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耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

わたしは“君が代”を歌わない

2007-02-28 15:45:28 | Weblog
 入学式での“君が代”伴奏を拒否し、都教委から戒告処分を受けた女性教諭の訴えを最高裁は却下した。

 「教諭は、君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついており、伴奏したり、子どもに歌わせたりできないという思想をもっているが、伴奏を求める職務命令は教諭の歴史観を否定するものではない」と判断したのだ。四人の裁判官のなかで藤田宙靖(ときやす)裁判官(学者出身)だけが反対意見を出している。

 昨年9月21日、東京地裁は石原都教委による「日の丸」への起立強制と「君が代」斉唱強制が、憲法19条の思想・良心の自由に違反し、教育基本法10条1項の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである」にも違反すると判決した。今回の最高裁判決は、この当然の東京地裁判決に逆行する酷い判決と言うべきだろう。

 「日の丸」「君が代」問題の理解は、わが国の歴史をありのまま直視することから始まる。その手がかりとして次(あなたは「君が代」を歌いますか)を参照してほしい。

 http://www.okidentt.com/ichino/hinomaru.html
 
 私は、君=天皇である「君が代」を歌おうとは思わない。この陰陰滅滅たるメロディを好んで歌う者はよほどもの好きと言えるだろう。昨日の最高裁判決に対する談話を「毎日新聞」より引用しておく。

 <最低限の抵抗…>     
               成嶋隆・新潟大学大学院教授(憲法・教育法)

 伴奏の拒否は、君が代斉唱の強制に対する最低限の抵抗だ。多様な価値観が尊重されるなかで、子供の自由な人格形成を図りたいという教育者としての良心の発揮こそ「職務の公共性」に合致する。校長は、教諭の意思を知りながら職務命令で「踏み絵」を踏ませて懲戒処分にした。これほどの人権侵害を最高裁は追認したことになる。良心の自由の制約という重要な問題について、より緻密(ちみつ)な司法審査がされるべきだった。

旧暦に学ぶ

2007-02-27 10:54:12 | Weblog
 なんで読んだか忘れたが、ヨーロッパ三大北壁完全登頂をはじめチョモランマ、キリマンジャロなどへの登山歴がある医者で登山家の今井通子さん(いま南極?)が、登山計画を立てる時は「旧暦」を参考にすると言っていた。気象の長期予測は、作付け・収穫に欠かせないことから「農歴」ともいう「旧暦」が季節との整合性があるのだろう。

 中国や朝鮮半島、東南アジアのいくつかの国は今も旧暦が生きていて、正月は旧暦で行われる。長崎の中華街では、本年旧正月(春節)2月18日から3月4日まで恒例の「長崎ランタンフェスティバル」が実施中である。(「長崎新聞・ながさき動画館]http://www.nagasaki-np.co.jp/kankou/douga/15/2007/index.htmlを参照)言うまでもないが大晦日は17日で、夜遅くまで爆竹を鳴らしたり、家族で食事に出かけたりして賑う。

 前にも述べたことがあるが、旧暦とは太陰太陽暦のことで、わが国では1872(明治5)年12月3日、太陽暦(グレゴリウス暦)に改暦されるまで千二百年以上もの間使われていた。だが旧暦は、千二百年の間同じものだったわけではない。天保暦(1872~1844)~寛政暦(1844~1798)~宝暦暦(1797~1755)~貞享暦(1755~1685)~宣明暦(1684~863)~大衍暦(862~762)~儀鳳暦(763~697)~元嘉暦(696~)と都合8回の改暦がなされている。なお宣明暦以前のものは中国の暦法を取り入れている。(ウィキペディア参照)

 改めて太陰太陽暦を概略説明しておくと、純粋な太陰暦では、12ヶ月を1年とした場合、1年が354日となり、太陽暦の1年より約11日短くなる。このずれが3年で約1ヶ月になるので、約3年に1回、正確には19年に7回の閏月を設け1年を13ヶ月として誤差をなくしたのが太陰太陽暦である。閏月の作り方には「平気法」という法則があるが、ここでは省略する。この閏月がその年の何月に入るかによって季候変動が予測できると言われている。

 『旧暦はくらしの羅針盤』(NHK生活人新書・2002年刊)の著者小林弦彦氏は、旧暦を「自然にやさしい暦」と言って、さまざまな具体的な事例をあげて旧暦の効用を説いている。これをみれば、今井通子さんが旧暦にこだわる理由も納得できる。

 繊維業界に勤めていた小林弦彦氏は、バンコク駐在時に華僑・華人相手の商売で「農暦」が彼らの日常生活に密着していることに着目、「農暦」つまりわが国の「旧暦」を研究しようと決心した。繊維業界では「景気3割・天気7割」という諺があって、企業は天候予測を重視している。「旧暦」を研究してみると、きわめて正確に長期予測が可能であることがわかった。製品の売り上げが天候に左右されるのは繊維業界に限らない。たとえば、冷夏でクーラーが売れなかったとか、暖冬で冬でもビールが売れたというように、あらゆる業種に「景気3割・天気7割」の諺が当てはまるのである。以下、同著から「目からウロコ」の話を紹介する。

 <旧暦の予言> 
「閏月配置表」を紀元1世紀から21世紀まで作って気づいたことは、20世紀、21世紀に大きな特徴が認められることだ。冬の閏月(10月~12月)がほとんど入っていない。17世紀に9回、18世紀に9回あった冬の閏月が、19世紀には3回、20世紀、21世紀にはそれぞれ1回だけとなっている。逆に夏の閏月が極端に多い。18世紀頃までは平均10回程度だったのが、19世紀が14回、20世紀が20回、21世紀が19回もある。旧暦が地球温暖化を予言していると解釈できる。
 ちなみに『気象の事典』(東京堂出版)の「地球温暖化」の項目には「西暦1000年以降の気候をこまかくみると、中世温暖期(1000~1300)のあと寒冷な小氷期(1550~1850)になり、1850年以降ふたたび現在の温暖期になった」とあり、これを裏付けているという。
 (本ブログ筆者は小林説を否定しないまでも、近・現代の環境破壊が温暖化をより一層深刻にしているとみている)

