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井頭山人のgooブログ

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江戸時代の教育ー日本人はどう学んできたか。

2024年12月31日 08時46分27秒 | 日本文明と文化

 2万年前の縄文時代はどうか分からぬが、生れた子供の教育という物が、遠い古代に於いても無かった訳ではないだろう。子供を育てる過程で社会的動物である人間は、社会の掟(規範)という物を学ぶはずである。それを教育と呼んだところで仕来たりとか規範と呼んだところで、根は同じ物である。現在の日本人の規範の半ば以上は、江戸時代の規範と仕来たりからの影響を強く受けている。日本文明と振り被れば、遠く二万年の縄文期に行き着く、大自然と共にその懐に抱かれて暮らした自然と一体になった時間である。その文明から得られるもので最大の物は自然神道の考え方である。それは永い紆余曲折の経過が有った筈だが依然として日本人の心の最も深い部分を形成している。古代のは多くの国が有った。それを束ねる目的から争う事が起きて、一応大君の世の中に成った。それは見方に差があるが、秀真伝などが語る所では紀元前1600年辺りが始まりであるという。神武帝よりも千年以上前のことである。その辺りに統一日本の枠組みが出来たと、まあ考えても好いだろう。

紀元前1600年代と言っても、たいして古いわけでは無い、20000年前の縄文期から数えればつい昨日のことである。其れ程、日本人の歴史は永い。実を云えば二万年では済まない。というのは長野県の妙高野尻湖ではNaumannゾウを狩っていた人々が居た。Naumann象はおよそ35000年前に絶滅したと言われている。それを狩りしていた人々が居たとすれば、4万年前には原日本人が長野県の野尻湖のほとりで暮らしてゐた。またそれどころか、島根県では12万年前の磨製石器が出ている。こうなると原日本人の起源は、もう捉え所が無くなる。遺伝子解析に於いても日本人はモンゴロイドとしては極めて古い人種に属する。当然の事だが日本語の起源も其れと同様にきわめて古い。

前置きが長くなり過ぎたが、主題は江戸時代の文化と教育である。直近の日本文化は室町期に発するというのは解る気がする。と謂うのは、書院造、石庭、茶道、大和絵などの絵画、猿楽、能、を始めとした多くの現在も継続している芸道の多くが、この時代に発している。足利義政が多くの芸道を進めたのは功績だが、然し乍ら応仁の乱の遠因をを醸成し、やがては戦国時代に突入する統制の無い時代をつくったのも義政の将軍時代に発する。戦国が終わり家康の江戸幕府が開府すると、殺伐として世の中はようやく安定し、人々は文化を楽しむ余裕が見え始めた。江戸期は様々の飢饉などの悲惨な事態も多く起きたが、それでも何とか文化を高める努力が為された。やがて人々は教育の必要性を感じ、様々な教育の試行がなされた。江戸期は95%が庶民であり、武士は5%しか居なかった。庶民と言っても百姓だけではなく、商人も大工も工人も役割の違いだけで庶民の部類に入れる事が出来る。

当時江戸に住む町人層は、商売を家業にする以上は、「読み書きソロバン」は必須の習得科目であった。それは主に寺子屋という所で行われた。寺子屋という今で言う一種の学校は、江戸時代以前も存在して居たが、江戸が幕府の本拠地になり、そこに住む人々は文字が読める事、文字を書けること、計算が出来る事、が必要であった。寺子屋といってもすべてお寺で授業をする訳ではない。40人位の生徒が入る部屋が有ればそれで十分なのである。どこの寺子屋でも教える事は「読み・書き・ソロバン」が主で、一つだけでも教えるところが有ったらしい。寺子屋の教師も特別な資格が必要ではなかった。

