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板の庵(いたのいおり)

エッセイと時事・川柳を綴ったブログ : 月3~4回投稿を予定

エッセイ:「ハワイ(2)真珠湾」

2011-12-27 20:29:43 | エッセイ
エッセイ:ハワイ(2)真珠湾
  2009.06

エッセイ:ハワイ(1)ダイアモンド・ヘッドに記述したように、20数年前会社の出張でハワイに行き、PP(汎太平洋)薬学学会に製薬会社の担当者として参加した。
そして狭いハワイオワフ島内をバスツアーの観光を楽しんだが、ツアーの最大のスポットは日本軍の真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナのメモリアルであった。このツアーを選択する米国人特に高齢者には未だに忘れられない屈辱と、「汚いジャップ」というイメージを持ち続けている人もいることも事実であった。

私はせっかくハワイまで来たのにいくら業務出張とはいえこのままで帰国するのはもったいなく、生真面目すぎて少し情けないような気がしたが、ワイキキの海では泳ぐ気にはならなかった。

朝、オワフ島内の観光バスツアーを思いつきホテルのフロントに所要時間の一番短いツアーを申し込んだ。午前中のツアーでホテルの前にバスが来て慌ただしく乗り込んだ。私が最後の客で空いている席は最後部座席であった。バスはほぼ満員で客層は60~70代以上のほとんどが米系人と思える夫婦連れであった。

私はツアーのパンフレットにもろくすっぽ目を通していなかったので、このバスが真珠湾以外のどの観光スポットを案内するのかも認識していなかった。私としては真珠湾を見てくれば目的は果たせると思ったから、他のことはどうでもよかった。
四~五十歳の男性のガイドが前のほうの座席の客とやり取りをしているがそんな会話なんか耳に届かないし、話の内容が飛びまわるので私のヒヤリング力では如何ともしょうがない。
ところが突然ガイドが私に質問してきた。「東京には地下鉄があるのかい」という風に聞こえたので、もちろんあると答えたが、不満そうな顔をしている。後で考えると、どのくらいの地下鉄路線があるのかということらしかった。

良く覚えていないが、観光スポットをいくつか見て戦没者墓地を回るころになると車内の空気が変わってき始めたのに気がついた。そして真珠湾につく頃には客全員が最後部にいる私の方に視線を向けはじめ目つきも変わってきたのに少々驚いた。このバスに乗っている日本人はこの私だけだった。「よく見ておけ、ジャップ、だまし討ち・奇襲攻撃にあった真珠湾の戦艦アリゾナ・メモリアルを見に行くのだ」と客全員の顔にそう書いてあるように思えた。

湾につくと桟橋の周りは観光客の長蛇の列でいっぱいであった。湾を見まわして“アア、これがかの真珠湾か。意外と狭いとこだな、これじゃ日本軍の潜水艦も侵入は無理だ”というのが実感だった。
艀(ハシケ)で対岸の沈没した戦艦アリゾナの慰霊碑に行き世界の要人が献花に訪れると言うことであり、また半世紀以上たつが今でも海面下から重油を流し続けると言う艦内を見て回った。
そこにはアリゾナで戦死した千数百名の兵士の名前が刻みこまれ、日本軍の奇襲攻撃による無残な光景の写真が沢山掲載されていた。引きも切らさぬ訪問者がそれぞれに話している内容はよく分からないが、言葉の端々に“ジャップ”が出てくるのだ。そして寂しいかな黄色の皮膚で黒髪の日本人らしき人には一人も会わなかった。
見学はおよそ30分程度だったであろうが私にはものすごく長く感じた時間だった。もうその頃になると一刻も早くこの場から去りたいという一心であった。ハシケでもとの桟橋にもどりバスに乗ったが客と目を合わせるのも嫌だった。
しかしバスの乗客達も目的の戦艦アリゾナ・メモリアルを見学して精神的にも落ち着いたのかもとの穏やかな表情に戻りつつあるように思えた。バスが私のホテルの前につき降り立ったとき、やれやれ終わったなと感じた長い半日だった。

                            


(余談)
さて、日本が真珠湾を攻撃するに至った当時の世界情勢はどうなっていたのか、また日本の置かれていた状況について簡単に述べてみたい。しかしいつの時代でも歴史を客観的に語ることはなかなか難しく、諸説ある中から一応一般的とされているものにしたつもりである。

第二次世界大戦の起因:主として世界恐慌(1929)以来の世界経済の解体とブロック経済間の相克にあると言われている。米国は1920年代には既に英国に代わって世界最大の工業国としての地位を確立しており、第一次世界大戦(1914~1918)の好景気を背景に生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火し世界恐慌へと発展した。
その後恐慌に対する対応として英・仏両国はブロック経済体制を築き、米国はニューディル政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。
しかし広大な植民地市場や資源を持たない独・伊はこのような状況に絶望感と被害者意識をつのらせ、こうした状況を作り上げたヴェルサイユ体制(第一次世界大戦の講和会議、32カ国参加、十四カ条の平和原則)そのものを憎悪した。
ファシズム政権が成立した後の独は再軍備を宣言し、ラインラント(ヴェルサイユ条約の非武装地帯)進駐を皮切りにオーストリアを併合、チェコを解体、最終的にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。

日本の置かれていた状況:日本は第一次世界大戦の戦勝国として民主化と英・米との協調外交を指向していたが、満州、および蒙古の支配権をめぐり次第に対立するようになった。
「満州は日本の生命線」として円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。その後の好景気によって、政党政治よりも軍部の方が頼りになると言う世論が支配的になり、その後の相次ぐ政治家の暗殺、軍部の暴走、さらにはそれを抑制できない政治権力の弱さによって政治そのものが軍事化していった。満州事変後、中国はいったん日本と停戦協定を結ぶもののやがて抗日運動がおこり、日中戦争後の日本は徐々に国際的に孤立していく。

