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「竪該録」「算俎」をよむ

2025年03月01日 16時34分59秒 | 日本文化論

「竪該録」は毛利重能の三大弟子の一人、今村知商の著作である。毛利重能は出版年代記録のある著作で、今の所一番古い著作に数えられている「割算書」の著者であり、彼の弟子には、後に有名に成った三人の高弟がいる。一人は「塵劫記」の著者、吉田光由、吉田は京都の有名な角倉了以の一族の出自で、芸術にもすぐれた、その一族の有能な秀才である角倉素庵より、明の数学書「算法統宗」を学び、それを手掛かりに「塵劫記」を書いた。今村知商は大阪河内の狛庄の出身とされている。職業は良く分かって居ないが、小間物屋とか紺屋の染色業に従事していたとされている。少なくとも生活が逼迫していることは無さそうである。食うにも困るようでは、幾ら数学の才があると言っても毛利の塾には通えなかっただろう。簡単に言うと「竪該録」は「例題集」である。殆んどが文字で書かれてゐて、我々が想像する数学書とは体裁が異なる。この本は文字から文意を解読する事さえ難しい。和算研究者で数学者の佐藤健一先生のご努力で、我々にも読める形にして頂いた事は大変に有り難いことである。もう一つの著作である「算俎」も佐藤健一先生の編集された本ですが、この本は、水戸藩の家臣である「村松重清」が書いた物である。それは一言で謂えば「公式集」であり、この公式集が与えた影響は素晴らしく偉大なものが在る。公式を眺めると、その公式が意味する問題群そのものを計り知ることが出来る。そこから新たな分野が開発されることが多いのだ。江戸時代に隆盛になった和算は、およそこの二書を基に発展したと言える重要な著作である。江戸時代初期以降、この二書に続く数学書が発刊される機会は多い。和算の発展はこの様な本の発刊にも助けられたのだろう。

さて、竪該録から見て行こう。今村の「竪該録」は吉田の「塵劫記」に影響されて発刊されたという逸話がある。今村知商と吉田光由は毛利重能の塾の同輩であり、最初に吉田が発刊した日常数学書「塵劫記」は、江戸市中はおろか、全国にまで波及しその影響力は絶大なものが在った。江戸の長屋でも、家には一冊あったとされているほど普及したのは商業が発達しつつある世相を現して、当時はソロバンの解説書を庶民が求めていた証であろう。年末の支払いに関する利息の計算など、ソロバンを使う機会が在った為である。塵劫記が、いまの「中学数学事典」の様なものであれば、竪該録は「高校数学事典」の様な趣である。当時としてはかなり高級な書かれて居る、微積分学は無いにしても、形を変えた三角関数はあり、円の表面積と体積の関係も追及された。円の中に三角形をはめ込んだ、或いは、その逆、円の中に様々な形をはめ込んだ図が掲載されている。いわばクイズの様な体裁だが、ただ解ければ好いという事では無くて、其処には、形の性質の原理が追求されており、これからもっと進めばさらに高度な物ができただろう。現代のような抽象化された「位相幾何学」などと言う物は無かった。それはフラットな平面幾何学であり射影幾何学はなかった。それでも可成り高度な幾何学で、単なる計算力では解けない。形の背後の関係を知るのでなければ解き得ない。この解法にソロバンが使われた。日本の誇る最も原始的なコンピューターと言える。まず電気を使わない、使うのは十本の指である。私の祖父は主計の将校であったが、祖父はソロバンが得意で、二つのソロバンを置き、一つを左手で、もう一つを右手で弾いたという。私には、そんな曲芸の様なことは出来ないし、第一に一つのソロバンさえ充分の使いこなせてゐない。ソロバンは明かりが在り、ソロバンを置く台があれば、大海原でもジャングルの奥地でも使用できる。

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