昨日の夕方、野菜畑の鶏よけネット張りがやっと終わった。
ひと足先に店に戻って水浴びを済ませても、「花野菜のスープを作る」と言っていたラーがなかなか帰ってこない。
仕方なく豚肉とキャベツを炒めていると、ラーが憂鬱そうな顔をして半おろしのシャッターをくぐってきた。
「村長がね、ベッの女房に賠償金を払った方がいいって言い出したんだよ」
「なんじゃ、それは?」
「彼女がね、怪我をさせられたからって、しつこく村長に迫っているらしいんだ。もう決着はついたはずなのに、村長も村長だよ、まったく」
「そんなの放っておけ。1週間もしたら、みんな忘れてしまうさ。とにかく、飯だ、飯だ」
*
食い終わったところに、村長の使いがやってきた。
「話し合いをするから、すぐにベッの家に来てほしいって」
まったく、面倒なことである。
仕方なく顔を出すと、驚いたことに10数人の車座ができている。
村長、元村長、ふたりの副村長を初め、近隣の男衆が勢揃いだ。
朝には「ラーとクンターをやっつける」と息巻いていたというベッが、ニコッと笑いかけてきた。
〈この野郎、女房を抑えきれずに騒ぎを大きくしたのはてめえのくせして、笑うな〉
正式な会議らしく、みんなに供されているのは焼酎ではなく水である。
村長が口を開き、ラーと女房の間にやりとりがあった。
怪我をしたはずの女房はすでに腕を吊っておらず、「ひどく痛い」はずの右腕を振り回して何かを訴えている。
「あのね、理由はともかく怪我をしたんだから賠償金を払えって。村の人たちも、その方が丸く収まるって言ってるよ。どう思う?」
「彼女の怪我はひどいのか?」
「ううん、骨にも異常はないし、肘を少し擦りむいただけ」
「汚い悪口を言って、お前さんと俺を侮辱したのは彼女なんだから、治療費以外は一切払わない。まずは、彼女が俺たちに謝ること。そしたら、今度はお前さんが彼女に謝る。それで、チャラだ」
ラーがカレン語に直すとざわめきが広がり、それを制して副村長が静かに話し始めた。
彼の人望は、現役の若い村長をはるかに凌ぐ。
「それはカレン族のやり方ではない。カレン語には“ごめんなさい”という言葉もない。こうした場合は、怪我をさせた方が豚をつぶしてお互いに糸巻きの儀式をやって丸く収めるのが昔からの流儀だ」
「悪いけど、私は日本人です。糸巻きは受け入れますが、彼女のために大事な豚をつぶすつもりはありません。それに、皆さんは普段タイ語の“ごめんなさい”も使っているはずです。もしも彼女がきちんと謝らなければ、彼女の悪口が本当だったということになり、私はサムライとしてベッとラーを成敗しなければなりません。だから、まずは彼女に謝ってもらうのが先決です」
サムライとは、自分でも恐れ入った。
そこで、女房が反撃に出た。
「そんなら、刑務所に入ってもらうよ」
「いいだろう。喧嘩両成敗だ。ラーには刑務所に入ってもらい、俺も旦那を成敗して刑務所に入る」
そこで、脇に控えていたラーの姉が悲鳴のような声をあげ、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
すでに警察は事件にはならないと言っているんだから、これも見え見えのハッタリなんだけどなあ。
*
10分ほどして騒ぎが治まり、場の緊張が解けて焼酎の瓶が現れた。
「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」
「すべて、解決したよ」
「は?」
「ベッが謝って、女房も謝った。賠償金は、一切払わない。糸巻きの儀式用には、ウチの鶏を2羽つぶす。それで、みんなが納得した」
「なんで、鶏なんだ?」
「なんだか分からないけど、クンターがあたしを刑務所に入れるって言ったら、みんなが“鶏でいい、鶏でいい”って騒ぎ出したの」
「それで、あいつらは俺にも謝ったのか?」
「うん、謝った」
タイ語の「コォートー」は聞こえなかったけどなあ。
なんだか、狐につままれたみたいだ。
私にも謝ったという女房と、彼女を必死に弁護していた娘たちはいつの間にか姿を消していた。
