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神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

紅葉・甲府舞鶴城公園・4K 2021年11月15日

2021年11月16日 | 日記


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紅葉・甲府舞鶴城公園・4K 2021年11月15日


「一度だけなら」・野村真樹

2021年11月14日 | 日記

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「一度だけなら」・野村真樹


聖書は神からのメッセージ~ 聖書

2021年11月14日 | 日記

聖書は神からのメッセージ

 

神(エホバ,ヤハウェ)は聖書という素晴らしい贈り物を下さいました。聖書は66の書を1つにまとめたものです。

では,聖書はどのように書かれ,どのようにして私たちが読めるようになったのでしょうか。調べてみましょう。

 

1. 聖書は人間が書いたのに,神からのメッセージだと言えるのはどうして?
聖書は,紀元前1513年から西暦98年までの約1600年の間に,40人ほどの人たちが書きました。いろいろな職業や生い立ちの人が書きましたが,矛盾している所は全くありません。

なぜかというと,聖書全体が神からのメッセージだからです。
「それで,私たちは絶えず神に感謝しています。皆さんが私たちから神の言葉を聞いた時,それを人間の言葉としてではなく,まさしく神の言葉として受け入れたからです。その言葉は,信仰を持つ皆さんに良い感化を与えています
(テサロニケ第一 2:13)

書いた人たちは自分の考えを書いたのではなく,「聖なる力に導かれて,神からの言葉を」書きました。 
「どの預言も,人間の考えによって語られたのではありません。人が聖なる力に導かれて,神からの言葉を語ったのです」。
(ペテロ第二 1:21)

神が聖なる力を使って,自分の考えを人間に書かせたということです。
「聖書全体は神の聖なる力*の導きによって書かれたもので,教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。
(テモテ第二 3:16)




2. どれほどの人が聖書を読める?
聖書に書かれている良い知らせは,「あらゆる国や民族や言語や種族の人々」のためのものです。
「また私は,別の天使が空高く飛んでいるのを見た。その天使は,地上に住む人々,すなわち,あらゆる国や民族や言語や種族の人々に伝える,永遠の良い知らせを携えていた」。
(啓示・黙示録 14:6)

 

神は聖書がほかのどんな本よりも多くの言語で読めるようにしました。世界中のほとんどの人が,自分の話す言語で聖書を読むことができます。

 


3. 私たちが読めるように,神様は聖書をどのように守ってきた?
聖書は元々,羊皮紙やパピルスなど長持ちしないものに書かれました。聖書を大切に思う人たちが,それを繰り返し書き写しました。
権力者たちが何度も聖書を世の中からなくしてしまおうとしましたが,命懸けで聖書を守った人たちがいました。神様は自分のメッセージが確実に私たちに届くようにしてきました
聖書にある通り,「私たちの神の言葉は永遠に存続」します。
「青草は干からび,花は枯れる。しかし,私たちの神の言葉は永遠に存続する」。
(イザヤ 40:8)

 

              


あたえるなら しあわせ  与えることの,より大きな幸福 ― あなたは経験していますか ~ 聖書

2021年11月13日 | 日記

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あたえるなら しあわせ

 

 

 

与えることの,より大きな幸福 ― あなたは経験していますか

宴会場の照明が薄暗くなり,音楽のボリュームが小さくなって,ダンスをしていた人たちの動きが止まりました。スポットライトが,華やかな包み紙で包装された箱の山に光を当てます。
大きな箱や小さな箱,四角いのや円筒形のもの,ピンクやブルー,それに銀色や金色のもの,どの箱も意匠を凝らした種々のリボンで飾られています。
花婿がはにかみながら黙って手を貸す一方,上気した花嫁は震える手で一つ一つの箱の包装を丁寧に解いてゆきます。

台所用品としてはトースターやミキサー。ダイニングルームで使う物としては,瀬戸物や銀製の食器,テーブルクロスとそろいのナプキン。また沢山のタオルや布巾,生涯中に使い切れないほどのシーツと枕カバー。家の中の全部の部屋に置いてもまだ余るほどの時計,そしてどんな美食家をも満足させるほど多くの料理法を載せた各種の料理の本があります。

贈り物の包みが開けられるたびに,「わー」とか「すごい」とかいう歓声が上がり,新婚のカップルは心からの感謝の言葉を述べます。二人は,与えることの喜びを知っている人たちから受けることの幸せを味わいました。