ただ、15~16歳位までの生徒に読み書きソロバンを教える事が出来れば、それで十分だった。地方にも村には一つか二つの寺子屋が有った。だが江戸には寺子屋の数が多く、名前の付いた寺子屋も多く在った。江戸末期には日本全国で寺子屋は一万校ほどあったと謂う。それに各藩には藩校が有ったから、相当な数の教育機関が存在した。和算研究家、佐藤健一先生のご著書を引用すると、江戸に関しては、寺子屋の教師の身分は、士族ー41・9%、平民ー52・4%、神官・僧侶ー5・7%、という割合であったそうだ。また、女性教師も多く、江戸の寺子屋の教師の39・4%は、女の先生だった。私は此処にこそ、日本文明の本質、惹いては、日本文化の母系的な核心的部分が有ると感じる。男は外に出て働き、女が賢く家を守ると言う縄文以来の基本線がある。

ここで二つの例を挙げて見たい。一つは、江戸末期の安政二年(1855年)に神田で開業した「東雲堂」という寺子屋では「松原セイ」という女性が教えている。寺子屋の修業年限は9年であった。生徒の数は男32名、女46名、合計78名で、同地区の寺子屋の教師一人が教える平均生徒数は81・5人だという。これは大変だ、躾から読み書きソロバン迄、成長過程に即して教え育てる事が要る。女が賢い國は必ず発展する。それが日本だった。男よりも女の方の賢さの方が国家と言う様な大集団に取っては大切なのだろう。

もう一つ例として、文化十年(1813年)甲州山梨郡勝沼村に寺子屋を開いた、「小池ミサゴ」を取り上げる。文化年間と言えば、我が家の繰込み位牌にある、一番古い6代前の位牌(平吉)の生まれが文化三年だったから、その時代のころなのだなあ~と思った次第です。ミサゴは寛政九年(1797年)三月十六日、甲州八代郡、市川大門村に依田清造の長女として産まれた、父は娘を可愛がり諸芸を学ばせたが、賢く頭の良いミサゴは、人並み以上の成績であったという。寺子屋を開いたのは17歳の時であり、翌年は藩主の内室の侍女として祐筆までこなしたという。文政四年(1821年)勝沼村の薬種商小池忠右衛門と結婚し、再び寺子屋を開いた。寺子屋では寺子からの謝礼で経営する。然し、幕末の大凶作は寺子屋の経営にも影響を及ぼし、生徒が減少し寺子屋の廃業も多く見受けられたという。ミサゴの寺子屋が明治まで継続し得たのは、嫁ぎ先が薬種屋という商売をやってゐた為に、寺子の謝礼だけで運営せずに済んだせいらしい事が挙げられる。全国で一万以上の寺子屋があった。これは世界史的に見れば驚異的である。また、この様に教える先生が居たという事は素晴らしい事であり、更には女の先生が40%以上あった。これ又凄い事で、教えられるだけの素養を身に付けた女性が居られたこと。例えば暮しは貧しくても、持ち切れぬほどの高い志と教養があった為だろう想像します。

* 30年以上も前に、寺子屋に掲げられた諺を知った。そこにはこんな諺が掲げられていたようだ。

1ー 三つの心(こころ)

2ー 六つの躾(しつけ)

3ー 九つ言葉(ことば)

4ー 十二で文(ふみ)

5ー 十五で理(ことわり)

* ー 『ひとの末は、それで決まる』。

この様な諺が掲げられていたらしい。これは人間がこの世に生まれて学ぶべき基本ですね。

少し、私の考えを書いてみます。

*「三つの心」とは、ー 人が人として成長する段階の、最も大切な時期である。子供に愛情を注ぎ、美しいものを見せることが肝要です。優しく接し、教えだ諭す。三つ子の魂なんとやらで、人間の人格の土台を作る時期です。美しいものに感動する感受性を育てる時期です。

