どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡私的観光案内 初詣

2013-01-01 20:29:38 | まち歩き
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あけましておめでとうございます。本年もまたご贔屓にしてくださると、うれしいです。
とはいえこんな言いっぱなしのブログに来て頂けるだけでも感謝なのですが、コンスタントに100人以上来て頂いているのは、ちょっと実は自分でも信じられない所があります。

さて、昨年もそうでしたが、初詣です。初詣と言えば、盛岡の場合は八幡神社です。まあそこに至る過程みたいなところで行って見ます。

まずは昨夜も通った、北山の通りです。ここから加賀野へ行くのはわりと近いです。


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昨夜鐘をついて来た法華寺です。あの上人様ですが、以外と社格の高い寺の上人なんだと改めて思います。
なおこの寺でつけている梅干しなのですが、これが絶品です。ただ周囲にこの類いの梅干しがなく、三戸市にこれと似たような梅干しが存在します。大きい果実をしっかりとつけたものなのですが、もしかするとこの寺は南部藩の古くからの寺なのかもしれません。



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今日は寒いのですが、穏やかな天気です。



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さて中津川を渡ります。文化橋。文明の匂いがしてきます。今ではアスファルト敷なのですが、かつては玉石を並べた、とっても滑りやすい橋でした。


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渡ると、既に異文化の香りがします。ディープで古い盛岡の姿です。
実はわきに家族づれがいまして、河川敷で凧揚げをしたかったようです。
まあお正月だから凧揚げと言う気分も解りますが、どうして尋常小学校の国語教本の名残が今でもあるのでしょうか。実際卒業アルバムの仕事をしていて、頭が痛くなる時があります。東北のほとんどの地域が入学式=桜じゃないんですよ?そういえば鹿児島の同業者が悩んでいました。ハイビスカスやブーゲンビリアじゃダメナの?

そういえば凧揚げと言えば、東京都青ケ島村の凧揚げの話しがあった。大凧を上げるのだが、何しろ絶海の孤島、風向きから強度まで大体変わらないのです。なので大凧を揚げたら、ひもを杭に縛ってそのまんまに放置するという、味気ないものだそうだ。ただこの場合、魔除けとかそういった意味があるのかもしれない。



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さて目指すは、加賀野の大日如来です。もう一度言います。大日如来です。以前も紹介したことがありますが、神仏混合の時代の名残を感じさせるものです。


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少し由来が解りにくいのですが、基本的に早池峰山信仰と結びついています。早池峰山がご神体とする神ですが、これは本地垂迹説でいえば、この神は「仏が仮に神の姿をかりてこの世に現われたもの」であり、大権現と言われています。そして大権現の本質は「薬師如来」とされていたのが、「十一面観音菩薩」になったようです。
この曖昧さが、とってもおいしいのです。早池峰信仰が基本ですから、早池峰山近くにその信仰の場が出来るのです。それが大迫・岳の早池峰神社であり遠野・早池峰神社で、今は無い門馬・早池峰神社になります。どうもこれらは神社ではなく、大権現を祭る寺だったようです。それが妙泉寺です。


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神仏混合ですから、神楽堂があります。ここで早池峰神楽が奉納されます。
さてここがなぜ大日如来なのかですが、十一面観音菩薩より上位のであるというのがキモのようです。廃仏毀釈の時に、意図的に分離した。本山は神社になり、この宿舎は曖昧な形で存続を許された、と言う事でしょうか。
実は妙泉寺はここにはありません。妙泉寺は早池峰山の麓にある寺で、ここは宿舎となっています。なのでこの辺りは妙泉寺山地区と呼ばれています。



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大日如来なのに神楽太鼓があります。さんさの太鼓より少し大きいのが特徴です。



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さてこの正面の看板の奥に、黄色い看板があります。岩手高校の土地のようです。立ち入り禁止です。



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好奇心で上ってみましたが、何か怪しげな建物があります。これが妙泉寺のようです。
ですがたたずまいが異様です。宗教施設は正面が必ずあります。それがありません。玄関が正面脇になっているのが何らかの意図を感じます。
多分看板とおりに、岩手高校の地所なのでしょう。何らかの施設として使うために宗教的でないようにしているのでしょうか。
ちょっとウロついたのですが、セコムが入っている建物です。ある意味個人宅です。ここまで謎な個人宅は滅多にありません。
だからこれ以上は深入りしません。



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どうも盛岡財閥の三田さんが絡んでいるようです。
三田の悪口をいう盛岡市民はいないと思います。こういった文化財を保護しているのです。この林もどうも三田農林が管理しているのではと、感じます。


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大日如来様には、参拝客が絶えませんでした。古刹であります。
実は桜山稲荷が一時的に遷座していたようです。桜山稲荷は盛岡城内にあった神社なのですが、追われて移り、城下に戻った神社です。
さて妙泉寺・大日如来神社という訳の分からなさは、更に混迷を深めます。多分この当たりは、廃仏毀釈運動の何かがあるのかと思います。それが何かは全く解りません。

