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詩人の形而上学-「ユリイカ」に付いて

2019年09月12日 22時14分49秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学
 世界には永遠に記録すべき、特異な人物が何人も居るものだが、即物的で何の文化的歴史も持たないアメリカという国家は先住民であるインデアンを抹殺し、秘密結社フリーメーソンに拠る反乱に因ってブリテンから独立した独善的な国家だが、この国家に二人の特筆すべき人間が生まれた。そしてこの二人は、このUSAから鼻摘まみ者にされ悲惨な生涯を送ったが、この飽くなき蛮族の国に若しも文化の価値があるとしたら、この二人に因る効果以外には考えられないだろう。一人はC・S・パースという数学者で哲学者の人で、もう一人は此処に取り挙げるスリラー作家、E・A・ポーである。比較的短い生涯に於いて、彼は怪奇小説家と記述されているが、それとは丸で異なった側面もある。詩人であり評論家で怪奇小説の妄想家、そう言う男が、思わぬ不思議なテーマである「宇宙論」を、自分の悲惨な生涯の最後に書いている事は何を意味しているのだろうか。怪奇小説家と謂うと、わが国では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が脳裏に浮かぶ。この二人は何らかの共通性で繋がって居るようにも見える。これらのジャンルに属する人々は、本来の人間という物を知るための重要な暗示や理解に連なるものだ。

人物論の中では「自己破滅的人間」という種類に分類できる思想家・作家を幾人か挙げる事ができる。同時代のフランスの詩人では、ボードレールやヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー、などもその範疇に入れることが出来よう。思うに世の人間認識の深みは、この様な人々によって開拓された。日本では偉大な詩人が書ききれないくらい何人も出ている。古くは万葉の庶民の詩人たちである。万葉集は日本全国から集められた庶民の詩集である。古今和歌集、新古今和歌集…、和歌のみならず、日記、物語、宇治拾遺、今昔などの説話集、此れに参加した庶民は数限りない。個性あるキリリと引き締まった物語など、伊勢物語はかなり古い部類に属するが、これは多くに人に読まれて来た意外とうすい歌集である。段落が有り、その物語のなかで歌が詠まれる。作者は解らないが在原業平だと云うのが有力な説である。作者は多分そうだろうが、読み継がれるうちに恐らくは、有力な詩人によって増段されて行ったというのが分り易い。確かに初版の伊勢物語は業平が書いたにしても、彼が亡くなり、それを見ている歌人たちが、それに付け加えるという誘惑に勝てなかったと思える。方丈記と同様に薄い本だが、古典という物はこの様な物を云うのだろう。能の演目に井筒があるが、その元はこの中の一節である。日本文化の発想はおもしろい、能と狂言はコンビだが、能はこの世とあの世の境で演じられる。

日本の近代詩人の中では朔太郎がポーに近いかも知れぬし、また宮沢賢治も特異な詩人に属するのだろう。詩人たちは不思議を愛する。
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江戸から明治への文学作品を通じた言葉の変遷

2019年09月04日 17時32分05秒 | 日本の文学と文体

 日本の文学の伝統に付いて、丸で門外漢で殆んど何も知らぬが、素人ながら明治の以降の文体に付いては、明らかに江戸との差異を感ずる。評論と云って好いのか分からぬが、江戸期の注釈書の文体は文語的なもので、明らかに口語体と違って居た。江戸時代の評論と言うのは、注釈書を通じての論評であった気がする。もしこの拙文をお読みに成られた方で、文語と口語の差をご存知の方は教えてほしい。特徴なのは特に小説である、江戸の世に、私小説が有ったかどうか知らない。果たして西鶴や近松の作品は小説の部類に数えられるのだろうか?。書き言葉と話し言葉が一致して居ない時代の小説とは何なのだろう。曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、江戸後期の代表的な読み物であったが、是は謂わば長編物語であって、一般に言う明治以降の小説とは趣を異にしている。明治に成り初めの言文一致体とは、二葉亭の「浮雲」と文学史では云われているが、「浮雲」を読んで見ると、これが言文一致か?と個人的には奇妙さを感じてしまう。江戸の町人は、こんな言葉で話をしていたのか?地方の庶民は、一体どんな口調で話していたか?これはおもしろき問題だ。何を謂いたいのかと云えば、明治以降に日本語の代表的な文体を作った人物あるいは著作な何なのか?と云う問いとテーマである。