 <旧暦で作り、新暦で売れ>
 これが私(小林)のスローガンである。カレンダーは新暦でも、日本の気候は旧暦でみる。〔閏四月で収穫期が長い…早生種のワカメで三倍の高値に〕、〔前年の閏月が翌年の冬を長くした…春まで冬物が売れ続ける〕など経営に旧暦を取り入れ成功した事例をいくつも紹介している。

 <旧暦を知ると、古典がわかりやすい>
 『金色夜叉』で有名な「…1月17日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!…」。この作品の発表時期を考証し、旧暦で調べると1897(明治30)年1月17日が十五夜満月、尾崎紅葉は旧暦時代の感覚で[熱海の海岸」を書いたことがわかる。
 『枕草子』第四十段「風の音聞きしりて、八月ばかりになれば、『ちゝよ、ちゝよ』とはかなげになく、いみじう…」。この秋八月も旧暦。
 『徒然草』第百六十一段「花のさかりは、冬至より百五十日とも、時正(じしょう)の後七日ともいへど、立春より七十五日、おほやうたがはず」。時正とは春分・秋分。兼好法師は桜の盛りは立春から七十五日が正しいと言っている。これも旧暦の話。このように古典は旧暦で読まないと季節を誤認する。

 <NHK・「今日は何の日」は正しいか>
 NHKラジオでは朝5~6時台に「今日は何の日」を放送しているが、過去の歴史的出来事を、旧暦時代の日付をそのまま新暦の日付として放送している。例えば、9月15日に「今日は関が原の戦いがあった日です」というが、実は戦いは旧暦9月の晩秋で、当日は寒い雨の日だった。新暦に直すと10月21日。歴史的に有名な人物の生年月日も、旧暦をそのまま新暦にしている。テレビの時代劇などで出てくる日付はすべて旧暦で、時代考証はされていても「こよみ考証」はめったにされていないと小林氏は嘆いている。

 

 新暦の正月を「新春」「迎春」などと言うのにいささか抵抗を感じる人は多いだろう。「新春」[迎春」はやはり旧暦で行うのが季節に合致している。長崎中華街の春節を祝う「ランタンフェスティバル」のニュースを見ながら、旧暦を再考した次第である。

 

“寿命”は測(はか)れるか

2007-02-25 09:00:08 | Weblog
 立花隆の「メディアソシオーポリティクス」2月21日号に「政権の命取りになるか 安部首相の健康問題」と題する記事がある。最近、安部首相が検査入院したことを取り上げ、「首筋に著しい老化現象がみられる」と指摘し、父方の家系が短命だから健康問題に要注意と言っている。

 立花隆氏の記事は、彼なりに「科学的」裏づけがあってのことであろうが、一体、人の“寿命”を予測できるのだろうか。

 年末になると、どこの本屋でも来年の『運勢暦』が山積みされている。それらのちょっと厚めの本なら巻末あたりに「人相の見方」、「手相の見方」が載っている。それは人の「吉凶」だけでなく「命を占う」ものでもあるが、わが国の人相、手相占いの元祖は、江戸中期の観相学の大家・〔水野南北〕といわれ、その著『現代訳・南北相法』では図解入りの詳しい観相がみられる。

 「水野南北」:http://light.kakiko.com/sionta/MizuNH.htm

 南北の相法は「血色気色流年法」といい、宿命論的なものではなく、神仏を崇敬し、終身努力すれば宿命は転換できると説いた。とくに、「食は命なり」として、食が運命を左右することを力説している。しかし、そうは言っても、ここにある「流年法」とは何歳で運気が尽きるか(死)を論じたもので、明らかに人の「命」が測られている。
 
 私の手元に『中国算命術』(ホン・ピーモー、チァン・ユイチェン共著=東方書店・1992年刊)がある。「訳者あとがき」によれば、<本書最後の章に「算命術批判」の項をことさらに設けなければならないことも、今は過去の歴史観となった唯物史観による世界でも珍しい社会主義国、中国に生きる人々の現在の置かれた立場や研究態度をも如実に示すものであろう。…にもかかわらず、この『中国古代算命術』の書は多くの人々に歓迎され、競って買い求められて、幾たびか版を重ねている>という。台湾でも同じ状況らしい。読んで字の如く「算命」とは「寿命を測る」ことである。

 著者によれば、「運命」の考え方の源流は夏・殷・周時代にさかのぼるといい、「中国の算命術は、おおむね漢代にその源があ」り、「唐代(618~907)に初めて確立を遂げた」とする。「算命術が生じてより後、人々は、婚姻縁組み・商売利殖・入試・就職、ないしは戦争・施政方針に対して、帝王貴族から一般民衆に至るまで、算命術の助けを求めて、吉凶の予測を図らない者はいない。千年余りこの方、この考えはますます盛んで絶えることなく、しかも激しさを増している」と書く。

 ごく簡略に言えば、算命術は人の生年月日時を「十干十二支」(干支暦)でみて、これを「陰陽五行」説を手がかりに命運を読み解くものである。算命術は「四柱推命」(四柱とは年・月・日・時を指す)ともいい、わが国ではこちらが一般的で、どこの書店でも専門書が並んでいる。

 わが国独自に神道、道教、仏教などの影響を受けて発展したのが「陰陽道」である。七世紀後半には陰陽師が現れ、八世紀はじめの律令制で陰陽寮が設置、組織化された。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成に当たらせた。陰陽道は占術と呪術をもって災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与えた。陰陽師としては十世紀の安部晴明が有名である。この陰陽道も一種の「算命術」であろう。

 「陰陽道」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93

 わが国でよく知られているのは、弘法大師空海が請来した占星術書『宿曜経』である。お経とはいえ、仏教の教理とは全く関係がなく古代インドの占星術書だという。空海のあと入唐した天台宗の円仁(『入唐求法巡礼行記』の著者)、空海の甥円珍もこの経を請来し、それぞれ高野山、比叡山、三井寺の三ヶ所で宿曜経による占いが行われ、平安時代中期にはそれまでの陰陽道に対抗する勢いだったらしい。

