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「詩とは何か、詩人とは何か」

2025年01月25日 18時38分55秒 | 数学と言語学、及び宇宙論と哲学

 感性と言葉のあいだに生息する生き物が「詩人」という種族である。彼らは感性を言葉に繋げるべく必死の努力をするのだが、それはいつも裏切られて悩むのだ。詩人とは因果な種族である、成りたくて成るのではなく、成りたくなくても成って仕舞うのが詩人であり、詩人に成りたい者でも、波長のない者はどんな努力をしても成ることは出来ない。詩人は天より与えられた災難であり言葉の大本を探った為の罰を与えられたのである。彼らは言葉が紡ぎ出る泉を見ている、だがその聖なる泉の水は、気の遠くなる深い深い深淵から湧出するものなのだ。

最近、わたしは古本屋で吉本隆明さんの「追悼私記」という本を買った。値段は200円である。題名の如く、知人への追悼文を集めた物である。古本屋でペラペラと見ていると知った名前が出て来た。一人は「今西錦司」であり、もう一人は「遠山啓」である。今西さんはすみわけ論でダーウィンの適者生存説に挑戦した、私が思う偉大な人間であるが、もう一人の遠山啓さんは、水道方式という教授法で一世を風靡したこれも偉大な数学者である。この両方の方は、日本の思想界や数学教育に大きな影響を与えた人物である。

永くわたしは吉本隆明という人がどんな人かを知らなかった。彼は初期には詩人であり、その後多大な著作と評論で名を成した人物である。そのくらいの認識でしかなかった。それにお名前の本当の読みは「たかあき」だが、一般には「りゅうめい」と呼ばれていた。名が知られその影響力が増すと漢読みに成るらしい。勿論、漢読みには元々成らない人物もいるが。まあそんな事はどうでも好い(笑)。この追悼私記には交流のあった多くの人物が取り上げられて居る。わたしは吉本さんの体験した時代が、丁度わたしの父の時代と重なってゐるので、父は歌人で左翼ではなかったが、わたしは吉本さんを左翼に染まった人物と考えていた。戦中戦後の時代を体験した人物は、GHQ占領軍にそんな一種の洗脳を受けて居たのかも知れない。戦後には所謂、進歩的知識人と称する人が居る。丸山真男や加藤周一と言った御仁である。共産主義者と自称はしないが、中身は共産主義者であった。もっと言えば猶太の影響を深く受けた人であり、悪く言えば手下である。

これまでの吉本さんの著作や対談集を拾い読みするに従って、わたしの認識は誤認であったと感じた。吉本さんは旧弊を打ち破ろうとする気持ちは強いが、決して猶太が主導するような教条的共産主義者ではなかったと思ってゐたが、どうもそうでは無かったらしい(笑)。敗戦後のこの頃は、左翼で無いと正しい人間ではない、遅れた人間と思わされれていた。だが、令和七年の現在、19世紀に始まる共産主義は猶太の世界支配の為に仕掛けられた道具である事が明らかに成ってゐる。戦後の間もないこの頃の吉本さんは、つまり深い洗脳に染まってゐたと言える。この追悼集には吉本さんの若い時代から現在までの、心が辿った自己の内面の歴史と仕事への展望が密かに書かれている気がした。とくに遠山先生への追悼文は他の人に比べて異常に長く、吉本さんの今在るまでの人生を語っているような気がする。

何も知らない私は、最初なぜ此処に遠山啓が登場するのかが解らなかった。遠山さんは数学者であり、また物理学にも親近性があった人である。ところが若い頃の吉本さんは、詩人であり膨大な本を、読み・考え・書いた、初期は先端左翼の評論家であり、総じては日本文化の深層を論じる思想家に変身した。そんな吉本さんが遠山先生と、どう重なるのか?。そこで思い出したのが、遠山教授は東京高等工業(現東京工業大学)の先生だった。吉本さんも米沢高等工業(現東京工業大学)の生徒で、高等工業が統一されて東工大になった。此処に接点があったのだ。そして私見だが、数学と詩の親近性は強いのだ、どちらも研究するには大掛かりな機械は必要が無い、謂わば、紙と鉛筆が有ればそれで済む。追悼文を読み進めるに従い、遠山啓さんが吉本さんの人生に深く影響を与えている事が解ってきた。詩人は世の流れに敏感なので、大抵は左翼全盛の時代には無意識にそれに染まる。

現在の日本は、一時の左翼全盛の時代が過ぎ去ると、共産主義ほど陳腐なものは無い事に気が付き始めた。彼らは、今まで左翼幻想に深く酔わされて、何も見えずフラフラと暴力を振るい、ソ連を崇め、不思議な事に、同じ穴の狢のアメリカを否定した。だが、ソ連を創って再び壊したのは、アメリカを支配している猶太金融資本機構であり、世界支配をそのProtocolで挙げている猶太超国家勢力である事など何も知らないに違いない。

そして、江戸時代の封建制反対、資本主義反対、資本家反対、国家権力反対、と、何も知らず、何も分からず、動物の様に訓練され者たちが、新左翼と呼ばれ日共と呼ばれていた。そんな中に吉本さんも一時は住んで居たのである。だが吉本さんにも、Marxの出自自体が、Britainを支配しているRothschild家と縁戚に在り、マルクス主義と称する世界攪乱の方法論がFreemasonの大立者であるパリニッシュ・レビィという、猶太の世界支配の計画書である、シオン賢者の議定書rotocolの牽引者の要請で書かれた物であることを知ったら、あまりに阿呆らしくて、今までの世界解放の宣伝の狂態が何であったか、恥ずかしくて何も言えないだろう。

遠山啓教授への吉本さんの追悼文の中で、米軍の無差別爆撃で東京の下町は焼き尽くされ、大學は見るも無残な状態に在った時、学生有志が遠山教授に数学の講義を頼むのである。その講義「量子力学のの数学的基礎」という内容だったらしい。階段教室には200名ほどの学生が詰めかけていたという。空きっ腹を抱えてそれでも学問への魅力を失わなかった真正の学生には、感激せざる得ない。本来の教育とはこんな条件の中でしか成立しないとするならば、豊かな中での本当の教育や講義とはいったい何なのだろう。

次に書いて有るのが、今西錦司先生である。この特異で偉大な思想家は現在で云う生態学の創始者のひとりであるが、今西の思想は単なる生態学を超える知恵を持つ。彼の思想と哲学は人間の社会様相を考える上でも非常に強く有効である。今西は特異な思想家であった。彼の本領は自然観察家であり探検家でもあった。大東亜戦争中にはアムール川の奥地にある未開の森林興安嶺を探検している。探検には梅棹忠夫ほか後のナチュラリストが大勢参加している。後の京都大學がマナスルを始めとした山岳活動に画期的な時代を創造した根源がここに在り、その中心に居たのが今西錦司であった。今西の著作群はとても面白く、しかも誰でも読める敷居の低い物と思われているが実際はそうでは無い。今西の言っている事はDarwinを超えて居る。Darwinは種の進化は生存闘争により変化すると言うが、今西は「種は変わるべくして変わる」それは生存闘争ではない。「生物はその多様性を使い棲み分けをしている」と主張する。今西の学説は直感的で理詰めのブロックを積み上げた様なものでは無い。私も今西の主張に同意する。わたしは子供の頃から昆虫採集が好きで、小学校の頃は殆ど勉強もせずそれに熱中していたから、今西さんの気持ちは良く分かる。言って見れば棲み分けは、生物の大自然が与えた智慧なのである。

吉本隆明さんが、この本「追悼私記」で、今西とinterviewを重ねた本は、むかし朝日出版から刊行された「Darwinを越えて」である。この中で、吉本はinterviewの為に、今西の著作を数十冊読み込んで、意気揚々と対談に挑んだ。吉本が今西に聴きたかったのは、例の、渓谷で足った一人でカゲロウの生態を調べていたその姿から、「棲み分け理論」の発想がでる瞬間の状態を聴きたかったらしい。だが吉本が今西にその点をあれや此れやと尋ねると、今西は煩がり、そんな所にはもう関心が無いと言わんばかりの対応だったので、吉本はこのinterviewは失敗したかと考えたらしい。だがこのinterview本を読んでみると、吉本が謂う様には失敗だったとは思えない。わたしは其れ成りに、このinterviewは成功していると思う。吉本は自然科学の専門家ではないが、詩人特有の鋭い感性を持って居り、物事の核心部を把握する能力はピカ一である。大体にことばの意味とその射程を深く広く知覚する者は、何を遣らせても一流なのである。この場合は吉本がそうである。

