エッセイ:ハワイ(2)真珠湾
2009.06
エッセイ:ハワイ(1)ダイアモンド・ヘッドに記述したように、20数年前会社の出張でハワイに行き、PP(汎太平洋)薬学学会に製薬会社の担当者として参加した。
そして狭いハワイオワフ島内をバスツアーの観光を楽しんだが、ツアーの最大のスポットは日本軍の真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナのメモリアルであった。このツアーを選択する米国人特に高齢者には未だに忘れられない屈辱と、「汚いジャップ」というイメージを持ち続けている人もいることも事実であった。
私はせっかくハワイまで来たのにいくら業務出張とはいえこのままで帰国するのはもったいなく、生真面目すぎて少し情けないような気がしたが、ワイキキの海では泳ぐ気にはならなかった。
朝、オワフ島内の観光バスツアーを思いつきホテルのフロントに所要時間の一番短いツアーを申し込んだ。午前中のツアーでホテルの前にバスが来て慌ただしく乗り込んだ。私が最後の客で空いている席は最後部座席であった。バスはほぼ満員で客層は60~70代以上のほとんどが米系人と思える夫婦連れであった。
私はツアーのパンフレットにもろくすっぽ目を通していなかったので、このバスが真珠湾以外のどの観光スポットを案内するのかも認識していなかった。私としては真珠湾を見てくれば目的は果たせると思ったから、他のことはどうでもよかった。
四~五十歳の男性のガイドが前のほうの座席の客とやり取りをしているがそんな会話なんか耳に届かないし、話の内容が飛びまわるので私のヒヤリング力では如何ともしょうがない。
ところが突然ガイドが私に質問してきた。「東京には地下鉄があるのかい」という風に聞こえたので、もちろんあると答えたが、不満そうな顔をしている。後で考えると、どのくらいの地下鉄路線があるのかということらしかった。
良く覚えていないが、観光スポットをいくつか見て戦没者墓地を回るころになると車内の空気が変わってき始めたのに気がついた。そして真珠湾につく頃には客全員が最後部にいる私の方に視線を向けはじめ目つきも変わってきたのに少々驚いた。このバスに乗っている日本人はこの私だけだった。「よく見ておけ、ジャップ、だまし討ち・奇襲攻撃にあった真珠湾の戦艦アリゾナ・メモリアルを見に行くのだ」と客全員の顔にそう書いてあるように思えた。
湾につくと桟橋の周りは観光客の長蛇の列でいっぱいであった。湾を見まわして“アア、これがかの真珠湾か。意外と狭いとこだな、これじゃ日本軍の潜水艦も侵入は無理だ”というのが実感だった。
艀(ハシケ)で対岸の沈没した戦艦アリゾナの慰霊碑に行き世界の要人が献花に訪れると言うことであり、また半世紀以上たつが今でも海面下から重油を流し続けると言う艦内を見て回った。
そこにはアリゾナで戦死した千数百名の兵士の名前が刻みこまれ、日本軍の奇襲攻撃による無残な光景の写真が沢山掲載されていた。引きも切らさぬ訪問者がそれぞれに話している内容はよく分からないが、言葉の端々に“ジャップ”が出てくるのだ。そして寂しいかな黄色の皮膚で黒髪の日本人らしき人には一人も会わなかった。
見学はおよそ30分程度だったであろうが私にはものすごく長く感じた時間だった。もうその頃になると一刻も早くこの場から去りたいという一心であった。ハシケでもとの桟橋にもどりバスに乗ったが客と目を合わせるのも嫌だった。
しかしバスの乗客達も目的の戦艦アリゾナ・メモリアルを見学して精神的にも落ち着いたのかもとの穏やかな表情に戻りつつあるように思えた。バスが私のホテルの前につき降り立ったとき、やれやれ終わったなと感じた長い半日だった。
了
(余談)
さて、日本が真珠湾を攻撃するに至った当時の世界情勢はどうなっていたのか、また日本の置かれていた状況について簡単に述べてみたい。しかしいつの時代でも歴史を客観的に語ることはなかなか難しく、諸説ある中から一応一般的とされているものにしたつもりである。
第二次世界大戦の起因:主として世界恐慌(1929)以来の世界経済の解体とブロック経済間の相克にあると言われている。米国は1920年代には既に英国に代わって世界最大の工業国としての地位を確立しており、第一次世界大戦(1914~1918)の好景気を背景に生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火し世界恐慌へと発展した。
その後恐慌に対する対応として英・仏両国はブロック経済体制を築き、米国はニューディル政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。
