胃癌日記 2.スキルス胃癌の手術がすんで退院までの入院生活
12月10日(土)
手術翌日。朝8時50分にY先生の回診。様子を聞かれ殆ど寝れなかったことを言う。但し、人のこと(非難)は一切言わず。痛いこと、喉がガラガラのことのみ。9時45分に再度Y先生回診。どうやら先生の口癖のようだが『まあいいでしょう。』と言われる。10時15分に歩いて病室の803号室に戻る。
NAさんKさんに挨拶。
「どんどん歩くように。動いて血行が良くなれば術後の回復にも良い。」
と先生に言われ、歩くように心がける。
午後2時頃連れ合い、次女が来る。その後長女も来て、いろいろ話す。3時30分頃長女帰る。7時30分頃には連れ合い、次女も帰る。その後午後9時20分T先生回診。
「○○ちゃん。全部きれいに取ったからな。ちゃんと仕事にも戻れるよ。」
と言って励ましてくれる。今日は土曜日だ。『先生こそいつ休んでるんですか。身体に気をつけてください。』と言いたかった。
Nさんがイヤホーンなしでテレビをつけていて、『うるさいなあ』と思っていたら、Kさんが
「テレビを消してください。」
と、注意をした。
絶飲食3日目。本日歩き680歩(フロア1周170歩×4周)。
12月11日(日)
朝6時に目が覚める。2時間に1度くらいで目が覚めてはいろんな思いが駆け巡り、一晩中良く寝られなかった。朝8時50分Y先生が回診。その後10時40分にT先生も回診にやってきた。今日は日曜日だ。T先生もY先生も、その熱心さには頭が下がり、尊敬する。
T先生の回診の後、看護師さんがやって来て、身体を清拭してくれた。手術後初めての清拭で、温かくて気持ちが良かった。
じっとしていると、腰や背中、臀部など体中が痺れてきてやがて痛くなってくる。かといって寝返りをうったり、起き上がろうとしたりすると手術の傷にピリピリと響き、思わず身体が防御反応を起こす。うっとおしくて節々が痛く、だるくて辛い。入院前には沢山本を読もうと思っていたが、とても本など読む気にならない。テレビのニュースかワイドショーを見るのがせきのやま。
ベッドの上で悶々としていたら午後2時20分頃、連れ合いがやってきた。いろいろ喋ったりまどろんだりして時間を過す。私は飲めず食えずだから、しんどい。命の元の栄養は、1日6本の点滴。6時40分頃、連れ合いは家へと返った。
絶飲食4日目。本日歩き1020歩。(フロア2周×3回・1周170歩)
12月12日(月)
6時頃目覚める。目覚めるといっても昨夜同様、2時間に1度くらい目覚めて、さらには腰や背中の痺れや痛さ、身体を動かせば傷口の疼痛で、辛い。しかし、何とか頑張って7時20分には歩いてフロアを2周。
ベッドに戻り寝転んでいると8時50分にY先生の回診。Y先生は月曜日午前中は外来を担当されているから、外来前の回診。
「まあいいでしょう。ウリスロドレナージも止めましょう。」
と言った。ウリスロドレナージとは抗生剤か?身体は辛くても少しでも回復に繋がっていくことは、励みになる。
10時40分、今日の清拭は本日から実習に入って、私を担当する2名の看護学生。N高等看護学校の2年生でKさんとMさん。実習の練習台になるのは一向に構わないが、陰部の清拭などは自分でした。その後11時過ぎには2人一緒に部屋にやって来て、実習の一環として私のことをヒアリング。
午後1時20分連れ合いがやってきた。暫くして、兄夫婦も見舞いにやってきた。兄は、病室に辿り着くまであちこちと経路に迷ったとのこと。
「何も悪いことしてへんのに、えらい目におおたわ。」
「昔は悪いことしてたから、罰が当たったんや。」
など、取り留めの無い話をしていたが、
「今は癌の手術いうても、昔で言う盲腸の手術みたいなもんや。」
とか言って、気持ちを休めてくれる。いろいろ話しているうちに、だんだんと痰が絡んでくるようになってきた。全身麻酔の呼吸管の挿管の後遺症に、飲まず食わずで体中、呼吸器系も乾燥し痰が硬くなって出にくく、自分で吐き出せない。1時間30分位いろんな話をして、兄夫婦は帰った。6時30分連れ合いも帰る。連れ合いが帰る少し前に、手術後始めてガスが少し出た。
やがて夜になってくると痰が絡んで大変になってきた。咳やえずきで猛烈に苦しい。喉の奥のほうに固い痰があり、出そうと思って咳をすると傷口に直接響いてきて、疼痛を通り越して激痛に近い。それでも傷口を両側から押さえて咳をし、痰を少しでも上に出そうとする。喉の奥に出てきて吐き出そうとすると、えずいて嘔吐反応でオエーッとなり、それがまた傷口に猛烈に響いてきて、その痛さで涙が出てくる。少しずつ痰の「カケラ」をティッシュペーパーで拭っていると、一晩で一箱以上ペーパーを使ってしまった。ペーパーをごみ入れに捨てるのに身体を反転する。これがまた痛い。術後3日目にして、猛烈な『痰との闘い』になってきた。
絶飲食5日目。本日歩き1,360歩(フロア2周2回+4周1回)
12月13日(火)
6時30分目が覚める。