 このほか「気学方位術」、「風水」などがあるが、いずれも人の吉凶を占うもので、その究極の目的が自らの運命を予測する、つまり「寿命を測る」ことに通じるものと言えるだろう。『中国算命術』の著者は<後記>で「天命観の上に建てられている迷信である算命術は、早晩徹底的に排除しなければならない」と書いているが、一方で「算命術を人民大衆の心の中から完全に拭い去ろうとするには、まだ明らかに時が早すぎる。遮ることは導くに及ばず、さらにいわんや、一種の文化現象や学術現象としても、おのずからその存在と作用を研究する必要がある」とも述べているが、この見解は妥当だろう。

 近代科学は寿命をどうみるのだろう。周知のことだが、『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄著/中公新書=1992年刊)が参考になろう。いろいろの哺乳類で体重と時間とを測ってみると、「時間は体重の四分の一に比例する」ことがわかった。話はここから始まるが詳細は省く。寿命を心臓の鼓動時間で割ってみると、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は二十億回打つ計算になる。物理的時間で測れば、ネズミは数年しか生きないが、ゾウは百年近い寿命をもつ。しかし、もし心臓の拍動を時計(生理的時間)として考えるならば、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになる。

 これは哺乳類の大小を比較したもので、人間個体それぞれの大小、寿命の長短を論じたものでないのはいうまでもない。だが、哺乳類の生理的時間の考え方は人間の「生き方(もしくは性格)」に敷衍して適応できないだろうか。人には「忙(せわ)しない人」と「のんびりした人」がいる。どちらが長生きだろう。座禅、ヨーガ、気功は、いずれも「調身・調息・調心」を眼目におき、これが生理作用として「心拍、血圧の低下」をもたらす。ストレスに晒された生活は逆に「心拍、血圧の亢進」という生理作用を招く。寂静の時間を生活に取り入れる人とそうでない人を比較して、果してどちらが長生きだろう。

 水野南北は「食は命なり」と言ったが、これは普遍的、科学的に卓見と言えるだろう。立花隆氏も安部首相の健康を科学的見地から心配しているようだが、私に思い当たることは、安部首相の「話し言葉」である。彼の国会答弁などを聞いていると、「忙しない人」でしかも「気短な人」だというのがよく分かる。立花氏がいう「家系(つまり血族としての遺伝子)」以外に、こうした「人の属性」が寿命と関係があるかどうか、立花氏に聞いてみたいものである。

 
 
 

 

“安部譲二”のほのぼのブログ

2007-02-23 08:44:19 | Weblog
 『塀の中の懲りない面々』の著者“安部譲二”さんのホームページ、ブログを覗くのは楽しい。

 「安部譲二オフィシャルページ」:http://www.abegeorge.net/

 「続・八ヶ岳あかげら日誌」:http://blog.livedoor.jp/abegeorge/
 
  <都内の裕福な家庭に生まれ、麻布中学校に進学したが、中学在学中から安藤組事務所に出入りしていた。そのため麻布高校への進学が認められず、慶応義塾高校に進学したが、暴力団との関係のため退学処分となった。

 麻布中時代の同窓生・橋本龍太郎(元首相)と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪いことだけは黙して語らないことを約束したという。また、中学校の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じその後席に座ることに成功した。

 暴力団員だった時期に保善高校定時制に入学、卒業後、会社経営、日本航空の客室乗務員(パーサー)、キックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営など職を転々とした。日本航空を辞めるきっかけは、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまい、それがきっかけで暴力団に籍を置いていることがバレてしまったためという。

 三島由紀夫とも親交があり、安部の半生を三島が小説にしたのが、田宮二郎主演で映画化された『複雑な彼』である。大の岡田奈々ファンで、自身原作の映画に出演させている。岡田は、人気アイドル歌手だった時代、自宅マンションに暴漢が押し入り監禁される事件に遭遇したが、その監禁犯は安部と同じ刑務所に服役していた。阿部はその監禁犯を房内でリンチしたという。

 1984年、山本夏彦に文才を見出され、『塀の中の懲りない面々』を文芸春秋社より出版、これがベストセラーとなり、映画化され、人気作家の地位を築く。>

 「安部譲二オフィシャルページ」には“あんぽんたんの日々”、“手配写真??”、“連載小説”、“酒場の戯れ言”などがあり、2003年10月から気の向くままに軽妙なタッチで綴られていて、思わず噴き出しながら読める。「続・八ヶ岳あかげら日誌」は、2001年PHPより発行した『八ヶ岳あかげら日誌』の続編で、身辺雑記を毎週水曜日に更新しており、お勧めの読み物になっている。

 

 

創価学会の野望、ほぼ成る

2007-02-21 20:20:57 | Weblog
 去る2月14日、衆議院予算委員会で国民新党の亀井静香議員が、公明党・創価学会と自民党との関係を厳しく追求した。(参考・次に動画あり「晴天とら日和」2月19日)

 現実の自公政権が創価学会に主導されていることぐらい大抵の人は知っているだろう。「郵政民営化」を政治課題としていた小泉純一郎は、亀井氏の言葉を借りれば、目的達成のために“悪魔”と手を結んだ。亀井氏が言う通り、小泉政権は創価学会という麻薬にはまり抜け出せなくなったのである。近年の各種選挙で創価学会の支援無しには自民党単独での勝利はほぼ不可能であることをみれば、いかにその症状が重いかが知れる。

 創価学会・公明党が自民党と深く結びついたきっかけを、前民主党参議院議員平野貞夫氏は自著『公明党・創価学会の真実』で書いている。

<魚住さん(『野中広務 差別と権力』の著者)がインタビューした後藤組の内情をよく知る人物については、いろいろな事情から名前や肩書きは明らかにできないようだが、この話は真実に近いと私は思っている。それにしても、「自公連立は後藤組がきっかけをつくってやったようなもんだ」という証言に、今日の自民・公明連立政治のすべてがある。私は日本の政治の奥底に慄然とするものを感じる。>

 これだけでは何のことかわからないだろうが、「密会ビデオ」が存在したのだ。
公明代表の藤井富雄都議らと暴力団の後藤組後藤中政組長との密会である。内容は、「藤井さんは反学会活動をしている亀井さんら四人(亀井静香、加藤紘一、野中広務、村上正邦)の名前を挙げ、<この人たちはためにならない>という意味のことをいったという。受け取りようでは、後藤組長に四人への襲撃を依頼したという意味にもとれる。」ものだった。早い話、「住専国会」(1996年1月開会)で苦境に立っていた自民党はこの「密会ビデオ」を使って創価学会・公明党を脅して野党を分断、自陣に引き入れたというのである。