*「六つの躾」とは、ー 生活の作法と物事の基本である、善悪を教え諭す時期。世間を渡る上で、基本となる躾が身に付く様に教え諭す事が肝要です。

*「九つ言葉」とは、ー 正しい言葉使いを教える。言葉は心の鏡である。相手に対する思いやりのある言葉使いが出来るように指導する。言葉の乱れはこころの乱れに通じる。常に正しい言葉使いが身に付く様に、愛情を持って導くこと。

*「十二で文」とは、ー 美しい文字が書ける様に、また教科書(往来物ー昔のお手紙の事です)が過不足なく読めるように指導する。多くの古典を読ませて、考えや物事を表現する力を付けさせる。友達と文をやり取りし、豊かな情操を養成すること。

*「十五で理」とは、ー 寺子屋では六つ位からソロバンを教えて来たが、そのソロバンに加えて、算法(数学)を指導する。将来、どんな職業に就こうとも、ソロバンと算法(数学)は、身を立てる手立てと成る。シッカリと習得させ、数理的な思考法を身に付けさせる事。

* 「ひとの末はそれで決まる」とは、ー こころの豊かさと物事の表現力と数理的な思考法が出来るように、寺子屋では先生が愛情を持って指導した。掲げられた諺が身に付けば、この子の将来を良い方向に決定するだろう。

これが当時の寺子屋に掲げられていた諺(教育目標)であったらしい。いま考えても実に素晴らしい識見である。江戸時代の人々は決して愚人ではなかった。人間の内的成長の段階を永い経験から深く知ってゐたと思えます。

それに江戸時代は、子供だけではなく大人も大いに学んだ。例えば「心学」である。心学とは石田梅岩が始めた、人倫の普遍倫理である。梅岩の心学は「石門心学」と呼ばれ、江戸中期以降には、武士、農民、商人、等によって分け隔てなく学ばれた修養の学です。梅岩の出自は農民だったが、若い頃に江戸に出て商家の丁稚となり、そこで其れなりの苦労を重ね人間間の諸事を体得した。その時代の経験が心学の土台に成った。梅岩の説く心学は、人が世の中に生れ、成長し、世間に出て身を処する場合の身に付けなければならぬ倫理が整然と説かれる。彼は云わば優れた人間学の教師でもあった。

江戸期の寺子屋の教育は、日本人に「読み・書き・ソロバン」という技術を指導し、一人前の人間に育てる基礎であった。国民識字率90%は、世界で最も高かった国である。明治になって学制が布かれて、尋常小学校、尋常高等小学校、旧制中学、高等専門学校、高等中学、帝国大學、と変遷したが、それらが順調に進み得たのは、江戸時代の寺子屋の貢献が大きく、その様な土台があった為です。この心学を江戸の商人・庶民や武士・浪人が学んだわけです。それは地方にまでは波及して日本人の倫理感の土台を築き、嘘はつかず、正直・誠実に生きることが人の道である事に気が付かせた。石門心学は今現在でも、人を作るには重要な教えなのです。

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咸臨丸航海長「小野友五郎」

2024年12月28日 12時35分59秒 | 明治・大正・昭和、戦前の日本

 私は小学校のころにそろばんを習い、その関係で日本古来の数学である和算に関心が有った。算盤は手動式の計算機でこれは現代の電子計算機を除けは、世界で最も発達した計算機である。しかもこの手動式計算機は電気も要らず、どんな山奥にも持って行ける。珠算一級の方のその速度は物凄いものです。さらに、珠算は頭の働きを活発にして、何桁もの暗算を一瞬のうちに算出し容易にさせる。珠算の超一級の人は、頭の中に算盤を思い浮かべて、それを弾くことで頭の中で計算機が作動すると云う。和算の起源を勘案すると、奈良時代に「九章算術」という書物が隋より渡来している事がある。東洋の自然科学はシナの科学に端を発しているが、それは未だ科学とは呼べない代物であり、古代支那科学の分析と解説は、藪内清先生や吉田光邦先生の様な方の研究が素晴らしい。なぜ古来の数学である和算に興味を抱いたかに附いては、江戸時代に算学は驚くべき速度で急速に発展し、なんと庶民の間にも大流行があったことなど、また各地の神社に奉納され算額を見る機会が有った為です。