しかし広大な植民地市場や資源を持たない独・伊はこのような状況に絶望感と被害者意識をつのらせ、こうした状況を作り上げたヴェルサイユ体制(第一次世界大戦の講和会議、32カ国参加、十四カ条の平和原則)そのものを憎悪した。
ファシズム政権が成立した後の独は再軍備を宣言し、ラインラント(ヴェルサイユ条約の非武装地帯)進駐を皮切りにオーストリアを併合、チェコを解体、最終的にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。
日本の置かれていた状況:日本は第一次世界大戦の戦勝国として民主化と英・米との協調外交を指向していたが、満州、および蒙古の支配権をめぐり次第に対立するようになった。
「満州は日本の生命線」として円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。その後の好景気によって、政党政治よりも軍部の方が頼りになると言う世論が支配的になり、その後の相次ぐ政治家の暗殺、軍部の暴走、さらにはそれを抑制できない政治権力の弱さによって政治そのものが軍事化していった。満州事変後、中国はいったん日本と停戦協定を結ぶもののやがて抗日運動がおこり、日中戦争後の日本は徐々に国際的に孤立していく。
1937(昭和12年)に勃発した日中戦争(日華事変)において日本政府は陸軍の軍事行動を抑えきれなくなって日中の大規模衝突に発展していった。
日本軍は北京、上海などを陥落させ、中華民国の首都南京を陥落させた。蒋介石の国民党が首都を重慶に移し交戦を続けた。一方中国共産党軍(八路軍)も日本軍にゲリラ戦を仕掛け日中戦争は未曾有の長期戦に落ちっていた。
一方日本は当初、ヨーロッパ大戦には不介入の方針をとっていたが、独の快進撃に近衛文麿政権は「バスに乗り遅れるな」として三国同盟(1940年9月)を締結した。
日本は1940年、徹底抗戦を続ける中華民国政府の補給ルートを断つために仏印インドシナへ進駐した。これに対しアメリカは在米日本資産を凍結、石油、鉄の全面輸出禁止を発令、これにイギリス、オランダが同調しABCD包囲陣が出来あがり緊張の一途をたどった。
日本側は近衛首相と日米首脳会談の早期実現を望んだが米国は拒否し、それを最後通牒とみなした日本の答は真珠湾攻撃であった。
第二次世界大戦の原因は必ずしも一つではないが、日本の場合、ヴェルサイユ会議において人権平等案を提議したものの拒否されたり、米国で日系移民が排斥されたりしたことに対する人種的な怒りも加わった。
近衛内閣の総辞職の後を継いで対米戦争を望む東条英機は帝国国策遂行要領を決定し、御前会議で承認された。以降大日本帝国陸海軍は、1941年12月8日を開戦予定日として対米・英・蘭戦争の準備を本格化していった。
米国の対応:ヨーロッパでは1939年ポーランドにナチスのドイツ軍が侵攻したことによって第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には西ヨーロッパの多くがドイツの占領下になり、仏も降伏した。
米国内では第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱えヨーロッパでの戦争に対し不干渉を望む声が多く、イギリスのチャーチルの再三の催促にもかかわらずルーズベルトは欧州戦線に介入できない状況にあった。
ルーズベルトは世界大戦に米国を巻き込みたくなかったが、連合国を助け日本の侵略を阻止したかったのである。
そんな中、ドイツと同盟関係にあり中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めて来た。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となるとともに、第一撃を日本に加えさせることで、米国内の孤立主義を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えた。
ルーズベルトは「相手が仕掛けてくるまで我々は待たなくてはならない。」といい、日本が先制攻撃をするように仕向けた。「米国民の全面的な支持が得られるし、誰の目にも侵略者は誰であるかがはっきりするからだった」
アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していた。ルーズベルトは真珠湾の奇襲を知っていたが、わざと現地将軍には知らせずそのままにしていたのだ(反対の説もある)。
真珠湾攻撃:1941年(昭和16年)11月26日、択捉島(エトロフ)の単冠湾(ヒトカップ)に集結していた第一航空艦隊(南雲機動部隊)は駆逐艦を先頭に空母6隻(九七式艦上爆撃機、ゼロ式艦上戦闘機の計355機)、戦艦2隻、巡洋艦3隻、潜水艦(特殊攻撃艇)、補給船など合計30隻の大艦隊でハワイオワフ島の真珠湾を目指して出撃した。
