メディカル・ヘルスケア☆いのべーしょん

医療と健康(ヘルスケア)融合領域におけるイノベーションを考察するブログ

メディケートオフィス

2010-10-31 23:34:00 | 医療

 バイタルデータを得る様々な手法の中で、血液は重要な検出対象であり、最もいち早く健康状態を知らせるバロメータである。血液検査も遠心分離自動機により瞬時に診断判定ができるようになり、スポーツ選手の血糖値の簡易診断で実用化されている。無痛型の採血キットなども市場に出始め、機器の進化により一滴の血液からでも十分な情報が得られるようになってきている。
 モニタリングを目的とした行為を社会の仕組みとして定着させる場合、究極は自分で行うことができるセルフメディケートのスタイルであるが、上述のような健康状態をモニタするための医療機器が個人ユースを想定した価格あるいはユーザビリティとなるまでにはもう少し時間を有すると予測する。また、何種類もの機器を個人が買い揃えるのは大変であるし、個人ユースといえどもメンテナンスはある程度は必要であり、利用する側は煩わしいし、提供する側も個人ユース向けに配慮するのはハードルが高い。
 医療機器とコンシューマ機器との境界には薬事法という壁もある。そもそも人体に与えるリスクに応じてクラス分けされている。採血行為がともなうものは略医療機器とみなされる。
 
 簡易型のモニタリング機器や簡易診断機器といったものの普及を時間軸で考えた場合、早期の段階では個人ベースで展開されるよりも、まずオフィスベースでビジネス展開されると考える。主要な簡易型の機器がオフィスに設置され、出力された結果に対するアドバイスと機器のメンテナンスをする役割の人が常駐する形であれば、例えばメディケートオフィスなどと称して比較的低コストのサービスが実現できると考える。

 上記仮説を裏付ける形の興味深いビジネスが始められている。
 生活習慣病の予防を目的とした簡易的な健康診断ができる店舗型のオフィスである。わずかワンコイン(500円)で、指先または手のひらからの1滴の自己採血により、3分以内に結果がその場で分かるという手軽さが話題を呼んでいる。通常の医療機関のような、わずらわしい個人情報(名前や住所)の登録も不要であり、保険証なし、予約なしで通勤・通学・買い物の合間に手軽に検査が受けられる。さらに、検査結果のデータは永久保存され携帯サイトにて確認でき、検査履歴は健康管理に役立ち、データを病院に持っていくこともできる。
 まさに健康状態のモニタリングがオフィスで展開されている。
 その他にも既存の医療クリニックと提携して同じく500円で検診を展開しているオフィスもある。糖尿病や肺検診や骨検診、緑内障の検診が可能で、やはり15分以内にその場で、診断結果が判る手軽さが受けている。たとえば糖尿病の検査内容は採血による「血糖値検査」「ヘモグロビン検査」(HbA1c)であり、それまでは専門病院で採血して結果が判るまでは所定の期間を要した。
 
 こういった検診機関は、保険制度の維持が厳しくなり、現状2~3割の窓口負担が今後増えないとも限らない状況下で、自分で薬を買ってセルフメディケーションをしようとか、健康増進にもっとお金を使おうかという行動変容をうまくとらえたものである。このような予防医療の階層が充実してくれば、病院を受診する患者は、自ずと診断や治療を真に必要とする人だけとなり、医師不足問題は軽減すると予測される。


簡易型機器によるセルフスクリーニング

2010-10-30 23:18:02 | 医療

軽症群または病気における初期ステージにある患者群をターゲットとした仕組みとして、様々な機器やシステムを利用したケアこそ効果的だと考える。なぜならば医師にかかる前段のスクリーニング機構を推し進めるとすれば、究極は自分自身で簡易診断ができれば、スクリーニングとしてのより一層、重層的な構造の構築につながるからである。生体センサなどエレクトロニクスやIT技術の活用により、今までブラックボックスだった身体機能にスポットを当てて可視化したり、生体信号をモニタすることで病気の兆候を拾い上げたり、といった従来は医師にかかっていたけれども、症状としては病気の前段のグレーな状態を明らかにすることによって、医師にかかるべきかどうかの一次的なスクリーニング機構として機能することが十分考えられる。
 医療の中でのスクリーニングという括りよりも、より健康維持に近い予防を目的とした、健康診断の延長、あるいは体調や病状の変調をモニタするといったモニタリングという括りとして機能すれば、医療全体の枠組みの中でより前段、早期での処置の階層が確立する。