江戸時代は徳川の世で、身分や作法、年貢などの掟は有ったが年貢さえ支払えば、他には身に詰まることは無かった。ただ農業経営が主であったので収穫は気候に左右される事が多く、大冷害の年は大変な事態になり、飢えに晒されて悲惨にも村が消滅するような事さえ発生した。これは冷害に備えて一年を遣り過す備蓄が無かった為でもあろう。全国300藩の中には、予め冷害を予想して備蓄米を米蔵に備えて、餓死を防ぐ策を取った藩もある。だが或る程度の余裕が無ければ取れない施策だが、領民の飢え死には、藩の名誉としては大恥の筈であろう。冷害に強い品種改良も江戸時代を通じて行われ、また肥料の関係も農民はよく知ってゐたが、「肥料公社」があるわけでは無く、肥料は百姓が工夫して自分たちで揃える必要があった。木の葉を集めて堆肥とするなど、現代では肥料の三要素として窒素・リン酸・カリウム、が必要な事は子供でも知ってゐるし、茎中の窒素を固定する技術さえあるが、当時は経験から試行錯誤を繰り返した。そして歴史に名を残す大飢饉だけではなく、不作の小飢饉は常に存在した。

天体物理学の観測から言えば、太陽活動は江戸時代を通じて低調で、中期からは小氷河期の時期に当たる。大飢饉と小飢饉が平均すると30年ごとに発生した。敏感な者は今年が飢饉かどうかを手近に有る兆候から、ある程度予想できたという。長期的な予想は無理でも経験がものを言った。飢饉の実相は太陽の光が弱い、曇天が多い、干ばつ、洪水、台風、と様々であるが、稲の品種改良が格段に進んだ訳でもなく、飢饉は常に直ぐそこに在ったと考える。過去の飢饉の記録を見ると、誰もが知って居る記録に出くわす、それは鴨長明の方丈記の記述にある「養和の飢饉」である。方丈記を読むと養和元年(1181年)に起きた飢饉は全国規模で、その年は春先から雨が降らず、旱魃が続き作物は実らなかった。源平の鍔迫り合いが続いた時代である。飢えた人々は都へ行けば何とかなるだろうとの希望から京に集まったが、そこでも食べ物は無かった。餓死者は特に東北は酷い惨状だったらしい。京都に流れ込んだ人々は結局は飢えて死に、臭き臭いが満ち満ちて、洛中には四万二千三百人の死骸が洛中に在ったと長明は書いている。日本国では日米戦争のあと、天候不順による作柄と収穫量の減少は存在したが、この様に大量の人が飢えて死ぬ事は無かった。

此処で江戸時代の飢饉の実情を詳しく調べれば、享保・天明・天保、3大飢饉だけではなく、その他にも多くの小飢饉があったのだ。先ず、元和五年(1619)、寛永十九年二十年(1642、1643)、延宝三年(1674~1675)、延宝八年(1680)、天和期(1682~1683)元禄期(1691~1695)、享保の大飢饉(1732)宝暦期(1753~1757)、天明の大飢饉(1782・1787)、天保の大飢饉(1833・1839)、飢饉で亡くなった人々は数百万人近い。天明の大飢饉では東北地方で40万人が亡くなったと当時の旅行家である菅江真澄が日記に残している。江戸時代だけでなく、飢饉は身近に在ったのだ。

