人物論の中では「自己破滅的人間」という種類に分類できる思想家・作家を幾人か挙げる事ができる。同時代のフランスの詩人では、ボードレールやヴェルレーヌ、マラルメ、ランボー、などもその範疇に入れることが出来よう。思うに世の人間認識の深みは、この様な人々によって開拓された。日本では偉大な詩人が書ききれないくらい何人も出ている。古くは万葉の庶民の詩人たちである。万葉集は日本全国から集められた庶民の詩集である。古今和歌集、新古今和歌集…、和歌のみならず、日記、物語、宇治拾遺、今昔などの説話集、此れに参加した庶民は数限りない。個性あるキリリと引き締まった物語など、伊勢物語はかなり古い部類に属するが、これは多くに人に読まれて来た意外とうすい歌集である。段落が有り、その物語のなかで歌が詠まれる。作者は解らないが在原業平だと云うのが有力な説である。作者は多分そうだろうが、読み継がれるうちに恐らくは、有力な詩人によって増段されて行ったというのが分り易い。確かに初版の伊勢物語は業平が書いたにしても、彼が亡くなり、それを見ている歌人たちが、それに付け加えるという誘惑に勝てなかったと思える。方丈記と同様に薄い本だが、古典という物はこの様な物を云うのだろう。能の演目に井筒があるが、その元はこの中の一節である。日本文化の発想はおもしろい、能と狂言はコンビだが、能はこの世とあの世の境で演じられる。
日本の近代詩人の中では朔太郎がポーに近いかも知れぬし、また宮沢賢治も特異な詩人に属するのだろう。詩人たちは不思議を愛する。