焼酎の献杯が始まり、ラーが正座して顔役たちに「面倒をおかけしました」とワイ(合掌礼)をした。
献杯がひと段落すると、顔役たちが腰をあげ、ニコニコしながら私に握手を求めて去って行った。
居残った親しい友人や親戚と焼酎を酌み交わしていると、途中でどこかに姿を隠していたベッが現れて、私に握手を求めてきた。
今夜は素面らしく、髪はぼさぼさ、肌がかさついてやつれたような感じである。
おいおい、肝臓は大丈夫かあ。
*
「クンター、ありがとう。勝った、勝った、勝った~!」
店に戻ると、ラーが『のだめカンタービレ』のDVDで覚えた“おなら体操”をしながらはしゃぎ始めた。
「さて、警察に行くか」
「え、どうして?」
「2~3日留置場に入って、頭を冷やしてこい」
「えー、クンター、本気だったの?」
終始強がってはいたものの、やはりあれこれと思い悩んでいたのだろう。
ふとんに入ると、すぐに寝息を立て始めた。
あーあ、疲れたあ。
*
それにしても、村の調停会議、面倒ではあるが、なかなか民主的な制度ではあるまいか。
すでに、調停の結果は村中に伝わっているはずだから、後腐れもないだろう。
もっとも、単純な男たちとは違って、女たちの恨みはそう簡単には晴れないだろうけれど。
「クンターは、どけちだ!」
すでに、そんな噂も村中に広がっているに違いない。
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ひと足先に店に戻って水浴びを済ませても、「花野菜のスープを作る」と言っていたラーがなかなか帰ってこない。
仕方なく豚肉とキャベツを炒めていると、ラーが憂鬱そうな顔をして半おろしのシャッターをくぐってきた。
「村長がね、ベッの女房に賠償金を払った方がいいって言い出したんだよ」
「なんじゃ、それは?」
「彼女がね、怪我をさせられたからって、しつこく村長に迫っているらしいんだ。もう決着はついたはずなのに、村長も村長だよ、まったく」
「そんなの放っておけ。1週間もしたら、みんな忘れてしまうさ。とにかく、飯だ、飯だ」
*
食い終わったところに、村長の使いがやってきた。
「話し合いをするから、すぐにベッの家に来てほしいって」
まったく、面倒なことである。
仕方なく顔を出すと、驚いたことに10数人の車座ができている。
村長、元村長、ふたりの副村長を初め、近隣の男衆が勢揃いだ。
朝には「ラーとクンターをやっつける」と息巻いていたというベッが、ニコッと笑いかけてきた。
〈この野郎、女房を抑えきれずに騒ぎを大きくしたのはてめえのくせして、笑うな〉
正式な会議らしく、みんなに供されているのは焼酎ではなく水である。
村長が口を開き、ラーと女房の間にやりとりがあった。
怪我をしたはずの女房はすでに腕を吊っておらず、「ひどく痛い」はずの右腕を振り回して何かを訴えている。
「あのね、理由はともかく怪我をしたんだから賠償金を払えって。村の人たちも、その方が丸く収まるって言ってるよ。どう思う?」
「彼女の怪我はひどいのか?」
「ううん、骨にも異常はないし、肘を少し擦りむいただけ」
「汚い悪口を言って、お前さんと俺を侮辱したのは彼女なんだから、治療費以外は一切払わない。まずは、彼女が俺たちに謝ること。そしたら、今度はお前さんが彼女に謝る。それで、チャラだ」
ラーがカレン語に直すとざわめきが広がり、それを制して副村長が静かに話し始めた。
彼の人望は、現役の若い村長をはるかに凌ぐ。
「それはカレン族のやり方ではない。カレン語には“ごめんなさい”という言葉もない。こうした場合は、怪我をさせた方が豚をつぶしてお互いに糸巻きの儀式をやって丸く収めるのが昔からの流儀だ」
「悪いけど、私は日本人です。糸巻きは受け入れますが、彼女のために大事な豚をつぶすつもりはありません。それに、皆さんは普段タイ語の“ごめんなさい”も使っているはずです。もしも彼女がきちんと謝らなければ、彼女の悪口が本当だったということになり、私はサムライとしてベッとラーを成敗しなければなりません。だから、まずは彼女に謝ってもらうのが先決です」
サムライとは、自分でも恐れ入った。
そこで、女房が反撃に出た。