小野友五郎は、私の在所から東に益子を経て、仏の山を越えればもう笠間のお稲荷さんです。車で行けば道の混み具合もあるが凡そ40分で行ける。友五郎の時代は笠間藩牧野氏の支配する八万石の小藩であった。友五郎はその笠間藩の一代限りの下士で、永続的な武士としての籍は無かった小守家に三男として生れた。父が亡くなれば兄がその後を継ぐのであるが、それは雇われることが保証されたものでは無くて。継続伺いを申し願いそれが代々許可されて来たと言うだけに過ぎない。友五郎は三男であったので家を継ぐ希望は無かった。それでどこかの家の養子に入る事で身を処する以外に道は無かった。友五郎の性質は温厚で熱心な性質であったのだろう。二十俵三人扶ちで生活はカスカスであり、元より贅沢をする等という事は有り得ない最低の武士であった。友五郎が15歳の時、笠間藩の算家である甲斐駒蔵に弟子入りした。15歳にもなって初めて学問をするのは、だいぶ遅過ぎる様に感じられるが、小守家では藩校に出す余裕も無かったのだろう。藩校に通わせるには、それなりの身だしなみも居るだろうし、学用品も掛かる。それで本来ならば7歳位には塾なりに出すべきが、貧乏でそれが出来なかったのだろうと想像する。

それで甲斐駒蔵の家に教えを受けに行く訳だが、入門してから友五郎は、一日とて休むことなく3里の道を通ったらしい。師匠の駒蔵は町場の賑やかな所が好きで、たまには酒を飲んだり芝居が掛るとまた足を向ける。そう云う性格だから、出歩くことが多くてなかなか家に居ない。そうすると友五郎は駒蔵が帰るまで家で待って居るわけだ。それが度々重なる。それでも友五郎は師匠が帰るまで待って居るので、流石の駒蔵もこの若い弟子の為に出歩くことを幾らか控えたらしい。3里と謂えば12キロメートルである。もちろん江戸時代の事であるから徒歩である。12キロを一時間で歩ける訳がないから、幾ら早く歩いても時速6キロメートル、2時間は掛かる。そして帰りも2時間で、何とも和算の勉強に往復4時間を費やしている。そして、それは通学時間に過ぎない、駒蔵に教えを受ける時間が2時間として、帰りも2時間、駒蔵が遊びに出て居なければ、家で待って居る。友五郎は、家の用事か、病気にでも為らない限り、雨の日も、風の日も、雪の日も、夏の盛りの暑い日も、駒蔵の家に教えを受けに出掛けたのである。15歳の食べ盛りの年頃では腹も減る事だろう。如何して居たのか?。この熱心さが、2年位で師匠の駒蔵の学力を追い抜く。学問の出発は晩かったが元々地頭は良かったのだろう。やがて、彼は藩の勘定方に採用され、藩の勘定所の下働きを熱心に遂行する。やがてそれが認められて笠間藩の江戸藩邸勘定役に抜擢される。

江戸に着任した友五郎は藩の扶持米の管理に仕事に精を出したが、勤務以外に暇を見つけては、精力的に数学の研究に邁進する。その頃に江戸は神田橋に在る長谷川寛の「算学道場」に入門した。当時の長谷川道場は全国から数学好きが集まった有名な道場であった。そこでは世の中の武士や町人百姓などの身分は一切考慮されなかった。ただ、そこで基準に成るのは数学の実力一本だった。だから全国から数学好きが集まった。中には農家の次男坊なども居て月謝が払えないので、天秤棒を担いで魚屋をやったり、大工の下働きをやったりして、何がしかの金を得てそれを月謝に宛てていた。長谷川寛は実に物の解った指導者で、入門して困窮してゐる者は道場の寮の賄や掃除などをさせて僅かだが給料を支払い塾生の生活を助けた。その頃、友五郎は長谷川道場に入門すると同時に、伊豆の江川英龍(太郎左衛門)の所に出掛けて西洋式の反射炉で鉄を作る技術とか蘭学などを学んでいた。英龍も友五郎が見どころの或る青年であるので可愛がった。

