アイ!サラマッポ in バギオ

フィリピン人介護者のケアを受けながらの、フィリピンでのインディペンデント・リヴィング…、心の赴くまま、ここに記します。

バギオ市100周年特集-9月3日が「フィリピン日本友好の日」(バギオ)に…。

2009-09-03 21:03:55 | フィリピン-バギオ

 一昨日9月1日の「バギオ市100周年記念日」の朝は、すっきりと晴れわたり、青空の下、祝賀パレードが8時少し前にスタート。100本のフィリピン国旗と100本の100年祭フラッグを先頭に、バギオ市の各バランガイ(自治体)、各団体や学校が次々に行進しました。が、やはりこの土地独特の山岳民族「イゴロット-Igorots」(コーディリエラン-Cordilleran)の衣装に音楽、ダンスがひと際目を引きました。大きな山車もいくつか出て、花園バギオをアピールしていました。日系人・日本人コミュニティは、浴衣等を身に着けて39番目に登場しました。
 
雨季の最中ということもあり、沿道の観客は、2月末のフラワーフェスティバルのパレードと比べても、思ったより少ないようでした。
 
(バギオ市100周年祝賀パレード-1日朝のテレビ中継)
 9月1日は「The Baguio Day」(市祭)で、パレードは毎年あります。

 そして、今日9月3日。64年前に、旧日本軍フィリピン総司令官山下奉文陸軍大将が、ここバギオ市で「降伏文書」に署名した日です。これまで「山下将軍降伏の日」と呼ばれ、事実上フィリピンにおける対日戦勝の日である訳ですが、今年のバギオ市100年祭を契機に、その名称が「比日友好の日」(バギオ)と改められることになるそうです。
 そんな意義深い日に、バギオ・コンベンション・センターで、『ケノン・ロード』(演劇・ミュージカル)が公演されました。その副題にも「世界平和と調和への道」とあるように、国や人種の違いを認め合い、共存を模索する中で、バギオ市がより繁栄し、より平和な共生社会へ向かっていくように、との願いが込められて企画されたものでした。忌わしい過去を乗り越えて…。
 会場は劇場ではありませんから、音響から照明の舞台作り、セッティングetc.に、スタッフの方々はさぞ苦労されたことでしょう。バギオ市の大学生、市民も加わっての、3ステージにわたる熱演でした。日比国際平和演劇祭実行委員会(JAPITAC)の皆様、お疲れ様でした。
 また、この演劇祭を通して知り合ったという、日本人の男優と劇に参加したバギオの女性が、めでたく結婚する運びとなったことも劇の最後に発表され、驚きました。(劇のシナリオではなく、本当なのですよね…。)「9月3日」の象徴的な出来事でした。お幸せに!

(関連記事)
 9月3日が「フィリピン・日本友好の日」(in バギオ)に! (7月24日)

 戦争の記憶と心の傷跡-フィリピンにおける太平洋戦争 (3月29日)

 

※ このブログのカテゴリー「バギオ」の記事も今日で「101」…バギオの未来がより明るく豊かなものとなることを祈ります。

 

 
(いつもながら、たくましいイゴロット族・Igorotsの、ふんどしのようなバハッグ姿の男子学生。)

  
(祝日でにぎわいを見せる憩いの場「バーンハム公園」で、ジェンさん、マリアさんと…。奥にホセ・リサール公園、その向こうにバギオ市庁舎-1日お昼過ぎ)
 
 
(公園の真ん中にあるバーンハム池-この直後、大粒の雨が…。)

 
(夜のバギオ市100周年祝賀パーティーで挨拶するバウティスタ市長-1日夜@バギオ・カントリー)
 予定では、7時半に始まるはずのフルコースのディナー…。(わずか)30分遅れで始まったものの10時を過ぎても終わらず…。いつも食べ慣れないもの?を口にしたせいか、途中で私のお腹が痛み出し…。デザートと、遅れて一緒に出てきたメイン・ディッシュを介護者が食べ終わってすぐに家路へと…。

 
お腹をこわしてしまった私は、昨日は家でのんびり過ごしました。そして、介護者の二人が近くでまたワラビをゲッツ!ここグリーン・バレーで初めてワラビを見つけて以来、ここ半年間ずっと…!(不思議…。)
 
(9月に入っても見事なワラビ-蕨が!新聞の広告もセンテニアル…。)


(追記・2011年8月)

この記事内の、山下奉文将軍がバギオで降伏文書に署名した「9月3日」(1945)を、2009年のバギオ市制100年祭を契機に、バギオにおける『比日友好の日(Filipino - Japanese Friendship Day)』に…、という話でしたが、その後いろいろな経緯で、バギオ市においても『日比友好の日・7月3日』に落ち着いようです。