「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

臨済録 by OSHO「第七話 不動の 全一さ」15

2013-06-04 22:13:08 | OSHOの講話



(…行くところがどこにもないーーー。)

あなたは 最終的な目的地に たどり着いてしまった。

しかも、旅の途上で あなたは いっさいのものを失っている。

あなたは すべてのものを 失わざるをえなかった。
だから、
あなたは最終的な目的地に 裸で立って、ただ馬鹿のように あたりを見まわすことになるーーー
ーーーいったい 何のために ここに来たのだろう?

私は 懸命に急いでいたし、真剣に悩んでいた。
なのに、このありさまだ。



私は、ラビンドラナートの ある物語について 語ったことがある。
それは歌だ。物語は 歌で語られている。


「私は 何世紀にもわたり 神を探し求めてきた。

かつて神は 月の近くに おられたが、私が そこに行き着くと どこか別の星へ 行ってしまわれた。

別の星で 見かけたこともあったが、私が そこに行き着く頃には またもや行ってしまわれた。

こうしたことが 延々と続いたけれど、神が かならず どこかにおられ、いつかは お会いできるのだと思うと、私は嬉しくて しかたがなかった。

神も いつまで隠れていらっしゃれるだろう?
いつまで 逃げていらっしゃれるだろう?


そして ある日、ついに私は〝神の館〟という 表札のかかった家に たどり着いた。

私は、我が天命は 成就されたと 安堵のため息をついた。
だが、
階段を昇り、扉を たたこうとした ちょうどそのとき、私は突然 気がついた。

待てよ、少し考えるんだ!

もしも 神が出てきて 扉を開けたら どうする?

おまえは次に 何をするつもりだ?


おまえの 全生涯は 旅、巡礼、探索、探求だった。

おまえは久遠の過去から 走者(ランナー)として訓練を積んできた。

ところが、不意に 神に出くわしても 何も言うことがない。

おまえは いったい何を言うつもりだ?」



考えてみたことは ないだろうか?
偶然、神に出会っても、あなたには 何も言うことがなく、神にも 何も言うことがない。
あなたは 無用に精力を使い果して、こと切れる。

最終的な目的地とは、究極の死だ。


一休が「最終的な目的地もなく、いかなる価値もない……」と言うとき、彼は正しい。

すべては、ただ楽しみ、踊り、歌われるべきものだ。
だが、価値を問うてはいけない。

何が美徳で、何が善かを 尋ねてはいけない。

あらゆることを 楽しみなさい。

生は どこで終わることもなく、旅は 続き、キャラバンは続く。

そのことを よく心して、様々な 巡礼を続けるがいい。

道が途絶える ところはない。

(つづく)

臨済録 by OSHO「第七話 不動の 全一さ」14

2013-06-04 10:17:49 | OSHOの講話



(…だが、それらは 自らの実存を変容させる錬金術を あなたに授ける真正な価値だ。)

すべての宗教は 形式、儀礼、作法 について語る。

そういったものは みな、洗練された人格に まつわるものだ。

それらは あなたを贋物にする、だが、あなたの中心を 変えはしない。



この美しい逸話ーーー
ーーー迎山は「勝つときには無心に勝つ」と言っている。

勝ちたい という欲求はない。

ただ 遊び心に満ちた態度で、技そのものを 楽しみ、瞑想性と 無碍自在な働きを 楽しんでいただけだ。

今や 何が起ころうと、それは問題ではない。


もちろん、二人が戦うときには、ひとりは負け、ひとりが勝つだろう。

だが どちらが勝ち、どちらが負けても 大したことではない。

肝心なのは、両者の 没頭の度合いが 同じかどうか、無心さの度合いが同じかどうかだ。

どちらであれ、無心さにおいて より優れた者の方がーーー
ーーー彼は敗者の側かもしれないが、禅によれば、彼の方が 意識の状態が高く、 そのことこそが 真の勝利だ。

形の上での勝利は また別の ことがらだ。



一休は 書いているーーーーーー

自然のなかには 遠い過去の私は存在しない

最終的な目的地もなく いかなる価値もない



彼は、まさに禅宣言を 行っているーーー



自然のなかには 遠い過去の私は……私は 自然のなかに 消えてしまった。

いつのことかは わからない。
日記を つけていないので、自分が いつ何者だったのか覚えていない。


自然のなかには 遠い過去の私は存在しない


〝私〟は 見つからない。
眼に映るのは 自然だけで、最終的な目的地など どこにもない。

私は どこへも向かっていない。

最終的な目的地など ありはしない。

なぜなら、最終的な目的地とは 死を意味するからだ。


〈生〉は 不断の連続体だ。
向かうべき 最終的な目的地などない。

巡礼そのもの、旅そのものが、〈生〉だ。

どこかの地点に 到ることもなく、ゴールもないーーーただ踊りながら 巡礼を続けてゆく。

いかなる目的地も 気にかけずに 歓喜に満ちて進んでゆく。



あなたは 目的地に たどり着いたら いったい何をするつもりなのか?

誰も そんなことを 問おうとは しない。

なぜなら、誰もが生において 何らかの目的地を 持とうとしているからだ。

だが、それが暗示するのは・・・・・・。



もしも生の目的地に 本当にたどり着いてしまったら、どうなるだろう?

そうなったら、あなたは ひどく困惑した顔をするだろう。

行くところが どこにもない・・・・・・。


(つづく)