goo blog サービス終了のお知らせ 

タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

神々の御姿 カラー・ラフ画修正・・・

2022-04-11 18:47:36 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

何度も記述している、

「2018年5月、関西の真言宗某寺院で拝謁した、生の御神霊の御姿」を、絵にしている途中です。

プロに依頼して制作中です。

私の私財で制作していただいております。

プロデュースは、私「タツノヒノエ」です。

非売品です。著作権は、私にあります。

ご覧になるのは一向にかまいません。

人々に見て頂くために、アップしているのです。

だいぶ、イメージ近くなってきました。

女神の瞳は、「凛として、きれいな一重切れ長の美しい瞳」、髪型は、このような感じです。冠は額の上についていました。髪型の説明は、完成時に説明します。

男神は、ふつうの髪型に見えました。やはり、一重切れ長のきれいな目でした。

肩から上しか見えなかったので、肩から下は想像図です。

女神は、ウカノミタマ女神。「水の女神」「稲荷神」のイメージで勾玉の色をブルー系に。持物に稲の束を。ただ、「明るいオーラ」でした。

男神は、太陽神なので、勾玉は、黄色系にしました。もう少し調整入ります。

御姿顕されて、「すっ」と消えられた後のエピソードもあるのです。

それは、完成時にお伝えする予定です。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「釈雲照」と、戒律復興運動・・・

2022-04-11 18:32:23 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

日本仏教界が、今日の様な、「在家仏教」の形 (僧侶も信徒も在家) になった原因の一つには、仏教では最も大切な「戒律」を軽視していたことが原因ではないかと思われる。

ウィキより、

明治5年(1872年)に以下のような太政官布告が出された

今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪は勝手たるべき事、但し法要の他は人民一般の服を着用しても苦しからず— 太政官布告第133号

前年に出された寺請制度の廃止と合わせて官僧が廃止された。末木は、これにより江戸時代には身分制度の枠外であった僧侶の特殊性が失われて普通の戸籍の中に組み込まれたとし、僧侶は単なる世俗の中の一職業になってしまったと指摘している

これに対し、浄土宗の福田行誡はこの布告の撤回を明治政府に求めるなど、戒律護持を求める運動が起こる。福田らの戒律復興運動は慈雲の『正法律』をモデルとした。また、釈雲照僧侶だけでなく、在家信者にも戒律主義を呼びかけ、十善戒運動を繰り広げる。そのため布告後に直ちに僧侶の妻帯が一般化したわけではなかったが、明治30年代になると僧侶の妻帯は浄土真宗以外にも次第に一般化していく

釈雲照・・・

ウィキより、

釈 雲照(しゃく うんしょう、文政10年3月20日1827年4月15日) - 明治42年(1909年4月13日)は、幕末から明治期にかけての真言宗。俗姓は渡辺氏。出雲国島根県)の出身。日本人初の上座部仏教徒である釈興然にあたる。

1836年天保7年)松江千手院で出家し、1844年弘化元年)高野山に上って真言密教を修学した。江戸時代後期に戒律復興運動を行った慈雲の影響を受け[1]、明治維新後の1884年(明治17年)十善会を発足し戒律主義を主唱し、以後は目白新長谷寺に戒律学校を創建し、機関紙「十善宝窟」を創刊した。1909年(明治42年)4月13日、インフルエンザのため目白僧園で死去

雲照の仏教に対する内省的な態度は新仏教運動に精神的な基盤となったが、戒律主義は近代における仏教には定着せず雲照の没後は衰退していった。」

・・・真言宗御室派総本山・仁和寺第33世。戒律重視を唱えた、江戸中期の高僧「慈雲尊者」を尊敬していた。

他宗の僧とも積極的に関わり、禅僧・原坦山との交流は有名。

・・・・・

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勧修寺 (かじゅうじ) 真言宗山階派大本山・・・

2022-04-11 17:51:10 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

212社寺目です。

勧修寺 (かじゅうじ) 真言宗山階派大本山。

平成8年7月27日御朱印いただいております。

全く「記憶に」ありません。

ほとんどの社寺は覚えているのですが・・・

かすかに覚えがあるのが、庭園があったような・・・。

すみません。

ウィキより、伽藍画像もウィキより

Shinden.JPG

勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派大本山寺院山号は亀甲山。本尊千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室藤原氏にゆかりの深い寺院である。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。

寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている[注釈 1]。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。」

ではまた。

・・・・・

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西国33観音霊場 第29番「松尾寺」・・・

2022-04-11 17:36:40 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

211社寺目です。

西国33観音霊場 第29番「松尾寺」。

平成17年4月23日御朱印いただいております。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

本堂(2020年4月4日撮影)

松尾寺(まつのおでら)は、京都府舞鶴市松尾にある真言宗醍醐派寺院山号は青葉山。本尊馬頭観音菩薩西国三十三所第29番札所。

本尊真言:おん あみりと どはんば うん はった そわか

ご詠歌:そのかみは幾世経(いくよへ)ぬらん便りをば 千歳(ちとせ)もここに松の尾の寺

舞鶴市福井県大飯郡高浜町との境にある青葉山(標高693m)の南山腹の標高250m辺りに位置する。毎年5月8日に行われる仏舞は一月遅れの灌仏会、舞儀音楽法要として奉納される。

寺伝によれば、から渡来した威光上人が和銅元年(708年)双耳峰の青葉山を見て、唐の霊験ある馬耳山を起想し登山すると、大樹の下に馬頭観音を感得し、ここに草庵を結び馬頭観音像を安置したのが創始とされている。

元永2年(1119年)には鳥羽天皇が行幸、寺領4千石を給い、寺坊は65を数えて繁栄した。その後、度重なる火災にあったが、その都度、細川幽斎京極家によって復興される。現代の本堂は牧野英成により享保15年(1730年)に修築されたものである。

本尊馬頭観音坐像は西国三十三所唯一の馬頭観音で秘仏である。西国巡礼の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念し、2008年平成20年)から2010年(平成22年)にかけて西国三十三所の全札所寺院において「結縁開帳」が行われた。松尾寺本尊の「結縁開帳」は2008年(平成20年)10月1日から2009年(平成21年)10月23日まで行われたが、これは前回の開帳1931年昭和6年)以来、77年ぶりのことであった。」

ではまた。

・・・・・


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樹木医・・・

2022-04-11 17:27:59 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

木の医者を、樹木医と言います。

うちの庭の木が、元気が無くなった時、樹木医に診てもらいました。

ウラジロガシが元気がなかったのは、

防草シートで地面を覆っていたことが原因でした。

建築会社に、防草シートを設置する時に、数度、「木にダメージは無いか?」と聞いて、「大丈夫です」と回答もらってたのですが、数年経ち、確実に弱っていきました。

治療は、「防草シートを、根が張っている範囲だけ取り除き、背の低い囲いを作り、樹木医が持ってきた土をその部分に撒き、オタフクナンテンを周囲に植えるだけ」でした。

それだけで、みるみる回復し、その年は、綺麗なドングリをたくさん落としました。

あとは、ツル科の植物が巻き付いて弱っていた、他の樹木も、ツルを取り除いてもらいました。

木は、意外と繊細な生物です。

庭木で困ったら、その県にいる樹木医に。

・・・・・


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする