「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

これこそが 宗教的な人のあるべき姿だーーー

2012-12-31 22:37:37 | OSHOの講話
The Art of Dying Talks on Hasidism より抜粋
(P、40~41)

宗教的な人とは、キリスト教徒でもヒンズー教徒でも仏教徒でもイスラム教徒でもない。
それらは皆 知識の人だ。キリスト教徒は「私は知っている」と言う。だがそれは、キリスト教の教義から取ってきたもの。
ヒンズー教徒は「私も知っている」と言う。だがそれも、ヴェーダやギータ、ヒンズー教の教義から取ってきたもの。
また、ヒンズー教徒はキリスト教徒に反対する。なぜなら、「私が正しければ あなたは正しくない。あなたが正しければ 私は正しくない」と言うからだ。
そのため、多くの議論、論争、言い争い、不要な闘いが起こる。

宗教的な人、俗にいうそれではなく、真の意味で 宗教的な人とは「私には わからない」と言う人のことだ。
「わからない」と言うとき、あなたは 開いており、学ぶ用意ができている。「わからない」と言うとき、あなたは ああだこうだという偏見も、信念も、知識も一切持たない。
あるのは 気づきだけ。
あなたは、「意識して何が起こるか見ていよう。過去から得た知識を携えないようにしよう」と言う。

これが弟子の、学びたい者の態度だ。修行とは 学びに他ならない。
弟子とは 学ぶ人、学ぶ心がけのできている人のこと、そして修行とは学ぶことだ。
私が ここにいるのは、あなたたちに 教義を与えるためではない。
私は、知識など与えていない。
ありのままに 見られるよう、あなたたちの 力になろうとしているに過ぎない。

いくら高くつくとしても、自分の生を 生きなさい。それに賭ける覚悟をしておきなさい。

OSHO,

変わり種【完璧オリジナル(笑)『ごっつい美味い!手巻き寿司』】です。

2012-12-30 10:04:57 | グルメ
※「納豆(ネバネバ系)が好きな人」なら、きっと気に入る…手巻き寿司の具、で~す。

【(具)食材】
焼きノリ、大葉もしくは わさび菜、ご飯、納豆、アボカド ※ 「テーブルマーク(元カトキチ)の 冷凍『ごっつ旨い!お好み焼き』」

【創り方&食べ方】
(1) 大葉(シソ) 又は、わさび菜を 綺麗に洗って皿に盛る。
(2) ご飯は 人数分(適量)を鉢に盛る。
(3) 納豆を混ぜて、小鉢に盛る。
(4) アボカドは 小さく(1cm 以下)切って、小鉢に盛る。
(5) さて、冷凍「ごっつ旨い!お好み焼き」を袋に記されているとおり レンジで『チン!』する…
(6) (5) を皿に移して、備え付けのソースやマヨネーズ、おかかと青海苔をふりかけて、※ ホークで、あの「もんじゃ焼き」 のように、練り上げる…(もんじゃ焼きより少し堅めだね)。
(7) 焼きノリの上に、大葉を乗せて…ご飯を大葉の上に薄く広げて…(3)(4)(6) をいろいろ、あれこれと試して、楽しむーーー。【美味い~!】

…今、あなたが↑【創り方&ーーー】を読まれて、想像している「美味しさ感覚」よりも…「ごっつい美味い!」 よ~!

ネバネバ系統が 好きな方々。一度、試してみる価値は あります!

我が家の『みぞれ鍋』やっぱりーーー「シンプルーいずーべすと!」水は、使わない!