1937(昭和12年)に勃発した日中戦争(日華事変)において日本政府は陸軍の軍事行動を抑えきれなくなって日中の大規模衝突に発展していった。
日本軍は北京、上海などを陥落させ、中華民国の首都南京を陥落させた。蒋介石の国民党が首都を重慶に移し交戦を続けた。一方中国共産党軍(八路軍)も日本軍にゲリラ戦を仕掛け日中戦争は未曾有の長期戦に落ちっていた。

一方日本は当初、ヨーロッパ大戦には不介入の方針をとっていたが、独の快進撃に近衛文麿政権は「バスに乗り遅れるな」として三国同盟(1940年9月)を締結した。
日本は1940年、徹底抗戦を続ける中華民国政府の補給ルートを断つために仏印インドシナへ進駐した。これに対しアメリカは在米日本資産を凍結、石油、鉄の全面輸出禁止を発令、これにイギリス、オランダが同調しABCD包囲陣が出来あがり緊張の一途をたどった。
日本側は近衛首相と日米首脳会談の早期実現を望んだが米国は拒否し、それを最後通牒とみなした日本の答は真珠湾攻撃であった。

第二次世界大戦の原因は必ずしも一つではないが、日本の場合、ヴェルサイユ会議において人権平等案を提議したものの拒否されたり、米国で日系移民が排斥されたりしたことに対する人種的な怒りも加わった。
近衛内閣の総辞職の後を継いで対米戦争を望む東条英機は帝国国策遂行要領を決定し、御前会議で承認された。以降大日本帝国陸海軍は、1941年12月8日を開戦予定日として対米・英・蘭戦争の準備を本格化していった。

米国の対応:ヨーロッパでは1939年ポーランドにナチスのドイツ軍が侵攻したことによって第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には西ヨーロッパの多くがドイツの占領下になり、仏も降伏した。
米国内では第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱えヨーロッパでの戦争に対し不干渉を望む声が多く、イギリスのチャーチルの再三の催促にもかかわらずルーズベルトは欧州戦線に介入できない状況にあった。
ルーズベルトは世界大戦に米国を巻き込みたくなかったが、連合国を助け日本の侵略を阻止したかったのである。

そんな中、ドイツと同盟関係にあり中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めて来た。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となるとともに、第一撃を日本に加えさせることで、米国内の孤立主義を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えた。
ルーズベルトは「相手が仕掛けてくるまで我々は待たなくてはならない。」といい、日本が先制攻撃をするように仕向けた。「米国民の全面的な支持が得られるし、誰の目にも侵略者は誰であるかがはっきりするからだった」

アメリカの情報機関は日本の暗号を解読していた。ルーズベルトは真珠湾の奇襲を知っていたが、わざと現地将軍には知らせずそのままにしていたのだ(反対の説もある)。

真珠湾攻撃:1941年(昭和16年)11月26日、択捉島(エトロフ)の単冠湾(ヒトカップ)に集結していた第一航空艦隊(南雲機動部隊)は駆逐艦を先頭に空母6隻(九七式艦上爆撃機、ゼロ式艦上戦闘機の計355機)、戦艦2隻、巡洋艦3隻、潜水艦(特殊攻撃艇)、補給船など合計30隻の大艦隊でハワイオワフ島の真珠湾を目指して出撃した。
日本時間12月8日(3:42)暗号電文「新高山登れ1208(ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ」が山本五十六連合艦隊司令長官から洋上の全機動部隊に打電された。
作戦は空母から飛び立った一次攻撃(183機、損失機9機)に現地時間7:40に全軍突撃命令が下り、予期していた敵戦闘機の反撃もなく、停泊中の米戦艦などを猛攻撃しさらに飛行場への機銃操作も加えた。
そして二次攻撃隊(167機、損失機20機)には8:58に突撃命令が下ったが、体制を立て直した敵からの反撃もあり味方の被害も一次攻撃隊よりも大きかった。第二次攻撃隊がハワイシティを空爆し一瞬で火の海になる。米戦闘機400機が撃ち落とされる。石油タンク貯蔵庫撃破、整備用ドッグほとんどを撃破し第二次攻撃隊は10:30に攻撃を終了した。
また狭い湾と浅い水深を考慮して作戦に投下した日本の特殊潜航艇5隻(10名中9名戦死、1名捕虜:日本人捕虜第一号になる)が攻撃され撃沈されはしたが、成功を伝えた暗号「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」が打電されたのである。

米軍の被害は戦艦アリゾナが魚雷、爆弾が命中し爆薬に引火、沈没(乗員1178名死亡)した。戦艦オクラホマが大爆発、戦艦ペンシルベニア爆撃で爆発、戦艦ウエストバージニア魚雷で大破、戦艦メリーランド大爆発を起こし大破など8隻が魚雷、爆弾で損傷をうけ沈没した。
そのうち6隻は水深が浅かったこともあり、復旧され太平洋戦争後期には活躍したのである。しかも肝心の米空母はこの日本軍攻撃の際に湾内にはいなかったので攻撃を受けずに無傷のまま残り、その後の戦闘で戦艦よりも重要な役割を持つことを証明したのである。

ルーズベルトにとってはこの日本の奇襲は参戦の口実になった。日本のだまし討ちとされ、米議会は攻撃の翌日に宣戦布告を発したのだ。当時のアメリカ国内では足並みがそろっていなかったが、3000名の将兵が死んでこの日を「屈辱の日」と名づけ、「リメンバー・パールハーバー」というスローガンが掲げられ、アメリカ国民は戦争の道へと結束していった。