一口に文学とは謂っても、人にはジャンルや文体の好みがあるだろうから、色々と作家を物色する内に自分の感性に合う文体に出くわす筈だが、好みの文体と好みの内容に会う作家という物は、意外に、その人個人には重要なものになる。明治の大作家という人達が何人も居るが、その人達はどの様にして自分の文体を築いて行ったのだろう。これもまた面白い問題だ。個人の文体を築くと謂っても、何もない無から有が生ずる訳が無いから、其処には材料となる素養が有ったと考えるのが順当だろう。江戸までは、日本人の基本的な教養は漢学であった。支那の古典を日本的に読み解いて、それを評論したり注釈したり等が漢学著作の主体であった。江戸末期から蘭学が盛んになり、蘭学者という人々が登場するが、彼らは皆、漢学という土台を持って居て、その上に蘭学を乗せた構造の教養である。森銑三先生の「おらんだ正月」などを覗いてみると、大方はその様な人達である。

江戸260年も永いが、文化文政期から明治に掛けて不思議なのは、今でも通用する大きな文学が創始された事であった。人の名前で言えば馬琴・京伝、、そして明治に成り漱石であり鷗外である。当時は新たに子規や虚子による俳句の出発も有ったが、何と謂っても夏目漱石の存在は大きい。森鷗外も文豪である事には違いないが、一般の庶民には断然、漱石の名前は巨大である。漱石は当初文学に進むつもりは無かったはずなのに、幾多の奇縁が終いには文学を選ばせた。彼は理系の方に進みたかった様だが、なまじ英語が出来た為に心ならずも、横文字を立文字に直す事、あるいはその逆をすることに成った。彼が終生苦しんでいたのは、本来漢文学が好きだったので洋物の思想には本質に於いて違和感が有ったのではなかろうか?、謂って見れば漱石も鷗外も江戸時代に生まれている。彼が育った環境も、強く江戸の雰囲気を残していた時代だ。

今の世の、現代からすれば、夏目漱石は「大文豪」という感じからして、80歳くらいの年齢を感じて仕舞うのだが、彼は持病の胃潰瘍で50歳を前にして、49歳で亡くなって居る。現代であれば、これは殆んど若死にの部類に入るのでは無かろうか。そして人生前半の大學の英語教師を辞めてからは、朝日新聞の専属作家としての活動期間は凡そ10年間に過ぎない。漱石は10年間で質の高い相当数な作品を残した。すべて傑作とは言い難いにしても、古典として残る片手の数の作品がある。人は斯く斯く好みは様々ですが、大方の人は漱石の文体を落ち着いた名文であると見るでしょう。絶大な人気の高い幾編かの作品があるなかで、私は長編よりも、意外にも小品の方に、曰く言い難い印象的な作品があります。彼の文体は、語り口も筋の流れも明治以降の文体の一つの見本となった。漱石の文学は、生真面目で技巧の無い文学から、「書生の文学」という中傷もあるようだが、この文体は、やがては日本文学の基本中の基本になるのである。さらに、明治と言う時代の文学に特徴的なのは、幾らか江戸の空気というか、人間関係と言うか、そのような雰囲気を著作の内に持って居る気がする。

鷗外や漱石の明治の文学から一葉や、以後の大正の文学へと流れてゆくに従って芥川や百閒とかが生まれて来る。こうなると鷗外や漱石の文学は次第に古い物の方に押しやられてゆく。文体に付いて無から有は生まれないとは言えないが、文学作品は多にして個人の文体の傾向を決めやすい。どちらかと言うと警句的な文体、芥川とかニーチェのような著作は文体のみならず、下手をすると思考形式まで影響を受けやすい物であることを自覚すべきだろう。言語と思考は明らかにつよい紐帯で結ばれている。文体がひとの思考や表現に影響を及ぼさないと誰が言えるだろうか。さて貴方の文体と思考の系譜は、誰のどの様な作品のどこにありますか?

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