2012-12-24 09:36:09 | グルメ
【どこの家庭にも、定番化している なべ料理がある……】
鍋料理のええとこは『みんなで一緒に、分かち合うーーー』やねぇ!「ああだ!こうだ!ワイワイ!」と楽しくーーーーーー

ーーー昔々、独身時代のこと…一度だけ…『どうしても鍋料理が食べたくて』一人っきりで 食べたことがあるーーーそのとき住んでた公団住宅の窓ガラスに、『独りで鍋をつつく我が姿』が映っているのを 見た瞬間! 私は 悟ったね(笑)『鍋は、二人以上の人間と食べるものなんだア!』


【みぞれ鍋】

調味料、【ポン酢】だけ…

食材もシンプル、【豆腐】【水菜】【豚肉 (シャブシャブ用)】←いろいろ試したが、しゃぶしゃぶ用の肉を勧める。【大根】←我が家は、二人分で、半分の大根を おろす(丼ばち一杯)。

食材(二人分)、豆腐=一丁、水菜=一袋、豚肉=200g、大根=半分~以上※(後で うどん等を入れるのなら半分以上が必要)
…もし有れば キノコ類を入れても Good!

食材の仕込み、
豆腐は、お好みの大きさに切る。

水菜は、適量分(一袋の半分くらいかな)、長さ 4~5cmに切る。

豚肉は、家族構成により、食べやすい大きさ 一口大に切る。

大根は、( 誰かに手伝ってもらって ) おろす。
※家族、メンバーの中に男が居るなら、男の仕事…大根おろし (する人に 水分を棄てないように注意する)

創り方、
{1}=【水菜と豚肉を交互に重ねる】 鍋の底全面に、切っていた水菜(半分か三分の一)を 鍋の底が見えないように「敷き詰める」……敷き詰めた水菜の上に、豚肉を ていねいに「敷き詰める」……その上に、また「水菜を敷き詰める」……残っている豚肉を敷き詰めーーーもし水菜が残ってたらーその上に敷き詰めるー。そして、鍋の蓋をする。

{2}= {1}をコンロに乗せて、【 5~7分、弱火にかける(蒸す)】※熱が逃げるので、途中で 蓋は開けない!

{3}={2}の蓋をとり、切っていた豆腐と大根おろし全部を入れて、調味料の【ポン酢を適量(大さじ3ぐらい?かな)入れる】←食べる時に、鍋から取り皿に取って…ポン酢をふりかけるから、薄味にしておく。

{4}={3}に蓋をして、 今度は【 5~7分、(弱めの)中火にかける】

{5}={4}の蓋を取り、【 ※ 豚肉に火が通ってるのを確認する】

{6}= それぞれに{5}から取り皿に移し、味見をして…薄ければ ポン酢で、口に合わして
【いただきま~す! ワイワイ!ああだ!こうだ!ワイワイ!】


「関西人の私は、薄味好みなので、大概{3}の 下味つけだけで いただいております」。

ではーーーーーー次回のレシピは【ごっつい!美味い 手巻き寿司…変わり種編】を 分かち合いましょう。

ーーー目には見えないが、一本の糸がある。 パート3

2012-12-23 15:03:23 | OSHOの講話
The Art of Dying Talks on Hasidism P.24~26

だから、肉体的な生を送るにとどまり、肉体を超えたものを 何一つ知らない人の死は、極めて醜く不快で苦しい。死は苦しみとなる。だが、肉体よりも少し高度な生を送るなら、音楽や詩を愛したり、人を愛したり、肉体的でない何かが意識の中に入ってきているなら、死はそれほど悪くも苦しいものでもない。
あなたは 従容として死を受け入れられる。だが、死はまだ祝祭ではない。

自己の内にある超越的なものに触れるなら、肉体の喜びから完全に離れ、音楽や詩や文学や絵画など、あらゆる精神的な喜びからも遠く離れたところ、中心である自己の空ーーー存在の中心、もはや肉体でもマインドでもないところ、まさしくあなたが純粋な気づき、意識であるところーーーへ入るなら、死は 大いなる祝祭、大いなる啓示となる。