今西は明治以降稀なNaturalistである、彼はその母校である京都大學を、探検という分野において傑出させた張本人であり、戦後の食うにも困る時代にあれ程の事を成し遂げたことは驚異でもある。いまでも京都大學、特に理学部物理学科は入学が難しい大學であり、自然科学の分野において日本をリードしている。ただ今思うのは、現在の入学試験に於いて今西錦司のような破天荒な人材が、京都大學に入学できるだろうか?という疑問がある。コマッチャクレタ受験秀才のみを選抜している未来には、恐らく新分野の開拓は無いだろうと私は思う。このことを京都大學の入学選考委員は能々考えて見るべきであろう。現在の京都大學は極端に左翼化していて、殆ど共産主義者の巣窟の如き体をしている。

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武家政権に附いて

2025年01月23日 22時15分09秒 | 日本の歴史的遺産と真実

 私は歴史家では無いので、膨大な古文書を読み解く力は無いが、日本が辿って来た歴史には関心があります。武家政権の成立と経緯に附いて私見を少し述べて見たい。漢字交じりの文字記録が残された時代は、それほど古い時代の事ではない。もしも神代文字によって記録された文書が辛うじて存在し、それを読み解くことが出来れば、現在の公定日本史は悉く改正される事であろう。今回はそんなに一万六千五百年前の古い縄文時代には言及しない。その意味の比較で謂えば、武士の時代はつい昨日の出来事です。今回は鎌倉幕府の時代からから江戸幕府の瓦解までを述べて見たい。一気に書けないので、何回かに分けて記述することにします。

武士政権の発祥は朝廷内の争いごとから起きました。各く朝廷内の派閥の配下である桓武平家と清和源氏が争い、平家が勝利し頭目である清盛が政権を立てた。他にも軍事貴族はあり、中原氏、藤原氏などの軍事貴族も多々あった。清盛が最初の軍事政権で、清盛は朝廷内の役職を一族で独占し、源氏他の武家や宮廷公家の反感を買っていたが、清盛が健在の内はさすがの不満も持って行きようがない。それは天皇家に関しても同じである。しばらくは清盛を筆頭とする平家の政治的天下が続いて行った。その間に様々の事件や紆余曲折があったが、清盛の薨去した後に、東国に流されていた源義朝の倅の頼朝が兵を挙げ、平家の支配に抗した。頼朝は一次は危うく敗残する危険があったが、義弟の義経などが戦さ働きし、何とか堪えて平家を壇ノ浦で滅亡せしめた。平家の公達郎党は捕縛され殺された者も多いが、下級官吏は逃げに逃げ、山奥に潜んで血を継承しそれは江戸時代まで続いたし、現代でも逃げに逃げた子孫が生活している。

やがて鎌倉に源氏の政権を立てた頼朝は東国を滅ぼし、奥州藤原氏はなんの咎もないにも拘わらず滅亡させられたのである。そして源氏の中での争い事が起き、頼朝は奥州藤原氏の下に逃げた義弟の義経を追い詰め殺す事に成る。そんな内紛事で呆気なくも鎌倉政権は足った三代で滅亡する。政権の主役は源氏政権の執事であった北条氏が執権として担う事に成る。将軍位は京都から親王を呼んで就いて貰ったがもちろん飾り物である。元来北条氏は平家の出であり、皮肉な事にはここに平家の血筋の平家政権が復活するのである。北条氏は3代執権北条泰時などが初期に「御成敗式目」などを制定し、法的合理性で平等な理念を持って政権を担った為に鎌倉政権は安定した。その記録は鎌倉幕府の公式日記録である「吾妻鑑」に記録されている。御成敗式目の51条は、聖徳太子の17条の憲法を消化継承した上で制定された。という訳で、17条の憲法の3倍の条を、御成敗式目は制定した。この成文法は太子の17条以来のもので、武家社会の法令に止まらず、遠くは江戸時代武家諸法度にまで強い影響を及ぼしてゐる。

因みに、この御成敗式目の文章は、江戸の寺子屋でも読み本習字書の教材として使われていたらしく、子供たちは知らない内に「法の精神」を学んでゐたことに成る。鎌倉時代の本当の危機は、元軍と朝鮮軍の十数万が侵略して来た「元寇」であった。この危機に「北条時宗」は、十九歳ながら果敢に対策を講じ立派に日本国を救った。若しも武家政権ではなく、公家の政治が継続して居たら日本国は元軍に占領されて居たかも知れない。そうすると日本人は奴隷化され、日本国はそこで消滅したであろう。だがこの北条の政権も次第に、朝廷の画策から政権の土台が切り崩されて行く、後鳥羽院の陰謀が鎌倉政権を危うくさせた。後鳥羽院は密かに鎌倉幕府を葬り朝廷政治の復活を狙って居たのである。鎌倉の北条氏もそれを知って居り、それに先制攻撃をして後鳥羽院を隠岐に流した。鎌倉の政権は源氏の滅亡のあと朝廷から将軍を招聘し、親王が名目上は政権の首班であったが、実質の権力は北条氏が執権を担い武家政治で治めていた。

この当時は文化的な幾つかのことが起きている。まず新興仏教の発生である。日本に定着した仏教の歴史は、最初に「奈良仏教」と称されるものが在り、それは端的に言うと外来の仏教を漢訳化した物であった。学問としては非常に高尚で確かにインド由来の論理学や数学など優れた物が多い。瑜伽唯識宗の(瑜伽師地論など)を始めとした南都八宗がある。主に奈良県には今も其の宗派は寺として存在している。ただ奈良仏教が日本の民衆にどれだけ根附いたかはすこし怪しい。学問としては非常に優れているが、それを消化できる層は僅かに文字が読めて書ける層のインテリ層でしかない。多くの底辺の民衆には、その学問と教義は血肉としては中々定着しなかったに違いない。次の段階は遣唐使などに依る「シナ仏教」の招聘である。唐に留学した人の中には「最澄」や「空海」などが居る、彼らは唐の隆盛に在った大寺を訪れ、「仏典・経典・仏具」を仕入れ灌頂を受けて帰って来た。そして彼らは独自に宗派を起こし、最澄は「比叡山」に、空海は「高野山」に、その道場を建てた。それが平安仏教と謂われている仏教である。この日本人に依る日本仏教の開創は、その後の日本への仏教の定着の基礎となった。鎌倉仏教の創始者は殆どが比叡山や高野山に学んでゐる。

奈良仏教を父とすれば、この平安仏教は日本仏教の母である。この母は、やがて日本仏教の根に成る「鎌倉仏教」を生むのである。鎌倉新興宗派の創始者は、皆そろって比叡山で学んだ。その中から、浄土宗の法然坊源空、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、日蓮宗の日蓮、など等、多彩な人物が其処から巣立った。そして各地に自分の仏教解釈による宗派を建てた。それが現在あるNipponの民衆宗教である。また禅もその当時に入り、栄西の臨済宗、また後には明に留学した道元により曹洞宗が建てられ鎌倉仏教は形成された。この鎌倉仏教は、ようやく仏教が日本の文化に根付いたものであり、仏教は日本人の血肉と化した。逆に言えば、それ以前の仏教は底辺の一般民衆にまでは救いの手を差し伸べなかったのかも知れない。然し、そう言っては間違いかも知れない。なぜなら弘法大師空海は、庶民の為に日本最初の学校である「綜芸種智院」を創立している。民衆の教育と技術向上を願って創られた綜芸種智院であるが、空海の没後、経済的支援を受けられずに廃校となってゐる。現代までこの綜芸種智院が継続して居たならば、世界最古の民衆の為の大學となったであろう。誠に残念である。

鎌倉の政権は15代まで続いたが、それは内部的に問題が生じた為ではなく、朝廷の倒幕運動が戦乱を引き起こした。後鳥羽院がその最初である、次には後醍醐天皇の倒幕運動がある。これは或る意味で成功し鎌倉幕府は瓦解した。源氏の縁戚に在る足利氏、新田氏、などが最初は鎌倉方に入っていたが、後に朝廷側に寝返り鎌倉を攻めた為に幕府は崩壊した。そうすると後醍醐天皇の親政(建武の新政)が始まる。ところが後醍醐天皇は政治を、宮廷中心の公家中心の政権に戻した為に問題が生じ、足利高氏(後に尊氏となる)は、後醍醐に背き自分の幕府を建てることに成る、此処で問題が起きた、北朝と南朝の対立である。この対立は根深く続きようやく60年後に南北を統一した天皇家が出現する。こんな調子だから、南朝と北朝は各地でゲリラ戦を展開し、中々平和な政治に定着しなかった。南北朝はその後も歴史の根深い怨念となり、それが現れるのは明治維新の時である。平氏から始まる武家政権の発生も鎌倉政権の崩壊も、元はと言えば朝廷の画策が原因である。ここで南北朝の原因と展開を書いている暇はないので、この程度に止める。足利将軍も尊氏のあと、三代将軍足利義満は天皇の地位を窺った。逸話では義満は自分が天皇即位する直前に毒殺されたという。下手人は世阿弥であるという説も在る。

