「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

【第八話 心地の法】13

2013-06-14 21:07:35 | OSHOの講話



(…それについては無心に戯れていればいい。)

最初のうちは、あなたが 何度も忘れるのを 私は知っている。

単純なことがらを理解しようとするがいい。

つまり、忘れても 気にかけない ということだ。

そうでないと、目撃することを忘れ、それから「何てことでしょう、忘れてたわ!」と思い出し、今度は 後悔を始めることになる。

それもまた 忘れることに他ならない。

忘れたことは忘れてしまったのだ。

今 あなたは思い出しているのだから、また続ければいい。



去ってしまった瞬間を けっして悔やんではいけない。

それは 過ぎ去った。

悔やみはじめたら、もっと多くの瞬間を 無駄にすることになる。

人間の心(マインド)は 忘却するようにできている。

いくら私が「悔やむな!」と 言ったところで、心は悔やむし、その悔やんだことを 悔やみすらする。

そうやって目撃することは 彼方へと遠ざかってゆく。



だから ことを単純にするがいい。

忘れたなら、忘れたのだ。

その章は それで おしまいだ。

今 あなたは思い出しているーーー想起して、目撃するがいい。

徐々に徐々に、その忘却の 間合いは小さくなり、少なくなる。

それには少し 時間がかかる。

あなたは、数日で開き、数日で枯れる 季節咲きの花ではない。

あなたは 永遠の花だ。


(つづく)

【第八話 心地の法】12

2013-06-14 18:57:35 | OSHOの講話



マニーシャが 尋ねているーーー

【 和尚…
殺戮の口実となる 外なる神の礼拝から、内なる 不動の目撃者の認識へーーー私たちは ほんの一瞬のあいだに、わずか 一歩で、本当に目撃者まで 再び戻ることができるのでしょうか?

現実に あなたの前に 坐っていないとき、目撃することを 忘れずにいることは、急な坂を 登ることのように思われます。】



マニーシャ、それは 坂を登ることではない、坂を 下 る ことだ!

自我(エゴ)は つねに坂を 登ろうとしている。

問題は 坂を下ることだ。

ただ自然で、単純で、何でもない人でいることは 登坂作業ではありえない。

だから、まず その観念を変えること。

それは坂を 登ることではなく、坂を下ることだ。


あなたは言う。
「現実に あなたの前に坐っていないとき、目撃することを 忘れずにいるのは、急な坂を 登ることのように思われます」


あなたが それを登り坂に しているのだ。

私の前で〈目撃〉が可能なら、私の前に 坐っていないとき、いったい何が あなたを妨げているのだろう?

私の前で 可能なら、〈目撃〉は どこにいても可能だ。


あなたは「実際にあなたの前に坐っていないとき・・・・・・」と言う。
では、
私が現実に ここにいると どうして確信できるかね?

あなたは、私が ここにいるという いかなる証拠も持ち合わせてはいない。

自分の眼を 信じることなど できないはずだーーー眼は あなたを何度も だましている。

ここに集う者たち全員が 眠りに落ちて、誰もが私の夢を見ているだけかもしれない。

それなら私は みんなの夢だ。



あなたには 目撃している外界の事物に 実体があるのかどうか、判別することはできない。

このために 偉大な哲学者シャンカーラは、外界は たんなる夢、マーヤ、幻覚であると絶えず主張し、その正しさを インド全域で 証明してみせた。

西洋にも よく似た思想がある。
ブラッドレイと ボサンケットは、ともに同じ思想を唱えたーーー外界が 実在するかしないかを 言うことはできない。

なぜなら、夢のなかで 人は夢を 現実である と信じはじめるからだ、と。



あなたの 信じていることも さほど当てにならない。

夢のなかで「もしかすると私は 夢を見ているのかもしれない」と 疑うことが あるだろうか?

夢のなかでは、深く巻き込まれるあまり 夢は現実に、生々しい現実になる。

もし悪夢を見て、ライオンや 龍が 胸の上に乗っていたら、あなたは 恐怖にかられて 眼を覚まし、それが夢だと知って 胸を なで下ろすことだろう。

だが、夢でも それなりの効果がある。

呼吸を見ると、駆け足で 走っていたかのようだ。

汗を見れば、龍を本物だと身体が信じ、心(マインド)が 信じ込んでいたのがわかる。


外界が もうひとつの夢ではないことを 証明する手立てはない。

もしかすると、それは少々長い 七十年の夢ーーー眠っているとき だけでなく、目覚めているときにも続く 特別な夢かもしれない。

だが、外界が 本当にそこにあると 合理的に証明する手立てはない。

それは存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。



だから、私の現存を 気にかけないことだ、私は たんなる方便かもしれない・・・・・・実際のところ、私は 方便だ。

私の前で 目撃者になれる としたら、それは 目撃者になる能力を 自分が備えているのを あなたが知っている ということだ。

そうだとしたら、それを 骨の折れる仕事にする必要はない。

それについては 無心に戯れていればいい。


(つづく)