時は幕末である、嘉永五年にPerryが江戸湾に現れて強引に外交開国を迫った、そんな時代である。もう家柄がどうしたとか謂って居られない時代であった。実力のある人材が求められる危機の時代でもあった。時の老中筆頭、阿部正弘は、家柄を越えて真に実力ある賢人を抜擢した。いま迄は家柄が役職を独占していたきらいがあった。安倍老中はこの様な危機に時代に遭遇しストレスの為か若くして亡くなった。その後を継いだのがあの井伊掃部守直弼である。老中筆頭はやがて大老となる。何人かの目付は井伊直弼の大老就任に反対したが、それはごり押しで通って仕舞い、歴史は安政の大獄を演出する事に成る。

 
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哲学の東北

2024年12月05日 20時29分04秒 | 日本文化の多様性

 哲学の東北とは或る本の題名である、中沢新一か?。僕には東北はなにか鈍臭くて、それでいて強靭な深い何かがあると感じる。外面に捉われない自立の強さと詩情の豊かさがある。自分は東北に対して常にそう感じて来た。僕の生まれは北関東だが、それは或る意味では南東北である。僕は関東人であるが、こころの中では東北人である。雪に閉じ込められて耐え、春を待つ希求のひたむきな強さがある。東北には闇と光の計り難い何かがある。それは二万年を越す縄文の地霊かも知れないし、大自然のふところに暮らした、永い永い歳月の記憶が積み重なった霊的地層である。東北人は日本人の原型なのである。彼らは、一見寡黙であるが思考の中では饒舌で、時流に流されない根源的なものを求める。斎藤茂吉、棟方志功、宮沢賢治、寺山修司、思い付く名前をすこし並べて見たが、なにかここに共通項は見いだせないか?。

芸術家の大抵は一途で個性的だが、上に挙げた彼らは、非常に不器用で骨の太い主張と存在感がある。鈍臭いにも関わらす豊かな味がある、然し全くスマートではないのだ。野暮ったくて、それゆえ信頼できる。なぜなのだろうと長い間感じて来たが、これと言った説明が付かなかった。その内、もしかするとこれは人種が違うのでは無いか?とまで思った。何か東北と云うと縄文人である。それから沖縄も縄文人、日本文明は異質な物の混合か。哲学も文学も圧倒的に東北が強い。ナウマンゾウを取ってゐた人々が居る、ゾウが滅んだのが35000年前と云う、ならばその当時この列島には人が住んで居たはず。過去の歴史は中々推察し難いのである。文字記録がないのは当然の事だろうが、人々は話すばかりで話を文字で再現できないのだ。人間の文化は、火を取り扱うこと、土器を発明したこと、文字を発明したこと、で、文化の進歩度が格段に進んだ。人間の住むには温度が決定的な役割をする。当時の人々は狩りばかりしていたのでもない。栗を栽培したり柿やイチジクも作ったであろう。陸稲が縄文期には在った。

空想を逞しくすると、仮に日本人の起源が東南アジアに太古存在したというスンダランドに在ったとすると、今から5万年前以上以前、スンダランドが水没する前に、その住人は、JavaからAustraliaに出てNew ZealandからPolynesiaに広がりPolynesiaは現在は島々であるが超古代には、そこはある程度の大陸を形成していた。水没を機会に彼らは北上し日本列島と目指して船を進めた。彼らは日本列島が在るとは考えもしなかったがそこに流れ着いた。もちろんPolynesiaからと同じく、黒潮に舟をこぎ出しPhilippinesからTaiwanを経て、沖縄諸島をへて九州に来た者も居れば東京湾、鹿島灘に入った者も居たであろう。関東地方は海が深く進入し大きな内海を形成していた。そこは魚介類が豊富で、気温の温かかった当時は照葉樹林の大森林が形成されていたであろうから、将に楽園だったのだ。いつの事であったか新聞に鬼怒川中流域でクジラの化石を調査している県立博物館の記事が出ていたことがある。

*何人かの男たちが干上がった川の中でタマ石を掘り返している

通り掛りの者 ー 何をして居るんだね?