8時40分にはT先生、Y先生が回診に来て、背中から挿管してある麻酔のチューブを抜く。麻酔のチューブを抜いても、「痛み」を別段感じるわけでも無かった。
「痰がつらい。痰との闘いです。」
と先生に言うと、吸入をしてみようとのこと。ただ、吸入をしたからといって痰が止まるとか、楽に吸出せるというわけではないとのこと。カチカチの痰が柔らかくなるので少し楽になるかと言うことらしい。
10時過ぎには同室のK氏が結腸癌の手術をおえ、一晩の回復室から歩いて病室に戻ってきた。辛いだろうと気を遣い、話しかけることは無かった。やがて奥さんがやってきた。
10時30分頃看護師さんが実習生とともにやってきて清拭。本日をもって尿の管も抜管した。これからはおしっこもトイレで出来る。すっきりとして気持ちが晴れ晴れとした。まだ膵液を出すチューブと点滴はつけたままだが、それでも少しずつの回復の幸せ感が膨らんでくる。
清拭が終わると再び実習生が2人でやって来て、本日もヒアリング。本日のヒアリングは、課題が課せられているのか、緊張している様子で一生懸命だが空回りして、通り一遍のことしか聞けてない。私のほうから、山や家族のこと、遍路のこと、自分の脳動脈瘤クリッピング手術から最近の社会保障や若者の雇用状況の話、私のブログの話などしてあげた。
午後2時過ぎに連れ合いが来る。抜管もして少し気が晴れたこと、実習生とのヒアリングで冗談も入れていろんな話をしてあげたことなどを話ながら、手術前の緊張や自分のこれからの残された人生への「立ち向かい」のことなど、自覚はしてなかったけれどずっしりと気持ちの上にのしかかっていた鉛のような「重し」から、少しずつ開放されてきているのかな、と、ふと思った。
5時前に吸入。6時に連れ合い帰る。9時前に2度目の吸入。
吸入のおかげか、夜中の痰は少し楽になってきた。しかし、吐き出すことが出来ない。相変わらず、一生懸命口まで吸い上げようとするが、嘔吐反応でオエーッとなり、そのときには傷口が痛い。この夜も、一晩でティッシュペーパー1箱以上が空になった。
絶飲食6日目。本日歩き1,530歩(2周×1、3周×1、4周×1)
12月14日(水)
朝6時35分目覚める。
本日も8時40分にはT先生、Y先生の回診。痰のことを聞かれて、少しは楽になったが、どうしても吸い上げられないことなど話す。
午前11時過ぎに、本日年休の長女Mが着替え等の荷物を届けに来て、直ぐに出て行く。
午後2時半、連れ合いとMが一緒に病室へやってくる。3時過ぎに吸入。4時35分孫の迎えやらでMが先に帰る。5時過ぎには連れ合いも帰る。8時に吸入。
夜、大分楽になってきた。今晩は痰が絡まず、夜中に目覚めることも無くよく寝られた。
絶飲食7日目。本日歩き2,040歩。(3周×4)
12月15日(木)
朝6時30分目が覚める。40分にトイレに行き、頑張ったら、手術後初めて少しだけ大便が出た。先生や看護師さんからしょっちゅう『出たか、出たか』と聞かれており、少し安心。腸が機能している証となるのだろう。
10時25分清拭。11時過ぎ吸入。本日は連れ合いは来れないとのこと。気が抜けたようで少し寂しいが、子供でもないし、致し方ない。
同室のN氏が、午後に退院した。鼠径ヘルニアで手術はそんなに大きな手術ではなかったようだ。午後3時吸入。9時35分にも吸入。その後トイレに行ったが、本日2度目の大便が出た。殆ど液状の中に、塊がポツポツと。絶飲食なのに何なんだろう。本日の夜中は、痰のほうは少し楽になってきた。水分が飲めるようになると、多分、痰のほうも楽になるのだろうと思う。
絶飲食8日目。本日歩き2,720歩。(2周×1、4周×2、6周×1)
12月16日(金)
朝7時に目覚める。本日で手術から1週間。手術前の何ともいえぬ緊張感や自分の残された人生への閉塞した思い込みから、少しずつ気持ちがリラックスしてきて、余裕が出てきているような感じがする。
8時過ぎにトイレに行き少し頑張ると大便が出た。やはり少しの固形物混じりの水様便。8時40分T先生回診後、56分Y先生の回診。Y先生の口癖の
「まあ、いいでしょう。」
の後、今日は水を1日500ml飲んで良いという許可が出て、Nクリニックで貰っていた高血圧等の薬の再開も許可となった。更には、手術の腹部切開部の上部を跋鈎することとなった。跋鈎はチクチクする程度で痛くも無いし、たとえ上半分とはいえ、むしろ気持ちが軽くなり『快感』でさえある。
早速売店に行き、ポカリスエットを仕入れてきて、一口『恐る恐る』飲んでみた。『美味い!!』至福の味だ。何ともいえない。これで痰との戦いも終息する・・・。この調子なら、まもなく外出許可か、と期待する。同室のK氏は術後1週間たたずに本日跋鈎をした。水、重湯も昨日から摂っていて、私は少し焦ってはいたが何とか追いついた。やはり腸の手術のほうが、胃と比べて多少回復が早いのか。