結婚式,記念日,クリスマス,誕生日,その他非常に多くの祝賀会はどれも,贈り物をすることが礼式の一部として期待され,かつ認められている社会的習慣です。しかし,そのような機会に贈り物をすることは,多くの国で当然のこととして期待されているため,贈る側にとっては与える喜びを減じる一種の苦しみとなる場合が少なくありません。しかし,自分から思い立ってする,つまり,期待されていない時にするプレゼントがあります。
そういうプレゼントは,物の大小にかかわりなく,贈られる人にとってうれしいものです。そして,贈る人は最高の幸福感を味わいます。

当然のことながら,多く持っている人は多く与えることができます。例えば,アメリカの19世紀の実業家であったアンドリュー・カーネギーは,自国で最初の億万長者になろうと思えばなれたことでしょう。ところが億万長者になろうとはせず,18年間に自分の財産の9割を贈与しました。
カーネギーは,自分個人の資本が底を突きそうになっている状況に秘書から注意を促された時,「それは喜ばしいことだ。なくなるままにしてくれたまえ」と,うれしそうに答えました。
時代を同じくして世界屈指の富豪であったジョン・D・ロックフェラーは,生涯中に7億5,000万㌦を贈与しました。伝記によると,歌手のエルビス・プレスリーは,「キャデラックを何十台も人に与え」,そうすることを心から楽しんでいたということです。

 

今に始まった習慣ではない

贈り物をする習慣は,ほとんど人間の歴史と同じくらい古いものです。それはごく初期の時代から人々の生活の中で一つの重要な役割を演じてきました。
アブラハムの高齢の僕は,神(エホバ,ヤハウェ)がリベカをイサクの妻として選ばれた証拠を見て,リベカに贈り物として装身具を与えました。また,「えり抜きの品々をその兄と母に」贈りました。「私は今,井戸のそばに立っており,間もなく町の娘たちが水をくみにやって来ます。私は,やって来た娘に,『水がめを下ろして,水を飲ませてくれませんか』と言おうと思います。それに対し,『どうぞお飲みください。ラクダにも水を飲ませましょう』と答える人,その人こそ,あなたに仕えるイサクのためにお選びになった女性でありますように。そのようにして,あなたが私の主人に揺るぎない愛をお示しになったことを,私に確信させてください」。従者がまだ言い終えないうちに,リベカがやって来た。アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘である。リベカは肩に水がめを載せていた。とても美しい若い女性で,男性と関係を持ったことはなかった。リベカは井戸に下りていき,水がめに水をくんで上ってきた。従者はすぐに走り寄って,彼女に言った。「かめの水を一口飲ませてくれませんか」。リベカは,「どうぞお飲みください」と言い,すぐにかめを下ろして手で持ち,水をあげた。従者が飲み終わると,リベカは言った。「ラクダにもあげましょう。ラクダが飲むのをやめるまで,水をくんできます」。 リベカはすぐにかめの水を水槽に注ぎ,水をくむために井戸に走った。それを何度も繰り返し,全てのラクダのために水をくみ続けた。その間ずっと,従者はとても驚きながら彼女を静かに見つめ,神がこの旅の目的を達成させてくださったかどうかを考えていた。ラクダが飲み終えると,従者は彼女のために,重さ6グラム(半シェケル)の金の鼻輪と,重さ110グラム(金十シェケル)の2つの金の腕輪を取り出した」
(創世記 24:13~22)

『ラバンとベトエルは答えた。「これは神(エホバ,ヤハウェ)が導いていることですので,私たちは,よいかどうかを言うことなどできません。リベカはここにいます。連れていって,神(エホバ,ヤハウェ)が言われた通り,あなたの主人のご子息の妻にしてください」。 この言葉を聞いて,アブラハムの従者はすぐに神(エホバ,ヤハウェ)の前にひれ伏した。 そして,銀や金の装飾品と衣装を取り出してリベカに与え,貴重な品々をリベカの兄と母に与えた』。
(創世記 24:50~53)