エッセイ:「ハワイ(1)ーダイアモンド・ヘッド」

2011-12-27 20:26:53 | エッセイ
エッセイ:   ハワイ(1)―ダイヤモンド・ヘッド

     2009.06 
  
メキシコ発の豚インフルエンザ(A新型)が突如世界を震撼させたが、パニックに陥ったのは日本だけだったようだ。特に舛添大臣が連日マスコミに一人登場し、またTV局も事態の深刻さを強調、国内のマスクの在庫不足を深刻に報道する。WHOが弱毒菌であると報道しているにもかかわらず、やれ抗新型インフル薬のタミフル、リベンザ(いずれも国外製薬会社開発)の在庫が足りない、さらには国内のワクチン生産が間に合わないなど悲観的なことを言うばかりだった。幸いなことに新型インフルはほぼ鎮静化して来たので国民もやっと一安心だ。

このエッセイは私が外資系の製薬会社に勤めていた40歳後半の頃(20年以前)を思い起こして書いたものである。
「パン・パシフィック(P.P.)薬学会」(汎太平洋薬学国際学会)が2年毎に参加各国の持ち回りで開催されており、我々日本の製薬会社もこれに加担していた。日本側の事務局は某私立大学付属病院の薬剤部K教授が取り仕切っていた。特にこのK教授からにらまれたら製薬企業としても大事(おおごと)になると言われていたが、社内の組織変更に伴い私が前任者と交替でこの窓口担当者になった。各製薬会社にとっては大したメリットもないのに多額の賛助金を払わされて、このPP学会開催の際に自社製品の展示ブースを設営していたのである。幸か不幸か私がPP学会の窓口担当になってから、シンガポール、ソウル、そしてハワイの3学会に出張する機会が訪れたのである。

ある年の夏、ハワイで開催されたPP学会に各製薬会社の担当者ともにワイキキビーチのそばの学会会場でもある立派なホテルにチェックインした。あこがれのハワイ旅行が実現して早速ビーチに出てみたが、海は紺碧色と言えず想像していたほどでもなかった(私の想像していたのはサンゴ礁の透き通るような海であった)。
朝だったか夕方だったか覚えていないが、人気のない砂浜で複数の男性が何かもぞもぞ探しているので近くに寄ってみると、金属探知機で砂浜に落ちているかもしれないコインを探していたのだ。日本ではこのような光景は見たことがなく趣味かアルバイトか知らないがその作業に感心してしまった。

PP薬学会は薬学の専門家が研究内容を英語で発表するもので私には全く分からない。学会は確か三日間だったと思うが夜には“JAPAN NIGHT”と称して立食パーティに余興を含むが懇親会が各国の参加者を招待して開かれた。大変楽しいパーティで招待者された各国のメンバーも我々日本の製薬会社の担当者も大いに堪能したが、その費用は全て日本側が持ちで何のことはない製薬会社の賛助会費がそれに充当されていたのである。

ハワイまで来てこんなホテルの中に閉じこもっていても面白くないし意味がない、出張に行かせてくれた会社に対して申し訳ないと思った(?)。
そしてワイキキビーチから見える象徴的なダイヤモンドヘッド(DH)はどういうものか確かめたいと思った。早速ビーチの一番端にあるホテルから真昼の気温最高の時に地図も飲料水ももたずに短パンとTシャーツ姿でワイキキビーチを後に、ひたすらDHが見える方角に歩き始めた。

けっこう湿度があり昼間の暑さは尋常ではなく、飲み物やチョコレートなどを携帯しなかった自分の軽率な行動に気がついたが遅かった。途中ブーゲンビリヤの花が鮮烈に咲き誇るカピオラニ・パークの中を横切って行ったが公園にはほとんど人影はなかった。間もなくダイヤモンドヘッド・ロードに入り先に向かってどんどん歩く、もうこのあたり来ると人家はなく車もほとんど通らない。

しばらく行くと島の先端部になったのか左側はDHではない別の山の麓らしく崖が切り立ち、顔を上げても左半分の空は見えなくなっていた。右側を見ると今歩いているDHロードから30~50メートル下にきれいな海がみえ始めた。波は大きく高く、大勢のサーファーが波乗りを楽しんでいた。やはり本場だな、日本の湘南海岸や九十九里の海岸とはスケールが違うなあ、とうっとり見とれてしまう。

出発して一時間半も歩いただろうか、暑さでのどが渇き、汗は塩辛く全身にまとわりつく、まさに脱水症状一歩手前になってきたが水が飲める民家らしきものは現れない。30分も歩くとようやく人家らしきものが数軒見えてきたがアメリカ人の家に水乞いをする気にはなれなかった。

さらにしばらく歩くと事務所風の家があり人影はなく、道路に面した芝生の上で散水用スプリンクラーがくるくる回り、半径数メーターで水が飛び散っているのを見つけた。その時にはやっと水にありつけた喜びに夢中でそのスクリンクラーの傍にかけよった。
ところがこの水をどうやったら飲めるのだろか、スプリンクラーは5~6秒で一周するので私の前を通過する時間は0.数秒である。しかも水の飛んでくる方向に口を開けて待つのだから私の体に水がモロに飛んでくるのである、と言うことはびしょ濡れになると言うことだ。
そんなことを考えている場合ではない、とにかく水を飲みたい、水が飛んでくると思しき距離に立ち大きな口を開けて回ってくるのを待った。水が顔の方に飛んできたと思ったら通り過ぎていき口の中にはほとんど水は入らなかった。
もう一度やると開けた口に当たったと思ったらもう水はない、ものすごい水圧で口の中に命中しても水がはじき出されてしまうのだ。
わずかに口の中に残った水も塩っぱくてまずいのである。何回もトライしてやっと水を飲んだと言う気分になった時、頭の上から足の先まで水でずぶ濡れになってしまった。
幸い人も通らず車も来ないのでそのままで歩いていたら強烈な日光で乾燥してしまった。

