へそ曲がりの真っ直ぐ日記

反日の韓国と中国、国内の反日マスコミを斬る

女性もいた「シベリア抑留」 99歳の元看護婦が証言

2014年08月01日 | 報道・ニュース
シベリア抑留に関するこんなニュースが、産経のサイトにあった。
<新たに1202人を特定 13年度のシベリア抑留死者>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140731/plc14073121480020-n1.htm

■厚生労働省は31日、戦後のシベリア抑留中に死亡した日本人将校ら1202人の身元を新たに特定したとする、平成25年度の実態調査結果を公表した。身元が判明したのは計3万8280人となった。

 厚労省によると、ロシア側から提供された抑留者登録カードと日本側の名簿などを照合して特定した。13年6~9月には、抑留者を収容所に移送した「護送部隊」に関する資料約1万枚をロシア側から入手しており、まだ身元が分かっていない約1万7千人の特定につなげたい考え。

 13年度の調査では、現地で新たに115柱の遺骨を収容。DNA鑑定で64柱の身元が判明し、遺族に引き渡した。これまでに収容した遺骨は計1万7801柱で、そのうち遺族に引き渡したのは915柱となった。政府の推計では、シベリアやモンゴルで約57万5千人が抑留され、強制労働などで約5万5千人が死亡。政府は戦後70年に当たる15年に向け、抑留中の死亡者の身元特定や遺骨収容を進める方針を閣議決定している。■

朝日デジタルには、こんなニュースも出ていた。7月28日付けの記事だ。
<現地で死亡したシベリア抑留者の焼骨式 ロシア沿海地方>
http://www.asahi.com/articles/ASG7W56JGG7WUTIL018.html

■戦後、旧ソ連に抑留され、その地で果てた日本軍兵士らの戦没者を祖国へ帰すための「焼骨式」が27日、ロシア沿海地方のアルセーニエフ市で営まれた。厚生労働省が派遣する「旧ソ連抑留中死亡者遺骨収集帰還団」の団員らが見守る中、同市周辺の山中などを9日間掘り返して収容した遺骨13柱が、炎に包まれた。

 焼骨式に先立つ追悼式では、抑留経験者の遠藤尚次(しょうじ)さん(88)=川崎市在住=が「帰国の日を夢みながら無念の死を遂げたあなた方のことを思うと断腸の思いです。半世紀が過ぎ、ここにみなさんのご遺体を迎えることができました」などと追悼の辞を述べた。その後、一人ひとりが献花。祭壇には日本酒、もち、梅干しなどが並べられた。■


シベリア抑留とは何か? これまでも何度か取り上げてきたが、あらためて、wikiを引用する。
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、終戦後武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する日本側の呼称。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国などソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。


厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した[1]。

抑留の決定
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[11]。スターリンの抑留方針決定をめぐってはさまざまな説が唱えられている。


帰国
1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者達もいた。しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある

犠牲者数
日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[22]。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。


シベリア抑留の後、さらに中国に引き渡された拘留された人たちもいた。不幸の連続だ。
<脱・洗脳史講座 中 国 戦 犯 に つ い て>
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/yokuryu-sya.html

■(シベリア抑留された)これら「捕虜」のなかから 969人 が中国に引き渡され、「撫順戦犯管理所」 と称する監獄に送られました。1950(昭和25)年7月のことです。内訳を見ますと、第59師団 の将兵260余名、第39師団 の200余名の順に多く、そのほか63師団、117師団、それに満州国高官らが含まれていました。
・・・・・・・・・・
抑留者が釈放され、帰国するのは1956(昭和31)年以降ですので、ほとんどの人は6年間、残りの人はそれ以上の抑留となりました。ですから、ソ連の分と合わせれば実に10年以上も捕らわれの身となったのです。中国に抑留されていた6年の間に、「学習」などを通して、「洗 脳」 問題があったと言われていることはご存じのことと思います。
 また、抑留者は帰国後に「中帰連」 (中国帰還者連絡会)を組織し、さまざまな活動を行ってきたことも、周知の事実です。

<中国戦犯の「洗脳」について(1)―抑留中に何があったのか>
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/sennou/sennou.html

中国戦犯(中国抑留者 )は2組に大別されます。
 一組はソ連に抑留後、1950(昭和25)年に中国に引き渡された人たち、あとの一組は、降伏した日本軍の投降官となった閻 錫山(えん しゃくざん)の強い要請で、山西省に残留した第1軍関係者を中心にした人たちでした。

 前者の969人は「撫順戦犯管理所」に、後者の140人は「太原戦犯管理所」 という「監獄」に収容されたことは、既述した通りです。収容者のほとんどは、1956(昭和31)年に帰国(起訴免除)しますが、短い人で中国に6年間、ソ連に5年間、あわせて約11年間の収容所生活を余儀なくされたことになります。■

シベリアでの飢えと寒さ、重労働は中国にはなかったが、厳しい「思想改造」「認罪運動」という洗脳の日々が待っていたのである。 抑留者の処置が決まったのは、1956(昭和31)年4月25日。<1017人(太原関係120名含む)の免訴が決定され、この年に帰国の途に着きました。一方、起訴された45人(満州国高官を含む師団長、旅団長級の高級軍人ほか)は禁固8~20年の刑が言い渡され、ほとんどは満期前に釈放されています>。