日本時間12月8日(3:42)暗号電文「新高山登れ1208(ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ」が山本五十六連合艦隊司令長官から洋上の全機動部隊に打電された。
作戦は空母から飛び立った一次攻撃(183機、損失機9機)に現地時間7:40に全軍突撃命令が下り、予期していた敵戦闘機の反撃もなく、停泊中の米戦艦などを猛攻撃しさらに飛行場への機銃操作も加えた。
そして二次攻撃隊(167機、損失機20機)には8:58に突撃命令が下ったが、体制を立て直した敵からの反撃もあり味方の被害も一次攻撃隊よりも大きかった。第二次攻撃隊がハワイシティを空爆し一瞬で火の海になる。米戦闘機400機が撃ち落とされる。石油タンク貯蔵庫撃破、整備用ドッグほとんどを撃破し第二次攻撃隊は10:30に攻撃を終了した。
また狭い湾と浅い水深を考慮して作戦に投下した日本の特殊潜航艇5隻(10名中9名戦死、1名捕虜:日本人捕虜第一号になる)が攻撃され撃沈されはしたが、成功を伝えた暗号「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」が打電されたのである。
米軍の被害は戦艦アリゾナが魚雷、爆弾が命中し爆薬に引火、沈没(乗員1178名死亡)した。戦艦オクラホマが大爆発、戦艦ペンシルベニア爆撃で爆発、戦艦ウエストバージニア魚雷で大破、戦艦メリーランド大爆発を起こし大破など8隻が魚雷、爆弾で損傷をうけ沈没した。
そのうち6隻は水深が浅かったこともあり、復旧され太平洋戦争後期には活躍したのである。しかも肝心の米空母はこの日本軍攻撃の際に湾内にはいなかったので攻撃を受けずに無傷のまま残り、その後の戦闘で戦艦よりも重要な役割を持つことを証明したのである。
ルーズベルトにとってはこの日本の奇襲は参戦の口実になった。日本のだまし討ちとされ、米議会は攻撃の翌日に宣戦布告を発したのだ。当時のアメリカ国内では足並みがそろっていなかったが、3000名の将兵が死んでこの日を「屈辱の日」と名づけ、「リメンバー・パールハーバー」というスローガンが掲げられ、アメリカ国民は戦争の道へと結束していった。
完
2009.06
エッセイ:ハワイ(1)ダイアモンド・ヘッドに記述したように、20数年前会社の出張でハワイに行き、PP(汎太平洋)薬学学会に製薬会社の担当者として参加した。
そして狭いハワイオワフ島内をバスツアーの観光を楽しんだが、ツアーの最大のスポットは日本軍の真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナのメモリアルであった。このツアーを選択する米国人特に高齢者には未だに忘れられない屈辱と、「汚いジャップ」というイメージを持ち続けている人もいることも事実であった。
私はせっかくハワイまで来たのにいくら業務出張とはいえこのままで帰国するのはもったいなく、生真面目すぎて少し情けないような気がしたが、ワイキキの海では泳ぐ気にはならなかった。
朝、オワフ島内の観光バスツアーを思いつきホテルのフロントに所要時間の一番短いツアーを申し込んだ。午前中のツアーでホテルの前にバスが来て慌ただしく乗り込んだ。私が最後の客で空いている席は最後部座席であった。バスはほぼ満員で客層は60~70代以上のほとんどが米系人と思える夫婦連れであった。
私はツアーのパンフレットにもろくすっぽ目を通していなかったので、このバスが真珠湾以外のどの観光スポットを案内するのかも認識していなかった。私としては真珠湾を見てくれば目的は果たせると思ったから、他のことはどうでもよかった。
四~五十歳の男性のガイドが前のほうの座席の客とやり取りをしているがそんな会話なんか耳に届かないし、話の内容が飛びまわるので私のヒヤリング力では如何ともしょうがない。
ところが突然ガイドが私に質問してきた。「東京には地下鉄があるのかい」という風に聞こえたので、もちろんあると答えたが、不満そうな顔をしている。後で考えると、どのくらいの地下鉄路線があるのかということらしかった。
良く覚えていないが、観光スポットをいくつか見て戦没者墓地を回るころになると車内の空気が変わってき始めたのに気がついた。そして真珠湾につく頃には客全員が最後部にいる私の方に視線を向けはじめ目つきも変わってきたのに少々驚いた。このバスに乗っている日本人はこの私だけだった。「よく見ておけ、ジャップ、だまし討ち・奇襲攻撃にあった真珠湾の戦艦アリゾナ・メモリアルを見に行くのだ」と客全員の顔にそう書いてあるように思えた。