なお、南部藩が万が一城を捨てる際の、逃亡ルートとも言われています。その拠点がこの妙泉寺とも言われています。確かにここから北上山系に逃げ込まれると、よほど土地勘のある誰かを入れなければ、逃げられるでしょう。




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さて今回は、川留稲荷にも行きます。ここも古刹なのですが人が見えません。実は三田つながりになってしまいました。その詳細はこちらから。
ここも古刹ですが、あまり参拝客を見ません。
ところでこの辺りで気がつきました。ここまで来たら盛岡のその神社直線ラインを歩こうと。




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せっかくここまで来たのだから位置関係を簡単にしようと。
実は盛岡の著名神社は、城から見ると南に一直線に引いたように神社が並んでいるのです。早池峰大権現、天満宮、住吉社、護国神社、八幡神社です。護国神社はともかくとして、ある戦略上の位置にあります。



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盛岡城の南側には、丘陵が並びます。そこの高い所と使いやすい土地を駆使して南からの防戦ラインになっているようです。
天満宮はその中でもいい位置にあります。


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天満宮は間違いの無いビューポイントです。ただ少し小さいです。なので脇に大きな神社が必要になったのでしょうか。住吉神社があります。


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天満宮にあった石割梅なのですが、明らかに作ったものでしょう。桜だったら石の割れ目に種が鳥によって運ばれるでしょうが、梅はそれは無い大きさだ。
こういった無邪気は笑ってごまかしましょう。


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さてある意味場違いな神社に来ています。学業成就の神様ですから。でも思うのですが、学業成就っていうのは一生の話しなのではないのかと。高校や大学に入るのは、成就ではないとも言えます。




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この神社の名物は、この狛犬ですね。なんともいえません。


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菅原道真なので、文学系の歌碑が集まっています。啄木歌碑なのですが、新しいマンションがジャマをしています。
ただ、石川啄木が天才だったとしても、アイツはカンニングして放校になったヤツだぜ。
道真公の懐の深さが感じられます。


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凍った石段を下りてゆきます。ウラ道なので整備の悪さは仕方がありません。


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路面が凍っていて、なかなか車での移動がきついようです。自転車で動いているのですが、まあ自転車でも光臨がスリップします。

さて隣の住吉神社です。


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ここの神社は、ケヤキの巨木が目立ちます。この扁額も欅のようです。



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神社って、いろんな形があります。でもそのほとんどが明治維新以降に政府が定めた形になっています。なのであまり面白いものではないのですが、江戸時代から神社としてあるものは、結構面白いです。


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さて住吉さんですが、参拝の儀礼がかなり細かく書かれています。なのでがんばればがんばるほど、参拝客が躊躇します。前のお客さんも、その祝詞を3度読めと言う所でつかっかっています。


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住吉さんから八幡様まで、実は道一本です。なので渋滞しています。
しかし女性って大変だ。なんで凍った路面でもヒールで来るの?


なぜか盛岡は神社が一カ所で、しかも横に並んでいます。まあその悪い所が、ド真ん中が明快だと言う事でしょうか。



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さて八幡神社に辿り着きました。こちらは東の鳥居で、正面の鳥居ではありません。


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岩手縣神社廰です。東の鳥居からはいってすこしで見えます。
昔のなごりでしょうか。まだ明治は生きています。


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さて隣には護国神社があります。言わずもながの神社です。
しかしその造形については文句が出ません。これが国家統制の最も日本的な造形なのかもしれません。
明治維新以降、仏教を弾圧するのはまだしも、建築物としての神社をある類型化してしまったようです。伊勢・出雲・春日などの大きな社の形式を参照しつつ、最も相応しい形にしたのが、靖国の造形であり、盛岡護国神社です。
雪が降ったあとの護国神社には、ウワ!っと言うものがあります。きれいです。この形こそが、あの戦前の神道の理想だったのでしょう。いまでは手あかにまみれていますが。
これ以上手あかを付けてもらいたくないものです。そう思いますよね、美しい日本を言う人たちは。


さて護国神社に初詣する人と言うのはどういった人なのでしょうか。まず右翼でしょう。次が戦争に赴いた人とその家族でしょう。だからかもしれませんが、ひとがいません。ただ登壇せずに拝む人が見えます。こちらの謙虚さが、私の胸を打つのですが。


写真に見える家族なのですが、定期的に来るのでしょうか。礼拝の形や振る舞いがとてもきれいな家族でした。ただ拝礼様式が、めんどくさいとも感じました。




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日本における、第二時世界大戦の最大の問題は、戦後処理のほとんどがアメリカの占領で終わった事があります。もちろんそれは間違いが無かったのですが、感情の処理は全く民間任せになりました。
日本にはどこか二重性が生まれたと思います。それは貧富の差ではありません。あの戦いで死んだ人をどう考えるかです。




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この護国神社にはそういった、何かがいくらでも残っています。先の写真は展示ですが、この石碑からはもっと大きいものがあります。


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国民国家における、戦闘での死。これがイマイチ消化されていないのが日本だと思います。