病院は真に治療が必要な人だけの受診機関とすべく、医師不足や医療費増大に対しての有効な施策とするために、患者の側に受益者負担の原理から自己負担割合を強いることによって、健康維持や健康増進への投資欲が高まるといった行動変容が期待できる。

厚生労働省が提唱する「健康日本21」は、生活習慣を改善し病気を減らす取り組みとして様々な疾病のガイドラインを提供しており、従来の「病気にかかったら治す」治療に重点が置かれた医療から、高齢化が進行した成熟社会ではQOLを最大化する予防に重点がシフトし、そのニーズをとらえようと多様な新興のヘルスケア産業が誕生している。これに連動して最近では様々な電機メーカが医療分野に参入を図るべく、エレクトロニクス技術を応用した多種多様な機器を開発しており、関連する学会や展示会も隆盛の様相を呈している。

医師不足に伴う医療サービスの供給が不十分な現状を鑑みれば、近い将来スクリーニングや予防措置は自己責任で自己管理が求められる時代となることが考えられ、現行保険制度に代わる新しい枠組みでの健康と医療のはざまにおけるサービスやシステムの概念がより重要となることが予想される。

 

 医療行為の一部の提供者が専門医師からより下層の医療従事者へのシフトが進む際に、技術の進歩による医療機器の発展は不可欠である。しかもその方向性としてより低価格、より簡便化が、ビジネスとしてすそ野を広げる上で重要である。実際、センシング技術の進歩を背景に、個人ユースを想定した様々なモニタリング機器が上市されている。
 ポータブルな診断機器(血液分析装置)を中核として、日ごろは自分でチェックし、気になったら保険の契約先医療機関へ連絡を取る。また、ネットワークを用いてデータセンタへ逐次送信し、データセンタはデータの管理、監視を行い、兆候が出た場合は保険の契約先の医療機関に連絡し、2次支援先の病院を受診してもらうなどの対応をとることで、予防型の医療サービスを提供する。

 

このような簡易型のモニタリング機器と一口にいっても、対象疾患や検出対象、さらには検出方法や検出レベルなど様々であるが、その多くは専門の医師により診断に用いられる専用の医療機器に比して精度は落ちるものの、一律に正常値の範囲と照合するのではなくとも、個人個人の日々のバイタルデータの相対的な変動や変調が検出できれば十分である。

例えば、体脂肪率が市民権を得ている背景には、体脂肪率計や脂肪率測定機能付き体重計の普及があり、体重、体脂肪減少をモチベートしていると考えられる。体脂肪計の精度は医療機器に求められる水準からすると極めて低いが、精度云々が重要なのではなく簡単に見える化できたことこそが意義のあることであり、数々の肥満対策に一役も二役も買っていると考える。

したがって、体重計、体脂肪計と同様に、モニタする対象を絞り込むことによって機能を限定して、個人ユースに耐え得る小型化、低価格化された簡易モニタリング機器や簡易診断機器が今後多数製品化され、医療階層の中の最下層を下支えすると考えられる。また新たな効用として、臨床に頼っていたヘルスケアデータに代わるN数の多い統計的なデータも得られることとなり新たな知見が得られる可能性もある。

 


医師過剰

2010-10-28 00:05:28 | 医療

 奇をてらったようなタイトルは、昨今叫ばれている医師不足とは逆説的であるが、、、

 近い将来、小児科医療は救急医療や産婦人科等とともに危機的状況となることが予想される。政策上では医学部定員を10年かけて4000人増やそうとしている。しかしながら、医学部定員増の効果が実際の現場に現れるのは、前述の通り学生が医師になるまでの期間を考えれば2018年以降となる。  
 一方、小児人口(14歳未満)は毎年減少していく。2005年の厚生労働省の人口動態統計によれば2005年において1759万人いる14歳以下の年少人口は、50年後の2055年には752万人に減少すると推計している。少子化対策などが取られているものの、この推計が行われた4年前の2001年の予測よりも下振れしていることを考えればおよそ減少することは免れない。 