室町の政権はすでに尊氏以来不安定であった。第一最初は任せていた弟の直義を観応の擾乱で葬り去り、足利尊氏ではなく弟の足利直義が政権を運営して居たら、恐らく大乱は起きなかったであろう。ところで皆さんは美術教科書に載っている国宝の「伝源頼朝像」という人物画をご存じの事と想いますが、今まで神護寺が所蔵している頼朝像と思われていたが、諸鑑定の結果、あれは足利直義の像であろうと成りました。あの像から思うに直義は利発で謹厳な人物である事を想わせます。ですが足利政権はつねに北条氏ほど謹厳ではなく、尊氏自体が好い加減の丼ぶり勘定であった為に、多くの不祥事が起きている。仮に直義が幕府を統制して居たら、室町の政権はもっと違って居たであろう。こんな幕府で永く持つ筈が無い。義政に至っては政治統制などする筈も出来る実力も無く、自分の趣味の書院造や庭の造営、物見遊山に大金を掛け、更には女色に耽るだけであり、これでは何れ大乱が起きるだろう。そうして実際に起きた大乱が「応仁の乱」である。

こんな状態の時に東国人はどうして居たのだろうか?。鎌倉時代に日本を攻めた元朝は、国力を消耗衰退させモンゴル人は漢人の反乱で滅亡し新たに明朝が成立する。室町の政権はシナ大陸が動乱の時代に成立した。だが足利の室町政権は、北条の様な理念に欠き、まるで諸国の守護に統制が効かない世の中を創り出した。力ある者が勝手に政権をあしらったのでは幕府の権威が損なわれる。それはやがて各地の地頭や国人が、自分の思うがままに土地の奪い合いを試みるように成る。それは戦国の予兆である。第一に足利政権が、諸国を統制できず朝廷も何もできない時代が到来し世は戦国時代に入る。応仁の大乱はそうして起きた。

やがて幕府が機能しない中で、各地の守護は自分の領地を拡大する暴挙に出る。戦国時代とは、守護大名が武力を用いて土地を奪い合う動乱の世界である。武力と機略を持つ者が天下を統率する時代となる。様々の戦が繰り広げられる。また戦国の世に特徴的なのは鉄砲が出現した事である。いま迄飛び道具と言えば弓を措いて他に無かった。だがこの鉄砲は弓の百倍の力を発揮した。鉄砲伝来はよく言われるように種子島にポルトガル人が難破してこの機会に伝えられたというが、すでに大阪は堺の港には鉄砲が伝わっていたという説も在る。鉄砲には黒色火薬が必要で其れには硝石が不可欠だった。黒色火薬という物は一番古い火薬の一種で、火薬自体は鉄砲が伝わる時代以前に発見されていた。それは北宋の知識人沈括の著書「夢渓筆談」の中にも書かれている。硝石と硫黄の混合物は火を発する事が錬金術や不老不死の霊薬を探求する過程で解っていた。そこに炭を混ぜる、この割合はまだ理解されてはいなかったが、その最も効果的な割合で黒色火薬だ出来る。鉄砲の鉛玉は火薬が爆発的に燃える事で鉛玉は鉄の筒の中で飛び出す。それが鉄砲の原理である。すでに元寇の時に元軍は火薬を硬い球体に入れて手榴弾のような使い方をしている。これを大型にすればロケット砲のような物も創れる。

この戦国時代は約100年ほど続いた。見方に依ればその年月は長くなったり短くなったりする。守護の治める国の中でも争いは熾烈を極め、守護代が守護を放逐したり全くの平民が国を奪ったりする時代が続いた。天下に号令する群雄は、比較的京にちかい勢力を持つ者が有利であった。矢張り濃尾平野付近の者が有利に違いない。九州、東北では、遠すぎるし、日本海側では降雪の為に十二分には動けない。という訳で挙げられるのは、武田氏、織田氏、今川氏、北条氏、などであろう。その中でも織田氏の信長は、策略と用兵で優れていたと思われる。これはという者を部下として雇い入れ、それを扱使い、付近の大名を敗北させて行った。信長の戦はカレコレ百数十回、勿論、負け戦もあるが総じて目的を果たした。部下には或る意味合理的で冷徹で、働きによって優遇したり時によっては追放した。織田家由来の武将も多く居るが、外からも有能な者は登用した。我々が知ってゐる信長の武将には、木下藤吉郎、明智光秀、そして織田家由来の武将は多く居る。信長だけではなく天下を狙う守護大名には、武田家、上杉家、北条家、土岐家、今川家、などなど、多くは現在の県でいうと、岐阜、愛知、静岡、神奈川、新潟、福井、長野、など中部の守護大名が多い、九州、中国、四国、などの守護大名は、京都からは遠くて、地の利が無かった。関東、東北も、同様です。この範囲の守護の潰し合いで、大体の勢力が決まった。武田家は其の候補だったが、信玄が亡くなり天下に号令を掛ける号令を掛ける事は出来なかった。

大体に於いて、戦国の趨勢が決まりかけていた時に驚くべき事が起きた。反乱が起きることは戦国の常だが、決まりかけていた天下の趨勢を覆す異常事態が実際に起きた。明智光秀に拠る本能寺の変である。これは日本の歴史の中でも大化の改新、壬申の乱、源平合戦、などと共に史上の大事件だろう。恐らく一番驚いたのは当の信長であろう。「なんでやねんこりゃ!」と言ったかも知れない。三河の方言コトバはとても面白い。田舎者の信長だから、三河の方言丸出しで怒ったであろう。「是非あらず」などと、かしこまった言い方などしていない筈だ。私は三河方言を知らないので、どんな感じの言い方かは知らないが、多分面白い言い方だろう。三河の人がこの駄文を読んで呉れて教えて頂けると幸いです。

そう言う訳で「本能寺の変」は、戦国史上、稀に見る奇異な大事件だった。天下取りに王手を掛けた瞬間に、もろくも部下の裏切りに会い野望は潰えたのだ。だが信長のこれまでの生き様を見れば、部下に裏切られる可能性は常に在ったのであろう。荒木村重さん(荒木さんの息子には有名な日本画の)も赤松さん(赤松さんは茶の名器を沢山持っていた)も信長に窮死させられたのだから、「これでは部下は、いつ自分も同じ運命に遭遇するか分かったもんではない」。と、口には出さないが心中に秘めて居たであろう。信長は自分の支配は万全だと思ってゐたかどうかは知らないが、ヒョッとすると、この癇癪もちで戦の結果次第で信賞必罰のこの男は、部下に反旗を翻される可能性を常に抱えていたのだろう。明智光秀という人物は興味が有る人も多いだろう。明智光秀は土岐氏に仕えた重臣のひとりで、信長とは比較に成らないほどの教養人で、京都の朝廷や公家との交渉で信長は光秀を抜きにすることは出来ないほど、重要な男だったとされている。その男が謀反に走ったのである。肖像画を見ても、信長の眉間に立皺をつくった神経質で癇癪もちの顔とはまるで違う、おだやかで知的な顔である。この男が信長を葬った原因はなにか?に附いて、多くの推理や説がある。

その中で一番腑に落ちるのは、光秀が信長に命令された「家康を謀殺するという企画である」。本能寺の変の当時、家康は大阪は堺に遊びに来ていた。遊びとは表向きの理由で本当は堺で作られる鉄砲の仕入れである。今で言えば超音速ミサイルの仕入れである。そして信長は、同盟者の家康に、「良い茶器が揃ったから京都の本能寺に遊びに来てくださいね。」と手紙を送った居る。此れにイソイソと家康が申し出の通り本能寺に出掛けて居たら、江戸幕府は存在しなかった。信長はもう自分の天下は決定した。「一番邪魔な者は家康である」。おお戦をしないで家康を葬る絶好の機会である。と、考えて光秀に本能寺に泊まってゐる家康を狙えと命令したのだろうか?。だが、光秀に裏切られ信長は滅ぼされた。光秀は家康と通じて居たのだろうか?。この辺は江戸幕府の指南役に天海とい得体の知れない人物がいて、これを光秀では無いか?との説がある。まあこれは余談である。

信長を秀吉に替えて見たらどうだろう?。この事態で秀吉ならば本能寺という裏切りが発生したか?という設定である。晩年の耄碌した秀吉ではなく、判断力の優れていた当時の秀吉ならば裏切りは発生しなかったのではなかろうか?。飽く迄も仮定の事であり解らないがこの二人の統治方法はまるで違うと思う。秀吉は信長の草履取りから取り上げられた下下の者で、傍目にはそれは苦労の連続であった。また様々の挫折も経験している。その中で人心掌握のコツを心得ている知恵者だ。目的を達する為には自ら馬鹿に成ることも心得ているしたたかな男である。秀吉の全国統治の見取り図はいったいどんなだったのか?、腹心の部下に諸国を与えて大阪で統治する方法だったか?。それを維持する為には、もしかすると後の家康のような方法を取ったかも知れない。つまり参勤交代である。奥方を大阪に於いて置き、国主を数年ごとに諸国と大阪を往復させる。

