素粒子物理学が突き当たっている課題は、一言で云えば世界の存在理由である。この問題は人間のあらゆる哲学、思考、行動の意味を左右するものだ。我々の理解とはイメージで有り、イメージに浮かばない物は、そもそも理解できない物なのである。17世紀以降の知的探求傾向は、外的世界を理論的に構築する為に数学化の道を選択し、様々な定理と実験とを駆使して理論構築を行ってきた。その理論が再び実験を要請し、さらにその実験に沿う様に理論を再構築してきたのが数学と物理学の歴史である。 数学化とくに、現象に数学を適応させること、例えば群論を挿入するとか、そう言う物が20世紀の物理学の様式であり特徴でもあった。数学化のために新たなる数学の分野も想像された。この様に物理学は、数学化と実験によって再び理論が構築される。このメソッドは不思議な位に成功して、この方法論で異常なくらいに発展してきたのである。
だが21世紀も始まって理論が独り歩きを始めた、と言うより実験のレヴェルがダイレクトに理論に追い付かなくなってきたのである。理論の要求するエネルギーレヴェルが、現実の実験レベルを逸脱する桁に成って来たという訳である。理論が要求するエネルギーレベルが、既に人間が実験が出来ないレベルであれば、それは、むしろ宇宙の中の星雲に起こる現象から、理論を補強する以外に無いことになる。もしも、現在最大の問題は、陽子崩壊などに関するエネルギーの桁は、今の3乗のレヴェルの実験であり、それは思えば、現在最大の実験エネルギーレベルでの、1000倍の桁のエネルギー台になる。これは、単に実験的事実として不可能なだけではなく、経済的にも一国の国家予算的に不可能なレヴェルになる。若しも、是をやるなら莫大な金額を投入する以外に無いであろう。それは国民への健全な福祉に回せない、いわば贅沢予算である。余りに巨額なために、国民は、学問自体の価値に疑問は無いが、余りにも高額なこの様な計画を許さないであろう。
では、どうするかと言うと、それは星空の星雲の様態を観察し、その現象を物理的実験的な側面として解読する事である。星雲こそは、太陽系や地球規模のエネルギーレヴェルを超える現象であり。その観測と解析が不可欠になる。その解釈こそ、高エネルギー物理学の土俵になるだろう。取り敢えず、そして外的な世界に対する観測と同時に、必要なものは内的世界の観測と解釈である。「内的とは」、どういう意味であるか?、と言うと、それは数学的なモノが持つ「基本的な法則の研究」である。それは数学の未開の分野として既に提出されている。
此れこそ最も重要な課題であり、将来の物理学や化学、分子遺伝生物学、などの諸学にも影響を与える力を持つ。例えば最も基本的な数学の分野である「数論」の諸課題が、その重要な物であり、また、幾何学の課題が重要なものである。この分野を開拓してゆくと、外的な世界に対する回答が出て来る。数論では古くは不定方程式の問題や、zetaの問題、ABC予想の問題が、控えている。此れこそが、人類の問題中、最大級の問題であり、整数論、を含めた数論問題は、おそらく、ここ100年以内に完成すべきものであり、その達成は人類史の偉業となる大問題である。月へ行くより、この数論問題の方が重要であり、困難な問題群なのである。そう容易く探求できないのが、この種の問題であり、人間の人智の根源的な力を要求されている。
では、数論的な世界認識に含まれる現実の物理的問題と、世界存在の根拠に関する予想とは何であるか?、を云おう。数論は果たして物理歴現実に関与しているか?自然の構造は数論の様な自然の形式と相似であるか?である。自然の構造はその指導原理が数論の示す基本的な関係のような構造と対応を誘導原理としている。数論はその様な対応関係を用いて形成されている。数論の大々的な研究は、やがてもっと深いレベルの探求に達するであろう事が確実である。数論の構成を自然が採用する不思議を、どう説明したらいいのだろうか?例えば素数の列が自然数の中で、どの様な位置と意味を含んでいるのか?