ところでDHは何処にあるのか、本当に行けるのかと内心不安になってきた。
しばらく進むと私の歩いている道の左の山側に歩いている逆方向に鋭角に山に上がっていく約10%勾配ぐらいの坂道があるではないか。
なんとなく予感がしたので私はその道を登って2~300メートルほど行くとトンネルがあり、入口にある柵は空いたままになっていた。トンネルの長さは200メートルぐらいあったであろうか、街灯もなく暗くあの暑さが嘘のように涼しいド中をキドキしながら先の出口の方へ早足で進んだ。

やっとトンネルを出るとそこは正に私が目指したダイヤモンド・ヘッドの火口の中であったのだ。そして暑さと疲れと目的地に到達したという安ど感でしばらくの間はボーと立ちすくんでいた。それから近くのベンチに座り込んで放心状態で火口全体や地形を瞼に焼き付けようとまわりをぐるりと見渡した。
そして日本人でここを訪れた人は少なくとも一般観光人ではいないのではないかという誇らしい思いであった。

私は熊本県にある阿蘇山の中岳に3~4回登山したことがあり噴火口を上からのぞいた。今私が立っているこのDHは、中岳の噴火が休止して噴火口が土砂で埋まり平らになったいわゆる月の表面にあるクレータのような形をしていた。火口内の大きさは楕円形ではあるがおおよそ直径が500メートルぐらいであろうか。トンネルから入って道路の右側半分が米軍のキャンプであり、中が見えるが高いフェンスが張り巡らされていた。中は建物や数台の軍用トラックはあるのだが人気はなくDHの火口の中には私以外に誰もいないのである。あまりの静けさに多少の不気味さを感じた。

そうしているうちに少し腹が痛み始めた。何だろうと思っているうちにキュッと刺すような痛みになり、便を催してきたのだ。慌てて見まわすとトイレはすぐそばにあったので安心したが、紙を持っていなかったのでこれには困った。腹の痛みは限界を超えている、見回すと雨風に打たれ変色した新聞紙の破片が落ちていたのでそれを掴んで急いでトイレに駆け込んだ。危ないところで間一髪セーフであった。

トイレのそばには水道があり水が出たので、手と顔を洗ってすっきりするともう一度水を飲み直した。私が推測するに来る途中で飲んだスプリンクラーの水が悪かったのではないかと思った。そして時間も大分経ち腹が減って来たので帰路についた。そしてもと来たトンネルの中に入る前に二度と来ないであろうダイヤモンド・ヘッドの火口を目に焼き付けようと振り返った。

DHを探索出来たという達成感で帰りの足鳥は軽かった。元来た道ではなくDHを一周するであろう道を歩き、間もなくするとワイキキビーチを見下ろす住宅街に出、商店街に入ると餃子、ラーメンの看板があるではないか。
忘れかけていた空腹感とのどの渇きを覚え店に飛び込んだ。幸いなことに店主は日本人であり、私はまず餃子を注文してそのあとすぐビールを一本頼んだ。ところが「ビールはありません」と言われてガクーンと力が抜けた。ところが店主に「ビールは隣のコンビニで買ってきて飲んで下さい」と言われ、ビールの持ち込みがOKであることを確かめてカンビールを買ってきた。
腹は減っているし喉は渇いているし、餃子もビールも日本で飲食したものより数段美味しく感じたことを覚えている。

以上


エッセイ:「黒いダイヤ」

2011-12-27 20:22:59 | エッセイ
エッセイ: 黒いダイヤ
  2009.08

ダイヤモンドといえば、言うまでもなく宝石の中の宝石として光り輝き、ご婦人方には古今東西を問わず憧れの的であろう。
この地球上でもっとも硬い物質でその結晶は多くが8面体であり、無色透明のものほど価値が高いとされている。1905年南アフリカで発見された原石「カリナン」は3106カラットもあり、それをカットして105個の宝石が得られたそうだ。ところで現在研磨済みで世界最大のダイヤモンドは544.67カラットあり、タイ王室に秘蔵されているそうだが、できればTVの映像でよもよいから一度見てみたいものである。

今年7月22日に皆既日食が観測され、太陽が隠れた直後に太陽の光が一か所だけ漏れ出て輝く瞬間のダイヤモンドリングを私もTVにかぶり付きで見たが、その美しさは想像を絶するものであった。
もちろんTVの撮影技術、機材の進歩などに負うところも大きいのだろうが、宇宙の神秘さからくるその輝きは本物のダイヤモンドとは一味も二味も違って見えたのは私だけであろうか。
ちなみに日食は月の影に入った地域でしか観測できないが、地球全体では頻繁に起きている現象なのだそうで、私の認識不足であった。次の皆既日食は2035年9月2日、能登半島と茨城県を結ぶ一帯で見られるそうだ。そのためには私は93歳まで目が見える状態で長生きしなければならないがそんな欲も自信もない。

ダイヤモンドを冠にした言葉には、黒いダイヤは「石炭」、赤いダイヤは「小豆」、白いダイヤは「シラスウナギ(ウナギの稚魚)」、黄色いダイヤは「数の子」などあるが、いずれも商品取引での儲け話の喩であり、ダイヤモンドの光の屈折が歪んでいるように感じられるのだが。

地球は46億年前に誕生し、その後幾多の変遷を繰り返し、古生代(2~3億年前)には群生した巨大植物が地中に埋もれ、長い期間地熱や地圧を受けて変質したものが石炭である。
人類は産業革命などこの150~200年余り、黒いダイヤ「石炭」から多大な恩恵を受けて来た。近年地球温暖化問題やコスト、利便性等で石炭の使用量は減ってきているが、まだまだ相当の期間にわたり使用は続くと思う。