湾につくと桟橋の周りは観光客の長蛇の列でいっぱいであった。湾を見まわして“アア、これがかの真珠湾か。意外と狭いとこだな、これじゃ日本軍の潜水艦も侵入は無理だ”というのが実感だった。
艀(ハシケ)で対岸の沈没した戦艦アリゾナの慰霊碑に行き世界の要人が献花に訪れると言うことであり、また半世紀以上たつが今でも海面下から重油を流し続けると言う艦内を見て回った。
そこにはアリゾナで戦死した千数百名の兵士の名前が刻みこまれ、日本軍の奇襲攻撃による無残な光景の写真が沢山掲載されていた。引きも切らさぬ訪問者がそれぞれに話している内容はよく分からないが、言葉の端々に“ジャップ”が出てくるのだ。そして寂しいかな黄色の皮膚で黒髪の日本人らしき人には一人も会わなかった。
見学はおよそ30分程度だったであろうが私にはものすごく長く感じた時間だった。もうその頃になると一刻も早くこの場から去りたいという一心であった。ハシケでもとの桟橋にもどりバスに乗ったが客と目を合わせるのも嫌だった。
しかしバスの乗客達も目的の戦艦アリゾナ・メモリアルを見学して精神的にも落ち着いたのかもとの穏やかな表情に戻りつつあるように思えた。バスが私のホテルの前につき降り立ったとき、やれやれ終わったなと感じた長い半日だった。
了
(余談)
さて、日本が真珠湾を攻撃するに至った当時の世界情勢はどうなっていたのか、また日本の置かれていた状況について簡単に述べてみたい。しかしいつの時代でも歴史を客観的に語ることはなかなか難しく、諸説ある中から一応一般的とされているものにしたつもりである。
第二次世界大戦の起因:主として世界恐慌(1929)以来の世界経済の解体とブロック経済間の相克にあると言われている。米国は1920年代には既に英国に代わって世界最大の工業国としての地位を確立しており、第一次世界大戦(1914~1918)の好景気を背景に生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火し世界恐慌へと発展した。
その後恐慌に対する対応として英・仏両国はブロック経済体制を築き、米国はニューディル政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。
しかし広大な植民地市場や資源を持たない独・伊はこのような状況に絶望感と被害者意識をつのらせ、こうした状況を作り上げたヴェルサイユ体制(第一次世界大戦の講和会議、32カ国参加、十四カ条の平和原則)そのものを憎悪した。
ファシズム政権が成立した後の独は再軍備を宣言し、ラインラント(ヴェルサイユ条約の非武装地帯)進駐を皮切りにオーストリアを併合、チェコを解体、最終的にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。
日本の置かれていた状況:日本は第一次世界大戦の戦勝国として民主化と英・米との協調外交を指向していたが、満州、および蒙古の支配権をめぐり次第に対立するようになった。
「満州は日本の生命線」として円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。その後の好景気によって、政党政治よりも軍部の方が頼りになると言う世論が支配的になり、その後の相次ぐ政治家の暗殺、軍部の暴走、さらにはそれを抑制できない政治権力の弱さによって政治そのものが軍事化していった。満州事変後、中国はいったん日本と停戦協定を結ぶもののやがて抗日運動がおこり、日中戦争後の日本は徐々に国際的に孤立していく。
1937(昭和12年)に勃発した日中戦争(日華事変)において日本政府は陸軍の軍事行動を抑えきれなくなって日中の大規模衝突に発展していった。
日本軍は北京、上海などを陥落させ、中華民国の首都南京を陥落させた。蒋介石の国民党が首都を重慶に移し交戦を続けた。一方中国共産党軍(八路軍)も日本軍にゲリラ戦を仕掛け日中戦争は未曾有の長期戦に落ちっていた。
一方日本は当初、ヨーロッパ大戦には不介入の方針をとっていたが、独の快進撃に近衛文麿政権は「バスに乗り遅れるな」として三国同盟(1940年9月)を締結した。
日本は1940年、徹底抗戦を続ける中華民国政府の補給ルートを断つために仏印インドシナへ進駐した。これに対しアメリカは在米日本資産を凍結、石油、鉄の全面輸出禁止を発令、これにイギリス、オランダが同調しABCD包囲陣が出来あがり緊張の一途をたどった。
日本側は近衛首相と日米首脳会談の早期実現を望んだが米国は拒否し、それを最後通牒とみなした日本の答は真珠湾攻撃であった。
