いなご家のだんご3兄妹~それぞれが輝ける未来へ~

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日航ジャンボ機墜落事故

2015-09-05 12:50:16 | Weblog
4人の生存者の一人、川上慶子さんのお兄さんの話を基にした再現ビデオを見ました。
私自身、あまりにも多くを求めているような気がして、もっと生きる・・という原点に立ち返りたかったのかもしれません。
再現ビデオは、あまりのすごさと、あまりにも知らなかった事が多く、愕然としてしまいました。
その当時、私は、14歳で中学3年生でした。お兄さんの千春さんと同じ年です。
お兄さんは、野球の部活があるため、旅行には行かず、難を逃れました。
お父さん、母さん、慶子さん、妹の4人は、東京からの飛行機に4人分のキャンセルがでたため、1つ前の飛行機に乗り、事故に遭ったのです。
千春さんは、もし自分が一緒に行っていれば、5人分だったので、その飛行機に乗っていなかったかも・・と思ったそうです。
そうです、その飛行機に乗れなかったために、助かった人も、何人いたのでしょう。
飛行機が落ちる再現は、とても恐ろしかったです。
飛行機が、真っ逆さまに落ちる・・。
ジェットコースターで落ちる時、そのまま激突するようなものですね。
やはり、生きていたのは奇跡のようです。
救助の方々に、生存者の4人が助けられる瞬間。
私は、父が入院していた病院のテレビで、その瞬間を見ていました。
ただ、その後の4人については、その時期、いろいろと報道されていましたが、その後は、報道がなされていなかったと思います。
私も、時々、川上慶子さんは、今どうしているかな・・?と考えたことはありましたが、マスコミの前に姿を見せることはありませんでした。
やはり、当時、マスコミに追い掛け回され、つらい思いをしたのでしょうね・・。
事故直後、お父さんと妹は生きていて、声がしていたそうです。
でも、だんだんと声が聞こえなくなり、朝手で触ると冷たくなっていた・・。
あまりにも過酷な体験で、涙が止まりませんでした。
それ以外にも、遺書を残した人が何人もいました。
エチケット袋にメモを書いて、確実に届くようにと免許書を入れていた人。
もしかしたら、もっとたくさんの人が書いていたのかもしれませんが、火災で焼けてしまって発見されなかったのかもしれませんね。
群馬に居た時、あの事故の際、ジップロックのような袋を作っている企業の倉庫が空になったと聞きました。
あまりにも遺留品が多く、それだけの袋を必要としていたのですね。
子供一人旅で亡くなった子供がいました。9歳です。
太郎も、その年頃、福岡まで一人旅をしていました。
あのすさまじい状況の中、その子は、どんなに怖かっただろうか・・と想像するだけで、胸が締め付けられそうです。
ビデオを見ながら、生きる、死ぬってなんだろうと・・と思いました。
成績が悪くても、死ぬわけではない・・。
生きているだけでもすばらしい事なのに、何をそれ以上、高望みをしているのだ・・と言われそうですね。
少しだけ、気持ちが落ち着きました。
亡くなられた540名の方々のご冥福を心からお祈りしたいと思います。