現代の世界は正に資源獲得競争時代にあると言える。天然ガスも石油も数十年の埋蔵量しかないのに比べて、石炭は150年以上の埋蔵量があると言われている。資源のない日本では石炭は有事の場合に自給可能な唯一の燃料でもある。
しかし明治以降全国800か所で採掘された炭鉱も、現在は釧路炭鉱の一か所だけになりまさにさびしい限りである。これは日本の農業、食料の自給自足と同じ問題であり、石炭は完全に外国に依存する体質になってしまったのである。

私は34~40歳の6年間(1970年代)転勤で北九州市に居を構えて営業の仕事に携わった。北九州市に隣接する筑豊地区は炭鉱町として知られるところであり、部下と一緒にいくつかの病院を訪問したものだ。中でも一番大きい病院はかの有名な麻生太郎氏の関係する飯塚病院でベッド数は千床ぐらいあった。
私が赴任した頃には筑豊地区に戦後最盛期には150あった炭鉱はすでに無くなっていた(1976年に貝島炭鉱閉山、宮田)。そして五木寛之の「青春の門」に出てくるボタ山が残されただけの廃れ行く地域になっていた。筑豊本線を含む多くの石炭を運び出す支線も大赤字路線と化していた。

筑豊炭田は福岡県の中央部から北部にかけて広がる炭田である。室町時代の中期ごろ住民が石炭を発見し、薪より効率のよい燃料として用いたとされている。さらに江戸時代中期頃(1700年代)から石炭は製塩の燃料として用いられたようだ。

私は佐倉市内で「おやじの食事学」というサークルで料理を学んでいるが、時には焼きそば、焼き魚などを屋外で炭を使って焼くことがある。高級な備長炭でなくても、炭に火をつけることは大変難しく市販の着火剤を使用するくらいである。ましてや硬い石炭となると着火することが当時は大変なことではなかったかと思うのである。

1901年(明治33年)に八幡製鉄所(現新日本製鉄)が操業を開始すると、石炭の需要が増加、生産量が増大し、三菱財閥や麻生太吉(麻生総理の祖祖父)などの炭鉱開発参入により筑豊地区は我が世の春を迎えた時期であった。

ところでこの貴重な石炭を命がけでほった炭工夫の待遇はどうであったのであろうか。
明治30年ころの抗夫の一日の平均賃金は50~60銭、白米一升の値段は14銭であったようだから、現在白米が5キロで三千円前後であるから日当は数千円にしかならず極めて低賃金であったのである。
その上炭鉱事故以外に、毎日暗い坑道に入り、炭塵を吸って仕事をしていけば、否が応でも結核や脚気などの病気にとりつかれ、一生を終わった人は数知れずいたことだろう。いつの時代でもこうした不遇の人の犠牲のもとに世の中が成り立っているのである。

                                了




エッセイ:寿命

2011-12-27 20:21:19 | エッセイ
エッセイ:寿命

 2009.11.17   

今年、私の卒業した高校の同窓生幹事から訃報のメールが4通届いた。幹事曰く、「何故か今年は3年4組ばかりの訃報である(私のクラスである)」と。改めてそういう歳になったのだと思って50年前に別れた元気で愛くるしい仏の顔を思い出して合掌した。
私は10年前脳溢血で倒れ一度は死んだ身であるが、あの時死んでおれば今頃極楽浄土(?)で暮らせたのに、幸か不幸か私にはまだ現世での寿命があったのかなーあと思っている。

当時きんさん、ぎんさんは記録的な長寿で話題となり、100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ国民的なアイドルとして慕われた。
日本には現在100歳以上のお年寄りが約4万人いるそうで(男:5,500人、女:35,000人)もう珍しいことでもなんでもなくなったようだ。日本人の平均寿命は2009年7月には男79.29歳、女86.05歳となり世界でトップの長寿国(2005年平均寿命82.3歳)である。

ところが100歳以上の老人を人口比率で日米を比較すると米国の方が高いのである。大方の日本人は医療の進歩と健康的な伝統食「和食=伝統食=健康食」を食べているから日本の方が高いと考えているかもしれない。
しかしこれは思い込みであって、今現在我々が「和食」だと思って食べているものにはけっこう日本の伝統食ではない舶来ものが多い。例えば天ぷら、すき焼き、カレーライスも然りであり、さらにハム、ソーセージ、ハムバーグ、チーズなどの日本の伝統食でないものが日本を長寿国にした「恩恵食」ではないだろうか。

明治時代から終戦までの日本の平均寿命は30~40数歳代であったが、1950年(昭和30年)になって50歳を超えいわゆる「人生五十年」を迎えたのである。ちなみに同時期の米国の平均寿命は50~60歳代から70歳近くにあった。
この原因は日本の相対的な貧困と食料不足すなわち栄養失調に悩まされていたため、免疫力低下に伴う感染症(風邪、肺炎、結核等)や脳卒中、脚気などによる死亡率が極めて高かったのである。日本では大正時代には10歳までに約25%が死亡していたそうである。

ところで日本の昔(江戸時代、室町時代、縄文時代)の平均寿命は何歳ぐらいだったのであろうか。
江戸時代の全国規模の生命表はないが宗門開帳といった資料で大まかな推測ができ、それらによるとおよそ30歳である。乳幼児の死亡が全体の7割以上(死因:飢餓、病気、事故等)を占めていた。したがって江戸時代には藩により違いはあるが7歳ぐらいにならないと、人別帳(昔の戸籍)に記載されなかったようだ。しかし生き延びて成人した者の平均死亡年齢は50歳を超えていたようである。

また室町時代(14~16世紀)の平均寿命は24歳(15~19歳時の平均余命16.8年)ぐらいと推定されている。これをみると当時いかに乳幼児の死亡率が高かったかということである。