午後12時40分連れ合いが来る。水がOKになったこと、上半分を跋鈎したことなどを話す。2時10分本日の歩きはフロア10周だ。3時吸入。吸入の後、手術後初めてのシャンプーを看護師さんにしてもらった。今日は4時15分、孫の迎えとかで、早めに連れ合いは帰った。
10時20分就寝。痰のほうは随分楽になったが、まだ引っかかってくる。
絶飲は9日で解禁。引続き絶食9日目。本日歩き5,100歩。(10周×3)
12月17日(土)
朝6時35分目覚める。
8時45分、病棟の当直の先生の回診があり、切開部の下半分の跋鈎をしてくれた。8時45分Y先生が回診。傷口を見たり胃腸を触診して、
「いいでしょう。今日の昼から食事も摂って良いです。」
とのこと。いよいよ食事だ。回復に向かっていることを実感し、気持ちが軽くなる。これからの残された人生の重苦しさをひと時忘れる思いだ。たかだか重湯という『食べ物』に期待一杯だ。
10時半頃吸入。45分実習生による清拭。
午後12時15分アナウンスが流され、昼食の用意できたとのことで、談話ホールへ行く。私は自分の食事を貰ってテーブルに座り、手術後初めての食事を術後8日目に、術前の絶食日を入れると9日ぶりにいよいよ口にするのである。向かい側に座っているK氏は5分粥である。しかもおかずも3品付いている。羨ましいやら、自分のほうが回復が遅いのが悔しいやらの思いだが、私はおかずも無い重湯100gの一口目をスプーンですくって、口へ持って行った。そして恐る恐る飲み込んだ。
「美味い!!」
少し悲しいけど、本当に100gの重湯が美味かった。昨日のポカリスエットも美味かったが、この重湯はもっと違った美味さである。命の継続を実感させる美味さである。よく味わって昼食の重湯100gを頂いた。
1時20分連れ合い来る。2時に兄も来て、釧路にいる3女の話などをしていると、2時15分には長女も本日午後休みとのことで見舞いにやってきた。千客万来の様子。2時45分に兄が帰る。3時20分には間食の重湯100gが出された。胃を3分の2切り取っているので1回あたりの食事量が少なく、その分回数を分けて食べることになる。当分1日6分食だ。間食の間連れ合いとMはコーヒーを飲みに行った。
本日から、昨日までの生命の水であった点滴が1日2本に減ることになった。夕方には点滴を一旦外すことになった。点滴の針は刺したままだがチューブを外し、動くのにスタンドをゴロゴロ押していかなくても良くなった。また少し気が晴れた。
6時15分夕食で、談話ホールで重湯100gを連れ合いの『看視』のもとに頂いた。7時連れ合い帰る。7時35分吸入、間食でジュースが出た。痰はすっかり楽になってきたので、明日からは吸入を止めようと思う。10時30分就寝。
絶食は10日で解禁。本日歩き6,460歩。(8周×1、10周×3)
12月18日(日)
本日63回目の誕生日。予期しなかったシチュエーションだ。こんな日に自分の残された人生を思わなければならなくなってしまった。
朝6時35分目覚める。7時35分には放送があって朝食を談話ロビーに食べに行く。朝食といっても重湯100gなのだが、それでも待ち遠しくて、嬉しい。9時5分に清拭。15分には当直の先生の回診があった。その後売店にポカリスエットを買いにいく。
11時25分に20分ウォーク。今日からは、何週というより20分歩きを1本とすることとした。
「よく歩くように、運動するように。そうすれば血行が良くなり、傷の回復も早くなる。」
と言う先生の指示を、忠実に守っている。
午後12時15分に昼ごはんの準備が出来たとの放送。談話ロビーに行くと重湯が卒業で、3部粥220gになっていた。しかもおかず付き。至福の幸せだ。私より3日遅く手術した同室のKさんは、胃は何とも無かったためすでに5分粥で少し羨ましいが、それでも粥とはいえ米粒を食べられることがなんと幸せなことかとつくづく実感した。
2時50分には間食で、本日からはコーンスープ味の高カロリー飲料。3時に2回目の20分ウォーク。4時10分には連れ合いが来る。今日から3部粥になったこと、美味しくて全部食べたことなど話す。6時5分に夕食の準備が出来たとの放送で、連れ合いと一緒に談話ロビーに行く。3分粥220gとおかずを連れ合いに見せた。
7時に連れ合いが帰る。8時の間食は、昨日までのジュースにベビー用の衛生ボーロが付いた。10時30分就寝。
本日歩き5,950歩。(13周、12周、10周各1回)
12月19日(月)
朝6時30分目覚める。7時30分朝食。3分粥220gとおかず。8時55分Y先生回診。傷跡を見て、腹部を触診、膵液を出すチューブの先のガーゼを診て、
「まあいいでしょう。」
とのこと。昨夜から、北朝鮮の金正日が17日に死去したとのニュースが流れてきている。どうなることやら。テレビはそのことばかり報道している。限られた情報で止むを得ない事もあるだろうが、同じ画面と解説ばかりがすべての放送局から流れてくる。