ヨブは,苦しかった逆境が去った後,実の兄弟姉妹や以前の知り合いの人たちから贈り物を受けました。それらの人たちは各々,「金子一枚を,各々金の輪一つを」贈りました。
「ヨブが友人たちのために祈った後,神はヨブの苦難を取り去り,再び豊かな生活を送らせた。神(エホバ,ヤハウェ)は,ヨブが以前に持っていた物を,2倍にして与えた。ヨブの兄弟姉妹やかつての友人が皆やって来て,ヨブの家で一緒に食事をした。皆は,神(エホバ,ヤハウェ)がヨブの身に生じるままにしたさまざまな災難のことで,同情して慰めた。一人一人がヨブに,お金と金の輪1つを贈った」。
(ヨブ 42:10,11)

名前の示されていないシェバの女王は,エルサレムまで旅をしてソロモン王を訪問した時,神がお与えになったソロモンの知恵に感嘆し,この最高の賢人の言葉を聞いて益を受けられるソロモンの僕たちは幸いな者たちであると述べました。
大変感激したシェバの女王は,贈り物として金120タラント(約75億円)のほかに宝石や多額に上るバルサム油をソロモンに贈りました。シェバの女王は自分の小さな王国の財宝の蓄えをかなり減らしたかもしれませんが,与える喜びを味わったことも確かです。
ソロモンも与えることの喜びを味わうことになりました。というのは,ソロモンはシェバの女王が寄贈した財宝の価額を上回ると思われるお返しの贈り物をしたからです。
「彼女は百二十タラントの金と,非常に多量のバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったこのバルサム油のようなものはなかった」。
(歴代第二 9:9)

「ソロモン王は,シェバの女王に,彼女が王のもとに携えて来た品物以外のもので,彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は,家来たちを連れ て,自分の国へ戻って行った」。
(歴代第二 9:12)

初期クリスチャンは困窮している兄弟たちのために贈り物や寄付をしました。使徒パウロは,マケドニアとアカイアのクリスチャンたちが,貧しかったにもかかわらず,自分たちの実際の能力を超えてまで,ユダヤの困窮している兄弟たちに物を与えたことについて書き,「彼らは喜んでそうしました」と言いました。
「マケドニアとアカイアの兄弟たちが,エルサレムにいる聖なる人たちのうちの貧しい人に寄付するため,自分たちの物を喜んで差し出しているからです。その兄弟たちは確かに喜んで寄付していますが,実のところ聖なる人たちに恩義がありました。異国の人々は,聖なる人たちが神から受けたものを分けてもらったのですから,自分の持っている物を差し出して聖なる人たちに奉仕する義務があるのです」。
(ローマ 15:26,27)


「語る」贈り物

今日でもやはり,贈り物をすることが,気にかけていることを相手に知らせるための,愛の絆や友情を確立したり強化したりする,人間味のある基本的な方法であることは明らかです。

夫婦の一方が他方に,「愛している」と言う代わりに,キャンデーの入った小さな箱とか花束を贈る場合もあれば,子供たちが親に贈り物をする場合もあります。そして,愛情深い親であれば自分の子供に常に与えることをしているのではないでしょうか。
贈り物には,打ちひしがれた心を慰め,憂いに沈んだ魂を元気づけ,「早くよくなってください」と言い,受けた親切やもてなしに対する感謝を述べ,あるいはただ「とても楽しい一時でした」と言う,そのような目的で贈られるものがあります。

また,困窮している人たちに物を贈る場合があります。自分が決して会うことはないかもしれず,感謝の言葉を受けることもないかもしれない被災者に対する贈り物です。病気の人への一かごの果物,外へ出歩けない人への鉢植えの草花,親しい友への一個の装身具,こうしたわずかな物にも多くの意味が含まれます。それは心から喜んでするプレゼントです。
そういう贈り物は多くの場合,一番大事にされます。

 

プレゼントをする機会の中でも,クリスマスの世界的な華やかさほど目立つ時はほかにまずありません。
クリスマスは,これまた遠い過去に根ざす,贈り物をする一種のお祭りで,その祭典には多くの人が恐れを抱いていますが,大いに待ち望んでいる人もいます。
それは財政の破綻を来たすか豊穣の角を得るかという分かれ目になることもあります。贈り物が友達同士で交換される場合でも,その礼式によって互いにいっそう親しくなることもあれば,疎遠になることもあります。

 

 

「受けるより与えるほうが幸福である」
(使徒20:35)


「受けるよりは与えるほうが幸いである」
(使徒20:35)