縄文時代(BC.10世紀~)では平均寿命については遺跡から出土した人骨を調べて寿命の推定が行われている。それによると縄文時代の平均寿命は15歳(15歳時の平均余命16年)である。これはあくまでも統計上の数字であって平均寿命15歳だと子孫を残せないことになってしまう。当然この時代では人口の増加は緩やかなものになっていた。

たくさん出産しても乳幼児の間に次々に死んでしまう、したがって古来人間は疫病除けのための神を求めいろんな信仰にすがってきたと言える。今日でも全国各地で行われている祭祀、行事の中にはこの厄除けに原型を見るものが多くある。

そこで次に政治家、為政者の寿命を昭和時代(戦後)、江戸時代、室町時代、鎌倉時代ついてみてみる。
戦後の総理大臣経験者のうち他界した人の年齢を合計しその人数で割ってみると平均の寿命は82歳である。この年齢は現在の日本男性の平均寿命を3歳ぐらい超えているのである(統計学上3歳の差は大きい)。
 その中でも戦後の最初の総理大臣(昭和20年8月)になった東久邇宮稔彦王(ヒガシクニノミヤ、ナルヒコオウ)は唯一皇族出身であり、在任期間はわずか54日と総理大臣としては最も短命であったが、皇族を離脱して後102歳まで存命であった。食料事情が良かったのか、DNAの問題なのかは別にして驚きである。
それに続くのが佐藤栄作(94歳)、岸信介(91)、片山哲(91歳)、福田赳夫(90歳)である。偶然かもしれないが、佐藤、岸の兄弟が長寿なのはDNAが関係していたのだろうか。

江戸時代の徳川将軍15代では平均の寿命は53歳である。徳川最後の15代将軍慶喜が最長命で77歳であった。江戸幕府を起こした家康侯は東照大権現様として75歳まで生きたのである。これに対し最短命は7代将軍の徳川家継で8歳であった。「7歳で婚約して8歳で没した将軍」として知られている。

室町幕府の足利将軍15代では平均の寿命は38歳である。15代将軍の足利義昭が最長命で61歳まで生きた。最短命は7代将軍の足利義勝で10歳であった。また幕府を起こした足利尊氏は54歳で没した。

鎌倉幕府の北条執権16代では平均の寿命は44歳である。初代執権の北条時政が最長命で78歳であった。最短命は4代執権の北条経時で23歳であった。

現在でこそ40、50歳は若造の扱いを受けることもあるが、つい60年前までの人生は本当に短かったのである。享年49歳で本能寺に散った織田信長の好んだ「幸若舞」の一節「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり、一度生を受け滅せぬ者のあるべきか」を記して筆を置くこととする。

                        了



エッセイ:上京

2011-12-27 20:19:14 | エッセイ
エッセイ: 上京
  2009.07  

 C62蒸気機関車が牽引する急行「高千穂号」の“ボーー”という長い汽笛音とともに、シリンダー、煙突から吐き出す蒸気音の繰り返しが次第に早くなる。
これから東京に到着するまで25~6時間ひたすら退屈さと尻・腰の痛さに耐えなければならないのだ。これが1960年(昭和35年)宮崎県延岡市から東京の大学に入学後、夏休み、冬休み、春休み毎に4年間続いた行事であった。

*(終戦当時、戦時物資運搬用機関車のD51、D52は大量に在籍・過剰で、一方旅客用機関車は不足していた。GHQは新型製作を認めず、貨物用機関車を旅客用機関車に転用するため、D51をC61、D52をC62にいずれも特急、急行をけん引する目的で改造する。C=3駆動輪、D=4駆動輪)

*(国鉄の戦後復興は早く1956年(昭和31年)には東海道本線(東京~神戸)は完全に電化され、電車特急「こだま」を7時間20分で走らせていた。)

九州の東側を走る日豊本線ではこの時分にはまだ蒸気機関車の急行で隣の県の大分駅まで4時間を要する。しかも山岳地帯を走るのでトンネルばかり、上りこう配では石炭をカマに入れるため黒煙は窓を閉めても車内に入り臭くなる。トンネルを出て窓を開けるとすぐに、汽笛が“ボー”と次のトンネルを知らせ、その数は私の記憶では90ヶ所近かったと思う。

ミカンの産地で有名な津久見駅でミカンを一袋買い求め(季節外には冷凍ミカン)、乗車して4時間の大分まではトンネルとの戦いでそこそこ気が張っておりまだ元気がある。
途中にはスケールは小さいが美しいリアス式海岸の入江を眼下に眺めながら、最近とみに有名になった関アジ、関サバの水揚げされる佐賀関(現大分市)の近くを過ぎて行く。

大分駅つくと牽引する機関車の取りえや乗務員の交代が行われる。キリシタン大名大友宗麟が君臨したところで、駅前の宗麟像をはじめザビエルや伊藤マンショらの像が散見される町である。夏であればまだ薄明るく20分もすると国内の温泉では最も湯量の多い別府に到着する。小学校6年生の時、この別府に初めて修学旅行に来たことを思い出す。今はその存在さえもわからないが、楽天地の名称であこがれの的であった遊園地に行ったこと覚えている。海産物も美味しいが味噌仕立て「だごじる」(団子汁)は大分の名物であるが、素朴な味がこたえられない絶品である。

さらに1時間半すると中津に到着する。ここからは耶馬渓線で菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」に出てくる「青の洞門」のある絶景の耶馬渓にでる。

*(四国の佐多岬と九州の佐賀関半島の間に位置する豊後水道の早い潮流の中に生息するアジ、サバを一本釣りしたものを関アジ、関サバと称する。サバ1本4000円の値がつく)
*(福沢諭吉:1835年中津藩士として生まれる。大阪の蘭学者、緒方洪庵の適塾で学ぶ。1860年咸臨丸で渡米、途中パナマで蒸気機関車に乗る。帰国後「西洋事情」などを通じて啓蒙活動を開始。1862年渡欧、スエズ~カイロ間で、さらにマルセイユ~パリ間でも蒸気機関車に乗る。維新後蘭学塾を慶応義塾と名づけて教育活動に専念する)