アイデアマンの秀吉だから、次々と方策を繰りだした事であろう。だが、なにせ秀吉は歳を取って居り、自分の政権が10年を越えなかった。若しもあと15年の統治期間があれば、豊臣政権のあと徳川政権が生まれたかどうか分からない。とすると江戸時代は来なかったことに成る。秀吉の時代は西洋列強の植民地侵略に勢いが出て来た時代である。うっかりすると日本もイエズス会に拠り籠絡され侵略に晒されたかもしれない。当時の日本は外国の実情を知らなかったし、危機感も薄かったであろうから危なかった。だが宣教師を追放し国体を守るために秀吉は大いに活躍した。秀吉の政策は実の弟の秀長が大きな影響を与えていたが、豊臣秀長はやはり足利直義の様に周りからは大いに評価信頼されていた。秀長がもっと長生きしたならば豊臣政権は違った色彩を持ったかもしれない。晩年の秀吉は豊臣政権の将来に不安を懐いた居たのであろう。家康に自分の政権が持続する事を頼んでいるが、内心は家康が天下を取るであろうことを知ってゐたのではなかろうか。

関ヶ原の戦は、秀吉子飼いの五奉行のひとり、秀吉に体型も似ている石田三成が豊臣恩顧の大名を束ねて徳川家康に挑戦した。それは五大老筆頭の家康が上杉景勝に謀反有りとし、これを討つ為と称して、豊臣配下の諸将をまとめ、上杉討伐の兵を起こして東進している最中に三成の挙兵を知る。家康は自分が大阪を出て上杉討伐に行けば三成は必ず大阪で挙兵するだろう事は既に計算済みであった。上杉討伐はつまり三成の挙兵を誘った見せ掛けなのである。それで急ぐことなく、ワザとユックリと進軍した。丁度、下野の國小山に差し掛かった時に、三成を探っていた忍びが三成の挙兵を知らせて来た。そこで有名な「小山評定」が行われた。家康は大部隊を率いていたが、それらはすべて家康に忠誠を誓う者達ではなく、秀吉恩顧の大名も大勢居た訳で、この時点で家康と三成のどっちに附くか?が、将来の自分の生死的存在に係わる大決断であったろう。

戦国の世にもヒトとヒトとの好悪の人間関係が利害を超えて敵味方の決断を左右するのは、将に現代と同じで単なる利害関係だけではなく、仲が良い悪いの関係(能力や気質と価値観、信頼感同じ傾向にある)が、大きな決断の要因になってゐる。猪突猛進の猛将福島正則は、秀吉に深い恩義があり自らも太閤に忠誠を誓う身であるが、石田三成と犬猿の仲であり、三成憎さの為に家康方に附いた、福島が徳川方に附いたとなると、秀吉恩顧の大名も時の流れと観念して家康方に附いた。こうして家康の思惑通りに天下取りの大事は進行した。関ヶ原の戦いは、主戦場の関ヶ原だが、それだけではなく各地でも戦われた。秀忠が足止めを食らった上田城の戦いもあり他にもあった。

家康軍を大将とする東軍はゆっくりと西に進み関ヶ原を前にして、総大将は近くの山や丘陵に陣を構えて睨み合っている。関ヶ原は霧が良く出る場所である。慶長五年九月十五日、(現太陽暦では十月二十一日である)。もう十月も末の時期であり北関東の山手では紅葉の盛りを迎えようという頃であり稲刈り作業ももたけなわである。こんな時に天下を別ける戦いが始まった。七時三十分過ぎに西軍80000人、東軍74000人の軍勢が朝霧の中で小競り合いから戦闘に衝突した。薄霧に覆われた戦場では、盛んに鉄砲の音がして、騎馬戦、弓も長刀の白兵戦んも行われた。昼過ぎには大勢は決着して西軍の逃走が始まった。

弱体であった東軍の勝ちを決めたのは、秀吉の正妻高台院「ねね」の甥、小早川秀秋の裏切りであったという。秀秋の裏切りは事前に話はついて居たが、小早川の決断は遅かったので東軍から鉄砲の催促を受けたらしい。話は付いているとは言え、この決断は20歳の青年には難しかったろう。高台院に可愛がられて育ち、肖像画を見ると殺伐な気風は無い、柔弱な青年の様に見える(肖像画を参照)、むしろ、この戦場から逃げ出したい思いがあったのではないか。中々戦いに参加しない為に徳川に疑われ、関ヶ原の跡に秀秋は一年を経ずして21歳で死亡してゐる。暗殺か自殺かは知らない。一進一退でホトホト疲れ果てた西軍軍勢の横腹に無傷の体力をもった軍勢が山を駆け下りて行った。この突然の攻撃で西軍側は浮足立ち相当数の兵が倒れた。小早川軍のこの攻撃で、戦闘に参加せず様子を見ていた西軍の軍勢も敗走になった。薩摩藩の島津義弘は辛くも戦場を脱出した。戦後処理は石田三成、小西行長、安国寺恵瓊などが斬首となり他にも処刑者が多く出た。

だいぶ端折ったが、此処でようやく徳川家康に到達した。徳川幕府は260年間続いた長期の政権であった。其の為に今の我々の生活様式に極めて多くの影響を与えている。それでこの260年間を、一期~五期に分けて述べて見たい。そうすると一期が約50年間という事に成る。五期に分けると、五世代の期間が江戸時代である。この期間が短いか長いか?、文化の面では変化が出ても文明のレベルでは少し短い。当時の人間の平均寿命は50歳~60歳である。勿論80歳以上と言う長生きの人も居り、飽く迄も平均である。江戸時代は乳幼児の死亡率が高い為に、平均寿命が下がる傾向があるが、一旦成人した者は70歳位までは生きたと思われる。

* 第一期

鎌倉攻めのあと、家康は秀吉から関東に領地を変えてはどうかね?と言われ、不満を顔に出さずに、家康はそうですかと承知した。此処で深謀遠慮の家康は東国に強力は自分の領地を築こうとしたのだろう。そして自分の城を江戸城付近に建てた。江戸の地は大河ー坂東太郎の利根川が江戸湾に注ぎこむ大きな湿地帯であった。それは室町時代に扇谷上杉家の家宰であった太田道灌が江戸に城を築いて以来の築城である。武勇学識兼備の武士であった太田道灌は、武士の中でも古今に名高い学者であった。然し敵の讒言謀略に会い、主人だった扇谷上杉の上杉定正の指示で裸で風呂に入ってゐる所を、風呂場で切り殺され暗殺された。極めて信頼できる有能な家臣を葬るという事は、上杉定正という武士はまったくの迷妄の愚人である。それで道灌を失った扇谷上杉定正は滅亡することに成る。

有能な部下と云うと、道灌の事件とは全く異なるが、外国のフランスでは、宗派の自由を謳ったアンリ四世の家老で、懐刀の数学者、フランソワ・ヴィエトを思い起こす、ヴィエトの死後、自分を支える家老を失ったアンリ四世は、敵対勢力に暗殺されるのである。家康の築城はもちろん道灌の城跡を造り直すという事で始まった。更に家康の政権計画は多岐に亘っている。まず、法令を決め「武家諸法度」の制定を目指して研究会議が持たれた。直ぐには施行できなかったが、深謀遠慮の色々の研究が為された。それから各地の大名をどう統制するかが大事だった。取り潰す大名の策定が秘密に為された。家康の時代には豊臣方の大名が味方に附いて呉れた為に勝てたため、彼らを赤ら様に取り潰す事は出来なかったが、二代秀忠の時代には、遠慮なく外様・譜代はおろか、親藩の大名にも容赦がなかった。家康が最も気にしたのは、大阪に残っている豊臣方の秀頼と淀君であった。これが残っている限り、徳川の政権は安泰ではないと解っていた。此れを何とか潰さなければ、枕を高くして眠れない。俺の眼の黒い内に、何とかしなければならぬと画策を練っていた。ドンな言い掛かりでも好い、口実を作ることだ。

全国の武力を統制すると同時に、江戸を如何いう町にしなけれは成らないかが検討された。一大城下町を創り上げる事に勢力が注がれた。「江戸」自体は一度も大きな町に成った事は無いのだが、これを幕府を設置できる大きな町として機能させなければならない。江戸幕府は全国を直接統治できないので、戦国大名に領地を安堵し、幕藩体制をひいた。藩は今で言う県である。この県は幾つかの郡に分れその中に村がある。江戸幕府の統制構造はこの様に成ってゐる。幕閣→藩政→村政、の構造である。経済構造は米が一種の貨幣であり食料でもある。土地から上がる米に拠って経済が回る。もちろん貨幣も存在した。関東では「金が」関西では「銀が」流通経済の貨幣であった。だが庶民の生活では「金」も「銀」も普通は使わない、もっと小さい単位である「銭」である。小判を使うのは高額の買い物や大きな商取引である。江戸の初期はすべて米で回ってゐた。日本人には米は単なる穀物ではなく貨幣であり神でもある。それは江戸時代からではなく、もっと古い時代から、ヒョットすると縄文期から続くものか?。何れにしても米経済が武家政治の根幹をなす発動機である。