第二次世界大戦の原因は必ずしも一つではないが、日本の場合、ヴェルサイユ会議において人権平等案を提議したものの拒否されたり、米国で日系移民が排斥されたりしたことに対する人種的な怒りも加わった。
近衛内閣の総辞職の後を継いで対米戦争を望む東条英機は帝国国策遂行要領を決定し、御前会議で承認された。以降大日本帝国陸海軍は、1941年12月8日を開戦予定日として対米・英・蘭戦争の準備を本格化していった。
米国の対応:ヨーロッパでは1939年ポーランドにナチスのドイツ軍が侵攻したことによって第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には西ヨーロッパの多くがドイツの占領下になり、仏も降伏した。
米国内では第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱えヨーロッパでの戦争に対し不干渉を望む声が多く、イギリスのチャーチルの再三の催促にもかかわらずルーズベルトは欧州戦線に介入できない状況にあった。
ルーズベルトは世界大戦に米国を巻き込みたくなかったが、連合国を助け日本の侵略を阻止したかったのである。
そんな中、ドイツと同盟関係にあり中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めて来た。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となるとともに、第一撃を日本に加えさせることで、米国内の孤立主義を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えた。
ルーズベルトは「相手が仕掛けてくるまで我々は待たなくてはならない。」といい、日本が先制攻撃をするように仕向けた。「米国民の全面的な支持が得られるし、誰の目にも侵略者は誰であるかがはっきりするからだった」
アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していた。ルーズベルトは真珠湾の奇襲を知っていたが、わざと現地将軍には知らせずそのままにしていたのだ(反対の説もある)。
真珠湾攻撃:1941年(昭和16年)11月26日、択捉島(エトロフ)の単冠湾(ヒトカップ)に集結していた第一航空艦隊(南雲機動部隊)は駆逐艦を先頭に空母6隻(九七式艦上爆撃機、ゼロ式艦上戦闘機の計355機)、戦艦2隻、巡洋艦3隻、潜水艦(特殊攻撃艇)、補給船など合計30隻の大艦隊でハワイオワフ島の真珠湾を目指して出撃した。
日本時間12月8日(3:42)暗号電文「新高山登れ1208(ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ」が山本五十六連合艦隊司令長官から洋上の全機動部隊に打電された。
作戦は空母から飛び立った一次攻撃(183機、損失機9機)に現地時間7:40に全軍突撃命令が下り、予期していた敵戦闘機の反撃もなく、停泊中の米戦艦などを猛攻撃しさらに飛行場への機銃操作も加えた。
そして二次攻撃隊(167機、損失機20機)には8:58に突撃命令が下ったが、体制を立て直した敵からの反撃もあり味方の被害も一次攻撃隊よりも大きかった。第二次攻撃隊がハワイシティを空爆し一瞬で火の海になる。米戦闘機400機が撃ち落とされる。石油タンク貯蔵庫撃破、整備用ドッグほとんどを撃破し第二次攻撃隊は10:30に攻撃を終了した。
また狭い湾と浅い水深を考慮して作戦に投下した日本の特殊潜航艇5隻(10名中9名戦死、1名捕虜:日本人捕虜第一号になる)が攻撃され撃沈されはしたが、成功を伝えた暗号「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」が打電されたのである。
米軍の被害は戦艦アリゾナが魚雷、爆弾が命中し爆薬に引火、沈没(乗員1178名死亡)した。戦艦オクラホマが大爆発、戦艦ペンシルベニア爆撃で爆発、戦艦ウエストバージニア魚雷で大破、戦艦メリーランド大爆発を起こし大破など8隻が魚雷、爆弾で損傷をうけ沈没した。
そのうち6隻は水深が浅かったこともあり、復旧され太平洋戦争後期には活躍したのである。しかも肝心の米空母はこの日本軍攻撃の際に湾内にはいなかったので攻撃を受けずに無傷のまま残り、その後の戦闘で戦艦よりも重要な役割を持つことを証明したのである。
ルーズベルトにとってはこの日本の奇襲は参戦の口実になった。日本のだまし討ちとされ、米議会は攻撃の翌日に宣戦布告を発したのだ。当時のアメリカ国内では足並みがそろっていなかったが、3000名の将兵が死んでこの日を「屈辱の日」と名づけ、「リメンバー・パールハーバー」というスローガンが掲げられ、アメリカ国民は戦争の道へと結束していった。
完