シベリア抑留中の生活は、この記事でも分かる。
<「シベリア抑留」資料、世界記憶遺産国内候補に 「岸壁の母」の手紙、「白樺日誌」…後世へ>
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140709/art14070909300003-n3.htm


■終戦後、ソ連(当時)によって約60万人が抑留され、約1割が死亡した「シベリア抑留」。抑留者や家族の手紙、絵など570点が6月、ユネスコ世界記憶遺産の国内候補に決まった。登録の可否は来年夏頃決まるが、資料を所蔵する「舞鶴引揚記念館」(京都府舞鶴市)では来館者が早速増加。未曽有の非人道的行為への関心が改めて高まっている。          

 「幽囚の身こそ悲しき遺言もあらずて異郷に逝(い)く人多し」
 氷点下40度、50度にもなる酷寒での重労働、飢餓、病気…。シラカバの皮に空き缶のペンで刻まれた「白樺(しらかば)日誌」には苛酷な環境で辛酸をなめた抑留者による約200の短歌や俳句が残されている。紙や筆記用具もなく、煤(すす)をインク代わりにして、思いの丈を書き残したという。
 

「岸壁の母」のモデルとされ、舞鶴港で戻らぬ息子を待ち続けた端野(はしの)いせさんの手紙や、抑留者が日本の家族に送った「俘虜(ふりょ)用郵便葉書(はがき)」も対象となった。

 自由を奪われ、先が見えない抑留生活。一日も早い家族との再会を願いながら書いた手紙も、「重労働」「飢餓」「寒さ」という“三重苦”に触れると、たちまちソ連側の検閲によって止められたという。

舞鶴港には昭和20(1945)年から33年まで、約66万人が引き揚げ、その約7割がシベリア抑留からの帰還者だった。
 市内在住の安田重晴さん(93)は、終戦直後に満州(現中国東北部)でソ連軍に武装解除され、夏服のまま、貨車に詰め込まれ、シベリア鉄道で国境近くの収容所に送られた。

 「ソ連兵は『トウキョウダモイ(帰還)』とウソをいって、日本兵をシベリアへ連行した。酷寒のなかで伐採や土木作業など、苛酷な強制労働をさせるのに食事はわずかな黒パンと薄いお粥(かゆ)だけ。多くの戦友は最初の冬を越せずに、栄養失調と病気でバタバタと死んでいった」


 安田さんは約2年半、各地の収容所を転々とさせられ、23年5月、やっとナホトカから引き揚げ船に乗る。「船が舞鶴港に近づいたとき、鮮やかな新緑が目に入ったんです。それを見て『ああ、美しい祖国日本に帰ってきたんだ』って実感しましたね」

 「舞鶴引揚記念館」は、こうした悲惨な史実を後世に伝えるために、抑留経験者や市民らの支援、協力によって63年に開館。手紙、日誌類や写真、絵のほか、当時の衣類や生活用品、収容所内を再現した模型などを展示している。

 関係者の高齢化や戦争の風化などで来館者はピーク時の半数以下に落ち込んでいたが、国内候補に決まってからは昨年比で約30%増加、若い世代や修学旅行での来館も増えた。

 山下美晴(みはる)館長は「(世界遺産登録が決定する)来年は戦後70年、引き揚げ70年の節目の年。日本だけでなく、ヨーロッパなども関係する世界史的に重要な史実であり、ぜひ世界遺産への登録を実現してほしい」と話している。

シベリアに抑留された軍人、軍属、民間人は、みんな男、とわけもなく思い込んでいた。7月26日の読売新聞に<シベリア抑留 看護婦の証言>という記事が大きく出ていた(ネットには不掲載)。

広島市在住の元看護婦、高亀カツエさん、99歳。28歳だった1943年7月、日赤広島支部から旧満州北東部のチャムス第一陸軍病院意配属され、2年後、看護婦養成の教育隊の班長となった。1945年8月9日未明にソ連の参戦を知り、逃げ惑ったたものの、ソ連兵に捕まって、ハバロフスクなどの収容所に入れられ、日本人が入院していた内科病棟で看護婦の仕事を手伝っていたという。1947年6月、帰国指令を聞き、1年10ヶ月の抑留生活を終えたという。

シベリア抑留者には看護婦や電話交換手などの女性がいたことは知られていたが、その人数は資料や記録が少なく、不明という。風化が進んでいるのだ。歴史の空白に目を向けてもらうため、高亀さんが体験を語った記録映画が8月23日、24日に京都、東京、大阪で上映される。

ソ連参戦は、日本人が地獄に突き落とされた日だった。
<ソ連軍兵士の強姦、殺戮、暴行、強奪 戦後のソ連の日本人虐殺を強く非難する>
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html


■ウィリアム・ニンモ氏の著書『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)第47頁は

「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった」と述べている。
強姦された日本人女性のほとんど総ては、その後、自殺、絶望死、病死、衰弱死した。■

まもなく69回目のソ連参戦の日、悪夢の日がやってくる。

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