 創価学会がいかにえげつない組織であるかさまざまな証言がある。(例えば次を参照)

 ①「創価学会ウォッチ」:http://www.toride.org/kitano1.html
 ②「Forum21」:http://www.forum21.jp/
 ③「創価学会による被害者の会」:http://www.toride.org/
 
 組合機関誌の編集人をしていた私は、1962年9月、『創価学会をさぐる』という長文のルポを書いた。学会、反学会双方を数多く訪ね、実情を探ったものである。組織にとって看過できない情勢が生じつつあったのだ。

 当時、ある炭鉱労組で「政党支持の自由」をめぐり学会員との間でトラブルが起きていた。学会員が組合推薦の候補者を支持せず、度重なる警告を無視して学会候補者の運動を続けたことを理由に組合規約に基づき除名処分にしたのである。これを不服として学会側は裁判に付して争っていた。学会は参議院と地方議会に進出し、「公宣流布の時きたる」と折伏大行進を始めた時期である。その年6月末現在で276万世帯の会員といわれていた。

 2年後、私は中央本部に選出されたが、その直後、本部機関誌にこのルポに新しい動きを加筆して掲載した。冒頭には月刊誌『現代の目』9月号(現在廃刊)から次の引用がある。

<遂に、衆議院進出を決めた創価学会が、社会に新たな波紋をなげかけている。その創価学会は昭和46年5月3日をめざしての「第六の鐘」のたたかいという新しい七ヵ年計画にとりくんでいると言われる。その目標は、「…第二には、現在の430万世帯から折伏目標を600万世帯にする。…第四には、公明政治連盟を一歩前進させて衆議院に進出する。以上の四項目が池田会長就任以来の第二期の計画になるわけである」>

 さらに同誌は、<…寄付金を集め歩くのではなくて、時と所を決めて受け付けるというシステムだったが、受け付けられないことを恐れた信者が、時間厳守で、あたかも、デパートの特売日に押し寄せる群集の如く殺到したと言われる>と書き、続けて、<…一般会員とは別に財務委員という制度がある。…財務委員は毎年はじめに希望者が申し出て決定されることになっているが、年間四千円以上の負担が課せられている。現在、この財務委員は10万人程度いると言われる>と報じていた。

 ちなみに最近では、金融機関の支店に勤める知人の話によれば、「年末財務」の時期になると百万単位の金を入金する信者が珍しくないと言う。創価学会本部は、この財務で年2,000億~3,000億集めるといわれている。

 異様な増殖を続ける創価学会が、[政教分離」の原則から身をかわし立法府に本格進出したことはかつ目すべきことであった。あの頃再度、創価学会問題を取り上げた理由は、私がこの組織に強い違和感を持ったからである。しかし残念ながら、社会的存在の労働組合に適切な対応が出来たとは思えない。紆余曲折はあったものの、日本共産党を除く他の組織のほとんどが、創価学会に懐柔され、絡め取られてしまったのだ。

 日蓮正宗の信徒集団だった創価学会は、池田名誉会長が本山から「破門」されたため、実態的には「池田教」になっている。日蓮正宗は、「日蓮大聖人の三大秘法(本尊と戒壇と題目)を守る唯一の宗教教団」といわれ、長い間、これが創価学会の教義とされていたが、「破門」されたいまも教義は変わらないらしいから不思議である。

 リンク先を見てもらえば、この教団の実態が透けて見える。だが、大手マスメディアは創価学会・公明党の実像に決して触れようとはしない。周知の通り、党・学会の印刷物請負いと広告収入に縛られているからだ。朝日新聞は「ジャーナリスト宣言」などととぼけたことを言っているが、こんな穢い「タブー」を抱えてジャーナリズムが訊いて呆れる。この組織が宗教法人を名乗っていること自体、社会常識に照らしておかしい。全国に立派な施設を作り、巨大墓苑などの運営で多額の収入を得ながら無税だという。法人格を失くし課税されれば年間数千億円の税収が見込めるということをなぜ報道しないのか。

 創価学会はタレントを上手に使って宣伝に余念がないと言われている。

(詳しくは次を参照=「きっこの日記」:http://www3.diary.ne.jp/user/338790/ の中の検索欄で「池田大作」を検索すればよい。 

 亀井静香議員の「池田名誉会長に会ったかどうか」という質問に、安部首相はあくまで否定したが、衆目の見るところ、安部首相は正直に答えていない。答えられない背景が透けて見えるではないか。これがわが国の現状かと思えば、この国の行方を憂うのは平野貞夫氏ばかりではなかろう。創価学会の野望はほぼ達成されたと言えそうである。


 

 

 

 

“生ゴミ”でおいしい野菜

2007-02-19 10:52:25 | Weblog
《「大地といのちの会」総務大臣表彰を受賞》

<生ごみリサイクルによる野菜づくりなどに取り組んでいる佐世保市の市民団体「大地といのちの会」(吉田俊道代表、会員約600人)が本年度の地域づくり総務大臣表彰を受賞することが16日、決まった。県内外での講演会開催や有機無農薬野菜の栽培など、同会の循環型社会作りや食育活動の取り組みが高く評価された。>(『西日本新聞』/2月17日)

 正式会員ではないが、この会の「講習会」には何回か出席し、生ごみリサイクルから土づくり・野菜づくりを学んだ者として、今回の受賞には拍手を送りたい。

 毎日出る生ごみを〔ボカシ〕(米ヌカに乳酸菌などの有用微生物を増殖させたもの)と混ぜ、専用密閉容器に保管し、一杯になったら土に入れて混ぜ、2週間ほどシートを被せておく。約1ヶ月で生ごみは分解され良質の土壌が誕生する。生ごみの減量化にも役立つ一挙両得の「元気野菜づくり」である。