江戸の町づくりの為には農民の他にも、特技を持った職人が必要で、農具鍛冶屋、大工、土建屋、漁師、陶工、刀鍛冶、布屋、染物屋、それこそ多くの職人が必要であり、それを諸国から招いた。江戸城を造る職人としては土建屋が最初に必要だった。江戸の地は大方が湿地帯で夏には蚊が湧きマラリアの患者まで出ている。人口構成から言うと、江戸の初期には圧倒的に男の方が多かったのは、町としてまだ整備されておらず、若い土建業の男が必要とされ、地方から働きに出て来た若い男が多かった為です。男女比は20対1くらいの割合ですから、所帯を持つ事は中々大変だった。女は大変持てたでしょう。それが段々に50:50くらいに成って行くのは、町が整備され生活の機能が回り始めてからです。家康は自分の政権を出来るだけ長くしたいと考えていた筈である。其の為には多くの懸案があったはずだ。

如何したら統制を完全なものにできるか?、それを先ず考えた、戦国いらい殺伐とした戦国大名の習性をもっと文化的なものに変える必要があった。それで武士階級に学問を奨励する際、何にしょうか?と思い悩んだ。主君と家来の倫理的な紐帯を重視するには「新儒教である」南宋の思想家朱熹が「儒教」を、焼き直した「朱子学」が好かろうという判断が働いた。それで家康は、名高い大家「藤原惺窩」に、徳川体制の基本学問を構築する仕事を依頼するが、惺窩は、私はもだいぶ年を取り過ぎているので、私の弟子である林羅山を推薦しましょうと言った。だが惺窩は名族の藤原の出自である為に、其の誇りから徳川などの家来には成りたくないと云う気持ちがあったのだという説も在るようです。それで徳川体制の朱子学は「林羅山」が指導することに成った。いま神田川の北側に孔子を祭った湯島聖堂という堂籠がある。

当面それは、仏教にするか?儒教にするか?道教にするか?、修験道にするか?であろう。間違っても、耶蘇教とか猶太教、回教、などにはしなかった。その中から新儒教である朱子学が選ばれた。これを選定したのは誰であろうか、天海であろうか?、それはわからない。家康自体は鎌倉の政治を評価してゐて、御成敗式目は武家諸法度を造る際の下敷きにしている。家康は高い知能を持って居て、鎌倉幕府の政務記録である「吾妻鑑」に深い関心があった。幼少の頃に今川で幾らか学問をしたことは有ったであろうが、戦国の世で学問をする機会も時間も無かったであろうから、「おせん泣かすな馬肥やせ」と的確な手紙を認めるのが精いっぱいで、もちろん「吾妻鑑の原文」など読める筈が無い。お抱えの高僧に読んでもらったゐたのだろう。安定した政権を運営するにはどうするか?という目的で、家康は総合的に幕府統治の問題を類別して、自分でも考え、部下に研究させていただろう。

そろそろ自分の生い先が短い、豊臣を潰すには何か手が無いか?と探ってゐた。特に大阪城で秀頼に面会したとき、秀頼があまりに立派過ぎて家康はこれは危ないと危機感を募らせた。これを潰して置かないと徳川の政権は倒れると踏んだだろう。この時秀頼が魯鈍ぎみの青年だったら、家康の危機感は起きただろうか?これも分からない。豊臣を一大名として存続させて居たかも知れない。様々の策謀でいずれ大阪城をめぐる夏の陣と冬の陣で豊臣は滅びこれで安心したのか家康は数年を待たずして没する。

二代秀忠が政権を担うと、先にも書いたが親父の時代に、親父の補佐官に虐められた仕返しをする。会うと「まだ生きてゐるのか?」とかの嫌味を言う。謂われた方は辛いだろう。そして取り潰しの大名が多くなる、それは外様はもちろんのことであるが、譜代や親藩までが対象に成る。取り潰された大名家では家来は失業してしまう。そして浪人として江戸に入り込み、治安を乱し幕政の不安材料となる。後の天一坊事件はその一つでもある。余りに取り潰しが続くと浪人が多く発生する。そして市井で真面目に暮らしてゐる浪人にまで、浪人狩りの弾圧は広まり経済的にも面目上も困る浪人が多く出て来る。就職先が見つかれば好いが、その様な運のいい人ばかりでもない。幕府はその様な要因から、何ら咎の無い大名の意図的な取り潰しを避けるように成る。戦国の殺伐とした時代は段々に変化をして行く。

三代家光の時代に成ると鎖国が国策となる。余談であるが家光は男色が激しく、此の侭では子供が出来ないと、乳母の春日局(斎藤福)は、心配して何とか手ほどきをしている。家光が将軍に成れたのは、乳母の福が家康に交渉して呉れたおかげであり、福にはこころから感謝はしていたであろう。父母は弟の方を将軍にと考えていたから。耶蘇教の影響で「島原の乱」という手酷い反撃を食らった幕府は、耶蘇教の禁止令と共に耶蘇教の流入を阻止する為に鎖国政策を取った。鎖国の主眼は、「日本人の海外渡航の禁止」と「海外に居る日本人の入国の禁止」である。この事が、どう云う結果をもたらしたかに附いて考えるべきだろう。耶蘇教の宣教師はもちろんの事で入国は禁止される。然し海外に日本人が商売でも渡航できないとしたら、これは益より不益が多い。日本人はこれにより「海外での足場」を失った。山田長政を始めとした優秀な日本人が海外で勢力を築くことが不可能に成った。その間、白人たちの東インド会社は東南アジアを植民地にした。シナでは東南アジアへの移民が多く華僑となって現地の経済を支配してゐる。海外からの情報は小さな窓である長崎のみと成って仕舞う。反面、日本国内では国内の籠らざる得ず、日本独自の文化を形成する時間的余裕ができた。だがそれは眠って居たのである。

この十七世紀の初頭から、西洋の科学技術が萌芽し始める。そしてペリー准将が江戸湾に現れて開港を迫った時には、その科学技術の差は歴然として仕舞った。眠っていた時代から、大砲を以て叩き起こされたのが嘉永六年である。徳川政権の土台基礎が一応確立すると、その維持の為に統制の方法とか民生の手段が問題となる。徳川幕府の職制は、政府として老中を置き其れが政府部門、若年寄、大目付、目付、朝廷の監視として京都所司代、などが警備部門、年貢税制部門は勘定奉行ほか、代官、手代、手附、民生部門に捜査裁判部門として南・北奉行所、凶悪捜査部門として火付け盗賊改め方、そして江戸の管理者として名主、番所、などを置き、江戸の取締は各番所が自治的に行った。そう言う訳で100万人の都市であるにも係わらず、南北奉行所の、与力・同心は南北で120名くらいの陣容だった。(正確な人数は調べてください)、また幕末には赤城山で国定忠治の捕縛の為に戦った関東取締出役という広域捜査の組織もあったようです。

第二期

一期が、家康・秀忠・家光、と続き、二期は、その後の綱吉を主とする時代に成る。犬公方綱吉は知能が高く部下に朱子学の講義を行ったりしている、また代官の制度を見直し様々な良い改革をしたが、総じて不評なのは例の「生類憐みの令」で、すこぶる評判が悪い。多くは誤解からであろうが、莫大なお金を掛け、中野で10万匹の野犬を飼育していたらしい。(ハッキリした記録があります)、また飛んできた蚊を叩いた為に処刑されたなどと言う事件があったらしい。(これは眉唾であろう)、人より犬の方が大切なのか!という事で町人の間でも曲解が発生している。面と向かって幕府の批判は出来ない、それで活躍するのが川柳である。排風柳多留にでもたぶん綱吉への当て擦り川柳が載っているのではないでしょうか。誰か興味ある方は調べて見てください。

新しい将軍が就くと指導力が弱くなる。並みいる重臣が指導権を争い将軍は只の飾り物になる。老臣はその方が好いと考えている。幕政も謂わばルーチン化して、マンネリ化の傾向が出て来る。5代将軍の綱吉は、それなりの指導力で幕政を指揮したが、その中でも代官の制度を新たにした事は善政である。綱吉までの幕領代官は、たぶん室町期以来の、その地の有力地頭が継続就任して農民から多大な不正収奪をしていたことが明るみに成り、綱吉は新たに下級幕臣から代官を任命する事をした。此処で任命された代官は有能で公正な人物が多かった。代官は勘定奉行の配下であり、1734以降は関東軍代の支配下にあった。綱吉のお側衆から側用人に成った柳沢吉保は、綱吉の男妾でありだいぶ出世をした人物である。大老職は常設ではなく、なにか事かがあった時に、普通は老中の中から将軍により任命されるのだが、吉保は老中ではないのに、宝永三年一月十一日(1706年)~宝永六年(1709年)六月三日まで、いきなり大老に任命されている。綱吉の治世は結構長く、1680・8・23~1709・1‣10、で30年近い。綱吉の死去に伴い大老職を退いたのは、柳沢美濃守吉保はその権勢を失ったのでしょう。その後は前に踏襲された治世と成る

