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人間の未来に及ぼす数理脳神経情報科学の未来

2020年12月05日 17時36分22秒 | 心を創っている物とはなにか?(分子遺伝情報と心の情報理論)

 久し振りに興味深い著作に出会ったと思った。インド出身の神経生理学者ラマ・チャンドランの「脳の中の天使」と言う本である。チャンドランのこの手の本は、日本語訳が成されている本が3冊ほどあるらしい。最初は「脳の中の幽霊Ⅰ」で、その続編である「脳の中の幽霊Ⅱ」である。幽霊の方は未だ読んでいないが、この天使の方を買ってみょうと思ったのは、古本屋でパラパラと頁を繰っていると次のフレーズに出会ったからだ。それは1950年代の中期に初めて最初期の脳神経系モデルと方程式を創り出したのは、ウオーレン・マッカロフとウオルター・ピッツ達である、W・マッカロフのフレーズが引用されていたからだった。素朴に、マッカロフは心と言う自己意識体を茫洋と考察している内に、数とは一体何なのだろうかという感慨が浮かび上がったのだと思う。「人間が理解できる数とは何なのだろうか?、そして数を理解できる人間とは何なのだろうか?」、読んでいて、このフレーズに思わずギクㇼとした。何故なら、これは常々考えて居る事と同値だからだ。ウオーレン・S・マッカロフという人物を、私はノーバート・ウィーナーの様な、実現象を扱う、確率統計学の分野での業績のある数学者だと、漠然と想像していたが見事に違っていた。改めて彼のキャリアを調べてみると、神経網の形式モデルを考案しただけに、確かに神経生理学を専攻していたが、バックフィールと成るものは単なる特定の分野だけでは無くて、外科医・論理学・心理学・芸術(視覚)、詩人、そして哲学までカヴァーしているマルチキヤリァの人物像が浮かび上がってきた。成るほど、こう謂う好奇心と知的な背景を持つ人物でないと、人間の心と脳が出会う初期の人工知能への志向性は芽生えない。必ずこういう人物は新しい分野の創造を志向するものだから。ラマチャンドランの著作は面白い。なぜなら、些か冗長な面があるにしても、一般人が考えもしない視点が明快に語られ、且つ未知である脳神経系に関する知見と成果を、誰にも分るように解説している点にある。

我々はものに名前を付ける、そうすると如何にもわかったような気になってしまうのは、なぜなのだろうか。いわば「名付け効果」というものが私たちの認識機能にはどうやら確実に在るようだ。存在感は五感の複合効果がもたらすものであるのは間違いないにしても、現在のところそれは証明できていない。A=Aという同値の証明上の意味と存在感がおなじ次元のものであるか?は、マッカロフのあの言葉「人間が理解できる数とは、何なのだろうか。そして数を理解できる人間とはなんなのだろうか?」というフレーズを思い出させ、禅の偈のような言葉として反芻してしまう。我々は名付け効果に因り、対象の洞察を簡単にわかったような気に成って、名付ける以前の混沌に対しては気分が悪くなるためか洞察を加えようとしない。混沌は謂わば内側にあり、名付ける事で対象を外側に替える。言葉がその力の最大の機能であり創造性の不思議な効能なのだろう。やはり数と言語の精神の温床は同じところにあり、数も言葉もそこから生えている枝である。人間のこころと言う迷宮は、自然科学的な方法である程度の所までは行けるだろうが、根本的には根源的な宇宙の意思という物に出会うに違いない。それは自然であり、太陽系の遊星運動であり、空間の意味であり、引きあう引力の根源であり、我々が生きてゐるというこの現象も銀河系宇宙、太陽系、地球という惑星、それが命じている事なのかも知れない。話が大きくなり過ぎたが、コトバとか数学とか、物理学とか、化学とか、分子遺伝学とか、という小さな部分からは始めることが必要なのだろう。

 

