哲学・後悔日誌

現代英米圏の分析的政治哲学を研究し、自らもその一翼を担うべく日々研鑽を重ねる研究者による研究日誌

理由以前に責任や!

2010-05-01 13:07:36 | Weblog
いまとある依頼原稿で、「機会の平等」について書いているのだが、思ったよりも苦労している。とはいえ、かなり気合いを入れて書いているので、それなりな論文にはなると信じている(というか、そう信じたい)。

機会の平等について扱うわけだから、そもそも「機会」って何だろう、という問いに対峙しなければならない。そういうわけで、以下の論文を読んだ(だいぶ前にだが)。Robert Sugden, "Opportunity as Mutual Advantage," Economics and Philosophy 26 (2010): 47-68. である。実に刺激的な論文で、簡単に要約するとサグデンは、機会を純粋に量的なものとして指標化すること(量的アプローチ)にも、合理的行為者が欲求する理由に照らしたものでなければ意味がないとすること(理由基底的アプローチ)にも反対で、単に欲求の対象(かつなんとかして買い求めようとする対象)を選べることをもって機会を保有しているとみなすべきだと主張する。

量的アプローチは、ヒレル・スタイナーやイアン・カーターらのアプローチを指しているのだが、彼らのアプローチの問題点は「世界を表現する特定の仕方にあまりに依存してしまう」という点である(p. 50)。したがって、指標化は複数可能で、どの量的指標を選び取るかについては恣意的になってしまう。(ただ、この批判が外延的に選択機会を捉えるスタイナーに当てはまるのかどうかは疑問である。カーター批判としては、その通りだと思う。ちなみにスタイナーとカーターの議論は、もうすぐ出る予定の拙稿「純粋な消極的自由論(1):ヒレル・スタイナーからイアン・カーターへ」『国際社会科学』59号、で検討しているので、抜き刷りをご要望の方は連絡して欲しい。)

理由基底的アプローチは、アマルティア・センやフィリップ・ペティットらのアプローチである。彼らは機会を、潜在能力や合理的能力(信念と欲求の最大限の一貫性)に基づく理由づけによって、価値評価されるものとして扱う。センの言い方を借りれば、「アイデンティティ以前に理由や!reason before identity」が理由基底的アプローチのスローガンである。しかし機会を指標化するにあたって、ここまで合理性に依拠してしまうと、われわれが経験的に捉えている機会や選択からかけ離れたものになってしまう危険性がある(行動経済学の議論を思い起こせばよい pp. 53-54)。

サグデンは、センの先のスローガンを逆手にとって、むしろ「理由以前に責任や!responsiblity before reason」だとするアプローチを提唱する。サグデンは理由基底的アプローチのように、選好の一貫性を重んじるのではなく、過去現在未来の行為が自分の行為であるとする人々の素朴な態度、およびその帰結を自分の責任として受け入れる日常的態度をベースにして、機会を捉えるべきだと考える。このように機会を捉えることのメリットは、第一に、合理的であるかどうかに関係なく、機会を自らの機会として価値を置く態度を正当に扱えること、第二に、他の人も同様の仕方で機会を捉えているということがわかると、自分の機会が他者にとっての制約であることが(そしてその逆も)理解可能となる。このことから機会は、「相互利益mutual advantage」として位置づけられることになる(pp. 54-55)。

したがって単に欲求対象となるものを得るということのみならず、当の対象に対し権原entitlementsを有するかどうかも問われてくる(だからこそ支払い意思が重要になるのだ)。市場はそうした相互利益が互恵的に生まれるところで、半ば永久的に機会と制約の関係を変更しつづける枠組みである。市場の競争的均衡は、そうしたものを表現するものである(p. 56)。個人の合理性を仮定しないパレート効率性は、以上のようなかたちで実現可能だというわけだ。

もっともサグデンは市場主義者ではない。相互利益としての機会という定義をふまえると、確かに機会を平等化したり分配の対象とすることはできないが、権原については平等化したり分配対象とすることができる。サグデンは年金を例に、実収入を指標とした社会政策を当該枠組みでも擁護可能なものとして評価するが、詳しいことはpp. 62-66を読んで欲しい。

[感想]大変面白い論文である。政治哲学や倫理学をやっている者も、無視すべきではない経済哲学の研究成果の1つである。ただ「理由以前に責任や!」とするサグデンのアプローチは、やはり理由基底的アプローチに比べるとかなり評価的モメントに欠くもので、そういう意味では限りなく量的アプローチに近いところがある。私は合理性概念をセンやペティットとは違うかたちで捉え直す作業が有望なのではないかと思う。それによって、通常の理由基底的アプローチの強すぎる評価的モメントを是正することが可能であると考える。アパーリィの議論は、このような経済哲学の文脈でも生かせるような気がする。

1 コメント

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お久しぶりです。 (小野田実)
2010-08-29 19:21:09
井上彰様

1990年明治学院高校1学年で同クラスでした小野田実です。

我々が卒業した1993年度の国民一当たりGDPは世界2位。2008年度が世界24位です。貧困が進みました。学院の前にも格差社会の象徴のような高層マンションがあります。
高度経済成長時代を生きた我々の親世代と逆の
低成長時代を生きる我々。
23位のイタリアは教育も医療も無料なので
日本は個人(家庭)事情で機会のない人、恵まれない人が多くなる気がしてなりません。
そういう社会は望んでいません。
井上君はどんな社会を望みますか?
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