「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

【第八話 心地の法】07

2013-06-11 21:56:08 | OSHOの講話



(…何も知らない大衆を慰撫しなければならないとは、じつに滑稽で馬鹿げたことだ。)


聞いた話だが、
ニューヨークの 三人のラビが 互いに語り合っていた。

最初のラビが言った。
「私の教会堂が最先端を いっている。
何しろ 説教の最中に 教会のなかで煙草を喫ったり、酒を飲んだりしてもかまわないんだから。
煙草や 酒のどこがいけないのか。
これが 現代の教会というものだ」


二番目のラビが言った。
「そんなことは 大したことじゃない。
私のところでは 愛を交わすことさえ 許されているーーーどんな害があるというのだね?
伝道師は 説教し、聴衆は楽しみ、愛し合っている。
愛が メッセージだ!」


三番目のラビが言った。
「私のところに比べりゃ まだまだだね。
私の教会が ダントツさ。
何せ うちの教会の前には 大きな看板が掛かっていて、〝ユダヤ教の安息日にも閉店〟と書いてあるんだから」



さあ、もうこれ以上 先に行きようがない。
人々のことを 考慮したら・・・・・・。


「人々のことを 考慮する者は、けっして宗教的にはなれない」と、グルジェフは よく言っていた。


けっして他人のことを 気にしてはならない。

ただ 自らの真理を探し、それに従って 生きなさいーーーたとえ全世界に 背くことになってもだ。

妥協や しんしゃくを いっさい排除するがいい。

真に 宗教的な人とは、妥協や 気遣いのない人だ。




【 最後の日が 近づいてきたのを知った臨済は、最上の衣をまとい、座禅を組んだ。】

これらの 小さな象徴は、この人の ひじょうに優れた特質を表している。

理解できる者たちに、自分が 死を迎える準備を していることを示している。

言うまでもなく、最上の衣を 身にまとい、座禅を組むべきだ。

彼は、瞑想の美しい沈黙のなかで 死を迎えるべきだ。


【臨済は まわりに集う弟子たちに言った。
私が逝ったのち、正法眼蔵を 滅してはならない】


私は、インドで 何千年にもわたって〝第三の眼〟ーーー内側を見る眼、真の法眼と 呼ばれてきたものが、禅では〝正法眼蔵〟と呼ばれる と話したことがある。

この二つの肉眼は 外側を見る。

そして、外側の あらゆるものごとが つねに二つに分かたれる というのは きわめて象徴的だ。

夜が あれば、昼がある。

愛が あれば、憎しみがある。 友が いれば、敵がいる。


外側を見るためには、二つの眼を持つことが どうしても必要だ。

だが、内側を 見るためには、その二つの眼が ひとつに溶け合わなくてはならない。

そして、内側を向くと、ひとつの法眼、ひとつの道眼、あるいは ただ第三の眼 のみがある。


(つづく)

【第八話 心地の法】06

2013-06-11 14:12:07 | OSHOの講話



臨済は言う。
「道(タオ)を 奉ずる者たちは、つかんで、働かせる」ーーー彼らは 心地(シンヂ)を 把握する。

彼らは 自らの 実存そのものを把握し、働かせるーーーが「けっして名をつけないーーーこれが〝玄旨〟と呼ばれる」彼らは、それ を把握し、生涯にわたって それを働かせる。

彼らは それと ひとつになる。

だが、それについては、それ が何であるかについては 一言も語らない。


あなたは それを得ている師(マスター)と ともに生きなければならないーーーおそらく 深い沈黙のなかで、師とともに坐りながら。

すると、あなたのハートと 師のハートが シンクロナイズ(同調)して、同じリズムで 踊り、調和のとれた音を 奏ではじめる。

何も 語られず、何も 聞かれない。 にもかかわらず、すべてが 理解される。

このことゆえに、それは〝玄旨〟ーーー神秘的な原理 と呼ばれる。

それを 語った者はなく、それを聞いた者もない。

だが、数限りない人々が それを生きてきた。



宗教は 解釈ではなく、体験だ。

それは 学ばれるものではなく、生きられるべきものだ。

すべての宗教が 道を外れたのは そこだ。

諸宗教は 聖典になり、寺院、教会、シナゴーグになった。

大衆に合わせて 祈りや、儀式を つくり出した。

諸宗教は、大衆が必要とするものなら 何でも進んで提供しようとするーーーただ 信者の群れを 確保するために。

なぜなら、追従者たちの存在は 政治的な力になるからだ。



あなたがたの いわゆる宗教はーーー私はこれを自白のもとに曝したいーーー隠された政治以外の 何ものでもない。

宗教的な 顔をしてはいるが、その顔は本物ではなく、仮面だ。

内側深くに あるのは、純粋な政治以外の何ものでもない。

当然、諸宗教は 大衆を慰めなければならない。

宗教が、ただ 群れを確保するために 何も知らない大衆を慰撫(イブ) しなければならないとは、実に滑稽で 馬鹿げたことだ。


(つづく)