「そんなら、刑務所に入ってもらうよ」
「いいだろう。喧嘩両成敗だ。ラーには刑務所に入ってもらい、俺も旦那を成敗して刑務所に入る」
そこで、脇に控えていたラーの姉が悲鳴のような声をあげ、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
すでに警察は事件にはならないと言っているんだから、これも見え見えのハッタリなんだけどなあ。
*
10分ほどして騒ぎが治まり、場の緊張が解けて焼酎の瓶が現れた。
「なんだ、なんだ、どうしたんだ?」
「すべて、解決したよ」
「は?」
「ベッが謝って、女房も謝った。賠償金は、一切払わない。糸巻きの儀式用には、ウチの鶏を2羽つぶす。それで、みんなが納得した」
「なんで、鶏なんだ?」
「なんだか分からないけど、クンターがあたしを刑務所に入れるって言ったら、みんなが“鶏でいい、鶏でいい”って騒ぎ出したの」
「それで、あいつらは俺にも謝ったのか?」
「うん、謝った」
タイ語の「コォートー」は聞こえなかったけどなあ。
なんだか、狐につままれたみたいだ。
私にも謝ったという女房と、彼女を必死に弁護していた娘たちはいつの間にか姿を消していた。
焼酎の献杯が始まり、ラーが正座して顔役たちに「面倒をおかけしました」とワイ(合掌礼)をした。
献杯がひと段落すると、顔役たちが腰をあげ、ニコニコしながら私に握手を求めて去って行った。
居残った親しい友人や親戚と焼酎を酌み交わしていると、途中でどこかに姿を隠していたベッが現れて、私に握手を求めてきた。
今夜は素面らしく、髪はぼさぼさ、肌がかさついてやつれたような感じである。
おいおい、肝臓は大丈夫かあ。
*
「クンター、ありがとう。勝った、勝った、勝った~!」
店に戻ると、ラーが『のだめカンタービレ』のDVDで覚えた“おなら体操”をしながらはしゃぎ始めた。
「さて、警察に行くか」
「え、どうして?」
「2~3日留置場に入って、頭を冷やしてこい」
「えー、クンター、本気だったの?」
終始強がってはいたものの、やはりあれこれと思い悩んでいたのだろう。
ふとんに入ると、すぐに寝息を立て始めた。
あーあ、疲れたあ。
*
それにしても、村の調停会議、面倒ではあるが、なかなか民主的な制度ではあるまいか。
すでに、調停の結果は村中に伝わっているはずだから、後腐れもないだろう。
もっとも、単純な男たちとは違って、女たちの恨みはそう簡単には晴れないだろうけれど。
「クンターは、どけちだ!」
すでに、そんな噂も村中に広がっているに違いない。
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こんど、こちらのトラブルで使えますね。
「タイの法律が許しても、日本のサムライは
許さない。」
「覚悟をしてもらうぞ。」
・・嘘でもいいから言ってみたいです。
なぜか東映のやくざ映画を思い出したような。
でも鶏2羽でおさまってよかったですね。
さむらいの度迫力が効きましたか
いやいや、鶏よけネットのお礼に焼酎をあげた事から村の調停会議にまで発展...。実際渦中に居るクンターさんにとっては面倒極まりない話かもしれませんがハタで聞いてる分には色々な意味で面白過ぎます。
なにより『大和魂』の“覚悟”が遠く離れたオムコイの地でも通用した事が嬉しく、誇らしくもありました。(...単なるハッタリ勝ち!?)
何はともあれ、お疲れ様でした。
自分で言いながら、吹き出しそうになったのには困りました。村に日本軍が駐留してから、軍刀のことを「サムライ」と呼ぶようになったらしいので、もしかしたら「サムライで斬る」と誤解されたのかもしれませんが(苦笑)。
*
uraさん
ケンさん、懐かしいですねえ。次のトラブルに備えて、さらしと竹光の長ドスでも準備しておきましょうか。
*
なかちゃん
馬鹿馬鹿しくて疲れましたが、ハッタリ芝居はなかなか楽しかったです。自分の筋を通すことと、村のしきたりに従うことのバランス取りは、かなり難しいですね。顔役が頑迷だったら、逆に村に住みづらくなったかもしれません。