 昨年、懇意にしている農家の畑に「耕作放棄地」があるのを知り、少しばかりお借りすることにした。「大地といのちの会」(略称・「大地の会」)は、「荒地は、その土地に適した雑草が生えては枯れるのを繰り返しているので、自然に土壌成分が整い最適な土になっている」と言うのだ。その借地を耕しリサイクルして、<サツマイモ>と<トウキビ>を作付けしたところ、収穫直前にイノシシにやられて全滅した。今は、イノシシのお口に召しそうにない<ラッキョ>、<ニンニク>、<玉葱>、<エンドウ>を植えている。

 少しずつ畑を広げようと生ごみリサイクルを続けているが、つい先日土に返した生ごみが、シートを被せて大きな石を載せていたのに、イノシシに荒らされてしまった。いよいよ防護策を講じなければならない。イノシシの被害はほぼ県下全域に及び、あちこちで捕獲に力を入れ、この肉を利用して「町おこし」するという町も出てきた。果して一挙両得の皮算用が成功するかどうか…。

「大地の会」の活動で目に付くのは、小学校での「生ごみリサイクル活動」で、給食で出る生ごみを土に返す作業を通じて「いのち」の不思議・すばらしさ・ありがたさを教える。今、実践校は相当数にのぼる。会が発行する冊子に送られた小学6年生の手紙がある。

<生ごみリサイクル活動で、私は多くのことを学びました。例えば「命の循環」。今まで汚いと思っていた微生物が土を良くしてくれていたこと、つまり「命が命を作っている」ということ。このことを自分の体で感じた時、とても感動しました。「命の大切さ」がわかった気がしました。私はこの生ごみリサイクル活動が小学校の一番の楽しい思い出です。>

 ≪身土不二≫という言葉があるが、「大地の会」はその思想を実践しているといえよう。

 ≪医食同源≫あるいは≪医は食にあり≫などと言う。中国では周代(前600年頃)医療関係者は4種類に分かれていた。食医、疾医(内科)、瘍医(外科)、獣医で、最高位は食医だった。食医の任務は、皇帝の食事の管理。普段から病気にならないよう日常の食事に気をくばり、皇帝の体の状況を見て細かい食事指導をするのが食医の役目である。

 清朝最後の皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀)の回想録に、わずか3歳で即位した子どもの頃、一番つらかったのは、毎日おなかがすいて耐えられなかったことだと書かれている。皇帝がひもじい思いをするなど信じられないだろうが、たとえ皇帝でも過食は厳禁とされ、それを守らせるのが食医の務めだった。

 これは古来より「食の四原則」と言われることに適ったことである。第一に少食。「腹八分目」のことを言う。第二は粗食。ご馳走ばかり食べないこと。第三は「素食」である。「素」は「本来のもの」の意で、たとえば白米ではなく玄米を食べよということ。加工品は駄目!第四は旬のものを食べよ。現在、農魚介類の大部分に季節感がなくなっているのは不自然。

 ズブの素人でもわかることだが、わが国の農業政策は滅茶苦茶。農薬や化学肥料の大量投与で農地は荒れ、数年越しに田圃を掘り返し「土壌改良事業」を行う。それ全部税金。今に至って無農薬・減農薬・有機栽培のオンパレード。私が住んでいる地域の農家、特に山間地農家はあと十年もすれば消滅間違いなしだ。ご先祖が、大きな石を一つひとつ何年もかかって積み上げ築いた棚田が、消滅する。私がお借りしている畑もそんな石積みの棚田である。農作業の一服の間、苔むした石積みを見渡しながら、こんな大きな石を、どこから、どうして運んできたんだろう、と想わずにおれない。「一畑三株」という言葉が、昔の百姓の苦労を教える。

 「命が命を作っている」ことに気づいてくれる子どもたち。この子どもたちの未来が拓けることを祈らずにはいられない。
 

 

 

 

作家<森 敦>という人

2007-02-17 10:58:06 | Weblog
 久しく、小説に類するものを読んでいない。多分、読み込むだけの気力が失せたのかも知れない。ただ、ふっと、森敦さんの文章にふれてみたくなる時がある。手元にある『月山』その他数点の中から一冊を取り出し、ぱらぱらッとめくりながら気まぐれに読む。なんとも言えない気分になる。

 森敦さんが亡くなって13年が経つ。何時だったか、NHKの放送で話を伺ったことがあるが、あの飄々とした風貌と独特の語り口が今も鮮やかで消えない。森敦さんは数学的才能が優れておられたようで、著『一即一切・一切即一』で<曼荼羅>の世界を数式で説明されている。これが、何べん読んでも私の頭では腑に落ちないところである。しかし、腑に落ちないながら、森敦さんの世界にはいり、そこで癒される。こういう作家はほかにはいない。

 私が言わんとすることを理解していただくために、ニ篇を引く。

《親の年齢》

 <わたしは京城に育ち、鍾路小学校を出て京城中学校に学んだ。中学校を受けるとき、口頭試問があった。口頭試問では必ず親の年齢(とし)を訊かれると思った。親の年齢など教えられもせず、知りもしなかったから、あらためて訊くと、母は笑って、
「知りませんとお答え」
と、言った。
「どうしてと訊かれたら」
「どうしてもないわ。親の年齢など知らぬほうが、親孝行だと言われましたと答えるのよ」
 母は面白げにまた笑った。
 果たして、口頭試問では親の年齢を訊かれた。
[知りません」
 わたしはそう答えるより仕方なかった。
「どうして?」
「どうしてか、親の年齢など知らぬほうが、親孝行だと言われたんです」
「親の年齢など知らぬほうが親孝行か」
 並みいる先生方はいっせいに笑った。口頭試問はそれで終わり、わたしは受かった。いまもわたしはよくそのことを思いだす。
 母は日赤の看護婦になり、日露戦争に従軍した。戦いが終わると実践女学校、共立職業学校に学び、父の後妻になった。むろん、晩婚である。
 先生方はわたしの答えから、そのどれほどを感じとったか分からない。しかし、わたしが晩婚の子であることぐらいは察したであろう。しかも、母は明るく、わたしがそんな明るさの中で、育ったことは知ったであろう。
 先生方にはそれで十分だったのである。>