それが、第一種類の問いである。そして、先見的に提出された構造が、自然の構築の中でどの様に使われるのか?その様な導きの構成があるのか? 以前に、ポアンカレ予想が解かれた、そしてその解き方に統計力学の法則性と定理が使われたという。ポアンカレ予想は、3次元では中々解けない難問だった。ロシア人のペレルマンが統計力学の方法を使い最終的解いたという。ポアンカレ予想はフェルマーの最終定理のようにある意味で、問題の内容が明快では無かった。難問は数限りないが、それを解く人も数多い。
最近では、ABC予想が京大数理解析研究所の望月信一によって解かれたと報告されている。この業績は極めて大きなものだが、仮に素数の関するZeta函数の問題はリーマン予想が正しいとすると、その結果から何が云えるか?だ。その結論が単なる素数の構造だけではなく、何か別の物理的結果を示唆するとしたら、ものずごい世界認識上の革新が始まるだろう。と云うのは、宇宙の始まりから現在まで、物質の構成とそれらが織り成す世界構造の方向性が今まで未知の次元であったからで、そこで新しい数学が想像される可能性は大である。フラクタルや非線形性の世界が本来は自然の特徴であるのに、今まで線形数学の方向性しか話題に成らなかった。それは、非線形性の世界が探求が困難であった為で、それを解放したのは電子計算機の力であった。素晴らしい速度で計算ができるこの機械は、現在では量子テレポーションを応用した、超速度を出す可能性があり、この計算機の未来は増々、非線形数学の分野を拡大するだろうと思う。これは居間の数学と物理、化学、遺伝学を決定的に再構築するだろう。
素数とは?その定義は小学生でも理解できる簡単な物だが、自然数の列で1以外自己数でしか割り切れない数のことである。いったい割るという演算とは何なのだろう。小学算数のレベルでいうと、分母を成すある塊が分子に幾つ有るかという演算である。その際に分母と云うのは恣意的な塊である。ならば当然ですが分子も恣意的な塊であります。ある塊がある塊の中に何個含まれているか?という演算です。簡単な様でいて、問題には自然数列の構造が隠されており、表現上の簡単さとは裏腹に、その基盤が意外に複雑なのが数列です。まあ無限級数と云っても好いのですが。それに素数という数は分解できます。素数は確固としたモノでは無いのですね。数論を彩っている様々な表現や定理、・予想は、元はと云えば人間の編み出した演算の射程と構造を問題にしているようです。
自然数列は、1に1を加えて行った数列です。そこから素数などの問題が出てきます。素数定理が証明されたのは、確か戦後でしたか?。でもζ函数の様な問題が、まだ残っているのですね。どうも一筋縄ではいかぬ気がします、簡単なのにね。目先を変える必要を感じます。ある塊とは何か?とか、塊を規定している自然の意図は何なのか?とか、数学的方法論の最も基本的な基礎的な部分とはどこなのだろう?やはり、演算(四則)なのでしょうか?四則は加法で統一できます。減法、乗法、除法は、加法で表現できます。自然数はもっとも一般的ですが、数はこの様な狭い範囲には閉じ込めて置くことは出来ません。どうしても数の拡張は必要になります。そうでないと問題が解き得ない事が起きます。
自然数、有理数、無理数、実数、複素数、四元数、八元数、と拡張され、今では十六元数などと云う事を云う人もいます。日常は実数・複素数の段階、特別なもので四元数、が必要ない成るくらいでしょう。また、数の拡張を行っても問題が明確になる訳では無い。数、特に自然数は、我々は天から与えられた概念であると感じているが、その天から与えられた自然数が自然の構成指針に深く根本的に関係して居ると言うのが、素数論、Zeta函数の問題なのである。数学は、大型の機械も大仕掛けの高級機器も使わない、厳密に必要なのは、仲間たちでの討論会と論文集と、ノート、鉛筆、万年筆、インク、辞書、位なものだろうかな? だから、本質的には、どこででも出来る学科なのだ。第一に必要なものは、問題を考える根性と継続性、そしてそれらを含めた、強い意志である。ABC予想は根源的な方法論のところはまだ理解されてらしいが、それに拘らずどんどん研究を進めれば好い。理解はあとから追ってくる。創造的な時期は幾らも無い、拘らず進めるべきだ。常に真理は少数派に始まるからだ。数論はおもに自然数というごく初期の認識に立った数列を論ずる分野であるが、その根本的な洞察は、自然数に限らず、その拡張された複素数から四元数、八元数、十六次元と幾らでも拡張が可能だ。全貌を知るというよりもある狭い範囲の現象を深く知りたいのだ。
数論と素粒子構造が何らかの関連を持つとしたら、それは「物と事を根源から構成する原理」が、数論の対応している為なのだろう。ごく根源的な数学構造の原理が、自然の構造物構成に関連していると云うのは、今は未だ明らかに成って居ない本質が潜んでいるからだろう。それが何か、は、今のところ知られていない力が働いているのだろうか?、「自己組織性」と言う概念が持てはやされているが、自己とは内因的な、という意味にも捉える事ができ、必然性を意識させる概念だが、自然は謂わば内的な物も外的な物も、続いているのであり、それは一体のものである。地球に存在するあらゆる形態は、その根源に於いて共通性をもつ。わたしたちは、その存在の裏で確かに動いている真の必然性について何も気が付いてゐないのでは無かろうか?。