10時20分清拭。40分間食で本日はプレーンヨーグルト。50分には20分ウォーク。11時15分に実習生がシャンプーをしてくれた。ちょっとぎこちなくて、あまり快適になったとは言いがたい。
午後12時5分昼食。相変わらず3分粥220gおかず付き。1時45分連れ合いがやってくる。3時間食で、昨日と同じコーンスープ味の高カロリー飲料。4時10分に、本日は孫を学童保育に迎えに行くとのことで連れ合いが帰る。明日は来られないとのこと。4時30分20分ウォーク。その後職場に電話する。全身麻酔の挿管の後遺症で声がガラガラで出にくい。職場のW、K、S課長と仕事のことやら病気の経過について話す。Wが『Yが見舞いに行くと言っている』とのことだが、
「だめ。来るな。」
と返す。その後売店に行ってポカリスエットを買う。
6時10分夕食。3分粥220gとおかず1品。最近はK氏と一緒に食べて、家族のことやら仕事のことやら話している。しかしプライバシーにはお互い深くは立ち入らない思いで、会社名やらそんなことは話していない。
7時45分、20分ウォーク。8時10分間食。本日はベビークッキーとアップルジュース。夜9時過ぎにT先生が回診にやって来て、
「○○ちゃん、どうや?」
「先生。頑張っています。毎日かなり歩いてますし、昨日からは20分ウォークを始め、これから1日に何本かやろうと思っています。今日は約10,000歩。食欲もあってご飯も残さず食べられています。」
「ご飯全部食べてるの? 全部食べんでいいよ。無理して食べて手術瘡の接合不全になったら元も子もないよ。残したらいい。その替わり溶けるもんなら食べえもいい。アイスクリームやチョコレート、飴もちゃんと口の中で溶けるまで舐めてたらかめへんよ。もうちょっと辛抱し。」
とのこと。わたしは早い回復を目指して頑張っており、身体も動かし、栄養も摂って、褒めてもらおうと思っていったのに、何たることだ。心の中で『先生。もっと早よ言うてえな。』とつぶやいた。
テレビはどこを見ても、金太郎飴のように、同じ企画と内容・解説の金正日死去や後継者は誰か、北朝鮮の今後などの特番の洪水。日本のマスコミの底の浅さをつくづく嘆きつつ、しかし自分の残された人生の空しさを考えたら、かなり覚めた目でそれを見ていて、結局就寝は11時。
本日歩き9,180歩。(12周、13周、14周、15周各1回)
12月20日(火)
朝6時40分目覚める。7時に看護師さんがやって来て採血。7時25分に朝食。本日も3分粥220gとおかず1品。昨夜T先生に全部食べたら駄目と言われ、朝のお粥は7割程度食べて、3割程度は残した。朝食時K氏と話す。
「昨夜、T先生に『食事は全部食べたらあかん。縫合不良を起こしたら元も子もない。』と言われました。」
「僕は腸の手術のせいか、全く言われません。やはり胃の手術は大変なんですね。」
「それにしても、もう少し早く言ってもらわないと、こちらは栄養を充分摂らないといけないと思っていたもんですから。」
とやりとり。K氏は、本日から5分粥から普通食になっている。また『回復の差』を付けられた。
8時40分、Y先生の回診。腹部触診のあと膵液ドレーンの先を見て、
「まあ、いいでしょう。もう大丈夫だからチューブを外しましょう。」
と言って膵液ドレーンを抜いた。お腹の中のほうのどこか内臓や筋肉に触れながら、ヌルッといった感じで、体内から抜けていった。そして17日から1日2本に減っていた点滴も終わりとなり、点滴針を抜き、手術前日の8日以来13日ぶりに体中からドレーンやチューブが外され、フリーの身体になった。爽快な開放感。
「今日からシャワーも入っていいですよ。」
「傷はお湯がかかっても大丈夫ですか。?」
「暫くは擦らないようにしてください。お湯がかかるのは大丈夫です。」
「先生。ところで昨夜T先生に食事は全部食べないほうが良い、と言われました。」
「まあ、あまりお腹一杯は食べないほうが良いでしょう。手術後だから。もう少し辛抱してください。」
と言われる。しかし、開放感に気持ちも軽くなって、9時45分には売店まで買い物に出かけ、金正日関係の記事が満載の新聞とポカリスエットを買ってきた。
10時丁度に間食のカスタードプリン。11時15分に20分ウォーク。
午後12時に昼食。昼食からは5分粥になった。5分粥220gとおかず3品。お粥は少し残しておく。
1時ごろ少し午睡。暫くするとシーツ交換のために起こされて、その間20分ウォーク。3時には手術後初めてのシャワーを浴びた。手術の前日のシャワー以来で、手術以降は清拭ばかりだったのだが、陰部などもきれいに洗い流してすっきりした。もっとも腹部の手術瘡にはまだテープが張られたままだ。シャワー後3時30分に間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。5時20分に3本目の20分ウォーク。そのまま売店に行き、ポカリスエットとチョコレートを買う。