この碑の、左側に鳥居があったのですが、そこをくぐって気がつきました。そこは納骨堂でした。
戦死者のものです。階段を半分上って気がついて、スイマセンと言っておりました。


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無邪気に神社参りする私と、真剣な親子、そしてそこにある現実。それを支えるこの屋根。
イロイロ考える初詣です。


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さて八幡宮に行きます。すぐ隣なのです。
だがこの時点で悪い予感がします。


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なので脇を少し見ます。岩手山神社が祭られています。ここではさすがなのですが、すべての構造物が大きいです。この石も相当大きいです。
なお岩手山に花崗岩はありません。


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事務所の脇を通り過ぎています。どうも薪ストーブを使っているようです。香りがいいです。


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撮影時点で三時半頃と思います。見た瞬間、イヤーとなりました。もう並べません。
大体この集団一ブロック1000人だと思ってください。


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大体ここで2000人が前にいるはずです。さてもう逃げましょう。護国神社のあの家族から受けたすばらしい記憶を胸に納めましょう。


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とりあえず、盛岡八幡宮の屋根の美しさを見て頂きます。
さ、スタコラサッサ。


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次は桜山稲荷に移ります。ただこの流れで二時間しかかかっていません。コンパクトな街です。肴町にいます。バスセンターですね。
この昭和の感じこそが、お正月です。


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中の橋から中津川の眺めです。動物にはお正月はありません。


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桜山稲荷はこんな具合で、これも辞めておきましょう。


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なので初めのプランに戻ります。本当は大日如来様から川留稲成、そして三石様だったのでもうこれで十分です。


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さて今回は北山の薬王堂で買って来た薬。今日は呑む予定ですから、まあなんとかしようかと。どうもアルデヒド分解酵素のようです。なぜそういっていないんかと言うナゾがありますが、その類いの商品では無さそうです。


初詣は、やっぱり近所がいいのではないのでしょうか。もしくは霊験をキッチリ見定めて向かうものではないのでしょうか。

今回はある意味すべてメジャースポットです。川留稲荷が多少マイナーです。その程度ですが、加賀野の大日如来を通して早池峰様にお願いするのが、霊験あらたかと思います。



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それでは改めて、ハッピーニューイヤー!


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ハッピーニューイヤー! (うお)
2013-01-02 07:57:19
ハッピーニューイヤー!
それにしても、テンポはやいですね。
暮のカメラのお話を7話書いていたと思ったら、2時間ちょっとで8箇所(9箇所?)の初詣をこなしていますよね。盛岡という町はそんなにコンパクトだったのかと、認識を新たにしました。

東北の小都市の中で、盛岡の神社仏閣の多さは平均的なのでしょうか?日本の奥の地が政治以上に宗教精神をよりどころにしていたのかしらと
ふと思わせる、元旦でした。
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盛岡市は城下町なので、ある計画に沿ってすべて公... (M野)
2013-01-02 12:32:47
盛岡市は城下町なので、ある計画に沿ってすべて公的なものは設置されております。今回の神社の中では桜山が明治期に設置ですのでこれは例外です。三石様が、不明だが現在の形は江戸期から、川留稲荷も治水の神様なので古い可能性がありますが、大体江戸期で一度移転しています、現在の場所は明治で、一度移転したものをもとの場所に遷座したもののようです。治水の神様なのに、大氏子が火薬屋さんなのも面白い所です。
東北の城下町としては神社仏閣の数は、神社は多いように感じます。寺はフツーかと。陰陽道の思想で寺が設置されていますが、ものの見事に街道筋にあるというのが実態です。これは軍事的な思想でもあるのです。
特に城を設置した場所が、中津川と北上川の合流点にある小高い丘で、ちょっと面積が狭かった。なので周囲に侍小路を作りその近くに寺をおいたと言う作りになっています。

神社はその中でも南側にほぼ一直線にならんでおります。天満宮から八幡は一本道です。じつはコレ南側の砦の役目があるようです。細いものですが小さな掘り割りが現在でも残っています。飛び越せるかどうかの細い川幅というのはけっこうな抑止力になったそうです。
なお江戸時代、こういった大型建築を作る場合幕府の許可が必要でした。なので城に関連する施設でも、寺とか神社の信仰にかこつけて建設する場合があります。砦作りますと言って申請したら却下されるばかりか謀反の疑いありとなりますから。

さて盛岡ですが、江戸時代の範囲から行けば我が家のある上田は、郊外の村です。大体江戸期の城下町は半径1キロ程度でしょうか。非常にコンパクトな街です。上田から大日如来まで自転車で15分ですから、実はかなり近いのです。

仙台の場合には特殊な事情があります。あの青葉城は山頂の面積が広く、あまりにも急峻で、防御や物見のための基地などを設置する必要が無かったと言えます。東照宮が明らかに軍事拠点でしょうね。

いずれ江戸時代の日本の人口は3000万人程度と言われています。街が小さかったのはどこもそうなのでしょう。
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