第三期

15代続いた徳川将軍のなかで中興の将軍として名のあるのは、八代将軍の徳川吉宗です。本家の将軍断絶した場合、御三家の内、水戸藩を省いた、尾張徳川家と紀州徳川家で将軍職を出す事に成ってゐる。六代将軍、徳川家宣は在職期間3年で51歳で亡くなり、七代目の将軍、徳川家継は在職期間3年で8歳で亡くなる。家継の8歳で亡くなるのは将軍の務めは無理で、政務は老中が行ってゐたろう。とすると八代将軍職が問題となる。この場合は尾張か紀州かで裏で駆け引きがあった。そして大奥も抱き込んだ吉宗が勝ったという事に成る。吉宗の在職期間は29年の長期政権でで68歳で亡くなる。政権で一番短いのが徳川慶喜で足った一年である。次に短いのが家康で2年。まあ家康は院政を曳いて居たので死ぬまで実質は将軍だった。この江戸幕府中期の吉宗は、色々な改革をして名将軍を言われている。江戸も中期に成ると流通が拡充されて多くの華美な商品も出現して貨幣経済が盛んになり、米経済はその欠陥が出て来て各藩は参勤の費用なども事欠くように成る。参勤は法令で藩の石高に応じて供の者を参加させる。小藩はその出費に窮するのである。かと言って、参勤を止める訳にも行かず、切米で暮らす下級武士は窮乏する。然もコメの値段は作柄に依っても変化する。多くの藩は自藩の年貢を江戸まで運び、蔵前の名がある隅田川沿いの蔵屋敷に保管して、それを相場屋に売って貰っていた。その金で藩の屋敷の経済を回してゐた。コメが安いと年貢の収益が減り生活に窮する。コメが高いと庶民の生活が苦しく社会不安を招く、コメ相場の安定をさせる為に色々と苦労した。国内では大岡越前などを使い幕政を裏から管理させた。また外国の本に輸入許可を与えたのも吉宗である。

彼の治世は1716年~1745年である。この時期にとにかく外国、特に西欧への偵察使節を出してゐたら、幕末の危機を逃れたかも知れない。科学と技術の差が確実に格差を告げつつあった時期である。それを言えば江戸幕府が開かれた時期、特に鎖国を始めた時期に運悪く、外国では科学革命が始まる時期であった。キリスト教の恐怖からズーッと鎖国し眠っていた間に、トンデモナイ格差が拡がって仕舞ってゐた。日本人に能力がない訳ではない。それどころか世界に冠たる頭脳の國だ。ただ江戸幕府の施策が戸を閉ざすという事なので、発展したのはソロバンと和算くらいな物だ。もちろん大きな船を作ることは禁止された。鉄砲も武器も研究は禁止され国内自体が幕府によって武装解除された状態だった。外を知らないという事は恐ろしい時代錯誤を生む。徳川の政権というよりも武家政権の根幹は、自分の家が大切で他はどうなっても好いという視野狭窄なのであろう。國が占領されて仕舞えば、どこの家柄が如何の効のと言うこと等通用しない、そんな物はぜんぶ奴隷化される。江戸幕府は、そこの本質が解らないまったくの視野狭窄であった。実際、薩長を動かしてゐたのは外国の勢力であったのだ。

第四期

第四期は、江戸時代を通じて自然災害が多発した時代である。富士山の噴火に始まり、長野県の御岳や浅間山が噴火し軽井沢や鬼押し出しを造った。浅間山の噴火は農民に悲惨な試練を与えた。老母を負ぶって逃げる孝行息子が、もう少しで神社の境内に上がれる階段で、火砕流に飲まれた遺体が見つかって居る。大風台風もあるが大規模なのは主に火山活動であり、それが寒冷化を招いた。そして太陽黒点が無いという太陽活動の低調に関連したに関した面もある。6500年前に種子島の西にあった「アカホヤ」の大噴火で九州地方が全滅し中国・近畿はおろか関東にまで火山灰が押し寄せる。この日本史上第二の破局は、九州に住む縄文人の避難移住を余儀なくした。主には東北に逃げたのであろうが、海洋民族である日本人は海を渡り江南の地に渡ったもの達も居る筈だ、それが江南文明を作ったとする説もある。馬野周二先生のご著書「人類文明の秘宝ー日本」ではそれを考察為さってゐる。数々の未開領域を含んだこの本は、重要なヒントを当ててくれる。

縄文人の定義は難しいが、小学生にでもわかる話で言えば、縄文文明は縄文土器が伝わった範囲である。そうすると南西は沖縄・久米島まで、北は北海道までの範囲で縄文土器は発掘されるという。そして重要なのは、この縄文土器が分布する範囲が不思議な事に日本語が使われ通用する地域であることだ。これは何を現わしているのだろう?。日本語とはなにか?に関する議論は喧すしいが、多くの国語学者が勝手な事を言った、服部四郎や時枝誠記など多数、果てはレプチャ語説の安田徳太郎まで迷妄に満ちた妄説を披露した。本質を言えば「日本語は日本列島で発生した言葉である」。ただそれだけである。日本で発生した言語を他の地域の言語の係累として、無理矢理関係づけ様とした為に陳腐な妄説がうまれたのだ。日本語は相当古い言葉であろうと思う。それは日本人が所謂る古人類に属することを現わしている。そのことは既に馬野周二先生が指摘している。日本語の起源に附いては新井白石なども語字談で意見を述べてゐる。縄文期は文字が無かったとされているが、それは無かったのでは無く消されたのが実情なのでは無いか?、文字の無い文明も確かに存在する、例えば南米の未開部族ラカンドンなどは文字を持たない。中米のマヤ・アステカはスペイン人に滅ぼされた為に文字が解読出来ていない。北米のインディアンも記号は持つていたが、文字は持たなかった様だ。それでも彼らは立派に生活できる。文字は必要の為に生み出された物であり、自然の生活の中では特別に文字は必要がない。三期はこの様に江戸中期に属し、或る意味では米経済から商品経済に移ってゆく時期で、貨幣経済が出て来て江戸などではその対策に苦慮する事が起きている。

またこの時代は、江戸時代の文化が爛熟の粋に達してきた時代である。江戸時代の三大改革をよそに、文化・文政時代は、江戸文化の華である。江戸時代も、文化・農政・民俗・災害・事件・生活、など色々の側面から見ますと、最早、収集の付かない沢山の事を書かなければ為りません。それは此処では無理ですので、トピックス的な事を書いて行きます。江戸時代の文化で私が思う浮かべる最初の物は、和算家と旅です。豊臣の後半から江戸の初期にかけて、和算の隆盛が訪れます。それは先ず、毛利重能の「割算書」から始まりました。その毛利の高弟に、吉田光由、今村知商、高原種吉、の三人が居ます。この人達がのちの日本の数学である和算の隆盛を創るkeymanです。吉田は有名な本「塵劫記」を書き、その初版の本はソロバンの指導書でもあります。江戸時代にはソロバンは一般庶民の常識的技術でしたから、ソロバン塾に行けない人に、ソロバンのやり方を指導する教科書でもありました。更には、初期の代数、幾何、なども紹介されて折り、この塵劫記は江戸庶民だけではなく、の本全国に普及し、各村の名主や庄屋にはこの本が有ったと言います。人気本ですので各種の海賊版が出現し大分売れたらしい。現在でも江戸時代の塵劫記が、オークション等で売りに出されている。私も下手の横好きで一冊の寛政期の「塵劫記」を持ってゐます。木版印刷の和紙で作られた和綴じの本です。実に軽いが、厚さは圧だ1・5センチはあります。これが江戸の庶民の家には一冊あったというから驚きです。吉田は初版が売れて人気を博し、第二版を出しています。それは初版からすると大幅に拡充されて高級な代数や三角法なども書かれています。今村知商も著作をものしています、数学の公式集である「竪該録」を書いています。是は画期的な物で他の和算家にも、研究上の大きな利益を与えている。更に高原種吉は有能な弟子でしたが自分では著作を出してはいませんが立派な弟子を育てています。和算の神とも言われる関講和も高原の弟子と言われている。