6時50分夕食。5分粥220g。7時35分4本目の20分ウォーク。8時には夜の間食で『赤ちゃんえびせん』とアップルジュース。これからの人生に重たい思いを抱きながらも、着実な回復に少し気持ちが晴れた一日で、今日は話すことが沢山あったのに、連れ合いは用事で来られなかった。
相変わらず、金正日や後継者やと同じ画面と解説を繰り返すテレビに辟易としながら、11時就寝。
本日歩き10,260歩。(16周×3回)
12月21日(水)
朝6時30分に看護師さんに起こされて目が覚め、そのまま採血。7時40分朝食5分粥220g。8時40分に当直の先生の回診で、経過良好とのことで服帯を外す。50分にはY先生の回診で、手術瘡を見て腹部触診し、
「まあいいでしょう。」
とのこと。
9時5分に20分ウォーク。40分に売店にポカリスエットを買いに行く。10時10分朝の間食でプレーンヨーグルト。本日は午前中にと思い、10時30分に予約したシャワーを浴びる。11時25分2本目の20分ウォーク。
午後12時に昼食、5分粥220g。最近はK氏とよく話すが、大概はお互いの病気のことだが家族のことなども話すようになってきた。2時に連れ合いがやってきた。昨日から今日にかけての回復のことや、食事を抑えるように言われたこと、K氏の家族のことなど、結構溜まった話をする。3時30分に昼の間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。4時に3本目の20分ウォーク。5時に連れ合いが帰った。身軽になった私は、連れ合いを送り、その足で売店に行きポカリスエットを買う。6時10分夕食。
8時にY先生が回診にやってきた。
「順調に回復してきてはいるんですが、血液検査でカリウムの値が高いのです。カリウムイオン値が高いと言うことは、致死性の不整脈が起きます。」
カリウムの値が高いなどとは始めて言われることだし、いきなり致死性だなどと言われ、せっかく順調な回復に気をよくしているのに、気がめげてしまう。
「カリウムの値が高いというのは、よくあるケースとしては腎機能が良くないときに出てきます。ただIさんの場合は腎機能は正常ですので、少し経過を見てみましょう。」
「先生。手術の影響と言うことでしょうか。」
「それはありません。とりあえず、カリウムイオンを下げるゼリーを摂ってください。普通は腎臓疾患の患者さんに服用していただく薬ですが、摂ってみてください。」
と言われた。やれやれ、大したことはないと自分では思いつつも、入院が長引くのか。ひょっとすうと年内には退院できずに、病院で年を越さなければならないのか。
夜の間食は衛生ボーロとアップルジュース。8時35分に4本目の20分ウォーク。
本日の歩き10,880歩。(16周×4回)
12月22日(木)
朝6時30分に目覚める。7時30分朝食。今朝から食事は全粥220gになった。8時35分にY先生の回診。退院の時期も考えなければならないが、カリウムが高いのが少し気になるとのこと。今はいわゆる治療はしていないが、ゼリーの薬の効果がどうか見てみようと言うこと。
9時10分に20分ウォーク。その後売店に買い物。ポカリスエットにはカリウムイオンが結構入っているので、ポカリはやめてミネラルウォーターにした。あとチョコレート。10時にシャワーを浴びて、朝の間食。本日はカスタードプリン。食間にカリウムイオンを下げるゼリー状の薬を摂る。大変まずい!忍耐忍耐。間食・服薬後ウォーキングシューズのこととポイント加算のことで好日山荘に電話をかける。11時15分に2本目の20分ウォーク。その後40分に連れ合いがやってきた。
午後12時昼食。全粥220gで、やはり5分粥よりは食べ応えがある。しかし相変わらず7割程度だけ食べて、3割程度は残している。
本日は2時から栄養指導。栄養士さんが胃癌の患者とその家族を対象に、退院後の食生活上の注意や実際の食事・メニュー、栄養摂取等について、分かりやすく指導してくれる。私と連れ合いを含め4家族が参加した。術後の食生活に起因するダンピング症候群の話も看護師さんからは聞いていたが、より詳しく説明が有った。連れ合いは細かくノートに取っていた。私が気をつけなければいけないと頭の中に残ったのは、胃は鉄分やビタミンB12を吸収する、その胃がなくなるので鉄欠乏症貧血が起こりやすいとか、体重減少に伴いカルシウムが少なくなり骨粗鬆症や圧迫骨折などのリスクも有るとか、アルコールは70%が胃で分解されるが、胃が無いので直接腸まで行ってしまい吸収されるので、少量のアルコールで酔ってしまう、危ないので自分のアルコール量が分かるまで外では飲まないようにとか、食べたものがストレートに腸に行くので、消化の悪いものや脂物を食べ過ぎると下痢が起こりやすい、胃が無いかもしくは小さくなっているので、一度に多くの物が食べられず、少量を分食すること、暫くは脂物や消化の悪いものは食べずに、野菜も菜っ葉部分を煮て食べることやら退院後2ヶ月過ぎればもとの食生活に戻っても良いといったことだった。もとの食生活に戻っても、よく噛んで食べること、一度に大量に食べないことなどは、ずっと続けなければならない。結構活発な質疑応答や、80歳のYさんのユーモア溢れたグルメの話や寿司の話など、病気の辛さや重たさを一時忘れるかのように、和気あいあいと栄養指導の話が進められ、3時40分に終了した。