博物館の職員 ー クジラの骨を発掘しています。

通り掛りの者 - ここは川だぞ。

博物館の職員 ー ハイ、今は川です、しかし1500万年前、この場所は内海でた。それは中々信じられない事ですが、現実で確かです。我々の生存時間のスケールでは、地球の変化は実感出来ませんが、陸地は移動し隆起と沈下を繰り返しています。

当時の海の深さはどのくらいあったのか?が、思われるが、関東平野には太平洋の海が深く入り込んで、栃木、茨城、群馬、埼玉に跨る内海を形成していた事は、海岸線に沿って貝塚遺跡が何千と点在していることを考えれば、この海は豊かで穏やかな海だった事が窺がわれる。千葉の外側を、暖かい黒潮が還流して居いて、非常に住み易い所であっただろうと想像する。縄文期の水深がどの位あったのかは不明だが、一千万年前にこの鬼怒川の中流を10mのクジラが泳いでいるとすれば、少なくとも30mの水深はあったのでは。関東地方の等高線を考慮して見ると、その大まかな形状が推察される。此れだと北関東の平地はだいたい水没する。山地に降った雨を集めて鬼怒川も塩水の内海にそそいで居た可能性が大である。山地には落葉広葉樹林と針葉樹の森が大森林を形成していた。二万年に及ぶ縄文期がそこに展開された。これは一種の奇跡である、大自然の恵みの中で自然と共に生きて来た古い人類である縄文人、この世界はまだ明確に明らかにされてはいない。縄文期が17000年続いた、それ以前に12万年もの旧石器時代があった。12万年前の磨製石器が出土しているのだ。この石斧やガラスのナイフなどを使い、採取と漁労により生活を支えて居たのだろう。

氷河期は最近の物も含めて何度もあった。近々の例を挙げれば、ギュンツ氷期(80万年前)、ミンデル氷期(38万年前)、リス氷期(15万年前)、ウルム氷期(1万5000年前)、そうして我々は次の氷期を迎えることに成る。そして人間に取って肝心なのは、この氷河期がどうして到来するかという事です。永い地質年代を俯瞰すると、氷河期は珍しくなく、寧ろ間氷期に比べて氷河期の方が永いことが解かるのです。人間の文明はこの間氷期の間に発達したものです。温暖な気候に下に植物が繁茂し、それに支えられた動物が増え、動物の一種である人間も増えた。次の氷期が来ると、たぶん私の予想でしかないが、我々の「神である植物は」減少し、本物の食料減少に見舞われる。現在80億人の人口は1000分の1に成るかも知れない。それは地球全人口が800万人に成る事です。500分の1とすると1600万です。必然的にそう成らざる得ない。

地球の歴史を遡れば、或る時太陽が弱くなり何度も氷河期は訪れた。寒冷化の原因は太陽活動の弱まりと地球自体の原因、火山活動の活発化大気中への光を遮る埃灰。宇宙線の増大により雲の発生で太陽光が地表に届かぬ寒冷化、太陽系の歳差運動による周期的なサイクル。色々と原因らしきものが挙げられたが、これが原因という物は一つでは無いであろう。円の中に正多角形が内接する、そしてあらゆる形が円に含まれることで、形はすべて円の中に在る。特に円に内接する精妙な形は、円内の存在する正多角形である。五つの正多角形に数学者としてのヨハネスケプラーは宇宙の構造を見た。彼の考えた惑星の軌道は、この多角形とその運動がもたらすものだった。そうすると正多角形が宇宙の軌道を構造を作っていることに成ります。ケプラーはたぶんそう考えた。(宇宙が非の打ち所がない程完璧ならば数学的整合性が宇宙を形作っていると)。だが多角形は無限の存在する。我々は正二角形さえ描くことが可能だ。

