「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

MEDITATION the first and last freedom 「まず 技法を理解しなさい」

2013-06-19 21:39:28 | OSHOの講話



【 まず技法を 理解しなさい 】


ある老医師に関する話を 聞いたことがある・・・・・・。

ある日、彼の助手が電話してきた。
なにしろ、ひどい窮地に 追い込まれていたのだ。
患者の ひとりが窒息死しかかっていた、ビリヤードの玉を のどに詰まらせて・・・・・・。
助手は なすすべもなく途方にくれていた。

それで、彼は老医師に「どうしたものでしょう?」と 尋ねた。

老医師は言った。
「羽毛で 患者をくすぐりなさい」

数分後、助手から 再び電話が かかってきた。
踊り上がらんばかりに 喜んで、彼はこう言った。
「先生の処置は 最高です!
患者は 笑い出して、玉を 吐き出しました。
でも 教えてください ーーー いったい どこでこんなすばらしい技術を習ったのですか? 」

老医師は言った。
「自分で 思いついたのさ。
何を してよいか わからないときでも、とにかく 何かをやる、それが 私のモットーなのだ」



だが、これは 瞑想に関しては当てはまらない。

どうしたらよいのか わからないときは、何ひとつ してはいけない。

心(マインド)は 非常に こみいっており、複雑で、しかも繊細だ。

だから、どうしたらよいのか わからなかったら、何も しないほうがよい。

知らないで やったことのすべてが、かえって事態を複雑にし、解決は 遠ざかってしまう。

それは 致命傷になりかねないし、自殺行為に なるかもしれない。



心(マインド)に ついて 何も知らないなら ーーー そして、実際、あなたは 何も知らない。

心 といっても 言葉にすぎない。
あなたは その複雑さを 知らない。

およそ この世に存在するもののうちで、心ほど複雑なものはないし、それに 比較しうるものはない。

しかもそれは もっとも繊細なものだ。

へたをすると 破壊したり、取り返しのつかぬことにもなりかねない。

これらの技法は 人間の心に対する 深遠な理解、それとの きわめて深い遭遇に基づいている。

それぞれの技法は 長年の実験に その基盤を置いている。



だから、これを 覚えておきなさい ーーー 勝手に自分で何かをしては いけないし、絶対に 二つの技法を 混ぜ合わせてはならない。

なぜなら、それぞれの動きは異なっており、その道すじも 基盤とするものも 異なっているからだ。

どちらも 同じ目的地に導くのだが、方法としては 全面的に異なっている。

ときには 正反対のもので あるかもしれない。

だから、二つの技法を 自分勝手に混ぜ合わせてはならない。

それどころか、どんなものも 混ぜ合わせてはいけない。

技法は 与えられたとおりに用いなさい。

自分勝手に 技法を変えたり、改良したりしてはいけない。

なぜなら 改良などできないのだし、あなたがもたらす いかなる変更も 致命的なものにしかならないからだ。



だから、技法を始めるまえに、自分が それを理解しているかどうか、充分に敏感でありなさい。

もし混乱があり、その技法が どのようなものか よくわからないのなら、それは やらないほうがよい。

なぜなら、それぞれの技法は、あなたに 革命をもたらすほどのものだからだ。

はじめに、その技法を 完全に正しく理解しなさい。

理解したときのみ 試みなさい。

「どうすればよいか わからないときには、とにかく何かせよ」という あの老医師の モットーに耳を傾けてはならない。

何も やってはいけない。

何もしないことのほうが ずっとましだ。


Osho,


「自分にふさわしい方法は ぴんとくる」に つづく……

MEDITATION the first and last freedom 「私の方法は シンプル」

2013-06-19 14:49:21 | OSHOの講話



【 私の方法はシンプル 】(P.49~51)