 

人口推移グラフ出典 
総務省統計局 「国勢調査」 国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」 

 小児科医師数も同様に医学部の定員増が寄与すると仮定した場合、医学部定員増を織り込んだ今後の医師数の増加に対する、上記小児人口の増減を、それぞれ2010年を100%とした場合にグラフ化したものを以下に示す。



 医師数が2045年までは増加していくのに対して、小児人口は年々減少していくために、医師数/小児人口は2040年ころに2010年現在の2倍以上となる。しかしながら、その後も医師数は増加し、小児人口は減少するため、医師過剰の状態となり、2050年には現在の3倍となる。およそ50年後となると、全くもって予測しにくいものの、医師数を増加させていった場合、現在の医師不足同様簡単には解決できない‘医師過剰’という問題が将来発生する可能性があると考える。
 医師を養成するには時間がかかる上に、海外の医師を動出入しにくい国内事情から、医師不足問題に対して医師増員を図る対応では、近々の医師不足に即効性がなく、さらに上述のように一度増えてしまうと簡単に減らせないという新たな問題が生じる。
 
 モノづくりであれば需要が増えれば工場を増設し、工員を雇用して増産することが可能であり、需要が減少すれば生産調整することも可能である。医療サービスはそうはいかない。サービスの担い手である医師の数はおよそ決まっており、生産調整のように増減もできない。患者がまったく来ないのでは困るが、患者が続々と押し寄せてもモノづくりのように増産する術がないのである。
 
 小児科医療は待ったなしであり、家族の命に直結する問題である。子供は少子化傾向にある日本においては国家的な財産である。医師になるのを悠長に待つのではなく、方策は即効性かつ実効性がともなうものであるべきである。
 医師不足問題に対して、医師の数を増やすのではなく、最新設備の積極的導入による医師の負荷軽減という策も考えられる。しかしながら、医療機器の技術進歩や画像判別のアシスト化などあくまで補助的なものに留まる。患者の症状は様々であり、場合によっては生死に関わる領域であるため、一律に処するようなオートメーション化にそぐわない分野である。
 医師増やオートメーション化よりも看護師や薬剤師を対象とした医療従事者、あるいは元医療従事者を登用する方策の方が、短期でより柔軟に医師不足に対応できるものと考える。


ポスト工業化社会

2010-10-26 22:47:55 | 定例研究会
先週土曜日に、毎月第2、第4週土曜日に青山で開かれている定例のイノベーションに関する研究会に参加した。

欲求と欲望について、様々な本や哲学者の考えをひもといて、多面的にその解釈を試みていた。複雑化してきている社会では、何だかわからないが満たされない、だけれども何かを欲している欲望状態の方がとかく支配的になっているのかもしれないと思う。

そして古代から始まる歴史を概観した時に、いま我々がたっているこの時代は歴史上の転換点に立っているのかもしれないと、本当にそう思えなくもない。

狩猟時代から農耕時代へ、そして産業革命を経て大量生産、大量消費の近代工業時代の後、情報革命が巻き起こった。
1990年代にインターネットが出現して湧き起こった情報革命が、エポックメイキングな点の一つは誰もがインターネットを通じて様々な情報を得られるようになったことである。そして、それまで専門家と呼ばれる一部の人間が保有し、限られた手段でしか得ることができなかった’専門的な知識’がインターネットというツールを通じてだれでも容易に入手可能になったことである。
専門的知識の普及広範化したことで、専門家や専門的知識の価値の相対的低下を意味することとなった。素人でも容易にプチ専門家になり得て、誰でも容易に手に入れることができる専門的知識はすぐに陳腐化してしまう状況を生んだ。それまでの重宝がられた社会とは明らかに異なる’革命’すなわちイノベーションであり、多くのネット長者を生み時代は流れた。
工業化社会から情報社会へと移りゆく中で、ベースとなる技術も、機械から電気、電子、ソフトへと変遷しているようである。かつて自動車の修理工はメカニックだったが、今や何百ものセンサを搭載し電子制御装置と化した自動車は、電気屋さんでないと修理できないそうである。
そしてサイエンスの主役も物理学、化学から環境学や生物、生命科学へとシフトしている。