だがKeplerが考えた宇宙的定理性と調和は、物理的存在様式とは同値ではない。数学の理念と現実の宇宙は同じではないということです。実際に宇宙を形成しているのは原則としてはエネルギーが最小のかたちで形成される。これは普遍的な原則です。この宇宙もその様な形を維持している。氷河期も大規模な運動の歪から起きる。それは未だに解明はされていないが、定期的の起こる事を思えば原因は確かに在る。未だに太陽系の形成とその運動は隅から隅まで解明されたわけでは無い。若しもその経過を詳細に調べて見れば、地球内部の原因、太陽系と太陽活動の原因、太陽系を覆う外部銀河系宇宙の原因、と、に分けられるでしょう。我々を含めた生命という存在は、この地球という惑星が生み出したものです。我々は大自然のほんの小さな一部です。

一人の人間の寿命は、カゲロウやセミにくらべれば長いものです。本川先生の本に「ゾウの時間とネズミの時間」というご著書があります。そこで謂われているのは大きな動物ほど長命で小さな動物ほど短命というご指摘です。だが短命と長命が一概に比較できる物では有りません。長命だから得で、短命だから損であるとは言い切れないのです。生物の寿命はその生物の心臓の鼓動数が決めているという御指摘もあります。確かにゾウの鼓動はゆっくりで、ネズミの鼓動ははやい、その鼓動が一億回を打った時が一つの命の寿命だと仰ってゐる。わたしは調べた事が無いですがわかる気がします。そしてもっと言うならば、動物のゾウは子供を産むのに二年に一頭です。ネズミはネズミ算式と言う様に、短期間にたくさんの子供を産む。産まれて来た命がこの世で生物的に為さなければ成らない事は、つぎの世代を産む事と、自分が飢え死にしない様に自分の体を維持する事です。これが地球上の生物の基本的な仕事です。生命はその様に設計されているのです。ですから最適状態を模索するように作られている。大自然は無駄を省きます、最小作用の原理があらゆる所に働いてゐる。大自然の配慮ははるかに人智を超えて居ます。生命の設計は何か大きな数学の原則を再現し大自然はそれを顕現して居ます。

「植物は動物に取って神の如き存在です」。動物はすべて、植物によって命を支えられて居るのです。皆さんは、モミジの種子を見た事が在るでしょうか。モミジの種子は種に二枚の羽根が生えています。その羽根を詳細に見て調べた事が在りますか?。その羽根は実に芸術的に設計されたものです。あれほどの美しい構造を見たことが在りません。何かに気が付く筈です、そうですハエの羽根にもそっくりです。これは驚くほど似ている、私も詳細にルーペで観察し、ハエの羽根とモミジの羽根には、自然上の何らかの知られていない共通性が存在すると思いました。わたしが生物のかたちに興味を持ったのは、小学生の頃でした。なぜこんな形をしているのだろう?、わたしは昆虫少年でしたので、セミやカマキリ、蝶や甲虫類に常に関心を抱いて居ました。自然には何らかの深い配慮が潜んでいると感じていました。世の中は段々に、そんな疑問に答えを用意できる段階にまで進みました。1980年代に「自己組織性」という言葉が学問にも現れて来たのです。その言葉になんら違和感は有りませんでした、なぜならば自分が自然観察から得た結論が、その自己自身で自分を形図くる本能的な能力にある事を知っいたからです。これを数学的に解明する事が必要だと感じていました。生物のかたちは遺伝情報(DNAの塩基構造)のなかに潜んでいる。ですからその塩基構造を記号情報として形の形成と結びつけなければ為りません。それは未だ解明されていない分野です。数学と情報理論、暗号理論、確率論、非線形力学、分子構造数学、非可逆過程論、熱力学、統計物理学、量子力学、相対論、流体力学、成長過程分析、波動工学、等々、理論物理学の全領域と数学の全領域を知って居る必要があります。不思議なのはなぜ、自然はDNA構造の様な見事な情報の蔵を創り上げたかです。

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