《悠久幾千年の興亡》

<曼荼羅が密教ブームに乗って、しばしば人々の口にのぼるようになった。しかし、曼荼羅のなんたるかを知る人は、意外に少ない。そういう人にわたしは問いたい。大日如来という太陽神が謂わば山の頂上にあって、裾野を拡げそこに無数の仏がいる。それを垂直視して描かれた画がある。そんな画を見られたことはあるだろう。それが曼荼羅である。
 ただ、曼荼羅はかかる大構想を持つものばかりとは限らない。無数の仏のうちの一つを取って頂上に据え、更に曼荼羅をなすものがある。これを別尊といい、別尊曼荼羅という。今日世の信仰を集めているのは、大日如来よりもむしろこの別尊である。阿弥陀しかり、地蔵しかり、不動しかりである。
 かつて、戦争はなによりも、部族の神仏を撃滅することにあった。出来得べくんばその神仏を調伏して、部族をおのがために戦わせることにあった。とすれば、はじめにむしろ別尊があり、別尊曼荼羅があり、これが次第に統合されて一大曼荼羅をなして行ったに相違ない。もしそうだとすれば、どうしてふたたび別尊が独立し、別尊曼荼羅をなして行かぬことがあるであろう。これが古代美術芸術が破壊され、あるいはいまも廃墟の中に残る最大の理由である。なぜなら、古代美術芸術はすべて天に属するもの、神仏に関しているからだ。
 悠久幾千年を想うとき、すでに砂塵に潰(つい)えて、人影を見ない都城がいかに多くあることか。別尊もまた蘇るものがあったとしても、蘇ろうにもそれを神仏とする部族の、すでに地上から消え去ったものがいかに多いことか。曼荼羅は密教の秘密を伝法するばかりでない。実に、悠久幾千年の興亡を教える。>
 (『天に送る手紙』/森敦=小学館)



はびこる“えせ科学”

2007-02-15 13:37:19 | Weblog
 毎日新聞の「科学」欄で、『科学と非科学』を連載している。第1部ー1は「波動」、2は「水からの伝言」、昨日の3は「血液型性格判断」で、毎週1回の連載はこれからも続くものと思われる。

 関西テレビ製作の「発掘!あるある大事典Ⅱ」の捏造騒動がこの連載の動機らしいが、民間放送は全く見ないのでその方面の動きに疎いから、「そんなことがあったんか」と今更驚きつつ、興味深く読んでいる。

 「波動」については中国<気功>論で時々みかける言葉でもあり概念的には理解していたが、家電・食品・グッズ・美容・日用品など日常生活全般に「波動商品」なるものが出回っているとは驚きだった。「ダマシのテクニック」で金儲けする世の中だから、これはごく自然な現象なのだろう。

 2回目の「水からの伝言」は、<教室に「ニセ科学」>の大見出しで、中1の生徒が夏休みの自由研究で提出した例をあげている。カイワレ大根の成長が人間の言葉の影響を受けるかどうか、つまり、「ありがとう」と声をかけた容器と「ばか」と声をかけた容器で育ち方が違うかどうかを2週間にわたって観察したという。生徒は「『ばか』と言い続けたら、育ち方が不均一になった。言葉が成長に影響すると分かって驚いた」と結論付けたらしい。この生徒の研究に理科教師は「面白い実験研究です。ただ、言葉が物体に影響を及ぼすことはありません」と書き込んだ、とあるが、当然の対応である。「水からの伝言」を熱心に伝える教師や父母がいて、教育現場では対策が講じられているともいう。

 3回目の「血液型性格判断」は知らない人はいないだろう。出版物も多いようだし、誰彼なしに一度や二度はこの話題に巻き込まれた経験があるはずである。記事によれば、2004年にはこれに類する番組が70本以上放映されたとあるから、「公共」放送が如何に堕落しているかこの一事で分かる。

 “えせ科学”がなぜ横行するのか。経済原則に従えば、「需要と供給の関係」と言えなくもないが、理由は別にありそうである。

 “えせ科学”は昔から存在した。一つの挿話を記しておこう。

 明治初頭、衆目を集めた「売薬裁判」があった。『東京日日新聞』の日報社で健筆をふるい、明治言論界の先覚者となった岸田吟香(女優・岸田今日子の祖父)は、多角経営の事業家であった。彼は、ヘボン式ローマ字を創始した医師ヘボンの処方になる目薬<精キ〔金偏に奇〕水(しんきすい)>を一手販売し、同時に強壮薬、胃腸薬などを新聞広告で大々的に売り出し大当たりした。明治の有名売薬には、今日でも愛用されている仁丹・大田胃散・龍角散・中将湯・浅田飴・六神丸・実母散・ロート目薬などが出回っていた。

 この売薬ブームに殴り込みをかけたのが『時事新報』の福沢諭吉である。創刊間もないこの新聞に福沢諭吉は次のような社説をのせた。
<売薬ハ人ノ病ノ為ニ効能ナキモノナリ。…名ハ薬ニシテ実ハ病ニ関係ナキ売物ナリ。…>
 次の社説ではさらに長文の激烈な文が載る。
<売薬ノ流行ハ誠ニ驚ク可キモノナリ。…然ルニ其調合ノ品物ハ何ト尋ルニ、猫ノ児ノ黒焼モアリ、蛇ノ首ノ干物アリ、尚甚シキハ火葬場ノ油煙モアラン、便所ノ凝結モアラン、鼻汁ニ等シキ水薬ニ耳ノ垢ニ等シキ散薬。其ノ正味ノ話ヲ聞テハ、胸モワルクナリ、之ヲ懐中スルモ穢キモノ多シ。…>
 諭吉は、売薬の無益無用を説き、「売薬ヲ去テ、医ニ近ヅク」ことを力説する。

これに激怒した岸田吟香ら売薬業者は、この記事は営業妨害・名誉毀損だとして裁判所に訴えた。長くなるから結論だけ記すが、一審、二審は売薬業者側の勝訴、足掛け4年にわたる大審院での最終結論は福沢諭吉に軍配が上がっている。(『明治医事往来』/立川昭二著=新潮社を参照)

 著者は最後にこう述べている。
<だが、なによりもおもしろいことは、この訴訟中でも『時事新報』(注・福沢諭吉発行)への売薬広告が減らなかったという事実である。新聞広告にたよる売薬業者、広告収入をはかる新聞社、うわべでは対立していたが、一歩裏にまわれば、両者の利害は完全に一致していたのである。>
 この構図は今も変わらない。