栄養指導が終わり病室に戻ると、兄が甥のMと一緒に待っていた。聞けば2時10分から来て待っていたとのこと。長い間待たせた侘びを言い、その後展望の良い15階の談話ロビーに行き、年末年始のことや家族のこと等をいろいろ話しした。4時30分に兄とMは帰る。
5時25分3本目の20分ウォーク。ウォーク後千里山のH姉宅に来ているT姉に電話して、私の病状を伝える。5時55分夕食、全粥220g。連れ合いは、退院後の食生活の参考にするので、食事のおかずをメモして写真に撮って置くようにとのこと。6時40分連れ合い帰る。8時30分夜の間食、ビスコ2包とアップルジュース。10時40分就寝。
本日歩き10,160歩。(16周×3回)
12月23日(金)
本日クリスマスイブ前日で、花金と天皇誕生日の祭日が重なって世間では賑やかな様子だが、それとは関係も無く朝6時30分目覚める。7時30分朝食、全粥220gと、おかずは小松菜煮浸し。8時45分Y先生の回診時に外出はどうか尋ねたら、外出OKとのこと。
胆嚢も切り取ってしまったせいか、昨日まで便が白かったり、白っぽかったりしていた。本日の朝の便は薄茶色。9時25分20分ウォーク。10時には間食でヨーグルト。間食の後シャワーを浴びる。その後売店に行きミネラルウォーターとチョコレートの買出し、そのあと2本目の20分間ウォーク。
午後12時に昼食。この昼食から普通食になった。やっと「一人前」にご飯に戻った。手術前日の8日から実に16日振りのご飯だ。おかずはカニの身にキャベツの酢和え、南瓜煮、白身魚と人参・玉葱の煮たものでとにかく美味しかった。ただ量は相変わらずで、110gという寂しさ。それでも少し残しておく。
1時20分に3本目の20分ウォーク。ウォークの途中で一週間前に虫垂炎で入院し即手術した中学3年生のKO君とすれ違う。手術が終わり家族もみんな帰った後の夜、しくしく泣いていた彼だが、今日の午後退院で晴れ晴れとしている。エレベーターの前で彼に話しかけた。
「今日退院やね。おめでとう。」
「はい。」
「どうや。終わってみれば盲腸なんてチョロイもんやったろう?」
「はい。チョロイもんやったです。おじさんも盲腸ですか?」
盲腸と言われてしまって、思わず苦笑。
「盲腸やったらええんやけど、胃を手術して、胃の3分の2を切り取ったんや。」
「へえ、そうですか。」
そんなやり取りの後、歩き終わってベッドの上に座っていると、甥のYが来てくれた。Yは技術者で機械の据付などの出張が多く、チームリーダをしており大変忙しい。
「お世話になってる叔父ちゃんが大変な病気で手術と聞いて、なにをさて置いても来ました。」
と言ってくれた。一通り病気のことや、早期癌でそんなに大事にはなっていない、とか話していたが、だんだんとYの仕事の話になり、あれやこれやと仕事上の不満をぶちまけていた。私はひたすら聞き役。
3時にYが帰り、3時15分に間食の雑炊。3時40分に連れ合いと下の孫のTが来た。2・3日前に
持って来てもらった、Tの作った松ボックリのクリスマスツリーの礼を言う。5時30分には長女と上の孫のYが来る。6時10分に夕食。ご飯110gとおかずは人参・はるさめの卵とじ、蕪の煮たものの酢和え、味噌汁。これでも美味しい。食後少しして4本目の20分ウォーク。7時に皆揃って帰るの送る。送った後5本目の20分ウォーク。8時には夜の間食で、カステラとアップルジュース。10時50分就寝。
本日歩き13,600歩。(16周×5回)
12月24日(土)
今日はクリスマスイブ。こんな気持ちと状態でクリスマスイブを迎えてしまった。「鬱なイブ」に人生の終わりに差し掛かってきたことをしみじみと実感する。
朝6時30分、採血で看護師さんに起こされる。3日振りの採血で、カリウムの結果がどうなっているか気になる。7時30分朝食。朝食はパンと牛乳。朝食を食べながら同室のK氏と話す。K氏は退院が25日の日曜日に決まったとのこと。手術が3日私より後で、すでに退院が決まったとのこと。少し焦る思いが有る。K氏は手術後も順調に推移し、同じ進行癌といっても腸なので、食べるものも制限無しで食べている。私はカリウム値が高くなったりで、一体どうなることやらと思っている。ひょっとすると病院で越年ということになるのかなあ、とも思うときがある。K氏は退院後抗癌剤治療をするとのこと。最初の1クールはS病院の外来で来て治療し、後は癌を発見してくれたクリニックで継続するとのこと。抗癌剤治療の苦しさは私も経験者からも聞いており、K氏の今後の治療が旨くいくようにと励ますとともに、自分にも迫り来る厳しさのプレッシャーに、また少し「欝」になる。
