。これは囲碁が右脳を使ったゲームであるからだと言われている。右脳は感性、左脳は論理や言語をつかさどる脳で、右脳は使えば使うほど発達する。左脳は年齢とともに衰えていくが、囲碁で右脳を鍛えれば左脳の衰えをカバーできるのだ。囲碁は左脳・右脳が2:8、将棋は5:5、オセロは10:0の割合で脳を使っている。このことは現代の脳科学の研究ではっきり証明されている。
子供はテレビゲームが好きというのも、子供のうちは左脳の方が発達しているからだ。年齢を重ねるにつれて右寄りになって来るので、絵画を見たり、芸術に触れるのが好きになってくる。囲碁はイメージとして、「お年寄り、暗い、古臭い」なんて言われてしまうが、右脳を使うピアノの先生や絵画の先生が囲碁をやり始めると上達は格段に早いようだ。囲碁はそういう意味からすると何歳からでも始められるし、高齢になってから始めても上達するものなのだ。
このようなすぐれた囲碁ゲームの起源と日本ではいつどこでどのように普及してきたのだろうか
囲碁の起源は古代中国で、「春秋時代」(紀元前8世紀)にはかなり普及していた。日本への伝来は奈良朝時代の遣唐使(630―894年に15回成功)によるものとされている。平安朝に入って囲碁は貴族の間で盛んにおこなわれるようになった。「源氏物語」「枕草子」にもその記述があり、当時の文化では必須の教養科目の一つだった。
そして平安、鎌倉時代には武士、僧侶にも広まっていった。戦国時代末期に京都の塔頭(たっちゅう)本因坊に住んでいた日海という僧が織田信長の知遇を得た。その後日海改め本因坊算砂(1559-1623)になり豊臣秀吉が禄を給した。さらに算砂は徳川家康にも使え、1607年ごろ江戸に移り住んだ。
江戸時代になり幕府は碁所を創設し囲碁を奨励した。本因坊家、安井家、井上家、林家の4つの家元は代々にわたり碁所で地位を争い、その結果本家の中国を上回る高度な発展を遂げる。本因坊道策、丈和、秀策らがこの時代の高手として知られている。
明治12年になって方円社が組織され、また幕府の禄を離れ、本因坊秀栄、秀哉と続いた家元とが合同して大正末期に日本棋院が創設される。昭和初期に台湾から来日した呉清源を中心とした新布石時代にはいる。その後、大阪で分立した関西棋院とともに囲碁界の隆盛は今日に至っている。
現在は新聞社主催のタイトル戦が増えており主なタイトル戦は棋聖戦、名人戦、本因坊戦、十段戦、天元戦、王座戦、碁聖戦などがある。
日本の文化に大きな影響を及ぼした囲碁に由来する言葉にはどのようなものがあるのだろうか。
(囲碁由来の日常語)
岡目八目:他人の碁を端で見ていると対局者よりも八目ほども先を読むことが出来る。
「第三者の方が物事の内容・本質を見分けることが出来る」
一目置く:ハンディとして置く。
「自分より優れているものに対して一歩譲ること」
八百長:八百屋の長兵衛が弱い相手と対局するときにわざと勝ったり負けたりしていた。「現在ではお互いが示し合わせた上でやること」
布石:序盤に全体を見通して打つ石。
「将来のため整えておく手はず。“布石を打っておく”」
定石:攻守とも最善とされる決まった形の打ち方
「最も効率がよいやり方とされていること」
下手な考え休むに似たり:下手の長考は時間を浪費するだけで何の効果もない。
優柔不断な相手に「考えても仕方がないから行動しよう、と言うこと」
玄人・素人:平安期では上位者が黒を持っていて、「黒人(こくひと)」と呼ばれたことが始まりで、この音がなまった。逆に白石を持っている方が「白人(しろひと)」とは別の職業でありながら、碁の達人が裸足で逃げだすほどの腕前を指す。
碁盤の目:19線×19線の交差が碁盤の目。
「京都市は碁盤の目のような区画だ」、将棋盤の目のようとは言わない。
活路:石が生きているか、死んでいるかを見極め、石が生きる方法を活路と言う。
そこから転じて「命の助かる道、窮地から逃れる方法を指す」
手抜き:相手の打った手に応じず別の場所へ打つこと。
そこから転じて「やるべきところをやらないこと」
了