 薬の場合、有効性の是非は≪プラシーボ≫効果を無視できないだけに厄介な問題とされているが、製薬会社は、人間にとって薬が単なる化学成分ではなく、成分プラスアルファのものであることを知り尽くしている、といわれる。その「アルファ」が一種の<呪術性>をもつことは周知のことだ。薬のネーミング、色、形、大きさなど成分とはなんら関係はないが、製薬会社にとって成分そのものより重視される。たとえば、“葛根湯エキス”の宣伝で〔呪文〕を唱えるように「やっぱり漢方ですネ」と言うように。

 “えせ科学”はなぜ横行するのか。私見を述べれば、≪自然への畏敬と洞察≫が疎かになった結果というしかない。ニ、三例を挙げよう。『徒然草』第百九段にこんな<木登り名人>の話が載っている。

<高名の木登りといひし男、ひとを掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事なくて、降るる時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。…>
 
 つまり、高い所では注意が行き届くが、もうチョットという所で、えてして油断し、怪我をする、と言うのだ。かつて私たちも、高所作業の現場では「1メートルが一命取る」と言って安全をPRしたものだが、これが「技の伝承」の根幹であり「先人の知恵」のエキスであろう。

<色悪不食 臭無不食 不時不食 是也>

 孔子の言葉で、色の悪いものは食うな、香のないもの、つまり古いものは食うな、そして旬でないものは食うな、と言うのである。当然と言えば当然のことだが、生活の心得として言っている。もう一つ。

<…養生はただうまれつかざる天命をたもつ道なり。古の人も術者にたぶらかされて長生の薬として用いし人多かりしかど、そのしるしなく、かえって薬毒にそこなわれし人あり。これ長生の薬なきなり。久しく苦労して長生の薬として用うれども益なし。信ずべからず。内欲を節にし、外邪を防ぎ、起居をつつしみ、動静を時にせば、生れつきたる天寿をたもつべし。これ養生の道なり>(『養生訓』/貝原益軒)

 「術者」にたぶらかされずに、自然の道に外れない生き方をしていれば天寿は全うできると教えているのである。ここに「自然科学」の本道がありはしないか。
 最後に、数学史家・佐々木力氏の言葉で締めくくる。

<「科学の前線配置の転換」という考えを、私は尊敬する物理学者であった故朝永振一郎氏から学びました。…彼は最晩年の講演「科学と文明」の中で、才能にめぐまれた学者たちの関心が素粒子論などいわゆる「基礎理論」にばかり集って、地球物理学や気象学などの、一般の人の生活に直接かかわってきそうな諸問題がほとんど手つかずのまま未解決の状態で残されていることを指摘していました。この考えを外挿して、私は今後の科学研究体制の重心を、数学的自然科学を中心とする機械論的自然科学から自然史に移すべきだと主張します。前者の根底には自然のテクノロジカルな操作があり、時に大きな力を私たちに与えてくれます。後者の基本的姿勢は自然の操作ではなく、畏敬です。>(『医学史と数学史の対話』/川喜多愛郎・佐々木力共著=中公新書)

 この本の「対話の終わりに」で、川喜多愛郎氏はこう言っている。

<…現代のわれわれに突き付けられている数々の深刻な問題は、太りすぎたわれわれの欲望をどう抑えるかという倫理にかかるふしが大きいのではないかと私はひそかに考ええいます。>

 “えせ科学”は「欲望」と密接な関係を結び、「倫理」ともっとも離反した関係にある。社会全体にこれが蔓延していることは実に憂うべきことである。
 

  

 

まるで節操のない御手洗会長

2007-02-13 17:18:14 | Weblog
 まず、ここから見てもらいたい。

 偽装請負:http://blogs.yahoo.co.jp/cyoosan1218/28571361.html

 時代は違うが、多少は経営者と接する機会があった私も、このキャノン社長でもある御手洗経団連会長のような人物にはお目にかかったことがない。経営者としての節操が皆無と言っていいだろう。

 かつて勤務していた会社が経営危機に陥り社会問題化した時、政財界の鳴り物入りで送り込まれた経営者がいた。もう故人だから名前は出さないが、多くの優秀な人材が希望退職に応じて去って行くのを平然と見過ごし、彼は「金さえ出せば人はいくらでも雇える」と豪語した。当時、百数十社のグループ会社を擁した彼の会社は、今、消滅してしまっている。一時の都合で政財界から担がれたこの経営者は「田舎猿」と陰口されていてわが国を代表する経営者の仲間ではなかったが、御手洗氏は〔財界総理〕と言われる立場の人間なのである。

 〔財界総理〕たる人物のあり様としてこれが許せるのか。

 キャノンの<偽装請負>、<労働者派遣法違反>の実体は、朝日新聞やしんぶん赤旗がずっと前からとり上げていた。しかも、キャノンだけではない、トヨタその他いくつかの著名な大企業が同様の労働法規違反を犯している。フリーターやニート、果てはワーキングプアなどという怪しげな言葉が横行する中で、大企業の経営者はやりたい放題のことをやっているのだ。おかしなことに、冒頭に上げた2月7日の予算委員会における枝野発言を主要報道機関はとり上げなかった。これに限らず真実を追究しようとしない最近のジャーナリズムの疲弊、凋落は目を覆うばかりである。

 疲弊、凋落しているのはジャーナリズムばかりではない。この問題の当事者たる労働組合、なかんずく、わが国最大の組織<連合>が、労働者の利益代表という役割をほとんど果たしえていないのだ。

 「規制緩和」の大合唱の中で、裁量労働制や有期雇用契約の適用拡大もしくは自由化などいわゆる「労働の規制緩和」が実施された。これが、企業のもっとも手軽なリストラ策で労働コストの低減、労働者使い捨てを意味し、労働者保護に逆行することが明らかなのに、<連合>はまったく無防備のまま容認した。10年前、フランスの女性作家ビビアンヌ・フォレステルは著書『経済の恐怖』で述べている。

<労働者は搾取されるという段階を過ぎ、もはや搾取のされない余剰人員となり、恐れおののいている。搾取から排除へ。これは歴史上初めての経験だ。
 われわれは大量の雇用破壊を生む新しい資本主義の時代にはいった。>