8時40分にT先生、Y先生の回診。本日午後4時に手術の結果説明と今後の治療・療養についてのインフォームド・コンセントがある。その確認をする。本日は連れ合いと娘たちも来ることを言う。
9時40分1本目の20分ウォーク。午前の間食でカスタードプリン。10時30分シャワー。11時から売店に行き、続けて2本目の20分ウォーク。午後12時5分に昼食。ご飯110gに煮魚(鯛)、卵豆腐、ほうれん草お浸し、煮キャベツジャコ和えのおかず。昼食後軽く午睡する。
13時40分3本目の20分間ウォーク。そのうち50分に次女のAがやって来て、少し待つように言うと、一緒に歩き始めた。14時連れ合い、14時15分長女Mが来る。30分S君が見舞いに来た。家族以外の見舞いはお断りしてきたが、以前大原の大尾山に一緒にハイキングに行ったりした縁もあり、『世話になったので是非見舞いに』と次女を通じて言って来て、半ば『押しかけ』を了解したようなもの。今日は伊丹でクリスマスコンサートがあり、次女と一緒に行くのでその前にお見舞いとのこと。S君には進路のことやら話し、手術跡の傷を見せた。50分にコンサートへ行くとのことで帰る。
16時丁度にナースステーション奥でY先生から、手術の結果と今後についての説明。少し緊張する。転移がどうだったのか、抗癌剤治療についての説明はどうか、多分無いだろうけれど『余命○○年』と言われないだろうか、これからの自分の闘病生活は、仕事は、執筆は等々の懸念が気持ちに覆ってくる。
「Iさんのお腹を開いてみたら、内臓の癒着がひどく大変でした。何回も手術をしている人の内臓のようで、剥がすのに2・3時間かかり、12時ごろには手術が終わると思っていましたが、16時過ぎまでかかりました。」
「癒着は剥がさないといけないのですか?」
「そのままだと、胃の下部を切除しますが、残った上部と腸が繋がりません。また、通過障害や腸閉塞を誘発しやすくなります。」
「剥がすのは、手で剥がすのですか?」
しょうもないことを聞いてしまった。何しろ気持ちは浮ついている。
「電気メスで剥がします。」
Y先生はいつものように紙の上に絵を書き出して、
「肝心の手術のほうですが、胃の下部、全体の3分の2を切りました。それと胆嚢を切除し胃の回りのリンパ節もきれいに切り取りました。結果ですが、リンパ節には転移はありませんでした。胃のほうですが、癌細胞はスキルス癌です。胃壁は5層になっているのですが、Iさんの場合一番上の層だけに癌が留まっていて、中まで侵行していませんでした。ステージで言うと8段階のⅠaです。」
その辺まで言われているとT先生がふらっとやって来て、
「○○ちゃん、良かったね。内臓がえらい癒着していて、手術は大変やったわ。それでも早期で本当に良かった。よく見つけてくれたN先生にお礼言うときや。」
「はい。先生も本当にありがとうございました。」
少し間をおいてY先生の説明が続いた。
「今後についてですが、ステージⅢ以上は抗癌剤治療をすることになっています。Iさんの場合はⅠaですので、抗癌剤治療はしません。今後は定期的な検査をしてください。年に2回のCTと血液検査、1回の胃カメラをしてください。S病院はもう来なくて結構ですので、N先生のほうで見てもらうようにしてください。今回はタイミングが良かったし、N先生はよく早期癌を見つけてくれたと思います。来年の胃カメラまで見つかっていなかったら、状況はどうなっていたか分かりません。」
家族もいろいろと聞いてY先生とのやり取りを聞いているうちに、だんだんと『いい結果』だったのかなあ、と言う実感が湧いてきた。何も悪いことをしていないのに胃を切られ、仕事や執筆、資格試験の欠席等沢山のストレスを抱えて、何よりも痛くて苦しい目に会い、厳しい経験の帰結が『良かった』でいいんだろうか。とにかくこの状況は受け入れざるをえない。
「と言うことで、Iさん。退院をして良いですが、いつ退院しますか。」
「ああ、できるなら明日お願いできますか?」
「今日言って明日はできないです。」
「そうですか。それではあさっての26日にお願いできますか。」
「いいでしょう。ただ、癌のほうの治療はこれで終わりですが、血液検査の結果が気になりますので、年明け1月9日の月曜日に診察に来てください。」
「分かりました。」
1月9日は成人の日で祝日だが、S病院は祝日でも午前中診察がある。
退院が26日に決まった。しかも癌そのものの治療は順調だ。ふと、抗癌剤治療に向かうK氏のことが頭をよぎった。
本日はクリスマスイブでホームパーティの日。4時50分に長女が帰り、5時にAは伊丹のクリスマスコンサートへと、25分には連れ合いも帰った。皆それぞれにホッとしたような感じだった。5時35分、本日4本目の20分ウォーク。6時に夕食。K氏と一緒に食べる。私のおかずは、はんぺんとキャベツを煮たもの、卵豆腐のあんかけ、デザートに寒天ゼリー。K氏は豪華で、クリスマス特別料理かタンドリーチキン照り焼き他3品、デザートはロールケーキ付き。K氏の明日の退院を祝い、私も明後日の26日に退院と言った。ただ、私は抗癌剤治療をしなくて良いということは、言えなかった。