延岡から関門トンネルを通過して本州(下関駅)に辿りつくまでに約7時間を要したのだから今考えると気の遠くなるような話である。上京の折には母はその日の夕食と翌日の朝食さらに昼食の三食を持たせてくれた。三食とも中身は同じ弁当であるが、少しでも無駄な費用を使わせまいとする親心と愛情を感じた。

本州に入るとさすがに車内は静まり車掌も“深夜になりましたので明朝まで車内放送は中止させていただきます。”とその間の駅の到着時間、乗り換えなどを車内放送した。
当時の急行列車の普通座席は現在の列車のようなリクライニングではなく、90度(直角)の背モタレがラシャのような布で覆われている程度でクッション性はなく、眠れたものではない。尻・腰は痛くなり、首は凝り、足はむくんでくる。これが冬であれば暖房が利きすぎて汗をかき、何度も眼がさめ、一晩中ウト、ウトしている状態であった。
さすがに、背に腹は代えられぬと乗客の中には大胆に通路や座席の下に新聞紙を敷き横になって眠る人も出てくる。

上京も正月明けなどであると、西鹿児島発の急行高千穂号がわが南延岡駅に到着した時には既に座席は満席で悲惨なことになる。当然通路やデッキで立ったり座ったりの繰り返しで東京まで行くことになる。運が良ければ大阪や名古屋で降りる客がいて座れることもあった。夜中にトイレに行くためには通路に寝ている客の上を跨いでいく。男性はともかく女性にとっては悲劇である。混雑がひどい場合には乗客がトイレの中にも入っていることがある。たまに男性は分からないようにビールビンの中に小便をすることもあった。

山陽本線での所要時間は約9時間、明石駅(日本標準時JST,東経120度)あたりで朝を迎えるが、東海道本線の終点である神戸駅(5番線の距離標・キロポストに東京起点589K340Mと記載がある)を過ぎて大阪駅につくと電気機関車の入替や乗務員の交代、食堂車の補給などで、数分の停車時間がとってある。乗客の方もエコノミック症候群ではないが、もう座席に座っておれないとばかり、プラットフォームに飛び出して行く。そこには水道の蛇口がたくさんついた鏡付きコンクリートの洗面所が数ヵ所あり顔を洗い、歯を磨き、タオルを濡らして首を拭き、さらに指先にタオルを巻いて鼻の穴を掃除すると真黒なばい煙の汚れが取れる。柔軟体操で体をほぐして列車の発車ベルが鳴るまで時間をつぶすのだ。

電気機関車に牽引された列車が走り出すと、乗客も朝食をとり始める。これからあと9時間だ、もうひと踏ん張りだと自らに言い聞かせて大阪駅を後に山崎の竹林、遠くに天王山など京都までの景色を堪能する。京都駅では「八つ橋」などのお土産を売りに来るが当時そういう高級菓子には手が届かなかった。
京都で思い出すのは、一年生の夏休みの帰省時浪人中のK君を尋ね京都見物をしたが、暑さは過去に経験のないもの凄いものであったこと、またその足で大阪にM君(彼とは今でもメールで連絡を取り合っている)を尋ねたことを覚えている。

 *(「本能寺の変」で秀吉は中国の毛利討伐前に備中高松城を攻める途中で講和し、有名な「中国大返し」を行う。1582年6月23日(旧暦)、明智軍と山崎で対峙、天王山を抑えた秀吉軍が圧勝し、光秀は落ちのびる途中、小栗栖(おぐるす、伏見)で落ち武者狩にあい自刃する)

京都駅を発して山科のトンネルを出るとそこは琵琶湖が広がる大津駅である。1889年(明治22年)に米原を経由する湖東線が開業するまでは、この大津から対岸の長浜(約60キロ)までを太湖汽船の連絡船で代用していた。
大津駅から膳所(ぜぜ)、石山、瀬田を過ぎると琵琶湖は全く見えなくなるが、この先米原駅までの近江八幡、安土、彦根などは歴史に多く出てくる土地である。

列車は米原から琵琶湖を離れるように東に向かい、関ヶ原駅に進み中山道の狭隘な谷に入っていくが、関ヶ原の戦いは駅北西側の谷で繰り広げられた。

 *(彦根の佐和山城は1590年豊臣5奉行の一人石田三成が入城、その善政で領民から慕われていた。関ヶ原の戦後「徳川四天王」の一人伊井直政が入城、三成の威光を払拭するため彦根城築城を計画したが死去。嫡子直継が佐和山城などの築材を使って1606年に築城し佐和山城は廃城となる。1860年桜田門外の変で暗殺された大老伊井直弼は13代彦根藩主)

 *(1600年9月15日(旧暦)、東軍の家康は西軍の小早川秀秋が陣取る松尾山に威嚇射撃を命じた。動転した秀秋は即座に出撃命令を出し、西軍の大谷吉継の陣目がけて殺到、これに呼応するかのように西軍を離反する隊により大谷軍は崩され吉継は自刃した。その後の戦いで西軍は敗れ伊吹山方面に逃げ総崩れとなった。双方8万余の東軍、西軍の天下分け目の大合戦もわずか1日で決着がついた。)
                                                      
関ヶ原から大垣駅までは東海道本線最大の急勾配(下り坂)である。大垣駅は東京~大垣間を結んだ「ムーンライトながら」(09年3月中止)の終着駅であった。この駅からは金生山の石灰輸送のための美濃赤坂支線5キロが分岐する。
岐阜は歴史上の地域であり、長良川の鵜飼を筆頭に金華山の麓の旧岐阜街が斎藤道三や織田信長の城下町として栄えたところで見どころである。