和算は生活に有用な道具であったらしく田舎の農民にも人気が有りましたが、田舎では、なにせ和算が好きでも、江戸まで和算を習いに行く時間的余裕も金銭的余裕もない人の為に、和算の教授を出前で出してゐる学校が有りました。特に名を挙げると江戸の神田橋には、関流学統日下誠の弟子である長谷川寛の経営する「算学道場」が有りました。この道場は江戸はおろか全国的に有名で、はるばると遠い田舎から出て来て和算を学び愛する青年の為に、色々と生活の援助を模索しています。また此処では数学の教授をする為に、日本全国を旅する数学者が居ました。例えば「山口和」などは有名な方で、有名なその中の一人です。山口和は越後水原の農民の次男でしたが、数学が好きで居てもたまらず、17、18歳位で江戸に出たのです。今でいう処の新潟から東京の大學に留学したという感じですね。極めて頭脳明晰な和は、その努力もあり30歳以降に長谷川道場の四天王に数えられるほどの人です。その実力ですから現在なら東京大學の数学教授と言う所でしょうね。「和」は、和算遊歴の旅を4回ほど行ってゐます。その日記も残っており、歴史学としても民俗学としても面白いものです。

芭蕉の「奥の細道」での記録日記でもそうですが、江戸時代の旅人の歩く足の速さは現代人には驚異的なものです。一日に40キロ歩くことは普通で、達人は一日に60キロは軽くこなしたと言います。現代人で一日60キロ歩き、次の日も60キロ歩ける人が果たして何人いるだろうか?。もちろん、当時は自分の足しか頼る物が無い訳で、歩くことが基本であり常識であった。お伊勢参りも民衆は歩いて歩いて嬉々として出掛けたのです。街道筋は整備されて、大きな区分では東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道、などと別れていて、各道には今で謂う県が有りました。参勤交代の関係から、関所と道の整備を江戸幕府は進めて居ましたから、宿場町は距離ごとにあった。当時は商用でも観光でも歩くことが基本で、道中には様々な道中案内書があり、持って行く物、薬とか合羽とか、蝋燭立てとか、お金、などを振り分けの小さな行李に入れて持って行くのです。あれもこれもと言う訳にも行かず、必要不可欠のものが主です。自分で持って行くのですから、大荷物に成れば、それだけ自分の負担に成る。下着なども必要不可欠の物に限られます。当時の人はどんな服装下着を着て居たのでしょうね。芭蕉の旅姿を見ても、実に簡素なものです。手帳と矢立ては不可欠です。記録するにはこれが無いと出来ません。今の万年筆です。私も万年筆の愛好家で10本以上もってゐます。外国製は優美で美しいものもありますが、こと和文を書き下すには日本製が好いとわたしは思ってゐます。ひらがな・漢字・カタカナと混じった多様な文字ですので、筆のように柔らかいタッチで書ける万年筆が好みです。

また、江戸・大阪では芸能が盛んで、幾つかの歌舞伎などの演劇座が有り江戸・大阪の庶民はそれを楽しみにしていました。近松や西鶴の作品が盛んに人形浄瑠璃や歌舞伎への転用を物した演目も多くあり、当たり芝居は何度も上演されたようです。偶々、地方から江戸に用事で出掛けついでに歌舞伎を観劇した農民が、国に帰って父母や親せき仲間内に、江戸の演劇を見せてあげたいが連れてゆく事も叶わず、考えた末に自分達でそれを実演して見ようとして始まったのが、奥地・山奥での田舎芝居です。桧枝岐や~烏山には、田舎芝居が残っており、此れは国指定の重要文化財に指定されています。このように田舎には大昔の文化が辛うじて残っていることが多いです。能や猿楽も有ったでしょうが、これは専門性がつよく舞うには敷居が高かったのかも知れません。特に、文化・文政時代は、幕府の干渉があまり無く庶民はそれぞれの分野で縦横に文化を創造しそれを楽しむ余裕も在ったようです。江戸時代は、庶民の教育程度が高く、諸外国の西洋などに比べて識字率は世界最高水準に在った。此れは日本全国に一万近く在った寺子屋の教育が大きく影響を与えた為でしょう。寺子屋の基本目標は、「読み・書き・ソロバン」です。これは生活上の必須Toulであり、教育上の基本です。道徳性も優れていました。石田梅岩の「心学」などの影響もあり倫理観は子供たちにも根付いて居たのです。江戸時代も幕末に近くなるとが以外の影響が暗い影を落として来ます。

第五期

さて等々江戸時代の最後の区分に来てしまいました。江戸時代は様々な庶民文化が花開いた時期でもありました。特に最後の50年間はその傾向が強かったと思われます。庶民文化で特徴的な物は、各種の「講」が発達しました。謂わば「組合」的な物ですね。必要に迫られてお金がない場合は、「頼母子講」という金融協同組合的な物が有りました。これは組合員に成ればイザという時にお金が借りられます。それで重宝した多くの人が居ます。組合員に成るには、講に認められて講員になり、月々に幾らかの委託金を支払わねば為りません。其の少額の集めたお金が、必要な場合必要な人に貸す事が出来ます。それが頼母子講の主旨です。また「富士講」のような旅行を主旨とした「講」、お伊勢参りの為の「伊勢講」など此処では書きませんが沢山あります。そして特に田舎で多く見られるのが「月待講」です。これは多々ありまして、十三夜、十九夜、二十三夜、二十五夜、など多々あります。これは現在でも田舎に行くと道のわかされ等に月待講の石碑が見られます。十九夜様は、特に女性の講で、月の晩の十九夜の日に若い娘たちが集まる講でした。江戸時代の村々では若衆宿とういう若者の寄り合い的な制度も有りました。謂わば成人教育の一種と謂えます。村々の制度も比較的安定して居ましたが、江戸時代の、最後の25年間はその半分が激動に時代です。

徳川幕府の老中達は、だいぶ以前から長崎出島の館長が提出する「オランダ風説書」を通じて海外情報に通じて居ました、それは外国、特にAmericaの侵略外交が差し迫っている事を告げていました。日本の特徴は、それが喉元に差し迫らない限り体制を変えない事です。江戸幕府の老中会議は、具体的な方策を取らなかった。つまり動こうとはしなかった訳です。江戸幕府を通じて英明の誉れ高かった老中、阿部正弘は、此の侭では日本国は占領される危険性を憂慮した。それで今迄の権門による指導支配ではなく、全国から広く人材を抜擢して登用を開始して指導方針を動かそうとした。それは将に日本国始まって以来の危機でも在った。其の心労の為に阿部老中は癌を患いペリーの出現の三年後に死去している。第五期は最後の期間でありその中の十五年は疾風怒濤の時代である。この十五年間は江戸時代の土壇場を表現している。徳川政権が終わりを迎えるのは、朝廷に徳川将軍が「版籍奉還」をした時です。政治権限をお返しするという事です。急に権限を返されても困ったのは朝廷の方でしょうし、孝明天皇は開国に反対の立場でしたから、開国派の薩長勢力は困ったでしょう。薩長は初めは尊王攘夷だったがBritainと戦うに及んでこれは勝てないと目算した。勝てないならば今の徳川政権を倒して西洋列強に伍しうる国家を創る以外に植民地化を避けることは出来ない事に気が付いた。250年の徳川幕府は、戦国の風習を取り払い謂わば日本全国の武装解除を続けて来た。それ故に各諸侯の弱体化を目指したのは好いにしても、対外的には何の考慮もしていない。世界の趨勢を知らなかったのである。蓋を開けて見れば、喉元に匕首を突き付けられた状態であった。これは遺憾と気が付いても、対抗措置は取れない状態である。一種の国家存亡の危機である、諦めた徳川は責任を取らず、政権を放り出した形であろう。

滔滔、江戸時代の終焉迄来た。嘉永6年六月、ペリー准将の4隻の蒸気船は江戸湾に侵入し幕府に開国を迫った。この情報は一年ほど前に長崎出島のオランダ商館長の阿蘭陀風説書が届けられており、幕閣はそれを知ってゐた。知らぬは江戸の庶民である。攘夷論が雨後の筍の如く奔流したが、関ヶ原以降、永く江戸幕府は、大船を造らせず、兵器の改良を認めなかった。暫時、日本国の武装解除を行って来た訳であり、それは国防という観点から見れば丸裸同然である事に衝撃を受けた。戦えば負ける。ところが薩長は力を貸して幕府を助成するという事をせず、Judea・Freemasonに唆されて倒幕に乗り出し、アワヨクバ自分達が政権を取ろうとした。此処に幕末の悲惨さがある。薩長は勿論Freemasonに操られていた。彼らは実に巧妙である。日本国内に討幕派のテロリストを養成し、それに武器と資金を与えて幕府を崩壊させるという手を使った。ペリー以後の日本の状況は、多くの作家に拠って書かれているので、多くの皆さんはその経緯をご存じでしょうが、明治維新は体制派が宣伝する様な手放しで賞賛できるものでも無かった。議会制を布くのに幕府を倒す必要があったのか?異議がある所であろう。その検証は幾人かの人々により進められている様です。

1853年から1868年までの15年間に起きた様々の事件は、外国勢力特にイギリスの影響が陰にあり、その間の経緯を発掘することが幕末の真実を知るには不可欠だ。この辺の資料は今の所研究する者は僅かであろう。