これから 私たちが見てゆく方法論は どれも、悟った人たちによって 教えられてきたものだ。

このことを 覚えておきなさい。


それらは あまりにも単純に見えるだろう。 そして実際、その通りだ。

私たちの 心(マインド)には あまり単純なものは 訴えかけてこない。

技法が それほど単純で、住居が それほど近いのなら、自分が すでにそのなかにいて、わが家が それほど近いのなら、なぜそれを 取り逃がしているのか? ーーー だとしたら、まるで自分は 馬鹿みたいだ。

あなたは そこで、おのれの 自我(エゴ)の愚かさを感じるよりは むしろ、こんな単純な方法が 役に立つはずはない と考える。



だが、それは 欺瞞だ。

あなたの心(マインド)は、こんな単純な方法では 何の助けにもならない、あまりに単純すぎて 何も達成できない、と言うだろう。

神的な実在を 達成するのに、〈絶対〉や〈究極〉に到達するのに、こんな単純な方法が どうして使いものになる?
どうして こんなものが 助けになる?

・・・・・あなたの自我(エゴ)は、こんなものは 何の役にも立たない と言う。



ひとつ 覚えておきなさい ーーー 自我(エゴ) は必ず 何かむずかしいことに 関心を抱くものだ。

物事が むずかしいときには、そこに挑戦があるからだ。

その困難が 克服できたら、あなたの自我(エゴ)は 満足を感じる。

自我(エゴ)は けっして簡単なものには 魅きつけられない ーーー けっしてだ!

自分の自我(エゴ)に 課題を与えたいなら、何か むずかしい趣向を 用意しなければならない。

あるものが 単純だったら、それには 魅力がない。

なぜなら、たとえそれを 克服できたとしても、そこには自我(エゴ)の 充足感がないからだ。

そもそも最初から、そこには まったく克服すべきものなど なかったし、それは あまりにも単純だった。


自我(エゴ)は 困難を 求める。

飛び超えるべき ハードル、征服すべき高峰 ーーー その高峰が 険しければ険しいほど、いっそう あなたの自我(エゴ)は 安心感を感じる。



これらの技法は あまりにも単純すぎて、あなたの心(マインド)に まったく訴えかけてこない。

覚えておきなさい、自我(エゴ)に訴えかけるものは 精神的成長の 助けにはならない、ということを。

これらの技法は 非常に単純であり、その気になれば いつでも、あなたは 人間の意識に可能な すべてを達成することができる。


Osho,


「理由なしに 喜びを受け入れる」P.37

2013-06-19 00:15:41 | 気づき



【 理由なしに 喜びを受け入れる 】

突如として、何の理由もなく 喜びを感じる。

普段の生では、何か 理由があって はじめて喜ぶ。

いつも欲しがっていた 金が入って うれしいとか、美人に会えて うれしいとか、庭園付きの 美しい家を購入できて うれしいとか・・・・・・ だが、このような喜びは 長続きしない。

それは 一過性のもので、永久に続くことは ありえない。



自分の喜びが 何かに起因しているなら、それは 消え失せる。
それは 一過性だ。

それは すぐに、自分を 深い悲しみのなかに 置きざりにするだろう。

そのような喜びは すべて、あなたを 深い悲しみのなかに置きざりにする。

だが、それと 次元のちがう喜びがある。

あなたは 何の理由もなく 不意にうれしくなる。

理由は示せない。
「なぜ そんなに喜んでいるの?」と 聞かれても、あなたには 答えられない。

これが 確実なサインだ。



なぜ私が うれしいのか、私には 答えられない。

理由はない。 それは単純に そうなのだ。

さて、この喜びは 乱されない。

何が 起ころうと、それは継続する。

明けても暮れても そこにある。

あなたは 若者かもしれないし、老人かもしれない。

あなたは 生きているかもしれないし、死につつあるかもしれない。

だが、それは つねに存在する。

永続する喜びを 見つけたときーーーそれは 状況にかかわらず継続するーーーそのとき、あなたは確実に ブッダフッドに 近づきつつある。


Osho,