8時5分、5本目の20分ウォーク。30分に夜食でバナナ。
本日歩き13,600歩。(16周×5回)
12月25日(日)
朝6時20分検温で看護師さんに起こされる。7時30分に朝食。パンと牛乳。K氏と話す。退院後の仕事や家族のこと等々。この間いろんなことを話したが、ついに最後までお互いの身分は明かさなかった。8時には病室で校正。9時15分Y先生の回診。いつものように、
「いいですね。」
「ありがとうございます。」
9時20分に20分ウォークの後、トイレと売店へ。11時15分にはT先生が回診。今日はクリスマスの日曜日というのに、T先生もY先生も本当に患者のために熱心で、頭が下がる思い。
「○○ちゃん、いよいよやね。大丈夫や、ちゃんと仕事に復帰できるからな。」
と、激励してくれた。その後本日2回目の20分ウォーク。午後12時10分昼食。御飯110gにおかずは高野豆腐煮、玉葱人参煮、大根田楽味噌、ポテトサラダ。昼食後少し午睡をとる。
1時10分に連れ合いが来る。今日は、入院以来最初で最後の外出で、年明け後職場復帰する際に使うウォーキングシューズを、駅前第3ビルにある好日山荘に連れ合いと一緒に買いに行く予定になっている。私は以前から通勤時に阪急西院駅から職場までの4キロメートルを往復8キロメートル
歩いている。自宅界隈や職場での移動等で毎日10キロメートルは歩いており、2年間以上履き続けた今の美津濃のウォーキングシューズは、大分疲れている。退院と新年を機に履き替えようと思った。
久しぶりに梅田の雑踏を歩くと、頭がクラクラする感じ。連れ合いが、風邪をひかぬようにと病院においてある服の全てを着込んで、その上マスクして身体が火照ってくるようで大変だった。好日山荘で、あれやこれやと見比べ履き比べして、結局登山靴メーカーのウォーキングシューズを買った。好日山荘からの帰りには大丸地下に立ち寄りお菓子を買う。看護師さんたちへの差し入れ。それにしても久しぶりに街へ出ると無性にコーヒーが飲みたくなったが、未だ禁止なので我慢。
3時15分に病院に戻り25分に昼の間食で雑炊。久しぶりの街の空気を吸ってきた後のせいか、美味しかった。5時20分に3回目の20分ウォーク。後、携帯に先輩のGさんからメールが入っていた。見舞いに行くつもりだが何時が良いか、とのこと。「お心遣いはありがたいですが、明日退院です。」と返信を入れておいた。
6時5分夕食。御飯110g、煮卵豆腐、煮白身魚、青菜お浸し、柿を煮たものがおかず。7時に連れ合いが帰る。8時10分夜食はスポンジケーキとアップルジュース。
本日歩き13,972歩。(16周×3+外出での歩き)
12月26日(月)退院
いよいよ退院の日。朝6時20分検温で起こされる。7時35分にパンの朝食。8時45分に病棟の先生の回診後、50分にはT先生、Y先生が回診。T先生、
「いよいよ退院やね。良かったね。癌を見つけてくれたN先生には礼をいっときや。」
Y先生、
「良かったですね。カリウムが高いのが気になりますが、様子を見ましょう。とりあえず1月9日には来てください。」
私は、2人の先生に丁重に礼を言い、日夜を問わず患者の立場に立って医療現場で頑張っておられる姿勢に、心の中で尊敬した。
9時35分と11時35分に最後の20分ウォーク。午後12時に最後の昼食。退院だけれど相変わらずボリュームのない110gの御飯と、おかずは肉の変わりにマグロの入った「マグロじゃが」、青菜ジャコ和え、桃の煮たもの。食後退院準備で荷物を整理し、ほぼ終わったところで連れ合いが来た。退院の荷物整理でいろいろと世話を焼いてくれる。連れ合いもホッとしたというか、安心したというか嬉しそうな雰囲気で、話しかけてくる。
2時20分にT先生Y先生それに担当の看護師Mさんには会えなかったがナースステーションで挨拶をし、エレベーターに乗って、北棟8階801号室を後にした。
病院を出て家に帰る途中、3時過ぎに茶屋町改札前のベーカリーで昼の間食、チーズパンを食べた。連れ合いの飲んでいたコーヒーを少し、それも水に薄めて飲んだ。それでもその美味しさは何とも言えないほどだった。
4時10分20日ぶりに家に帰る。入院の荷物を片付けたりスリッパを洗ったりする。孫たちもそれとなく嬉しそう。6時30分連れ合いの心のこもった夕食。8時30分には、夜食でカロリーメイト。
さあ、これから体力を回復し、社会復帰だ。シャットアウトしていた仕事もいち早く追いつき、リードしていかなければならない。“再出発”の決心が沸々と沸いてき
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