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相沢忠洋 ー「岩宿の発見」「赤土への執念」を読む

2025年01月16日 18時18分08秒 | 日本文明

 昨年の三月にようやく私は望みを叶えた。それまで行こう行こうと思いつつ、ズーッと果たせなかった長年の想いが実現した。相沢忠洋氏の発見した岩宿遺跡つまり「旧石器時代の遺跡」を訪れたのである。相沢忠洋氏は、日本の歴史を根本から塗り替えた男である。私は旧石器時代の発見は、ホメーロスの叙事詩を読みトロイアの遺跡を発見した、シュリーマンの業績に等しいか、或いはそれ以上であると思う。トロイアは紀元前800年だが、岩宿の遺跡は、紀元前3万8千年前の時代である。相沢忠洋氏は市井の考古学者である。最初アマチュアの研究家として始まり、最終的には石器発掘の専門家として活躍された偉大な考古学者だった。著書「岩宿の発見」は、彼の苦難の人生を語っている。故郷の鎌倉に生まれ育った相沢さんは、なにか能楽師の職域と関係があるのか、お父上は笛の演奏を職業としていたらしい。成長期は逆境の日々を歩いて来た相沢さんは18歳で海軍に志願した方で、敗戦後は群馬県に移住して納豆を売り歩きその日の糧を得ていた。会社勤めをすれば一日中仕事に成るが、行商は朝晩の時間を取るだけで日中は考古学調査の時間が出来るとお書きに成ってゐる。

相沢忠洋記念館には、彼が納豆を売り歩いた自転車が展示されて居た。ゴムタイヤと構造パイプの太い、僕が子供の頃に見た闇屋が使う頑丈な自転車だ。これで納豆を売り歩きゐていたのです。相沢さんが子供の頃に古い化石を見せてもらったことが、たぶん考古学という学問に関心を持つ動機でしょう。まさに相沢忠洋という人は、考古学に革命を起こした人で、日本の考古学は相沢さんの発見を境に相沢前と相沢後に分れると言って良い。それまで日本の歴史は3000年を遡らなかった。火山噴火の赤土依り下には文明の痕跡はないと思われて居た。その程度の歴史しか無いと思われて居たのです。しかし、岩宿の発見は3万5000年前の地層に日本人の痕跡があった。凄いものです。その時代に確かに日本人の先祖は生きて生活をしていた。旧石器は次々と発見されて行き、数万年はおろか島根県では12万年前の石器まで発見されている。現在の発見されている年代の確定している縄文土器の年代は、C14法に依れば1万6500年前の土器です。その時代に日本の他にも土器が有った筈だが、今の所発掘し確認されてゐる所はない。

驚いたことには日本列島は、想像するに世界最古のものが多々ある。原日本人は最古の人類の一つであろうし、日本語は日本列島で出来上がった言語であろう。日本語の特殊性から言えば日本語は世界の言語の原型であろう。日本が驚くべき古い文明を有していると云うこと、最古という事は誠実に研究をしている人には解っている筈でしょう。縄文期の始まりは約2万年前とされているが、では縄文以前はどうなのかと多くの方は問うでしょう。縄文期が突然現れると謂うことは無い。その成立以前にも全縄文期は在った。

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大自然学ー2025・1・11

2025年01月12日 19時33分47秒 | 分子進化と集団遺伝学

 この地球上の命はすべてつながっており、存在する個体の一つ一つは、生命という巨樹の枝に生える無数の葉のひとつである。例えば一人の人間の命の中にも膨大な数の微生物が共生をして居り、世界は命というシステムでつながっている。生態学という学問が重要である。それは数々の多くの個別的な命がつまりは全体的な生命体として繋がっている事を主張する。地球という惑星システムも個別に存在は出来ない。それは太陽という神とも称する動力源のお陰で存在できるのだ。生態学はこの地球惑星システムを知らずに探求することは出来ない。地球に存在する人間という物が、大自然のサイクルを変えることは出来ない。神にもひとしい大森林を切ること等は人間の自殺行為に等しい。だが機械の導入に依って、その行為が可能となった。それが人間の将来を暗くしている。

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風姿花伝ー世阿弥元清

2025年01月12日 06時48分50秒 | 日本文明と文化

 能演目は随分前か関心があったが、実際に演舞を見たことは無い、近くに能楽堂が無かったこともある。それで生の舞いを見たかったが果たせなかかった。ただ元清が著した演目と奥義を書いた書がこの風姿花伝である。時は室町時代、観阿弥・世阿弥の親子がどんな理由で猿楽や能楽を始めたのか、もちろん世阿弥以前にも白拍子など、この手の演目があった。ただ、風姿花伝の様に、猿楽・能楽を一つの芸の基本哲学として世阿弥以前には書かれた本は無かった。この薄い本を読んでみると、世阿弥元清は一種の霊媒の資質を備えていた様に思えてならない。実際、能楽のそこに出て来るのは普通の人間もあるが、大抵は幽霊か生霊と称する物だ。幽霊という物が何なのかをよく知らないが、肉体を持たない精神と言ってよいのだろうか、

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光とはなにか。

2025年01月07日 21時12分32秒 | 天文学と宇宙論

 光りは私たちの生活と常に共にあるので、「光とはなにか」、と問われても、あまり驚くことはない。寧ろ、陳腐な問いと思われかねない。だが本当は我々は光に附いて何も知らないに等しい。光は波動である、然り、光は粒子である、然り、波動であると同時に粒子でもある。光の実体はなんなのだろう。光の速度は最も速いとされる。光の粒子は質量がごく少ない。なぜ光は存在するのか?、光は電磁波である。電磁とは電気と磁気、電子の誘電率と磁気の透磁率が、交互に互いを誘発させその連続が電磁波であり、光は電磁波のある段階の波動である。ヒトの眼に見える光とは、或る範囲の周波数で後の周波数はヒトの眼には見えない。この世界には様々な周波数の電磁波が溢れているのだ。物事も異なる周波数の下では見え方がまるで違うのだ。

更に光は、我々の心に強い影響を及ぼす、心理的な物であは有るが、その影響はとても大きい。それは我々というよりも地球生命全般であろう。光の無い世界は暗黒の闇である。それが宇宙ではごく当たり前の常態だ、光りは有意な現象と言えるのだろう。人もも光り依って覚醒し、光りによって世界を見ることが出来るのだから。智慧は見ることを通じて光の中から現れる。闇の世界には生まれ乍らの方でない限り中々耐えられないであろう。勿論光以外にも世界を把握する力を持つ者もゐるが。光りは反射を通して世界を見ることが可能だ。そう言うことから宗教的感情を励起させ、信仰がうまれた。光りを崇拝する多くの宗教がある。古代イランのゾロアスター教、通称、拝火教だ。仏教にもその側面があり、密教は火を崇拝する。火は神聖であると共に智慧の象徴なのだ。

我々の感覚器官である眼は、ひかりに起因して現れた。我々の眼は、太陽のひかりの中の或る周波数に反応する様につくられた感覚器である。むかし、古代インドに興った原始仏教の中に「唯識」という学派があった。唯識派はそのコトバの如く「識の本質」を大系付けることを目指した学派であった。識とはいわゆる感覚器により得られる「認識情報」のことであるが、それだけに留まらない自我意識を超える潜在意識を想定した。それで唯識派は、人間の感覚器の分析を始めた。先ずは正常にうまれた人間ならば持ちえる感覚器、眼、耳、舌、鼻、皮膚感覚(触覚)、そしてそれをお統一して現れる自覚的意識、に分けた。更に、生れながらに持ちえた末那識という潜在意識をいれ、更には、最も深い存在の意識である阿頼耶識を最終精神の究極とした。そして此の阿頼耶識には個人的な意識は残されていない。この一つの葉が経験したすべての記憶の蔵は、その死と共に消え去るとした。個人的な記憶が存在するのは末那識までであるだろうとした。勿論それが正しいものかどうかの結論は出ていない。飽く迄も、その論を作った物の見解に過ぎない。

原始仏教のコノ様な論は、人間の認識力の概容とその限界を問うことの必要性から生まれたと思う。「知るとは何か」、「知れる限界は何処までか、それは何故か」という意味をこの問いは指示している。実に深く豊かな奥行きがある問い掛けだ。例えば、それはこの様な根源的な問いが為される、将来の数学は、人間の数学を超えるものであろう。人間の数学はまだ知力の展開の上では幼児期に在る。現在の数学とはまったく別な数学が存在して何ら不思議ではない。もっと根源的な数学の事を言っている。いま僕がこの様な事を書き記しても、たぶん解ってくれる人は限られているのではなかろうか。哲学とは根源を考察する分野であるので、それは数学も物理も天文も化学も生物の遺伝学もすべてをふくむものだ。

光りが自覚的意識を生み出し、更には物事の現象を広く感知しその原理を探る意識が生まれる事は智慧が生まれる事に等しい。依って光りは智慧を生んだという俗説もあながち間違いではない。

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