その【超えたるもの】を知るならば、死は 宇宙の【超えたるもの】を明かすだろう。
そうなれば、もう死は死でなく、神との出会い、神とのデートだ。

だから 死は、人間精神の変遷に応じて 三つに表される。
一つは、肉体に執着する 普通の人間の死だ。
普通の人は、食べ物とセックスの喜びよりすばらしいものを何一つ知らない。その生は、食べ物とセックス以外の何ものでもない。非常に原始的で粗野な生だ。
食べ物を楽しみ、セックスを楽しむ、普通の人は王宮の入り口に住むが、決して中に入ることがない。そして それが生のすべてだと考えている。
死を迎えるとき、彼らは執着するだろう。死を拒み、死と闘うだろう。
死は 敵として現れる。
ゆえに世界中で、あらゆる社会で、死は 暗く呪わしいものとして描かれてきた。
インドでは、死の使者はとても醜く、薄黒く、陰鬱で、巨大な醜い野牛に乗ってやって来ると言われている。
これが死に対する一般の態度だ。こうした人々は、生を取り逃がしている。生の 全次元にまで認識が及ばず、生の深みに触れることも、生の高みに飛ぶこともできずにいる。
完全な もの、祝福を手にできずにいる。


それから、死の第二の表現がある。
時折、詩人や哲学者は、死は 悪いものでも呪われたものでもなく、安らぎを与えてくれるもの、大きな休息、眠りのようなものだと言う。これは 最初のよりも良い。
少なくとも、肉体を超えた精神的なものを知っている。
食べ物とセックスに留まっていないし、限られていない。
少しは高尚な魂を持っているし、より上品で文化的だ。かれらは死を大きな休息みたいなものだと言う。人は疲れ、死と休息に向かう。
死は 安らぎを与える。だが、詩人や哲学者も真理から遠く隔たっている。


生の 最奥の核を知るものは、死は神であると言う。
それは、休息のみならず 再生、新たな生、新たな始まりでもあるーーー新しい扉が開く。

…(略)…

ーーー自己の内にある 超えたるものを知ると、死は 神の別の顔でしかなくなる。
すると、死の中に 神の踊りが生まれる。
覚えておきなさい、死自体を 祝えるようにならなければ、あなたは 生き損なう。
生のすべては、この究極のものへの 準備なのだーーー。

OSHO、
(死のアートより抜粋)

ーーー目には見えないが、一本の糸がある。 パート2

2012-12-23 12:18:05 | OSHOの講話
The Art of Dying Talks on Hasidism P.22~24

アリの一群が、朝早く、食べ物を捜しに地中の暗い巣穴から出て来た。アリたちは朝露に濡れた草の脇を通りかかった。

「これ、なんだろう?」「どこからやって来たのだろう?」と、一匹のアリが朝露を指差して言った。
あるものは「地面からだ」
別のものは「海からだ」
すぐに口論が始まったーーー海に固執するグループと、地面に固執するグループに分かれて。

一匹だけ、どちらにもつかない知的で賢いアリがいた。そのアリが言った、「少し待って様子を見てみよう。なんであれ、もともとあったところへ帰ろうとするものだ。すべてはその源へ帰っていく、って言うじゃないか。どんなに空高くレンガを投げたって、レンガは地面に落ちてくる。」「光の方へ向かうものがあったら、それは、もともと光に属していたということだ」

アリたちは まだ充分納得がいかず、口論を再開するところだった。しかし、陽が登り、朝露は 葉から離れ太陽の方へどんどん昇っていった。そして消えてしまった。

すべては その源泉に帰る、帰らなければならない。生を理解するなら、死をもまた理解する。
生は 源泉の忘却、死は その想起。生は 源泉からの離脱、死は 源泉への回帰。
死は 醜いものではない、死は 美しい。だが、美しいのは、制約や抑圧のない生を送った人の死だけだ。
美しく生きた人、生きることを恐れなかった人、つまり、愛した人、踊った人、祝った人の死だけだ。


生が 祝祭となれば、死は 究極の祝祭となる。
こう言っておこう、生がどんなものであるにせよ、死は それを曝け出す、と。
あなたが 惨めに生きていれば、死はその惨めさを露(あらわ)にする。死は 見事に暴露する。
幸せに生きていれば、その幸せを 露にする。
肉体的な慰めや喜びだけに生きていれば、死はーーー肉体から去らなければならないのだからーーー当然、非常に不快で嫌なものになる。
肉体は、夜泊まって 朝には立ち去る仮の宿、社(やしろ)に過ぎない。
永遠の住まいでも、あなたの家でもない。

OSHO,

(パート3に続く)