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再び音と意味の対応について

2019年06月23日 09時15分48秒 | 心を創っている物とはなにか?(分子遺伝情報と心の情報理論)
「再び音と意味の対応について」
 地球惑星科学に於ける太陽系理論の帰結する所は、太陽系の創生過程での経過時間は、45億年~55億年の時間的過去を持つが、あと太陽自体のエネルギー持続時間は50億年と目されている。それは恒星である太陽系の核反応の燃料の残量問題が活動期間の時間を決めることになる。
この様にして、延々と惑星進化の46億年を経過する中で生命体が生まれ、その生命体の全貌は未だに謎の闇に包まれてはいるが、ここ現在に至るに及び、現状では人間が変化の頂点にある。

宇宙論的な意味からすれば、人間の特徴は互いに個体間の情報を交換する術を持つという事である。そんなことは当たり前だろうという方も、大勢居られる事であろうが、人間に限らず個体間の情報交換は、凡そ昆虫でも行って居る。それはもっと古く、魚や両生類でも樹木間でも、それは可能だ。過去の時点で一つの真核生物が誕生した際にすでに意味場という空間の場が、その情報交換を可能にさせている。こう言う空想は、今の時点では実に馬鹿げた事のように思えるかも知れない。人間に於けるこの様な情報交換の現象を考えて見よう。

人間は声帯の発する音声という音波波動を使い、音波に依る交信手段を大昔から確立した。だが声としての音波は飽くまでも媒体なのである。意味情報を載せる車に他ならない。言葉とは人間に取って一番身近な手段であり、然も誰しも苦労もせずに意志を伝える手段であるにも拘らず、いま以て、その現象の意味を解く事が儘成らない一つの根本的な現象なのである。この様に空気の振動を使い、自らの心という意思を交感する道具が、言葉なのであり、自然な対象であるコトバは、その習得と内的サイクルの問題からも、幾つかの解かれない問題に直面して居る。コトバは恣意的て実に曖昧なものだが、それでもその機能が確固とした物である事、しかも例えようもなく重要な役割をもっている。

 音と意味について、その対応を深く知ることが不可欠だ。集団生活をする人間の特徴は各個体間の交信であり、その為の声帯を使った音波動が媒体に成る。或る意識を意志を音波動に乗せて交信する。謂わばコトバという機能だが、この簡単な現象に見える一連の作動環境が確かめられていない。音は人間活動に於いては、電波と同じで意味と文字をつなぐ役割を持って居る。或る意味で音が重要な役割をして居るのは、音によって意味と意味をつなぐ役割をして居るからで、聴覚が不自由な場合は、個体間の交信に大きな障害を創ることになる。一旦形成された言語体系は、その民族と不可分の関係に成り、様々な文化の創造も伝統の継承も、この言語体系に係わるものだ。

さて、ひとは言葉の探究の目的がどこにあるか?を明確に認識すべきなのだろう。知力という物は言葉とは別の場所で創生されるが、コトバはその知力の質的な構造を規定する媒体である。言葉の特質には表裏が或る。表の部分は通信としての媒体で音声を基盤にして居るが、裏の方はというと内語というか、一種のイメージを基盤にして居る。ここの相互作用が個人の言語の発達に大きな影響力をもっている。そして、いずれは言葉は数的概念と対応するようになる。ある音声から意味が導出、導入されるのは、この内部での相互作用が大きく関係して居る。ことばという最も基本的な機能が、いまだに謎に満ちている原因は、言語学が求めている目標が、不明確であるからなのだ。

この不明確な部分を出来るだけ明らかに、確固たる対象として提示してみると、人間の言葉の獲得過程は是は言語にも人種にも必然性は無く、或る意味では平等である。ただ言語環境が異なる事に因り、その言語がもたらす、ひとつの思考力、想像力、理解力に、対して心性という物の差異が出るだけだ。私も結論は出て居ないので、むしろ、問題の提出と解釈の過程を思考実験して居るわけだ。
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