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タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

木の死と再生・・・

2022-04-10 15:02:36 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

真言宗18大本山のうち、京都の東寺と並んで、二大総本山の、高野山には、「山林部」と言う部所があります。

広大な山上に、たくさんの寺々があるため、山の木々を手入れしたり、時には伐採したりします。

特に奥之院は、樹齢の長い大木が林立していて、台風などで折れそうになったりした木で、どうしようもなくなった場合は、

伐採と言うことにもなります。(奥之院は、ものすごい数のお墓や供養塔があるため、大木が倒れて墓を倒壊させるのを防ぐためです)

何百年も生きてきた尊い木の命ですが、やむを得ない時は、伐ります。

伐採された木は、植物としての「木」の寿命は終えたことになりますが、

その木材を加工して、お堂の材料にしたり、

寄付してくれた人への「返礼品」の「念珠」とかに加工されて、

新たな生命へと生まれ変わることになるのです。

明治以前の神仏習合だった時代の日本では、

捕殺されたクジラの魂を、「鯨神 (げいしん) 」として、神社や寺院で戒名をつけて「位牌」として供養されてきた歴史があります。

神道の、「すべての物に神が宿る」とは、「すべての物に命がある」と言うことです。

(高野山・総本山 金剛峯寺山林部では、ご献木1口2千円勧進しています。献木された方には、高野霊木で作られた、腕輪念珠がもらえます。詳しくは、山林部まで。

https://www.koyasan.or.jp/forest )

 

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西国観音霊場 第28番「成相寺」・・・

2022-04-10 14:48:46 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

210社寺目です。

西国三十三観音霊場 第28番「成相寺」。

平成17年6月11日御朱印いただいております。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

本堂

成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市成相寺にある橋立真言宗の寺院山号は成相山。本尊聖観世音菩薩西国三十三所第28番札所。境内から日本三景のひとつ天橋立が一望できる。

本尊真言:おん あろりきゃ そわか

ご詠歌:波の音松のひびきも成相(なりあい)の 風ふきわたす天の橋立

寺伝によれば慶雲元年(704年)、真応上人の開山文武天皇勅願寺となったというが、中世以前の寺史は判然としない。

寺は天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569m)の南東山腹の標高328m辺りにあるが、創建時は山のさらに上方に位置し、修験道の道場となっていた。現在地に移ったのは応永7年(1400年)の山崩れ以降である。山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の『天橋立図』(京都国立博物館蔵、国宝)には、「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。

2007年平成19年)、高野山真言宗から独立し、橋立真言宗の寺院となった。」

・・・

ではまた。

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真言宗醍醐派・総本山 醍醐寺「上醍醐寺」・・・

2022-04-10 08:22:29 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

209社寺目です。

真言宗醍醐派・総本山 醍醐寺「上醍醐寺」。

総本山・醍醐寺は、上醍醐と下醍醐があります。

上醍醐寺が、西国33観音霊場の、第11番札所です。

平成8年7月27日御朱印いただいております。

醍醐寺は、この日が初参拝だったと思います。20数年前の話です。

下醍醐では、不動明王が御本尊で、位牌がたくさん祀られているお堂があったと記憶しています。下醍醐では、そのお堂が一番強い「気」を感じました。

上醍醐へは、登山道で確か、1時間以上のぼったと思います。

要所要所に、お堂があり、全部参拝しました。

ウィキより、伽藍画像もウィキより、

Daigoji Kyoto01s5s4110.jpg

醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山寺院山号は醍醐山(深雪山とも)。本尊薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する[1]豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

札所本尊真言(准胝観音):おん しゃれい それい そんでい そわか

ご詠歌(上醍醐):逆縁(ぎゃくえん)ももらさで救う願(がん)なれば 准胝堂はたのもしきかな

平安時代初期の貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐とは、『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現・一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から歴代座主が選ばれるなど大いに栄えていた。

その後、室町時代応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていた。特に応仁の乱の最中だった文明元年(1469年)10月には、周辺集落である御境内の村民たちが寺に納める年貢を半分にする半済を要求する目的の暴動を起こした際に、武装した僧兵たちによる弾圧を行い、同月10日には首謀者たちを呪殺する目的の大規模な護摩祈祷を行うなど、人心の荒廃も進んで行った[2]。しかし、安土桃山時代に入り、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなどし、伽藍が復興され始め、慶長3年(1598年)に「醍醐の花見」が盛大に行われた。

続いて、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、慶長5年(1600年)には秀吉の時代から行われていた金堂の移築工事が完成、慶長10年(1605年)には西大門の再建、慶長11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が行われた。

明治時代の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりするなかで、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けている。

1935年昭和10年)、霊宝館が開館した。1939年(昭和14年)8月、上醍醐を襲った山火事により短時間で経蔵、西国三十三所第11番札所の准胝堂が焼失するが、1968年(昭和43年)5月に准胝堂が再建された。

1995年平成7年)1月、兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)の影響で、五重塔、金堂などの漆喰が剥がれた。1997年(平成9年)9月、朱雀天皇の勅願で下醍醐に法華三昧堂として天暦3年(949年)に創建され、後に焼失した堂を真如三昧耶堂として建立した。

2008年(平成20年)8月24日、落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼する。現在は焼失した准胝堂の西国三十三所札所が下醍醐の観音堂に仮に移されている。」

・・・京都市には、真言宗の総本山は、たくさんありますが、醍醐寺は、「修験」としての顔も併せ持っているので、独特な雰囲気はあります。

ではまた。

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