 本書は、1996年秋の公務員ゼネストでは労組のバイブルとなり、翌年の総選挙における社会党の勝利につながったという。(訳者あとがき)「ストライキは社会悪だ」と信じているズブズブの労使協調路線を歩む<連合>幹部にとって、これは〔おとぎの国〕の話であろう。わが国最大の労働組合組織<連合>が、なにゆえにこうも疲弊、凋落したのか。労働者のみか国民をなめきった御手洗会長の弾劾がなぜできないのか。ここでは山崎豊子著『沈まぬ太陽』のモデルといわれる元日本航空労組委員長小倉寛太郎氏の言葉を引用するに留める。

<…待遇を平等にされたら、とかく風評のある第二組合、しかも会社の分裂工作によってできた第二組合、正当性を欠く第二組合に残る人はいなくなります。だからその危機感と、それから利権の問題ですね。第二組合にいけば待遇がよくなる、昇格が早くなるということ自体も一種の利権かも知れませんが。…>(岩波ブックレット№521『企業と人間』)

 私の知る限り、<連合>はここで語られている「第二組合」の集合体とみて間違いではない。最近になってまたも日航の経営危機が浮上しているが、日航経営者とそれを取り巻く第二組合幹部たちは、『沈まぬ太陽』から何も学んでいなかったのだ。この運命共同体と化した「日本的労使関係」が改善されない限り、≪搾取から排除へ≫と語るビビアンヌ女史の予見は修正されることはあるまい。
 

 

 

“女とはえらきものなり”

2007-02-11 10:26:52 | Weblog
 “女は産む機械”発言で柳沢厚生労働大臣が窮地に立っているが、(石原慎太郎の暴言に比べればチャチなもの)この発言に限らず、国の舵取りをする政治家の質が著しく劣化しているように思えてならない。

 “女とはえらきものなり 釈迦や達磨をヒョイヒョイと生む”

 こんな句を思い出すが誰が言ったのかは知らない。

 私の母は七人の子を産んでいる。すべて自宅での出産である。私を含む下から三人は近くに住む<K産婆さん>にお世話になった。県の〔赤ん坊大会〕で三位になった私は、出生時4キロあったそうで母には苦労をかけたと思う。それでも誰一人災いもなく生まれ育った。<K産婆さん>は80歳を過ぎても現役で、都合、数千人の赤子をとりあげられ、数年前、95歳で天寿を全うされたという。

 戦後10年頃まで、地方では<産婆>さんによる自宅産が多かったように思われるが、確かな統計的数字は知らない。産科医による病院産がなぜ主流になったかも承知していないが、ただ、漠然と<産婆>さんはどうしていなくなったんだろう、という疑問はあった。とくに、最近の産科医院の不足もしくは偏在が社会問題になってからはその感を深くしていた。本文を書くにあたって、探し当てたのが『お産、その伝統にあるもの』(執筆・吉村典子/『思想の科学』№121・1989.10)である。本誌この号は「日本民間療法大観」と副題があり、吉村さんの記事もそれに沿ったものである。

 ここには「人格を剥奪された産婦」の現状と、筆者が実地(瀬戸内の離島・山村数箇所)調査した伝統的な出産習俗が記されている。実際のお産方法をみると加持祈祷、薬草、鍼灸、指圧などの具体的な安産法は驚くほど少ないと指摘したあと、次のように述べている。

「それは多分、お産が療法という名のもとで行われるなんらかの病の一種としては、みなされていなかったせいであろう。
 しかし、民間療法が心を含むその人の全体を安定に導き、それにより、自分の力ですみやかにお産を乗り切るためのもの、という意味でとらえるなら、伝統的な出産習俗は、民間療法にあふれている。いや民間療法そのものと言ってもいい。」

 伝統的な出産習俗の掘り起こしを通じてわかったのは、「何者にも惑わされない、真実の〔産む人の心〕だけであった」といい、<出産習俗の中の民間療法>を具体的に細部にわたって列記している。そのいくつかは、私が生まれ育った九州の片田舎にも確かに存在した習俗のようだが、これをみれば、男には決して体験できない<神聖>な領域の存在を納得させられる。

 筆者は「産む女性の側だけが唯々として、お産の中心となる思想を実体とは異なる方向へ、変えていかざるを得なかった背景には、明治以後の教育の中でつくられた<男は尊く、命令するもの>、<女は卑しく、服従するもの>という<らしさ>の影響が大きい。」といい、「産科医の出現により、お産は<〔男らしく〕有無を言わせぬ病気の治療>的様相を呈した。産科医はお産の場で命令を下す絶対者となり、産婦は弱々しく、治療者に〔女らしく〕従う患者的に、扱われることになったのである。」と指摘している。

 さらに続けて「つまりほぼ男性のみの産科医と、女性のみの産婦という産科における特殊事情は、男と女の間で作られる、あるいは、治療者と患者の間で作られる強弱の関係を、いやが上にも増幅させた」と言う。それではこうした状況をどう変革するか。

 「産む人自身が、すっぽりと近代西洋医学幻想を棄てて出産の実態を認め、<女性の身体は産む機能を持ち、自分で生む力を持っている>と認めねばならない。だから、<産みやすさ>が重要で、……伝統的な出産習俗に目を向け、その中から、その昔<お産の主体者として生んだ>産婦たちが、見つけ伝えた<産みやすさ>の知恵を、十分に吸収したい。」と説いている。

 女性にとって<産む>とはどういうことか。10ヶ月もの間我が胎内に宿し、さまざまな体調の異変に見舞われつつ出産の難関を乗り越えなければならない女としての性(さが)。「少子化問題」が盛んに論じられているが、<産む>こと全体を通じて女性に内在する精神的、肉体的課題をどう解消するかという視点がずれている。長期的にみれば少子化は歓迎すべきことではないのか。われわれが<ロハス>な生き方、つまりスロー、スローな方向への転換さえ決意すればいいのだ。

 このお産論を通じて柳沢厚生労働大臣の頭の中が透けて見えてこないだろうか。もう一度書いておこう。

 “女とはえらきものなり 釈迦や達磨をヒョイヒョイと産む”

 脱帽!