情報革命を経た今、ポスト工業化社会はどのような社会となるであろう。

日本は、人口が増え、収入が増え、道路を造り、車を造った高度成長期とは、明らかに一線を画す高齢社会に突入している(高齢化社会と高齢社会と超高齢社会と、全人口に占める高齢者の割合によって呼称が変わるそうである)。

今まさに起こっているイノベーションに耳を澄まし、然るべき行動をとり、イノベーションに乗り遅れないようにしなければなるまい。

参考文献
宮原諄二 「価値空間の変遷」一橋ビジネスレビュー 2010.SPR.
田坂広志 「これから知識社会で何が起こるのか」(東洋経済) 

情感への訴求

2010-10-17 18:02:47 | 日記
猫に車を傷つけられた
車のボンネットに猫の爪痕が派手に5本。後部ウィンドウにも泥の足跡が多数。
近所の飼い猫だと思うが、早速猫除けの薬剤を購入した。

ペットって何だろう?!迷惑極まりないが。。。

飼っている方だって、家の中はひっかき傷だらけだろうし、尿や糞の始末も大変だろう。そんな手のかかるものをなぜ飼うのだろうか。
ふとした時に魅せる愛くるしいしぐさや表情。それは言葉には言い表わすことのできない、手間や面倒を越えて余りある何にも代えがたい価値であるに違いない。

翻って、、、
傷つけられた車は伊車で、これまた故障の多いとされる蛇のエンブレムの車である。もう10年ものであるが、大きなトラブルなくきたことは、同じ種類の車を駆る人によれば、幸運中の幸運のようである。事実、同形車種に乗る人のネット上でのコミュニティでは、スペック自慢ではなく、壊れ自慢で話がもちきりという具合である。
そんな品質の不確かな、手のかかる車になぜ乗っているのか。

魅かれたのは、そのフォルムとエンジン音。
馬力やトルクや燃費などカタログスペックに記載できるモノとはちがうものに魅かれたのである。
品質やカタログ上の性能を求めるならば、国産車や独車には及ばないが、それらは機械としか感じられない。伊車はもっと動物的な感性が宿っていて、冬の日に聞くエンジン音は寒そうに不安定だし、夏の日は暑そうにあえいでいるように聞こえる。そういったアナログさや不完全さもテイストのうちと思えてしまうのである。

デジタルカメラ全盛の時代に、コンタックスというフィルムカメラが未だに愛好家に愛され続けられていることや、携帯電話が誰でも保有している時代にスイス製のアナログ時計が未だに高級時計として人気や価格を保ち続けている理由は、同じところにあるのでないか。

国産初の高級車ブランド’レクサス’も数年経過したが、苦戦しているようである。おそらくデジタル一眼カメラやG-shockを始めとするデジタル時計やレクサスは、精度や堅牢性、駆動性能、安全性におけるスペック上では、旧来のそれを完全に凌駕してしまって余りあるかもしれない。
しかしながら、それでもなおメルセデスやスイスの機械式時計を購入するユーザはメルセデスの歴史やオメガにおけるアポロ13号のエピソードなど、カタログスペックとして数値化できない、情感に訴えるモノを求めているのではないか。
それをブランドと片づけてしまえるかもしれないが、包含関係は製品によって事なり、ブランドの中の一つに情感に訴えるモノがあったり、情感に訴えるモノの一つにブランドがあったりする。

いずれにしても日本の工業製品は、数値化できたものについては、おそらく、とことん極めてきた様に思うが、情感に訴求できるモノづくりが今後の日本に求められることの一つであると考える。
※感性とモノの価値に関する記事が掲載されている関連ブログ:技術経営の論点

ふと中国におけるモノ作りは、コピー能力の高さと、日本の技術者のアシストもあって、数値化できるものについては日本にキャッチアップしつつあると認識するものの、中国独自のブランドと言うものは育つのだろうか。

さて、他人の情感に訴求した猫によって、傷つけられた、当方の情感に訴求した愛車の方は、覚悟はできているつもりだが、手がかかる子程かわいいといったことにならないよう、今後もトラブルが少ないことを祈るのみである。