列車は愛知県に入り尾張一宮に入る。尾張一宮は戦前から毛織物が盛んで全国の二分の一を生産していた。大戦で空襲にあい工場は壊滅的打撃を蒙ったが、戦後昭和25年の朝鮮特需で息を吹き返した。高度経済成長がまだ地方に及ばない時代に、現金収入を得るために全国から中学卒の「金の卵」が集団就職をしてきたのである。私もこの集団就職列車に同級生を見送りに行ったことがある。
昭和50年代から東南アジアとの競争が激化、東南アジア進出などにより現在は毛織物工場もほとんど廃止されてしまったようだ。

名古屋まで来ると気分的にはホーッとする。これから後は昼飯でも食べてぼんやりと景色でも眺めていれば東京に到着するのだと自分を奮い立たせる。
列車は止まらないが三河安城を過ぎる。中学校時代私が好きだった社会科で勉強した安城は“日本のデンマーク”として酪農がとみに有名であったことを記憶する。しかし現在の安城市は名古屋、豊田などの企業、工場へ通勤するベッドタウンになっているようだ。

徳川家康の出生地として有名な岡崎を通過、豊橋に入る。豊橋はちくわと路面電車で有名である。

*(岡崎城1452年に砦として築城、1542年城内で竹千代(家康)が生まれる。当時は城の体をなしていないほど貧素なもので、1549年今川家の支城として城代が置かれた。1560年桶狭間の戦いで今川義元が廃死すると、松平元康(徳川家康)は今川から独立。1570年には家康は浜松城に移城する。
1590年家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。家康に対する抑えの拠点として、吉政は城を拡張、強固な石垣や城壁を用いた城に整備した。また東海道も岡崎城下町の中心を通るように変更した。1602年以降徳川譜代大名が歴代の城主を務めている)

*(現在全国で走っている路面電車:札幌市、函館市、東京都、藤沢市・鎌倉市、豊橋市、富山市、高岡市・射水市、福井市、大津市、京都市、大阪市・堺市、岡山市、広島氏、松山市、高知市・南国市、北九州市・直方市、長崎市、熊本市、鹿児島市)

やがてウナギで有名な浜名湖から遠州灘に通じる間の鉄橋を渡り浜松に至る。左右のどちらを見ても波静かな水面で広々とした景色を見渡せる。浜名湖のウナギの漁獲量は1980年から減り続け、現在は最盛期の三分の一になっている。養鰻業のほかにスッポン(全国70%)も盛んだ。特産品に鰻丼、ウナギボーン、うなぎパイなどがある。

*(浜松は“日本の楽都”と言われ、楽器産業が盛んでピアノはほぼ100%を占める。ホンダの創業の地であり、ヤマハ、スズキの三社でオートバイの60%を占める)

焼津は静岡県の中部に位置し、良質で豊富な地下水、駿河湾深層水、便利な交通などで現在では食品、化学などの工場が多い。また水産業では焼津港に水揚げされる漁獲量はマグロが全国一位、サバは三位である。

*(深海魚として一般に食するものとしてサメのフライが好評である。アカザエビ、タカアシガニ、タチウオ、キンメなど地元でしか食べられないものもある。
また駿河湾深層水は日本一深い687メートルから採水しており、化粧品、入浴剤、飲料、ミネラル抽出など様々な応用が試されている)

静岡、清水を過ぎると万人が期待する富士山が見え始めるころで、乗客の動作も心なしか進行左側に目線がいきはじめる。見えるか否かは全て天気次第であるが、晴れの日でも富士山の周辺には雲がかかり期待はずれも度々であった。
 興津を過ぎると列車は「薩た峠」の駿河湾の海岸ぎりぎりを通り過ぎる。富士山は列車の進行方向の正面となり、左カーブするので富士山は進行右側になり海越えに見えるようになる。安藤広重の浮世絵で有名な「左富士」(上り列車からは右富士となる)はこの付近の情景を描いたものだ。

沼津までは富士山を進行左側そして左後方に見ることができる。沼津から分岐する御殿場線は1934年(昭和9年)の丹那トンネルができるまでは東海道本線であった。

*(沼津市は水産業で焼津市を抜き静岡県最大の規模を誇る。沼津港の周辺には水産加工業者が集積している。県全体の漁獲量のサバ80%、マダイ、ハマチは100%であり、珍しい深海魚もが漁獲される)

いよいよ三島、熱海を過ぎ神奈川県の小田原、横浜まで来る。

*(1872年(明治5年)に新橋―横浜間に鉄道が走った頃の、初代横浜駅(現桜木町)は帷子川(かたびら)河口の湿地帯でホーム脇の水路にボラの大群が泳いでいたと記されている。二代目駅は高島町付近に赤レンガ造り建てられたが関東大震災で倒壊し、三代目で現在地に移転された)

品川あたりから列車はゆっくり山手線の電車と並行して走り、徐々にオフィス街と高いビルが押し寄せてくる。およそ16:30に終着駅東京駅に急行高千穂号は到着、まさに上京したのである。ここから、下宿先の調布市までさらに一時間を要するので、大丸百貨店の地階にあった東京温泉(昭50年頃銀座に移転)に入浴料2~300円払って疲れを癒して行ったこともある。

*(1914年(大正14年)手狭になった新橋駅に代わって東京駅が開業した。幕府の役所や大名屋敷が置かれていた場所で、当時三菱財閥によって新しいオフィス街へと開発されつつあった。ここに鉄骨・レンガ造り三階建て、全長300メートル、奥行き20~40メートルが建てられた。日露戦争戦勝記念とも言えるもので6年の歳月を要した。空襲で焼け落ちて修復されたが、現在のものは二階建てであり、JRはH23年度までに大正時代の姿に復元する予定である)